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愛としか  作者: 及川 瞳
4/6

― 4 ― 過去編


      **************************************


 これは私がすべて忘れてしまった、二年前の私と崇之の始まりの話。


「千晶さん、今日、仕事が終わってからお時間いただけますか。話があるので、できれば食事しながらいかがですか」

 その日、出先から会社に戻って、行き先を書いておいたホワイトボードの予定欄を消していたら、不意に崇之にそう話しかけられた。振り向くと、彼はいつもの柔和な笑顔で私を見ていた。

 加瀬崇之。半年前に入社してきた私の後輩の中の一人。この年の新入社員から仕事の悩み相談を申し込まれるのは、彼で三人目だった。

 私は意外に思った。仮配属でも直接彼と仕事をしていなかったけれど、傍目に見ても崇之は今年度の新人の中では多分一番、うまく仕事をこなしていた。温和で明るい性格で、同僚たちや先輩ともうまくコミュニケーションが取れているように見えた。お客さんである企業の重役達からの受けもいい。彼に限って、何か問題があるようには思えなかった。

 けれど、逆にそういう風に回りから簡単にできているように過信される事で、実際の胸の内にある悩みなどをなかなか表に出せなかったのかもしれない。

「うん。いいよ。えっと、七時には終われると思うけど、それでどうかな」

 とにかくいきなり辞めると云われず、まず相談してくれるのが嬉しかったので、私はできるだけ優しくそう云った。

 私達の勤めるこの公認会計士事務所では、入社三年以内に社員の約1/2が退職する。これはこの事務所だけがというのではなく会計事務所という業界の傾向で、全社平均だと1/3くらいまで残留率は下がるのではないだろうか。

 会計士事務所というと、一般的にただの事務系のインドアな仕事、というイメージが強いらしい。一日中机でひたすら電卓とパソコンに向かっている、と思われがちだ。もちろん、会計伝票を作ったり、税金の計算をして税務申告書を作ったりもする。けれど実際の仕事はそれを作るまでの、顧客企業に出向いて会計指導をしたり、会社運営についての助言をしたり、節税対策に保険を売ったりという対外的な事柄が主だったりする。おおまかに分類するとすれば、実際の会計事務所の仕事は事務職ではなく営業職に近いと云える。

 入社説明会などでも散々その事は強調されているのだけれど、結局の処、人とあまり会わない事務仕事がしたい、という内向的な学生がうっかり入社してしまい、現実とのギャップに悩む事になる。

 加えて、顧客企業に訪問するのを先方の都合に合わせると、どうしても業務終了後とか休日などになって残業や休日出勤が増えるし、税法は目まぐるしく変わるので常に勉強して対策を研究し続けなければならない。税務調査でも入ろうものなら、基本突発的だから友人・恋人との約束もままならないという事態にも陥る。

 そんなこんなで、この業界の離職率は結構な高さなのだ。私の入社した年も、一年過ぎて残っている同僚は九人中五人だけだった。

 この会社は毎年、新入社員のオリエンテーションなどの世話係が人事課や各課主任クラスからの選抜とは別に、入社二年目の社員の中からも選ばれる。新入社員の気持ちをなるべく汲みとる為、直近の経験者をあてがう訳だ。

 その年、私はその役を任された。せっかく難関を突破して入社したのだから、なるべくならすぐに結論を出さずに続けて仕事の楽しさも分かって欲しいと思っていた。実際辞めてしまった元同僚から後で、もう少し頑張ればよかったという話を聞いた事もあり、できるだけ力になろうと決めていた。

 今年の新入社員は十五人と多めだったけど、配属先の各課の上司と連絡を取って様子を見つつ声をかけて、すぐに相談に乗れるように気を配ってきた。その成果かこの半年で自主退職したのは、体調を崩して長期入院となった一人だけだった。

 どんな悩みかはわからないけれどとにかくまずは話を聞こうと、その日私は崇之と会社の一階のロビーで待ち合わせて、近くのイタリアンレストランに行った。そこはオープンしたての話題の店で、きちんとした上品な内装で本格的な料理を出すわりにカジュアルな価格設定で、近いうちにプライベートで行ってみたいと思っていた店だった。

