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田上君のマンションは、自宅からタクシーで二十分程のところにある。
今、立っている正にこの同じ場所で頭部打撲により私が記憶を無くしてしまってから、今日でちょうど一週間。十五階建てのその下に立って見上げると、流石に超高級マンションというだけあってその威風堂々とした豪奢な外観に圧倒される。
私はゆっくりと辺りを見回した。
けれどやはりまったく見覚えなどなく、何の感慨ももてない。ほんの数日前にはまだ外壁工事の足場が組まれていた筈だけど、今は綺麗に片付けられている。アスファルトの地面もすぐに修復されたのだろう、そこに事故の痕跡は何ひとつ見つけられなかった。
今回の事故の賠償や補償は、原因究明後、マンションの管理会社と外壁工事を請け負った会社と足場を組んだ会社の間で責任割合を話し合ってからになるらしい。そういう面倒な事は全部崇之がやってくれているので、今現在どうなっているのか私は詳しい事を全く知らなかった。
そういえば入院中、まだぼんやりとしている頃に何人か責任者らしき人たちが次々と謝罪に来た気がするけどよく覚えていない。
私はライトアップされたエントランス・ホールを抜けて中に入った。広いロビーは一部が吹き抜けになっていて、まるでホテルのようだ。聞いていた部屋番号を押してインターホンを鳴らす。
「……どうぞ」
私がまだ何も云わないうちに田上君が返事をして、すぐに左手の大きなガラスドアが開いた。
十五階の彼の部屋は、エレベーターを降りた正面にあった。廊下に出ると同時にその部屋のドアが開いて田上君が迎えてくれる。帰宅したばかりなのか、彼はスーツ姿のままだった。
玄関を入り、広いリビングに通されると、その景観に圧倒された。
正面の壁一面がガラス張りになっていて、夜の街が一望できた。遠くに工場の無数の明かりが無造作に散らばり、煙突の赤いライトだけが規則的に点滅を繰り返す。傍の海にはポツリポツリと船が浮かんでいて、恐ろしく緩慢に波間を移動していた。近くにはビルの明かりや街頭やネオンサインが、いろいろな色でそれぞれの存在を主張していた。
手前の低いビルの間を縫うように、車の白いヘッドライトとオレンジのバックライトがすれ違いながら、このガラス窓を左右に横切ってどこまでも並んで流れていく。モノトーンの家具で統一された部屋の中は間接照明だけで薄暗く、余計にこの作り物のような景色を際出たせていた。
この整然とした美しさにはパンフレットの中とか、生涯に一度の思い出旅行なんかでだけ見るべき特別さがあった。なんの根拠もなく、これは毎日、日常として見てはいけないもののような気がした。
「好きな処に座って」
田上君は脱いだ上着と外したネクタイをソファの背もたれに投げた。
窓に沿って置かれた長いソファには、一体何人が同時に座れるんだろう。私も持っていたコートとバッグをその端に置いた。
奥のキッチンに作りつけられたワインセラーから田上君はワインを選び、グラスを二個持ってきてテーブルに並べた。彼はシャツの両方の腕のボタンを外してから、ゆっくりとワインの封を切った。彼の長い指が繰り出すその儀式のような一連の作業には一部の隙もなく、グラスにはワインが注がれる。
私はソファの横に立ったまま、それを見ていた。
「座れよ」
ともう一度云われて、はっとして彼の前に座りかけた時にバッグの中の私の携帯が鳴った。出てもいいものか迷っていたら田上君が立ち上がり、ソファに置いた私のバッグを取って渡してくれた。
開けて中から鳴り続ける携帯を取り出すと、そのまま田上君に取り上げられる。彼は携帯を開いて発信者名を見ると、黙ったまま電源を切ってしまった。閉じられた携帯は私の手の届かないテーブルの端に置かれた。
崇之からの電話だとわかった。
私は理不尽に沈黙させられた携帯を見て、それから田上君を見た。田上君はまったく動じずに、こう云った。
「当然、覚悟はしてきたよね。男の一人暮らしの部屋にこんな時間に来たんだから」
確かに普通ならしてはいけない事だけど、でも私は知っているから。
「田上君はしない。だって、あなたが好きなのは私じゃなくて、」
