3~サイレン
今日の空は表情も暗く、朝から機嫌が悪いようだ。ぐずって泣きださなければいいが。
ボクは公園にやってくると、いつもの場所を目指した。メロディーが耳から胸へと届いてくる。
マコがベンチに寂しそうに座っている。ひとりで座っている時はいつも、こんな顔をしている。
膝に置かれたオルゴールは、今日も優しくメロディーを奏でている。
いつもと同じ光景。
でも、今日は少し違って見える。そういえば、今日は平日なのに、何故か私服を着ている。そのせいなのだろうか、寂しさの中に何かがあるような……。
ボクが近づくとマコは顔をあげた。寂しそうだった顔が笑顔に変わり、八重歯が輝いた。大好きなマコの笑顔がそこにある。
マコを苦しみから救うことが出来たなら……。
心から笑顔にすることが出来たなら……。
いつまでも笑顔でいられるように出来たなら……。
こんなボクに何が出来る。何が……。
「今日はね、サンドイッチにしたのよ」
オルゴールを横に置くと、淡いピンクの鞄から、包みを取り出して膝の上で広げ始めた。でも、その手が急に止まった。
笑顔は消え、表情が険しくなっていく。そして、まっすぐな視線がボクに向けられた。
「ありがとう。君のおかげであたし……君と遊んだり、思いっきり声を出して笑ったりしていたら本当に楽しかった。なんかスッキリして、力が沸いてきた。君が話しをいっぱい、いっぱい、全部聞いてくれたおかげだよ」
マコが、目を潤ませながら、微笑んだ。
「君に心の中を全部、誰にも話せなかったことも全部、話すことが出来たから、あたし……」
不意にマコは視線を空へと向けた。太陽の光で潤んだ目が輝いている。
「あたしね。君からもらった力と勇気でパパに全てを話したの。あたしの気持ちを全て、パパにぶつけたの」
微笑みも光を受けて、何だか輝いている。
「そしたらパパ、ごめんな気付いてやれなくて、って言いながら泣いてた。それから、どうしたらいいか、一生懸命考えてくれた。それで二人で話し合ったの。それでね、パパがね、言ってくれたの。おばあちゃんと一緒なら寂しくないだろう、って。転校して新しい学校でがんばれ、って。俺も週末は会いに行くから、って。だから、あたし、もうすぐ田舎のおばあちゃんのところに行く」
マコが嬉しそうな顔をボクに向けた。でも、その表情がだんだんと曇っていく。そして、呟くような声で言った。
「だから、君と会うのも今日が……」
とその時だった。
「こんにちは、学校はどうしたのかな?」
二人の警官がボクらに近づいてきた。
マコは口を結んだまま下を向いている。
何も答えないマコに若い警官が、
「こんな時間にどうしちゃったかな?」「名前は何ていうのかな?」
次々と質問をぶつけていく。
黙って下を向き続けるマコにだんだんイラついてきたのか、口調が強くなっていく。
「君は中学生だよね」
若い警官は顔をひきつらせている。そして、もう一人の小柄な中年警官のふへと顔を向けると、
「きっと近くの××中学ですよ。ちょっと問い合わせてみますか?」
正義感がみなぎっているとばかりに、目が輝いている。
「そうだな。そうするか」
中年警官はニヤッと笑うと、肩口にある無線機に手を伸ばした。ニヤニヤと笑い、ボクらをからかい、楽しんでいるような顔で。
マコはサンドイッチの包みを畳むと、鞄にオルゴールをしまい、立ち上がった。
若い警官はすぐに前に立ちはだかり、進路をふさいだ。そして、横を通り抜けようとするマコの腕を掴み止めた。
手から包みが落ち、地面にサンドイッチが広がっている。
真っ白なサンドイッチが土で汚れていく。真っ白な心を土足で汚すように。
マコはしゃがんで汚れたサンドイッチを一つ一つ拾っている。
「ほら、立て」
警官が再びマコの腕を取った。
マコはその手を払い、拾い続けている。