 これまで相談は直属の上司も同席して個室のある居酒屋で受けていたのだけど、今回は崇之がお店は予約していたし、二人だけでと云ったので任せていた。

 暗めの店内を歩いて通された席には真紅のテーブルクロスがかけられていて、ろうそくの明かりが器のガラスの模様をゆらゆら映してとても綺麗だ。

「千晶さん、苦手な食べ物、ないですよね。コースでいいですか」

 そう訊かれて、ちょっと雰囲気にのまれてぼんやりしていた私は慌てて頷く。

 こういう処で若い男女が向かい合って食事をしていると、傍から恋人同士に見えるかもしれないけれど、これも仕事のうちなのだ。崇之はいつもと変わらず楽しそうに食事をしていたので、とりあえず私は崇之の方から話を切り出されるまで待つ事にした。

 のだけど、結局デザートが出るまで全く仕事の悩みを打ち明けられる事もなく、ただ和やかに食事は終わりかけていた。

「美味しかったですね。千晶さんは大丈夫でしたか?」

 そう笑顔で話しかけられて、私はとうとう自分から口火を切る事にした。

「うん。お料理はとても美味しかった。それで、加瀬君、相談の方は……?」

「相談?」

 崇之が不思議そうに訊きかえしたので、私は少し焦る。

「仕事の仕方とか会社の上司や同僚との付き合い方とか、そういうので何か悩んでいる事、ない?」

「いえ、お陰様で皆に良くしてもらっていますので今の処、何の問題もないです」

 私はその言葉に至極納得していた。うん。そうだよね。確かに傍から見ていてもすごく順調そうに見えていた。なら、この今の状況は何なのだろう。

「あ、あれ? じゃあ、これ、今日は何の為の食事、なの……?」

 勤務上のトラブルなどではなくて安心したものの、他の用件である可能性を全く考えていなかったので私は困惑した。

 崇之は動じる事なく、いつもの笑顔でさらりと云った。

「告白しようと思って。好きです。結婚を前提にして、ぜひ付き合って下さい」

 人は全く予想外の事態に陥ると、一瞬思考が停止するらしい。

「千晶さん? 聞いていますか?」

 と促されて、やっと声が出た。

「え、あ、私? どうして?」

 告白されて、即座にどうしてって云うのも変なのだけど、本当に意外でついそう訊いてしまった。慌てる私とは裏腹に崇之は落ち着いたもので、ゆっくりと話す。

「入社してすぐのオリエンテーションの時、俺の資料が足りなくて千晶さんが自分の分を貸してくれたでしょう?」

 会議室に新入社員を集めて、会社の大まかな仕事内容とか福利厚生の説明なんかをした時、私も同席していた。基本的に配布されるプリントなんかは全部人事課が準備していたのだけど、なぜか自社案内のレジメ一式が一部足りなかった。それは一番後ろの席の崇之の分で、慌てて人事課に予備を取りに行く間、事前に貰っていた自分のレジメを崇之に貸した事があった。それは確かに覚えていた。

「……それで?」

 人事課が改めて用意した新しいレジメを彼に渡して、その後は滞りなく普通にオリエンテーションは終了した、筈。その事と告白とどう結びつくのだろう。

「その後、千晶さんは毎回人事から書類が届く度にちゃんと枚数が足りているか、配る前に二回ずつ数えていましたよね。すごくかわいいなあって、見ていた」

 入社したてでまだ右も左も分からなくて緊張しているところに、自分だけプリントが貰えなかったらすごく心細くなるだろうと思い、念には念を入れて数えていただけなんだけど、それがなんで「かわいい」になるのか私にはさっぱり理解できなかった。

「貸してもらった千晶さんのレジメも沢山メモとかしてあって、俺達の為に一所懸命なんだって思ったら、いいなあ好きだなあ、と」

 仕事を褒められるのは嬉しいけれど、それで「好き」っていうのはどうなのだろう。この状況はあくまでも先輩として仕事の仕方が好き、ではなく、一人の女性としてお付き合いを申し込まれているようなのに。

「冗談、とかじゃなくて?」

「もちろんです」

 そう確認されて、崇之は少し心外な面持ちで頷いた。

 思えばこれまで社内で飲み会があると、私の隣にいつも必ず崇之が座っていた。ここの会社は伝統的に歓迎会でも忘年会でも仕事の打ち上げでも何でも、席順は序列関係なくクジ引きで決められる。あれは奇跡的な偶然が続いていた訳ではなくて、毎回崇之が私の隣の席を引いた人に代わってくれるよう頼んでいたのだ。

 私は鈍感にもまったく気づいていなかったけれど、毎度そういう事をしていると社内の一部では崇之が私に気がある事が公然の秘密となっていて、では応援しましょうかという雰囲気になっていた、ようだ。