崇之だから。そう口に出しては云えなかった。
でも田上君はちゃんと分かっていた。
自分の事も、私が気づいた事も。そして、きっと崇之がそれを知っている事も。
「別に好きじゃなくても、佐藤さんを抱くくらい訳ない事だ」
そう云われて、私は初めて少し動揺する。
「ずるいよな。記憶喪失なんて。全部忘れるなんて」
遠い目をして、思い出すように云った。
「佐藤さんは一生結婚なんかしないって云ったんだ。ずっと一人で生きていくって。その自由と強さが、正直、俺は羨ましかった。なのに何で今更結婚? いや別にそれはもういい。俺の知らないところで知らない奴と幸せになったり、後悔したり、不幸になったり勝手にすればいい。だけどなんで俺の目の前なんだ? なんであの日の佐藤さんの言葉が嘘に変わるところを全部見なければいけない? ……よりによって、なんで相手があいつなんだ」
私は何も云えず、初めて田上君の真に感情のこもった言葉を聞いた。
田上君はずっと他人という人間に興味はなかった。
彼の人生は生まれた時から、いや生まれる前からもう決まっていた。完全な血族企業のただ一人の後継者としての人生。
経歴を並べた時に見劣りしない学歴。数年、外の会社で修行して、程よいところで自社に入社。見劣りしない従順な妻を娶り、そしてまた優秀な後継者を生んで育てる。
それは彼にとって当たり前の事で、そして尚且つそれは選ばれた人間にしか許されない特別な人生なのだ。みすみす手放すなんて考えられない。
彼にとっては大学生活も、決まった一本道の人生の通過点でしかなかった。すべての他人は自分の完璧な人生の、ただのつまらない登場人物でしかない。けれど、潤滑な人間関係が保てる程度の人付き合いは上手にこなしてゆく。その事に何の疑問も不安も迷いもなかった。
私と田上君は同じ経済学部だった。なので入学時から顔は知っているし、何度か同じ飲み会に出ていたりもした。特別親しくした事もないけれど、折々にたわいない話くらいはしていた。それだけの関係なのに、何故か彼は私の事が気になり始めた。
決して好きとか愛情とかではない。だけど他の学生に混じっていても、田上君には私が違って見えた。
今なら分かる。私達は似ていたのだ。ちゃんと日常に収まって、勉強したり学食に行ったり誰かと笑いあったりしていた。
だけど私達はそれらに完全に迎合してはいなかった。一歩後ろに下がって、冷静にそれらを観察していた。自分だけの何者にも侵されざる領域を持っていた。
当初、それは喜ばしい事ではなく、田上君にとって私は少し苛立ちを覚えさせるような存在だった。いつか私が彼の理想世界に侵食して、憂慮すべき事態を引き起こすのではないかとさえ考えた事もあった。それは同属嫌悪とでも云うのか、たぶん自分と同じ位置にいる他人が許せなかったのだ。
けれど、そんなのは彼の高慢で私が存在する事は絶対の事実で、いかに彼でもそれを否定したり指図したりはできずに許容するしかなかった。初めての経験に彼はしばらくはどうすれば分からず、じっと私を観察した。そして最終的に出した結論が私と結婚するという事だった。
消せない存在なら、同化してしまえばいい。
結婚なんて所詮、ただの契約だ。安定した満足できる生活を保障する代わりに、理想の妻であり母であると世間が信じる女であればいい。感情なんて必要ない。結婚に過剰な期待や思い入れはいらない。
田上君は私ならきっとそういう事を理解できると分かっていた。だから契約の相手に私を選んだのだ。
それでプロポーズした。条件を提示して。当時の私だったら、あるいはそういう生き方もできたかもしれない。とにかく義務だけ果たして、あとはただ平坦で安寧でリッチな人生をおくる。
でも、私はそうしなかった。囲いの中でぐるぐるしながら徒に時間を消費するだけの、母のような生き方だけはしたくなかったのだ。
「ごめんなさい。結婚できない。私は結婚というものに絶望している。誰とも一生結婚するつもりはないから」
私は田上君には持ちえない選択肢である自由を選んだ。
彼は怒る事も落胆もせず、最初から知っていたようにその答えを受け入れた。