お弁当を差し出してくれた手が、今は震えている。ボクに向けられていた嬉しそうな顔が、ゆがんでいる。笑顔にのぞく白い八重歯が、噛みしめられている。笑うとなくなる細い目から大粒の涙が――こぼれ落ちた。
ボクの足は自然と動き、若い警官に体全体で突っ込んでいた。
しかし、屈強な警官に対するにはボクはあまりにひ弱だった。いとも簡単にかわされ、つんのめるように転がっていた。
そんなボクに鋭い目が向かってくる。突きささるような視線に体が震え出す。
それでもボクは飛び掛かった。でも、簡単にかわされ、今度は腹を蹴りあげられた。息が止まり、声も出ない。腹の底から苦しみがこみ上げてくる。
うめき声をあげながらうずくまるボクの背中を、さらに踏みつけてくる。
「やめて!」
マコが駆け寄ってきた。
拾っていたサンドイッチや鞄が地面に散らばっている。鞄から飛び出したオルゴールも転がっている。
マコがボクの上に覆いかぶさっている。
叫び声が聞こえてくる。
「もう、やめて!」
警官が、ほら行くぞ、と言ってマコの腕をとり、ボクから引き放そうと無理矢理引っ張っている。
「やめて! 放して!」
マコは声をあげながら抵抗したが、警官はムキになって引っ張り立たせた。
「もう、いいだろう。ほっといて行くぞ」
中年警官のあきれたような声が聞える。
「いえ、とにかく学校には行かせないと、非行はこういうところから始まりますから」
腕を引っ張りながら歩を進めていている。
振り返ってボクを見るマコの顔には悲しみが広がり、目から涙がとめどなく流れ出している。
マコが嫌がっているじゃないか。アンタは正義感あふれる警察官を演じて、そんな自分に酔いしれているだけだろう。
必死に力を込め、体を起こす。
お前は何もわかってない! マコが学校でみんなに無視されて一人ぼっちでいることを。理由も何もなく、ただ〝イジメの標的〟に選ばれたマコが存在を消されていることを。笑っても、泣いても、怒っても、誰も反応しない。そんな学校にいることがどんなにつらいか……どんなに苦しいか……どんなに悲しいか……。
熱いものがこみ上げ、視界が曇る。
お前は何もわかってない! マコが家に一人でいることを。父親は仕事で忙しく、母親もいないマコが夕食を一人で食べていることを。苦しむマコを受け止めてくれる人は誰もいなかったことを。亡くなる前の母親からもらったオルゴールが唯一の救いであったことを。
マコは今、新たな道を歩もうとしているんだ。だから今は、そっとしておいてあげてくれ!
必死に足をふんばり、前へと踏み出した。
視線の先には無理矢理引っ張る警官と悲しそうなマコの姿がある。
体に力が沸いてくる。
ボクは背中を向けて歩く警官に駆け寄り、飛び掛かった。
その手を離せ!
無我夢中でマコを引っ張っている警官の手首に噛みついた。
「ウグゥワァー」
警官が悲鳴のような雄叫びをあげ、ボクを振り払った。充血した目が飛び出さんばかりに広がっている。
ボクは飛ばされ、マコも転んだ。
公園内がまるで静止画のように止まっている。空気までもが止まったように。
そんな静寂の中、冷たい風が吹きぬけ、突き抜けるような悲鳴が響き渡った。
マコの悲鳴に空気が振るえ、動きだした。
若い警官のだらりと下がった指先から血が滴り、地面へと落ちている。鬼の形相でボクを睨んでいる。
もう一人の中年警官は慌てた表情で無線を掴んでいる。
若い警官は片手で警棒を構え、ボクを睨みつけながら近づいてきた。だらり下げた腕の指先からは血が一滴、一滴、地面に落ちている。
ボクは立ちすくみ震えていた。固まった体が動かない。警官はジリジリと近づいてくる。
「逃げて!」
マコの叫びが真っ白になっていた頭の中に響き、ボクは反射的に走り出していた。
ついに朝からぐずっていた空が泣き出した。空からあふれ出した冷たい涙がボクの顔や体に、そして心に突き刺さってくる。
背後から若い警官の叫び声が向かってくる。それでも振り返ることなく走り続けた。
遠くからサイレンの音がしてきた。