 さらに仕事の進捗に合わせるから食事の時間はみんな一定じゃないけれど、昼食だろうと夜食だろうとただ休憩しているだけだろうと、私が社食にいるとよく後から崇之がやってきて話をして帰ったりしていたのも、見つけた他の社員から「今、千晶さん、社食でご飯食べていたよ」と、崇之に連絡がいくシステムだったのだ。

 会社も就業時間が不規則で、婚姻率が低くさらに離婚率が高い業界事情をわかっていて社内恋愛が推奨されていた。

 崇之は優しくて大らかで、仕事のできる後輩というだけでなく申し分なくいい人だと思う。好きと云ってもらえて正直すごく嬉しかった。

 でも、私の答えは決まっていた。

「加瀬君、ありがとう。そんな風に云ってもらえて、とても嬉しい。でもお付き合いするつもりはないです。ごめんなさい」

 やんわりと遠まわしに云う方が相手を傷つけなくて済むのかもしれないけど、断るならはっきりしないと同じ社内でこれから一緒に仕事していくのに支障が出るような事は避けたかった。

 きっぱり断られても崇之は動揺する事もなく、変わらず落ち着いていた。

「理由を訊いてもいいですか」

「私はもう恋愛もしないし、結婚もしないって決めているから。それだけ」

 ものすごく単純で抽象的な答えかもしれないけれど、それがすべてだから。ここで自分の人生観や恋愛観をどれだけ語っても、答えは変わらない。崇之はその言葉をどう理解したのかわからなかったけれど少しの間黙って考えて、そしてやっぱりいつものように穏やかな口調で云った。

「俺が嫌いな訳じゃないですよね」

 断る申し訳なさもあって、私はその問いには力を込めて答えた。

「全然、嫌いじゃない。加瀬君はとても素敵な人だと思う。だから将来結婚する人をちゃんと幸せにしてあげられるよ、きっと」

 本当に心からそう思った。私のその言葉に崇之はちょっと微笑んで「ありがとうございます」とお礼を云い、それから、

「俺は諦めませんから。いずれ結婚して、千晶さんを幸せにしてあげます、きっと」

と、淡々と云った。

「だから、それはないって」

「そうですか?」

「そう!」

「そうかなあ」

 年下の筈なのに、なんで自分ばっかり焦っていて、こんなに崇之は余裕があるんだろうと私はちょっと悔しかった。

 それからも全く崇之の私に対する態度は変わらなくて、相変わらず社食でもよく出会うし、飲み会ではいつも隣にいた。だけどもう付き合って欲しいというような事は、一切云わなかった。

 仕事仲間としての崇之はとても優秀で、一緒にいてとても勉強になった。大学在学中に税理士資格も取っていたので、専門的な知識は豊富だ。実践については私が一年早い分多く積んでいるので、お互いに補い合える関係だった。

 仕事上で役に立つ外部主催のセミナーや勉強会などは、休日出勤手当は出ないものの、参加費は会社持ちで任意で申し込めるのでよく一緒に参加した。イントラネット上でテーマごとに参加者を募るので数人になる事もあるし、二人だけの時もあった。遠方で泊りがけの事もあったけど、セクシャルな雰囲気になる事は全くなかった。

 二人の話題の八十%はなんらかの仕事関係の事だったけど、だからこそ私にとってはそんな崇之との関係がとても心地よく、完全に信頼していた。

 ずっとそんな関係が続くと思っていた入社三年目の初秋。事態は急展開した。

 崇之は顧客先から戻ってすぐ、佐藤チーフに呼ばれた。簡易応接室に通されると、いつもニコニコしているチーフが珍しく深刻な表情をしていたので、どこか担当企業に強制調査(いわゆるマル査)が入ったのかと身構えた。

 税務署から企業に任意に入る税務調査はよくあるけれど、マル査となると犯罪捜査に準ずる方法で強制的権限が行使される。一般にかなり悪質な脱税等が見込まれる企業に行われるものだ。

「いや、調査じゃない。加瀬君にとってはたぶん、いい話なんだ」

 と、やはりどうにもいい話っぽくない、神妙な面持ちでチーフは云った。

「加瀬君の転勤が内定した」

 それを聞いて、崇之はチーフの云わんとしている事をすべて理解した。

 来春、他県に新しい支店を出す事になっていて、それは崇之が入社する前から決まっていた。滅多に転勤のない会社だけど、崇之は有資格者で最初から支店の立ち上げ時に異動になる事は、ほぼ確定していた。