二人は似ていると云ったけれど、田上君には分かっていたのだ。結局自分は私ほど強くないという事に。自分が最上と信じ込まされ、信じてきた道以外に、本当は別に大切な何かがあるのかもしれない。けれど、その事を考えたり探したりする事をしなかった。もしそれをうっかり見つけてしまったらと、それが怖かった。
自由というものを知らなさ過ぎたからこそ、諦めるのも簡単で苦痛も何も伴う事はなかった。
そしてそれから時が過ぎて、田上君と私と、そして崇之が同じ会社に就職して逢いまみえる日が来るのは偶然ではなく必然だろうか。
どうして人は人を好きになるのだろう。
どういった条件でどんな風に出会って、どんな風に笑い合えば恋に落ちるのか。
それを知っていたなら、田上君は崇之をこんなふうに想う事はなかった。
最初は「なんでこいつはこんなに頑張って生きているんだろう」と不思議に思っただけだった。
私達の会社は数年後に新しい支店を出す予定があって、崇之の年に多くの新入社員を採った。研修中は所属課が固定していなくて、新人は各課を数ヶ月単位で異動した。
田上君が崇之と一緒に仕事をしたのはほんの一ヶ月だったけれど、一度一緒に顧客企業を訪問しただけで、崇之が優秀である事はわかった。
仕事なんて質と量のバランスだ。限られた時間の中で成果を上げて見せるには、ある程度の質でそれなりの量をこなす事だと思っていた。実際、そのやり方で田上君は同期入社の中ではダントツの有望所員となっていた。
だけど崇之はどんな小さな仕事でも、とにかく一切手を抜かずに全力投球した。かといって決められた量の仕事も残す事をせず、完璧にやってのけた。確かにそれは理想かもしれないが、こんなやり方をしていてはいつかどこかに無理がでて、体を壊すなりミスをするなりしてしまうだろう。
田上君は崇之に仕事の重要度における優先順位と、手を抜いても大丈夫なぎりぎりの境界の説明をした。
「顧客から電話が掛かってきたからって、いちいち行かなくてもいいよ。特に先代の社長夫人の愚痴の類は、まともに付き合っていたら仕事にならないし」
老舗の会社などで世代交代があると、大抵社内が揉めた。だいたい息子が跡を継ぐのだが、売上が落ちているんじゃないかとか、新しいやり方が気に入らないとか、とかく先代が口を出しすぎる。さらに経理を息子の嫁が引き継いでいたりすると、先代の社長夫人も加わって四つ巴の修羅場と化したりする。
が、そんな内輪揉めを従業員や取引先に云う訳にもいかず、結局、会社の事情を熟知している会計事務所の人間に愚痴る事になる。帳簿を見に行っているのに、嫁が飾る応接室の花の種類が気に入らない、という話を皮切りに、延々とどうでもいい長話が始まったりするのだ。
「大丈夫です。話を聞いているだけだから。愚痴ってでもどっかで抜かないと、本格的に役員内で揉めてしまったら大変だし。ご心配いただいてありがとうございます」
そう笑顔で答える崇之を見ながら、田上君は気づいた。
これから体を壊すんじゃない。もう壊れているんだ。こいつの心が。
限度を見ようとしないのは、自分を見ようとしないのと同じだ。加瀬崇之はきっと自分が認められようとか、出世しようとかと考えてこんなに頑張っているんじゃない。自分がちゃんとやれば周りは喜ぶし自分に対してなんの心配もしない、万事物事はうまく収まると考えているんじゃないか。
何故なのかわからない。うまく云えないけれど、彼の中では彼自分というものの存在がひどく希薄で、他人だけが世界の絶対の存在であるように思えた。
あの柔らかな笑顔の下の自虐的なまでの自己否定。
それから崇之は同じ課の別のチームに正式に配属されて、あまり話す事もなくなったけれど、それでも田上君は崇之の事が気になって仕方なかった。
そんな時に起きた税務調査での社長乱心事件で、崇之を庇って田上君は刺された。あの時も崇之は凶器から全く逃げようとしなかった。思惑はあったにせよ、そもそも有事の時に四の五の考えず咄嗟に自分の身を守るのが健全な当たり前の人の行為だ。ぎりぎりの場面でも、自分で自分を無条件に大切にできない崇之の事が悔しくて哀しくて、そして愛おしかった。
彼の痛々しい健気さを、消えてしまいそうな危うさから目が離せなかった。
救ってやりたかった。
