第90箱
私は川に浮かびながら、自分が思ったよりも落ち着いていることに安堵しました。
あるいは、『箱』の中は浸水などの心配がないので、危機感が湧かないだけかもしれませんが。
さてどうしたものか――と考えていると、すごい勢いで泳いで近づいてくる人がいます。
「モカッ!」
「サイフォン様……!?」
恐らく私が川に落ちると同時に、躊躇うことなく冬の川へと飛び込んだのでしょう。
こんな寒い日に、冷たい川の中に入ってくるなんて……!
私に追いつき、『箱』に掴まりながら、サイフォン様は訊ねてきます。
「無事か?」
「はい。箱の中にいる分には、外の影響は……ありませんので」
「なら良かった」
安堵する顔は、いつも通りのようです。
でも、平気そうな顔をしていますが、顔はやや白く、唇が青くなりかかってます。
このまま体温が下がり続けるのは危険なのは間違いありません。
「サイフォン様、中に……」
「それは後だ。まずは岸に行く。エスコートの時のように浮けるか?」
「……はい」
出来れば早く中へ来て、身体を暖めて欲しいのですが、有無を言わさぬ空気で問われれば、うなずかざるを得ませんでした。
「水面ギリギリの高さを保つコトは?」
「やってみます」
言われるがまま、水面ギリギリの高さに浮かんでみます。
すると、水の中に入ってないはずなのに、川の流れの影響は受け、そのまま流され続けるようでした。
「空中で制止しているようで、直下の影響を受けているのか? だが、これなら……」
自分の考えを纏めるようにぶつぶつと言いながら、やがてサイフォン様は小さくうなずきます。
「よし。岸も見えたし、ちょうど良い。
モカ、何が起きてもこの状態を維持してくれ」
「はい」
直後、水面が盛り上がりました。
『箱』は、その盛り上がった水の上にいる形になります。
そして、サイフォン様はそんな『箱』に片手で掴まってぶら下がっていました。
もう片方の手を足下の水へと向けているので、これがサイフォン様の魔法なのでしょう。
「問題なさそうだ。そこの岸に飛ぶぞ」
言うやいなや、水はアーチを描いて岸へ到達。
そのアーチの上を『箱』は滑るように動いて、岸へとたどり着きました。
よく見るとアーチとなった水そのものが動いているので、この動きを利用して『箱』を動かしたのでしょう。
「君の魔法と私の魔法の合わせ技だ」
無事に、岸に着くとサイフォン様はそう笑います。
確かにそうかもしれませんけど、早くサイフォン様を暖めないと……。
「お前ッ、護衛もナシに何で水遊びしてるんだよ!」
私がサイフォン様に声を掛けようとした時、以前も見かけたことのある、緑の髪の小柄な何でも屋さんが駆け寄ってきます。
「レンか」
口振りからして気安い仲であり、サイフォン様とフォンが同一人物であると知っている人なのでしょう。
「脳筋護衛のリッツや口うるさい小姑従者のサバナスはどうした?」
「狩猟大会を襲撃した者たちと交戦中だ。手を貸してくれ」
瞬間――レンの表情が変わります。
「了解。何をすればいい?」
ピリリと、空気が引き締まったのはきっと気のせいではないでしょう。
同時に、レンの雰囲気も変わりました。どうやら、お忍びの時の護衛担当といったところでしょうか?