 赴任時には係長待遇に昇格するので本来は栄転なのだけれど、別のところで崇之とチーフは困惑していた。

「それはちょっと困りますね」

と、崇之が云うと、

「だよねぇ」

と、チーフも同調した。

 要は私の事なのだ。

 佐藤チーフは仕事もできるうえ後輩の面倒見のいい、みんなからとても好かれている上司だ。崇之が私を好きなのを知って、自分も職場恋愛だった事もあり、かなり応援してくれていた。

「えーと、千晶君とプライベートでお付き合いしているの?」

「いや、残念ながらそれはないです」

「……だよねぇ」

 仕事上でうまくやっているのは知っていたけど、どうにもそれ以上、進展したような気配が微塵もないと常々気を揉んでいたのだ。

「会社としては籍をとまでは云わないけど、せめて婚約くらいしてないと一緒に転勤させる事は難しいんだよ」

 今の二人の良好な関係は、同じ職場であってこそというのは明白な事実だ。崇之もそれは十分に分かっていたけれど、私の性格上、急いで無理強いしては逆効果だとわかっていたので、のんびりじっくり戦法で落としにかかっていたのだ。

 でももし今、崇之が転勤して頻繁に会えなくなると、このままフェードアウトしてしまう可能性が非常に高かった。

「どうする? 転勤辞令は辞退もできるけど、それはあまりお勧めしないが」

 もちろん崇之はそれをするつもりはなかった。第一、仕事優先主義の私が、崇之が自分の事で転勤辞退なんてしたら、黙っている訳がないと十分に承知していた。

「一度、僕が千晶君と話してみようか? あんまりうまく喋れる自信はないけど」

 一所懸命、自分たちの事を考えてくれるチーフの思いが崇之には嬉しかった。

「ありがとうございます。でも、自分でどうにかします」

「どうにかなるの?」

「まあ、たぶん」

 結構気の長い方の崇之も、そろそろ現状には満足できなくなってきた処だった。

 まんざらでもなさそうな崇之を見て、チーフには一体どういう方法で崇之が私に云う事をきかせるつもりなのか、さっぱり見当もつかなかった。


 休日である筈の土曜日のオフィスにも、自主的に出社している社員がいつも大抵何人かはいた。基本的に明確な期限のある仕事が主だから、法人の決算が多い月や、月末とか確定申告時期は休日でも普段と変わらないくらいの人数が仕事をしていた。ただ休日出勤の時は、企業訪問がなければカジュアルな服装での出社が許されているので、室内はいつもと違うちょっと華やかな雰囲気になる。

 この日、私は今期から新規顧客になった会社に、過去の決算関係書類一式・三年分を借りに行った。社長の代替わりとともに会計事務所を変えるのは結構よくある事で、そこは私が税務指導から決算までを担当する事になった。

 たとえ他に同じ業種を受け持った事があっても、それぞれ会社ごとに色々な特殊性や変遷があるので、まずはそれらを知っておかなければならない。もちろん社長や事務長から聞き取りもするけれど、会社の長期の資本・資産・負債の流れは決算関係書類を見るのが一番手っ取り早い。

 平日は忙しくて倉庫までカギを開けに行けないからと先方の事務長に云われ、今日の土曜日に書類を取りに行く事になった。税務申告書・決算書だけでなく、総勘定元帳や補助簿もあるので、三年分というと結構な量と重さだ。

 また、大抵の会社は終わってしまった過去の会計書類には興味を失って、そのまま電化製品の取説や郵便物やパンフレットなどのいろんなものとごちゃ混ぜに段ボール箱に放り込まれていたりする。そこから手早く必要な書類を探し出すのも人手があった方がよい。

 その日もいつものように、助っ人として崇之が同行してくれた。このような場合、普通は同じチームの同僚が手伝うのだけど、どこでどう手が回っているのか、私の時は云わなくても崇之に話がちゃんと通っていて手伝いに来てくれる。休日出勤手当は出ないし、いつも崇之が車を出してくれるので、こういう時は私がランチをご馳走するのが決まりとなっていた。

 この日は月初めだったので同じ課内で他に出勤しているのは、同期の高橋君と山根君だけだった。彼等もそんなに急ぎの仕事ではなく、来月の社内報の打ち合わせの為に出社していた。ジーンズ姿で机にお菓子やジュースを広げて、まるっきりゆるゆるの休日モードで雑談している。

 預かってきた重要書類の詰まった重い段ボール箱を駐車場からオフィスまで崇之が持ってくれたので、私は登記簿謄本の写しなどの軽い書類の入った紙袋を下げていた。部屋に入った時に同僚たちと簡単に挨拶はしたものの、私と崇之のコンビはすでにこの課内では珍しくなく、まったく詮索される事はない。