彼に害を為すすべてのものから、彼を守ってやりたいと思った。
それは田上君が生まれて初めて抱く、他人に対する純粋な愛情だった。彼にとっての最大の不幸は、その相手が同性だった事だ。自分がこんなに普通に人を好きになれる事も驚いたが、それが同性である事は納得しがたかった。
それどころか元々彼は、そういった性癖を持つ人がいる事に嫌悪感さえ抱いていた。
だから想いはあっても、彼を肉体的にどうにかしたいとは考えていなかった。いや、実際は愛しいと思う人に触れたい、体を通じて高ぶる感覚を共有し合いたいと、人の生理として当然に思考してしまったかもしれない。
けれど田上君にとってそれは、同性同士の恋愛は絶対認められなかった。認められないのに、いつも崇之を探した。
目で追った。それを止められなかった。
そして。
それがもし別の人だったなら。私以外の誰かだったなら。
だけど崇之が選んだのは私だった。時に強い想いは人を変えると分かっていたけれど、崇之を変えたのは、あの虚無から救ったのが私だった事に運命の皮肉さを感じずにはいられなかった。
「俺は加瀬に同情していたんだ。よりによって、なんで佐藤さんなのかって。だって君が加瀬を受け入れるはずないって思っていたから。君は愛なんて全く信じてなかった。だから加瀬が真剣であればあるほど、佐藤さんは加瀬を遠ざけると。確かに最初はそうだった」
広い部屋の中はとても静かで、田上君が黙ってしまうとこの空間が今もちゃんと世界の時の進行に同調しているのかさえ疑わしくなってくる。
間接照明の弱い光に曖昧に浮かぶ田上君の肩の輪郭を見ていると、もうずっと長い間、私はここでこうしているような気さえした。
「なんで佐藤さんは加瀬を受け入れられた? どうして、あんなに疑っていた愛情というものを、また信じようって思えた?」
そう訊かれても、もちろん何も覚えていない私には答えてあげる事ができない。
「……全部忘れてしまったのなら、もう、この答えは永遠に聞けないんだな」
彼は自分でそう云った。
「あの日……事故のあった日に、君にここでそう訊こうと思っていた。佐藤さんたちの結婚が決まってからも、結婚してからも君はずっと俺の事を気にしていた。嘘をついたって罪悪感もあっただろうし、なにしろ相手が加瀬だし。俺が露骨に君を避けていたから、余計にね。まあ、それくらいの意地悪は許されるだろ」
田上君が哀しかった。
あの日から私は怒とうの毎日の中、周りの人たちに支えられてそれでも少しずつ前に進めたと思う。
だけど彼だけは、ここにこうしてずっと一人で取り残されている気がした。
「過去を全部忘れるって、ちょっと俺には想像できないな」
呟くように云った。
「これから、どうするの」
そして彼はそう訊いた。なんだかその声が妙に優しげで、辛くなる。
私は首を横に振った。
「ここにいろよ。俺は君に何も求めない。君だって俺に何も求めてない。一番楽な選択じゃない?」
確かにそうだと思った。記憶を無くす前とまったく違う状況から始められたら、昔の自分と今の自分が繋がっていない事を知る度に苦しまなくてすむ。
でも。
私はやはり首を横に振った。田上君はいつかと同じように怒りも落胆もせず、最初から知っていたようにその答えを受け入れた。
その時、来客を告げるインターホンが鳴る。
田上君は何も聞こえなかったかのように身じろぎもせず、ただテーブルの一点を見ていた。呼び出し音は一度しか鳴らず田上君も動かなかったので、もしかしたら音を聞いたと思ったのは私の間違いだったのかと思いかけた時、田上君はやっとゆっくりと立ち上がった。
ドアの横に取り付けられたオートロックの操作パネルに近づくと受話器を上げる事もなく、一階のエントランスのドアを開けるボタンを押した。そして田上君はまたもとの位置に座ると、ソファの背もたれに体を預けた。
「もう、いいよな。これでやっと、終われる」
そう云った。
程なくして部屋に入ってきたのは崇之だった。
私と田上君の間にあるテーブルの横に立ったまま、私たちを見下ろしていた。田上君は崇之の方を見る事もなく、私はどうしていいのか分からずにただ崇之を見上げる。
「話、終わったから」
と、田上君が云った。
