Side C - Part 1 異変
Phase:01 - Side C "The Samurai"
いつの間にか、あの不快な警報音は鳴り止んでいた。事態はいよいよ最悪の結末に向けて舵を切ったらしい。
金髪の青年が、険しい表情で私を見る。彼、試合で徹底的にマークされて攻めあぐねてる時もこんな顔してたな。
「サムライさん、これマジでヤバいやつですよ!」
「奇遇だなチャラ男君、私も同感だ!」
逢桜町では現在、正体不明の人物に〈Psychic〉の通信網を掌握されたことにより、町外との主要な通信経路が途絶。町内においても、情報の伝達スピードに大きな遅延が生じている。
先ほどの事故と私たちの大捕物を目撃した観光客から連鎖的に動揺と混乱が広がり、今となっては会場周辺にいる多くの人が異変に気づいたようだ。
「『わたしは、完全自律型AI――識別用個体名〈エンプレス〉と申します』」
会場アナウンスに使われている河川敷のスピーカーが沈黙を破ったかと思うと、耳障りなハウリングを伴って玉音放送を流し始めた。
誰もがびくりと体を震わせ、驚いた様子で頭上へ視線を投じる。その声が紛れもなく、私の前に立つ女性リポーターのものだったからだ。
「しっかし、〈女帝〉とはまた大きく出ましたね。ちなみに――」
「そんな二つ名にふさわしい女子選手は誰だ、という話題ではないぞ」
「わかってますって! こういう時ぐらいはおちゃらけ無しです」
(口とは正反対のことを考えていた顔だな)
犯人の名乗りを耳にして身体はこわばり、心臓の鼓動が跳ね上がる。私でさえ空気がひりつく緊張感を感じたのだから、ほとんどの民間人はこの時点で怖じ気づいてしまったことだろう。
それだけに、ついさっきまで苦々しい表情を浮かべていたチャラ男君が、急に肝の据わった振る舞いへシフトしたのには驚かされた。てっきり「無理無理無理! 静岡に帰らせてくださいよ!」なんて言い出すものと思いきや……どうやら私は、彼の底力を見くびっていたようだ。
間違いない。やはり、チャラ男君には素質がある。最前線で10番プラス1の仕事をこなす天才ストライカー、という評判も納得の強心臓ぶりだ。
「あら? どうしたの、ディレクターさん」
「あ、ああ……」
我々がそんなやり取りをしている間に、リポーターはかつての仕事仲間に詰め寄っていた。心なしか、言動がやや幼さを帯びたように感じる。
強い心理的ショックで幼児退行を起こしたか? いや、彼女の意識は〈エンプレス〉なるAI、それもかなりの高性能とみられるものの支配下にあるはず。現実逃避などできるはずがない。
そうなれば、犯人の説得は難航を極める。それが何か、押したらどうなるか理解していながら核ミサイルの発射スイッチで遊ぶ子どもを相手にするようなものだ。
「気をつけろ、みんな。こいつはもう晴海ちゃんじゃない!」
「ハルミ? ああ、この子の個体名。可愛い名前ね、気に入ったわ」
尻餅をついたまま、ディレクターと呼ばれた男性が橋の欄干に向けて後ずさる。【青葉放送】と書かれた緑の腕章をつけた彼は、顔を引きつらせ「来るな……来るな、化け物っ!」と声を張り上げた。
その一言を聞いて、市川さんもどきは小さく整った顔の横にほっそりとした右手を掲げ、指を鳴らすポーズを取った。演技が佳境に入った役者のように、もう一方の手は桜色のジャケットの上から胸元に添える。
『――どうして』
「え?」
『どうして、ですか。私、違うって言ってるのに』
さて、ここからは少し理論的な話をしよう。
バイオ・インフォマティクス……人類と情報技術の関係について研究する生体情報学の分野では、人間の意識(精神・魂)と肉体は切り離し可能なものとされている。
ほら、映画やアニメでもあるだろう? 不老不死や永遠の命を求めてサイボーグ化に手を出した人類が、いつしか生身の身体を捨て去る話。
あるいは、戦いで傷ついたヒーローが「大丈夫。スペアのボディがある」と言って、車を乗り換える感覚で肉体を交換し、再び戦地に戻る展開。
市川さんの意識は今まさに、それらと同じ状態にある。肉体とのつながりを失った意識、魂が着脱可能になっている。
当人はまったく望んでいないだろうが、彼女は――市川晴海は人類史上初めて、サイバー空間への解脱を果たした人間になってしまったんだ。