 第三監査課はドアを入って右手に長細く広がる部屋の突き当たりに、小さいけど頑丈そうなドアが付いた小部屋が付属していた。ここは顧客から預かった大切な書類を入れておく六畳程の倉庫で、一階の守衛室で社員証を出さないと鍵がもらえないシステムだ。私もちゃんと社員証を呈示して、鍵を預かってきていた。

 鍵を外し、ドアを開いて押さえると、崇之が段ボールを奥のスチール棚に乗せてくれた。

「ここでいいですか?」

 下から二段目だから、私でも後から取り出し易いだろう。

「うん。ありがとう。すごく助かった」

 そうお礼を云って崇之を見た。彼は頷いて、少し乱れたネクタイを直していた。

 私はその日何度目かの違和感を覚えた。どこがどうとはっきり云えないけれど、崇之の態度が普段と違うような気がしていた。

 これまでも一緒にいてもずっと喋っている訳ではなかったけれど、いつもは沈黙していても落ち着ける気の置けない空気があった。でも今日は朝からなんだか、雰囲気が妙に重いような気がしていた。

「加瀬君、大丈夫?」

 見た目にはわからないけど、もしかしたら体調でも悪いのかもしれないと心配になってそう訊いてみる。

「どうして?」

 逆に崇之がそう問い返す。やはり幾分表情が硬い。いつもの笑顔が見られなくて、少し不安になる。

「なんだか、普段と違うから」

 ネクタイから手を離して、崇之は私を正面から見た。

「うん。そうだね」

 そう云って曖昧に頷いただけで、後はただ、まっすぐに私を見つめた。

 崇之の真っ黒で澄んだ瞳に魅入られたまま私は、目を逸らすきっかけを失って、そのまま動けずにいた。その時間が、長いのか短いのか分からなくなる。

 ふと、二人して密室で見つめあっているという現状に気づいて、焦ってとにかく倉庫を出ようと踵を返したら、急に横から崇之に右手首を掴まれた。その拍子に持っていた倉庫の鍵を落としてしまい、金属製の鍵は床に跳ねて高い音をたてた。慌てて拾おうとしたのだけど、崇之が強く手首を掴んだまま離してくれなかった。

 足元に落ちた小さな鍵が、高い小窓から差し込む光を鈍く反射している。

 身動きが取れなくて崇之を見上げた途端、

「転勤する事になりました」

と彼は不意に云った。

「……え、」 

「転勤。来年の春に神奈川に行きます」

 あまりに突然でびっくりして、というより自分でも予想以上にショックで、二の句が継げなかった。

 転勤の事は前から私も知っていた。だけど、すっかり忘れていた。今の崇之との関係が心地よすぎて、このままずっとこうしていられるような気がしていた。いや、このままでいたかったから、あえて思い出さないようにしていたのかもしれない。

「千晶さん」

 名前を呼ばれて、我にかえる。

 駄目だ。動揺しているのを悟られちゃいけない、と、できるだけいつもの口調で話そうとした。

「栄転だね。おめでとう」

「俺、行ってもいいですか」

 崇之のセリフがいちいち予想外で、いいも何も、すぐに「もちろん」と云うべきだったけど動揺してワンテンポ遅れてしまう。

「うん。行かないなんてできないよ」

 支社に移ったら、最低でも五年は本社には帰れないだろう。そうしたら、もう一緒に出張に行って勉強したり、新しいお店を見つけてランチを食べたり、車を出してもらった帰りにちょっとだけ遠回りして並んで海を見たりできないんだ、と改めて思った。

 あまりに崇之が穏やかで自然に傍にいてくれていたから、これまでの日々がとてもかけがえのない大切なものだったって気が付かなかった。

 でも。

 私はしかたないって、心の中で何度も反芻する。

「一緒に、行く?」

 そう優しく崇之は云ってくれた。思わず頷いてしまいそうになって、慌てて首を横に振った。

 それを見ても崇之は何も云わなくて、握られた右手だけが妙にリアルに感じられた。何度も目にはしてきたのに、初めて触れた崇之の手の平は熱いくらいに温かい。

 胸の奥がざわめいて、なんだか息苦しいような感覚に身じろぎをしようとした瞬間、崇之は空いている方の手で私の肩を掴んで部屋の壁に押し付けた。

「加瀬く……」

 その言葉を遮って、崇之は少し強引に唇を重ねた。

 後ろ頭が壁に押し付けられているから角度がつかなくて、崇之は身長差の分体勢がきつい。一回離れてから私の体をちょっと引き寄せて、もう一度長いキスをした。

 雲の上にいるように、足元がふわふわしている気がした。頭の奥が痺れたようで、もう何も考えられなくなる。

 ゆっくりと唇が離れて、崇之はそのまま包み込むように私を抱きしめると、左耳に唇が触れる近さで囁いた。

「好きだよ」

 キスは、初めてが高校生の時でそれから何度か経験があったのに、これまでのどのシーンとも違う圧倒的な高揚感の中に私はいた。なんだか分からないまま、ただとにかくずっとこうしていたいと思った。

