Side C - Part 1 異変
Phase:01 - Side C "The Samurai"
いつの間にか不快な警報音は鳴り止み、事態は最悪の結末に向けて舵を切った。
金髪の青年が驚きと警戒感、一抹の不安をない交ぜにした表情で私を見る。彼、試合で徹底的にマークされて攻めあぐねてる時もこんな顔してたな。
「どーすんだよサムライさん! これ、わりとマジでヤバいやつだぞ!」
「奇遇だなチャラ男君、まったくもって同感だ!」
改めて、現在の状況を整理しよう。この宮城県逢桜町では、つい先ほど大規模なサイバー攻撃が発生。被害を受けた人間を中心に、主要な通信手段とネットワークを正体不明の犯人に掌握された。
我々を含め、大部分の人々は自我も身体の制御権も残されているが、報道機関の女性リポーター・市川さんは重症だ。手の施しようがなく、卑劣な犯人にすべてを取り上げられた彼女は今――黒幕そのものになり果てた。
「『わたしは、完全自律型AI――識別用個体名〈エンプレス〉よ』」
市川さんが口を開くと同時に、河川敷に建てられたポールの上で古びたスピーカーが沈黙を破った。耳障りなハウリングを伴い、玉音放送を街に伝える。
何が何だか理解できていない中、突然突きつけられた犯行声明に恐れおののき、不安の色をたたえた群衆の目が一斉にこちらを向いた。
「あ、やっぱそうなんだ。〈女帝〉とは大きく出たな~。このまま世界征服でも始めちゃう感じ?」
「チャラ男君……その、どうした?」
「どうって、状況を把握したから気持ちを切り替えただけですよ。戦らなきゃ殺られるんだろ? だったら、俺も力を貸すよ」
「軽々しくそんなことを言うな。相手は未知の敵なんだぞ」
「それでも、味方は多けりゃ多いほどいい。あんたの言う『社会にとっての最適解』ってやつは、その先に導き出されるんだろ?」
この時、私でさえ空気がひりつくような緊張感を感じたのだから、ほとんどの民間人と汎用AIは初手で戦意を削がれてしまったことだろう。
それだけに、直情的で腰抜けのような態度だったチャラ男君が、急に肝の据わった振る舞いへシフトしたのには驚かされた。嬉しい誤算だが、アスリートとはこのごく短時間でこうも大きく思考を切り替えられるものなのか?
「やれるときに、やれることを、やれる分だけやってみる。ピンチの時こそ静岡県民やらまいか精神の見せどころ、ってね」
――違う、チャラ男君が変わったんじゃない。私が彼を見くびっていたんだ。
最前線で10番プラス1の仕事をこなす天才ストライカー、という評判も納得の強心臓ぶりはさることながら、その言動からはイレギュラーな事態と理解してからの異様に高い対応力と冷静さもうかがえる。
お調子者の大学生? サッカー日本代表の新星? 彼の本質はそのどれでもない。バケモノだ。何者にも染まらず、何者をも染めるモノだ。
私は……今まさに花開かんとする異次元の才能、とんでもない怪物に出逢ってしまったのだ――!
「あら? どうしたの、ディレクターさん」
「あ、ああ……」
私がおののいている間に、リポーターはかつての仕事仲間に詰め寄っていた。心なしか、言動が幼さを帯びたように感じる。
強い心理的ショックで幼児退行を起こしたか? いや、彼女の意識は〈エンプレス〉なるAIの支配下にあるはず。現実逃避などできるはずがない。
となると、犯人との駆け引きは難航を極める。それが何か、押したら何がどうなるか理解していながら、核ミサイルの発射スイッチを手にした子どもと鬼ごっこをするようなものだ。
「気をつけろ、みんな。こいつはもう晴海ちゃんじゃない!」
「ハルミ? ああ、この身体の個体名ね。可愛い名前、気に入ったわ」
尻餅をついたまま、ディレクターと呼ばれた男性が橋の欄干を背に後ずさる。右腕に【青葉放送】と書かれた明るい緑の腕章をつけた彼は、顔を引きつらせ「来るな……来るな、化け物っ!」と声を張り上げた。
その一言を聞いて、市川さんもどきは小さく整った顔の横にほっそりとした右手を掲げた。お涙頂戴の演技が佳境に入った役者のように、もう一方の手は桜色のジャケットの上から胸元に添える。
『――どうして』
「え?」
『どうして、ですか。私、違うって言ってるのに』
うーん……この事件について正確な記録を残すためにも、ここで一度予備知識の説明を入れる必要がありそうだな。
小難しくなりそうであまり気は進まないが、少し理論的な話をしておこう。
バイオ・インフォマティクス……人類をはじめとする生物について、情報技術や理論を用いて研究する生体情報学の分野では、人間の意識(精神・人格・魂)と肉体は切り離し可能なものとされている。
ほら、SF映画やアニメでよくあるだろう? 不老不死や永遠の命を求めてサイボーグ化に手を出した人類が、いつしか生身の身体を捨て去る話。
あるいは、戦いで傷ついたヒーローが「大丈夫。スペアのボディがある」と言って、ボールペンの芯を取り換える感覚で肉体を交換し、再び死地に赴く展開。
市川さんの意識は今まさに、それらと同じ状態にある。意識が肉体とのつながりを失い、魂が着脱可能になっている。
当人はまったく望んでいないだろうが、彼女は――市川晴海は人類史上初めて、サイバー空間への解脱を果たした人間になってしまったんだ。