先日のお忍びの時には見かけませんでしたけど、見聞箱の視界の外から様子を伺っていたのかもしれません。
「おいレン、その人は?」
「みんなもご存じのサイフォン殿下と箱姫様だ」
私たちの様子に、声を掛けてきた人にレンは即座に答えます。
周囲を見渡せば、何でも屋や冒険者のような格好の人たちが多いことに気づきました。
どうやら、ノールの森のようです。平民たちの狩猟大会の会場のところまで流されてしまっていたのでしょう。
声を掛けてきた人たちを見て、サイフォン様が依頼としてお願いを口にいします。
「みんなすまないが緊急事態だ。
レンとともに護って貰えると助かる。当然、報酬は払おう」
そう告げてから、ダメ押しとばかりに、サイフォン様は笑いました。
「それに散々酒を奢ったんだ。こういう時くらいは恩を返してくれてもいいんじゃないか?」
水に濡れた髪をいじって少し髪型を変えると、何でも屋フォンの顔になります。
瞬間、合点がいったような顔をした人、驚いた人、表情を変えない人――リアクションは様々でしたが、皆さん協力をしてくれるようです。
「貴族の狩猟大会を襲撃してきた奴らがいる。警備や参加者の中にも紛れていた。
目当ては恐らく、俺とモカの命だ。連中の手はすぐにこちらへと伸びるはずだ」
「警備や参加者に紛れてるのは面倒だな?
もしかして、二人を捜索する騎士に紛れてる可能性も?」
「ある。だから、まずは一つ手を打っておきたい。
そいつらを見分ける為と、時間稼ぎを兼ねた手だ」
そうして、サイフォン様はその一手の内容を伝えると、レンを中心にすぐに動き出しました。
かしこまった態度を取るのを苦手な人たちは、サイフォン様ではなくフォンと接するように声を掛けてきます。
ですが、サイフォン様はそれを気にも止めずに、指示を出していきました。
そんな折り、一人の何でも屋の方が訊ねてきます。
「ところで、後で不敬とか言ってきたりしねぇよな?」
「一緒に飲んで騒いだ道楽屋フォンがそんな狭量な男だと思ったかい?」
「そうだったな」
サイフォン様の答えに納得と――あと、どこか満足そうな顔をして、彼もまた指示に従って動き出しました。
指示は一通り終わったようなので、あとはレンを中心とした何でも屋さんたちが上手く動いてくれるかどうかだけ。
なので――
「サイフォン様!」
「モカ?」
「箱の中へ。それ以上は危険です!!」
私はなけなしの大声を上げると、箱の外へと手を出し、サイフォン様の手首を掴むと、中へと引きずり込みました。
ああ、もう! こんなに冷えてしまって!
「え、ちょ、モカ!?」
サイフォン様が指示を出している間に準備をしていた大きなタオルを頭から無理矢理かぶせ、乱暴に拭いていきます。
「モカ!? 拭くくらいは、自分で……!」
何か言ってますが、それを無視して私はとにかく彼の身体を拭いていきます。
それが終わると、私は箱の中の温度を少しあげ、さらに乾いた温風を穏やかに放つ箱をサイフォン様に押しつけるように渡しました。
「こんな無理矢理しなくても……」
「これ以上、冷えてしまったら……神の御座に招かれて、しまうかもしれなかったのですよ……!」
サイフォン様の言葉を遮ってそう告げると、彼は私の顔を見ながら動きを止めます。
ややして、押しつけた温風箱を片手で持ち、もう片方の手の指で私の目元に触れます。
想像以上に冷たい感触にビクリとしつつ、同時に自分の目元が濡れていたことに気づかされました。
……ああ、どうやら、無自覚に涙を流してしまっていたようです。
「すまない。川に落ちた君を助けたくて必死だったんだが、かえって心配させてしまっていたか」
そうして、私を抱きしめようとして――思わず、ひょいと避けてしまいました。
恥ずかしいというのもありますが、まだサイフォン様が乾いていなかったというのもあります。
「モカ?」
申し訳ないとおもいつつ、言い訳混じりの言葉を返すことにしましょう。
「それは、乾いて暖かくなってから……お願いします」
「つれないな。君で暖を取りたかったんだけど」
「暖は、その箱でお願いします。それに――」
「それに?」
「状況はまだ終わってませんので」
「なるほど。それもそうだ」
納得してくれたところで、外の様子を伺いましょうか。