「結婚しよう?」 

 その崇之の言葉が、素直に心に入ってくる。

 そうか。結婚すればずっと一緒にいられるんだ。離れなくてもいい。今までみたいにずっといられる。

「結婚しよう」

 もう一度云われて、私は頷いた。

 崇之は手の平で私の頬を包み込むようにして上を向かせ、もう一度瞳を見ながら云った。

「ちゃんと云って。俺と結婚する?」

「する」

 私は崇之の首に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。


 そんなに長い時間じゃなかった気もするけど、我に返ると目の前にいつもと変わらない優しい笑顔の崇之がいた。

「大丈夫?」

 そう訊かれて、今、起こったいろいろな事が一気に思いだされて、すごく恥ずかしくなる。顔をあげていられなくて視線を下げた。

「うん」

 落とした倉庫の鍵を崇之が拾ってくれて、一緒に外へ出た。

 見られていた筈はないのだけど、さっきまで外の部屋にいた筈の同僚たちは席にいなくて何だか安心する。電気もつけっぱなしだし机の上もそのままなので、すぐに戻るつもりなのだろう。

「千晶さん。これからいろいろと忙しくなると思うけど」

 崇之が倉庫の鍵をかけている間、部屋の向こうを見ていた私はそう話しかけられて振り向いた。

 忙しくなるってなんだっけ。一瞬、本当にわからなくて、きょとんとしてしまった。

「まあ、とにかく、まずはこれ」

 崇之は背広の内ポケットから、折り畳まれた薄い紙を取り出して私の前に広げた。

「え?」

「どうぞ」

 ご丁寧に芯を出してすぐ書けるようにしたボールペンも隣に添えた。それは左半分の列は記入済みの婚姻届だった。あとは新婦側の記入を待つだけの状態になっている。

「座って」

 呆然とその紙を眺める私を、傍のデスクの椅子を引いて座らせた。

 初めて見る本物の婚姻届はまがい物のような頼りない薄さで、でもこれはなんだか急速に重大な事態になっているんじゃないか、と云う事はわかった。恐る恐る顔を上げてみると、いつも通りの崇之が今まさに私がペンを持つのを待っている。

 確かに云った。崇之と結婚すると、たった今、ほんの五分くらい前に云った。あまつさえ、自分から崇之の首に手を回して体を預けもした。

 けれどこの用意周到な迅速さに流石に焦る。何て云ったらいいのか、言葉を探していた。

「あ、あのね。加瀬くん」

「はい?」

「ちょっと待って」

「いや、それは無理」

 言質を取っている余裕なのか、まったく引く気はないようだった。

「え、えっと。今、印鑑、ないし」

「大丈夫。持ってくる。千晶さんのデスクの引き出し、開けますね」

 ああ、ここは会社だから印鑑が置いてあるんだ。

 それを取りに行く崇之の背中を見て、それからもう一度手元の婚姻届の用紙を見て、本気でどうしたらいいか分からなくなる。

 崇之とずっと一緒にいたいと思ったのは本当の事だ。それは「結婚」って云えばその願いが叶うって単純に考えてしまっていた。でも「結婚」は一緒にいられるだけのただの魔法の言葉じゃなくて、私と崇之の二人だけじゃなく法律も世間も巻き込む重要事項なんだ。