崇之は何か云いたげだったけれど、それを飲み込んで私に、
「……千晶、帰るよ」
とだけ云った。
崇之が迎えに来てくれた事は素直に嬉しかった。けれど、このまま二人でこの部屋を後にしていいのだろうか。
こんなに広くて綺麗で哀しい部屋に、今、田上君を一人で置いて行ってしまうのはあまりに切なかった。
崇之に促されたけれど、すぐに立ち上がれなかった。私は田上君を愛せはしないし一緒に暮らせもしないけれど、それでも彼の事をわかると思ってしまった。彼のいろんな強い感情に同調したのかもしれない。
待っていても無駄だと悟った崇之は、私の二の腕を持って強引に立たせた。腕を掴んだまま反対の手でテーブル上の私の携帯とソファに置いたコートとバッグを取って、半ば強引に部屋を出る。
リビングの扉を抜ける前に一度立ち止まり、田上君の振り返らない背中に云った。
「これで最後にして下さい」
「もう、話す事は何もないよ」
やっぱり田上君は顔を上げなかったし、いつもと変わらない声音だったので彼の今の本当の気持ちは分からなかった。
あの宝石のようにキラキラ光る窓の豪奢な風景だけが、私の目に残った。
エレベーターに乗ると、やっと崇之は腕から手を放してくれた。
「痛かった? ごめん」
かなり力が入っていた事に気づいて、慌てて謝ってくれる。それはもういつもの崇之で、私は安心した。
「どうしてここにいるって、わかったの」
私がここに来ようと決意したのは今日の夕方の事だ。今ここにいる崇之の万能さが不思議だった。
「これ」
崇之はポケットから、くしゃくしゃになった紙を取り出した。私が部屋に残してきたメモだ。
「この文章、あの事故の日に会社にいた俺に千晶が送ってきたメールと全く同じ」
ああ、なんだか自分の単純さに力が抜ける。
「て云うか、分かるよ。千晶の考えている事くらい」
そう云って少し笑った崇之の顔が優しくて、それが嬉しくなると同時に田上君の事を思って胸が痛んだ。
「田上君は……」
その後の言葉が続かない。私が彼との約束を破った事に間違いはない。彼が知りたがっていた事も教えてあげられなかった。
そして崇之は今、私の隣にいる。
「俺には、どうする事もできないから」
そう崇之は云った。その声がとても哀しそうで、それでやっと気づく。優しくしない優しさもあるのだという事に。
私はなんだかいろんな感情がこみ上げてきて、どうしようもなくなる。
エレベーターを降りてエントランスを抜けた。外に出ると、冷たい夜の空気が頬を冷やす。なんだかうまく歩けなくて、ついその場にしゃがみ込みたくなる。
崇之は何も云わずに右手を出して、手を繋いでくれた。持っていた私のコートを肩から掛けてくれて、足早に駐車場に向かった。
崇之の車に乗ってシートベルトを締めたら、不意に涙がこぼれた。哀しいとか悔しいとかそんな感情の涙ではない。なんだか分からないけれど、私の胸の中でぐるぐるぐるぐる渦巻く、柔らかくて大きな塊が熱い涙を溢れさせた。
崇之は車のエンジンをかけるとヒーターを強にして、しばらくそのまま私を泣かせてくれた。静かな車内に低いエンジン音が響く。
「不思議だね」
私を見つめながら崇之が云った。
手を伸ばし、左の手の平で私の頬を包むようにして親指でそっと涙をぬぐった。
「千晶の涙はいつも、右が一粒落ちる間に左が二粒落ちるんだ」
時折、前の道路を行き交う車のヘッドライトが私と崇之を照らしてゆく。その一瞬の明かりに浮かぶ崇之は、やはり優しく微笑んでいた。
私の忘れてしまった過去でも、私はこんなふうに彼の前で泣いたんだ。
きっと今と同じようにすっかり安心して、いくつも涙の粒を落として。
大丈夫。
記憶をなくす前の私と、今の私はちゃんと繋がっている。
初めてそう思えた。
サイドブレーキが解除され、車はゆっくりと動き出す。
ウインカーの点滅。
そして車は幾筋ものオレンジのテールランプの波に紛れて、夜の街へと走り出した。
〈 了 〉
お読みいただきまして、ありがとうございました。
千晶の友人である祥子の恋愛話「いられるような」も投稿しています。
よかったらそちらもご覧ください。
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