プロローグ
――その日、ふたつの世界がつながった。
「どうよ鈴歌、この書き出し。完璧じゃない?」
「知らん」
日が傾き始めた放課後、中学校の教室には私たち以外誰もいない。教壇に立った澪は学校支給のタブレット端末を掲げ、そう言って誇らしげに胸を張った。
白い背景の画面には『トワイライト・クライシス』と題した、本人いわく超大作SF小説になる予定の文章が表示されている。
澪は昔からそうだ。物語を作るのが趣味であり、特技だった。言葉巧みに想いを綴り、進路希望調査に堂々と【作家(&会社員)】と書いてみせる女だった。
「知らん、って……あのねえ。もう少しマシな感想あるでしょ? 『ボツ』とか『つまらん』とか『さすがだな。完璧だ』とかさあ」
「私は本を読まない。したがって評価基準を持たない。ゆえに知らん」
「まあまあ、そう言わずに。もう少し先まで読み進めてみてよ」
澪に促され、私はタブレットを受け取った。書き味重視の保護フィルムが施された滑らかな画面の上で人差し指が踊る。
彼女の物語に彩りを添えるのは、実用化に向けて秒読み段階に入った実在の技術。次世代型情報通信機器〈Psychic〉だ。
「ほんの数年前まで、仮想空間へ飛び込むには現実を切り離すひと手間が必要だった――とあるが、具体的にはどういう意味だ?」
「ARやVRは、何かを通さないと具現化できないじゃん。スマートフォンのカメラをかざすとか、専用のゴーグルをつけるとかさ」
なるほど。そう言われてみれば、確かに何らかの媒体と切り替えが必要だ。現実から夢の世界へシームレスに移行することはできない。
澪の言葉を借りて言うなら、
「代償なくして次元の壁は超えられない、と」
「そう! あたしが言いたいのはそーゆーこと!」
ふむ。この設定、意外と興味深い。絶妙に好奇心をくすぐられる。ここではないどこか。別世界。そんな言葉に、誰しも一度は憧れを抱くものだ。
もし、理想がそのまま現実になるかのような気軽さで、まだ見ぬ領域へ行けたなら……私たちはその先で、どんな未来に出逢うのだろう。
「その不可能を可能にした技術こそが、この〈Psychic〉。こめかみに小型のICチップと電極を移植するタイプの、体内埋め込み型ウェアラブルデバイスだと」
「あ、ホントにそれだけでちゃんと動くかはわからないよ。現時点で一般の人はまだ誰も試してないんだから」
開け放たれた窓から穏やかな春風が吹き込んだ瞬間、私は驚くべきものを目にした。
タブレット端末から飛び出した大小さまざま、無数の長方形が私を取り囲むように現れ、それらをモニター画面として様々な動画が映し出される。年齢、性別、国、言葉……まったく共通点のない人々を捉えた映像。驚くべきことに、そのすべてがまだ見ぬ「未来」の出来事だった。
私は今、限りなく現実にありそうでまだ無い技術がこの世に生まれ落ちたあとの話を、予測とは思えないほど克明な精度で目撃しているのだ。
『簡単な手術を受け、麻酔による眠りから覚めた瞬間、世界がここまで一変するとは誰が予想したでしょうか』
『空中に手をかざせば……おおっ、半透明の仮想スクリーン! 視線トラッキングで入力できるのか! なんてこった、SFの世界が現実になっちまうなんて!』
『さっさと告っちゃえよ、〈Psychic〉はテレパシーも送れるんだから。××ちゃんの顔思い浮かべながら【好きです】って念じるだけだろ』
『おねがい、サイキック! カーテンしめて、でんきけして……パパがかえってきたら、カギあけて、〝ハッピー・バースデー〟ながして!』
【――はい。承知しました】
わずかな動作と思念だけで、様々なモノを意のままに操れる。画面の中の人類は、総超能力者時代とでもいうべき社会の転換点を迎えていた。
なんだ、これは? 私はただ、澪が書いた小説を読んだだけだ。その文章が活字嫌いの私に白昼夢、幻覚の類を見せるほどの感銘を与えたというのか?
「だから、ここから先はあたしの空想」
突然聞こえた澪の言葉に、私はハッとした。と、同時に腑に落ちた。
中学二年生という多感なこの時期、過剰な自意識から生じる妄想癖……俗に中二病と呼ばれる精神的症状を呈する少年少女がいる。そこまではいい。どこか夢見がちな彼女は、その一人だった。これもまた納得がいく。
だが――その精度は、明らかに常軌を逸していた。
築き上げた独特の世界観へ、読者を否応なく引きずり込んでしまうほどに。
「きっと〈Psychic〉が広く普及したら、こうなるんだろうな。こんな世界になってほしいな、って未来予想図を文章にしてみたんだけど……」
「傑作だ」
「へ?」
「この私に興味を持たせるとは大したものだ。褒めてやろう」
私はそう言って、タブレット端末を澪に返した。まわりを囲んでいたモニターが煙のようにかき消え、景色は再び二人きりの教室に戻る。
思わず漏れた賛辞の言葉に、澪がガッツポーズを決めた。気の利いたことは何も言えなかったが、少しでも彼女の背中を押せたなら、友人として幸いなことだと私は思った。
ああ、この時は思いもしなかったよ。中学校生活最後の春、彼女が見た夢とほぼ大差ない仕様の〈Psychic〉が実用化されるなんて。
その記念すべき処女作の名を冠し〈黄昏の危機〉と名づけられた人類史上最悪級の大災害が、この町で幕を開けるなんて。
これが、終わりの始まりだったなんて――。