 手に佐藤の印鑑と朱肉を持って戻ってきても、まだ私がそのまま固まっているのを見ると、崇之は自らペンを取って私の手に持たせた。

「はい、どうぞ」

 にっこり笑うその顔を見て、どうにも逃げられそうにないのを悟ったけれど、それでも最後の悪あがきをする。

「私、加瀬君の事、好きだよ」

 立ったままの崇之を見上げて、ちゃんと認めた。

「ありがとう」

 嬉しそうに笑う崇之を愛しく思う気持ちはもう隠せない。だけど。

「だから、それだけで十分じゃない? 結婚なんてただの形式だから、別にしなくてもいいんじゃないかな」

「ん、まあこんなのは確かに形式と云えばただの形式だけどね。とにかく、ここに名前と生年月日、その下に住所」

 崇之は云っている事とやっている事が一致していない。私の記入すべき位置を指で押さえて差ししめす。

 もうどうにも進退窮まって困り果てていたその時、部屋の向こう側のドアが開いて同僚達が戻ってきた。それでとうとう観念して、云われるがまま私は自分の名前などを書いた。

「OK。じゃあ、帰りましょうか」

 その完成した婚姻届けの用紙を丁寧に畳んで、崇之はまた背広の内ポケットにしまった。なんだか脱力して、崇之の言葉にもうただ頷く。

 その様子を見て、崇之は口を開いた。

「ただの形式でも千晶さんはこういうのでガチっと固めとかないと、なんか後から余計な事をいろいろと考えちゃうでしょう?」

 そう云われても、自分の事としてピンとこなくて何も言い返せなかった。

 それから一緒に車に乗って、会社の駐車場を出た。その時に、

「夕食、一緒にどうですか」

と、崇之に誘われた。

「あ、ごめんなさい。これから友達と約束があって」

 それは本当の事だった。

 ものすごく今日は一日が長い気がしたけど、時計を見たらまだ四時を少し回ったところだった。今晩は祥子が泊まりに来る事になっていた。彼女はフル出勤日なので、これから帰って準備しても十分に間に合う。

「そう。残念だけど、じゃあまた今度」

 崇之はそう云ってアパートの前まで送ってくれた。これまで何度も送ってもらったけれど、部屋にあがりたいなどとは一度も云われた事がない。そういう処も安心できて、私は崇之を信頼していた。

 崇之の車を見送って、部屋に入ってバッグを置いてジャケットを脱いだら、そのままその場にぺたんと座り込んでしまった。なんだか早急にいろいろと考えるべき重大な事柄がある気はするんだけど、ちゃんと順序だててそれを検証する頭の余裕がなかった。

 私はただ、しばらくそのままぼんやりと中空を見ていた。


 続けざまに鳴る部屋のチャイムの音で我に返った。

 反射的に立ち上がって、慌てて玄関に急ぐ。鍵とチェーンを外してドアを開けると、肩に着替えなんかが入っているだろう大きなバッグをかけ、両手にワインが入った紙袋を抱いた祥子が立っていた。

「どうしたの? 何度鳴らしても出てこないから心配したよ」

「ごめん、て、今何時?」

 外はもう暗くなりかかっていた。腕時計を見るととっくに七時を回っていた。どうやら床に座り込んだまま、ソファに凭れて転寝をしてしまっていたようだ。

 薄暗くなった部屋に電気を点けて、祥子と一緒に中に入った。

「あ、買い物するの、忘れた……」

 そこでやっと本格的に頭が回り始めて、私は自分の失敗に気がつく。

 祥子が会社で美味しいワインをもらったので、今日は一緒に料理を作って夜通し食べたり飲んだり喋ったりしようって約束をしていたんだ。早く仕事の終わる私が晩御飯の材料を買っておく事にしていたのに、すっかり忘れていた。

「祥子、ごめん。晩御飯、どうしよう。今から買い物していたら、すごく遅くなっちゃうね。外で済ませようか」

 とにかく謝って、出かける為にジャケットとバッグを、と思った処を祥子に制される。

「千晶、いいよ。何? 何があったの。服もスーツのままだし。仕事で何かトラブルでもあって長引いたとか?」

 祥子にそう云われて、私は動きを止めた。

「ううん。仕事は普通に終わったんだけど」

 云い終わらないうちに、祥子に肩を掴まれた。

「体、冷えちゃっているじゃない。いいから先に着替えて。ミルク温めてあげるから」

 祥子は自分もまだ今着いたばかりで通勤着のままなのに、どう見ても訳ありっぽい私を優先してくれた。

「ありがとう」

 云われるままテキパキとキッチンで冷蔵庫を開ける祥子の横を通って、隣の寝室で部屋着に着替えた。

 祥子とは小学校時代からの親友だ。小中は大学まである私立の女子校に通っていたのだけど、高校に上る時、私が外の進学校を受験するのに祥子も付き合って、その後とうとう大学まで同じ学校に進んだ。

 祥子は日本人形のようなきめ細やかな真っ白の肌と真っ黒でまっすぐな髪と、くっきりと筆で描いたような大きな瞳を持っていた。小さいころから可愛いというより、すでに美人、という風貌だったので何処に行っても人目を引いた。

