第21箱
『お待たせして申し訳ございません』
頭を下げるお母様に、サイフォン王子は顔を上げるように告げました。
『いや、急に訪問したのはこちらだ。気にするな』
先触れは出したのだが、先触れより先に到着してしまった――と口にするサイフォン王子。
お母様はその言葉の意図を少し逡巡したようですが、答えが出なかったのか、すぐに返事をしました。
『恐れ入ります。
それで、本日はどのようなご用でしょうか?』
『先日、婚約を打診しただろう?』
『はい』
そのおかげで、昨日・一昨日とだいぶバタバタしてしてましたしね。
『成人会の場で出会ってから、ずっと心が躍り続けているのだ。
婚約の打診だけでは逸る気持ちが抑えられず、つい来てしまった』
その爽やかで明るい笑顔に、控えている侍女たちの数人が一瞬だけ身体を震わせます。
私も映像箱越しながらも、そんな王子にちょっとクラっときました。
気を強く持たなければ、飲まれてしまいそうです。
自分の顔の良さを理解した上で、一番良く見えるだろうと浮かべられた笑顔。
お母様も一瞬動きを止めたその笑顔は、歴戦の社交経験を持つお母様をもってしても、なかなかに破壊力を感じる顔だったのかもしれません。
耐性の低い侍女たちの中には、意識を奪われる可能性があったかもしれません。それでも倒れることなく持ちこたえたことは賞賛するべきかも?
ともあれ、王子としてはこの笑顔で陥落できる相手になんて興味はないでしょう。
私が負けてしまえばその時点で婚約解消されてしまいそうですし、気をつけなければいけません。
目的を口にしたサイフォン王子に、お母様はどこか訝しげに眉を顰め――普段のお母様を知らないと解らないくらいに僅かな動きでした――、それでも何事もないかのようにお礼を口にしました。
『我が娘の為にわざわざお出向き頂き、光栄にございます。
ですが、その――よろしいのですか? 我が娘ながら、その……箱、ですよ?』
『その箱が良いのではないですか』
キッパリと言い放つ王子に、「え? 本気で?」というような空気が流れます。
彼の背後に控える従者と騎士も、みなさん同じような表情を浮かべました。
『それは……娘ではなく箱を見初めた、と?』
『あ、いえ……それは違う……いや、違わないか……?
ともあれ、実際にお会いした姿は基本的に箱だがな。
ただ会話をしているうちに、端々から感じる知の深さと教養に、そして何より、その知と教養の使い方を理解している雰囲気に、大変興味が湧いたのだ』
基本的に箱の姿だったと言われて、それもそうかとお母様は納得しました。
その様子に、私も思わず「それもそうか」と納得してしまいました。
その上で、会いたいと口にする人物は貴重と言えば貴重ですよね。
お母様もそこは理解したようです。
『カチーナ。モカに確認を』
『かしこまりました』
お母様も、それが本心であるかどうかまではわからないことでしょう。
それでも、訪問理由は理解できたので、お母様はカチーナに声を掛けました。
カチーナが、私の部屋へと戻っていくのを横目に、お母様は視線を王子に戻しました。
『婚約の受け入れの打診はさせて頂きましたが、此度の訪問に関しましては娘の意向を優先させて頂きます』
『もちろん。極度の人見知りと聞いている。婚約者殿に無理を強いるつもりはない。ましてや突然訪問してきたのはこちらだからな』
つまり、私が拒否すれば素直に引くということです。
もちろん、私は拒否する気はありませんし、王子はそんな私の心情を理解していることでしょう。
何せお互いに、婚約者という立場を利用する気まんまんなのですから。
それを分かっているなら、サイフォン王子の言動はわかりやすいのですが、お母様はそうもいきません。
お母様からすれば、何とも読めないサイフォン王子の言動となることでしょう。きっと胸中で険しい顔をしているんだと思います。
建前上は、初めて恋をした王子の、可愛い暴走。
だが、相手は私。箱なのです。
……自分で言うのもなんですが、 一目惚れにしたって、暴走するにはちょっと無理がある相手ですよね。
お母様はそう考えていることでしょう。
実際、お母様が何を考えているかまではわかりません。ですが、その頭の中はすごい勢いで回転しているのでしょう。
今は、表情からはそれをまったく読みとることはできないようですが。
そんな中、お母様はカチーナを待つ間、王子と軽い雑談などを始めました。
「お嬢様」
そうして、カチーナが部屋へと戻ってきます。
「どうなさいますか?」
私が覗き見していることが大前提の、前置きを飛ばした質問の仕方をしてきます。
カチーナは私の魔法の詳細を大部分知っています。
なので、見聞箱の存在は把握しているのです。
何しろ外部に設置している見聞箱は基本的に彼女に設置して回ってもらってますからね。
さておき、サイフォン王子への返答です。
これに関しては最初から決めてあったりします。
「『箱のままでも構わないなら』……と、伝えて、貰えます……か」
「かしこまりました。では、客間へと戻ります」
「うん、よろしく……ね」
一礼して私の部屋から出ていくカチーナ。
ややして、客間を覗いている見聞箱の方に、カチーナの姿が見えました。
『お待たせ致しました』
部屋へと戻ってくるカチーナにお母様が問いかけます。
『どうだったかしら?』
それに対して、カチーナは私の伝言通りの言葉を口にしました。
『はい。箱のままで良いのであれば構わない、と』
『そうか。それは良かった』
冷静になると我ながら何を言っているんだか――と思ってしまうような奇妙な言い回しの返答。
それに対し、サイフォン王子は嬉しそうな顔をし、それが当たり前であるかのようにふつうの反応をするドリップス家の面々。
……私のせいなんですけど、この家の常識観は正常なんですかね?
そんな様子を見回しながら、お母様は軽く息を吐き、サイフォン王子……というか、彼が連れてきた騎士や従者たちへと視線を向けます。
お母様のその視線には若干の同情が混ざっているのは気のせいではないのでしょう。
この状況を見ながら明らかに困惑した顔をしている王子の従者と騎士たちは――
(箱のままで構わない、とは……?)
――とか思っていることでしょう。
その反応が基本的に常識的な反応なんですよね。
私自身も、すっかり『箱のまま』での対応が当たり前になってしまっているんですけど。
ただまぁ、私がいる日常とはこれが当たり前になるってことでもあるんですよね。
婚約者となった以上は逃れられぬ日常なので、早いところ馴れてもらいたいところではあります。
何はともあれ、私とサイフォン王子は、成人会以来三日ぶりの邂逅をすることとなったのでした。