 だけど本人はそれが昔も今もあまり嬉しくないらしい。小学生の時から電車通学だったけど、現在に至るまでに貰ったラブレターは数え切れず、ファンと称する男性に家や学校にまで付きまとわれたりやたらと痴漢にあったり、とにかくその外見のせいで嫌な思いを山ほどさせられた、と思っている。

「だいたいさ、話した事もないのに顔だけ見て好きだとか云っちゃう神経がわかんない。それって、すごく失礼な話じゃない?」

 黙っていれば大人しそうな美少女なのだけど、実際の中身は気が強くてかなりボーイッシュなタイプだった。

 でも、そうは云っても祥子には高校生の時からずっと付き合っている恋人がいる。

 中学三年になり、将来を考えて祥子も私と一緒に外の高校を受験する事にしたけれど、模試の結果がギリギリだった。それで、その対策で雇われてバイトできた家庭教師が今の彼だ。当時彼は、家からの金銭的援助なしに上京して勉強していた貧乏大学生だったけれどその後卒業しても就職せず、あれから十年以上たっているのに未だに大学に残っている。

 一応講師というような肩書きらしいけど、大学からほとんど給料は出ていない。もともと獣医学専攻で、微生物か何かの研究に長年ずっと心血を注ぎ続けているという事だった。

 家庭教師にきて密室で絶世の美少女と数時間過ごす、と云う大変おいしい状況に全く興味を示さなかった彼に、逆に祥子の方が興味を持ったのが始まりだった。男の人と普通に話して、普通に過ごせる事がとにかく新鮮で面白かった。おっとりのんびりした彼の雰囲気も、祥子は好ましく思った。

 それで高校に合格してから押しかけ彼女になり、今に至っている。

 祥子は彼がまともに働きもせず、肉眼ではその存在さえわからないような微生物と云うものに寝食を忘れて熱中している事をまったく問題視していなかった。それどころか、ここまできたら、もうどこまでも気が済むまで突き詰めてみればいいじゃん、くらいに思っている。

 彼はお金が無くなったらバイトをして、溜まったら研究してまたバイトして研究してという生活なので、祥子が就職してからは金銭的な援助をしようとしたけど、それは彼が頑として受け取らなかった。男としてのプライドだかなんだかあるのかもしれないけど、祥子にとっては「稼げる方が稼げばいいだけなんだけどなあ」くらいの感覚だった。

 もともと祥子は専業主婦に収まる気は全くなくて、ずっと自分でバリバリ働いて自立したいと考えていた。いつかは起業もしてみたい、という野望もある。それで就職も、いろいろ経験の積める営業職を希望していたのだけど、ここでも誰もが振り返るその類まれなる健美な容姿が災いして、何処を受けても受付とか秘書での内定しかでなかった。

 やっと今の建設会社に営業職で採用されたけど、結局入社して一か月も経たない内に秘書課に回された。それは当然祥子を大いに憤慨させて辞表も用意したけれど、会社がかなりの給与額を提示したので思い直した。

 どこに就職しても多かれ少なかれ、結局こういう事になるのだろう。なら、もうここは将来の為の資金稼ぎの場と諦め、スキルアップは自分でやろうと決めた。散々迷惑をかけられたこの容姿を逆手にとり美容業界に照準を定めると、仕事が終わってから通える学校で学んで美容師の免許を取った。今はネイルアートの学校に通っている。

 私は仕事柄、練習台になってあげられないけど、祥子の会社はよっぽど派手でないかぎり許されているので、ここ最近祥子の手はいつもキラキラピカピカしていた。

 私が着替えて祥子が入れてくれたミルクを飲んでいる間に、彼女も楽な服に着替えた。宅配ピザを取ってワインを開け、そして満を持して祥子は今日の私の失敗の事情を聞き始めた。

「で、何事があったの」

「……私、今日結婚した、かも」

「は?」

 それは祥子でなくても、親友からこういうセリフをいきなり何の前触れもなく聞かされたら、大抵の人はまずは絶句するだろう。

「結婚? 誰と?」

「加瀬君」

「加瀬君って確か会社の一年後輩だっけ? 千晶、その人と付き合っていたの」

「ううん。出会って半年目くらいに、付き合って欲しいって云われた事はあったけど」

「聞いてないよ、そんなの」

「すぐ断ったし、それにその後はそんな話は一切されなかったから」

「付き合ってなかったのなら、彼と結婚に至るようなどんな接点が?」

「出張に一緒に行ったり、その帰りにご飯食べたり、社食で話したりは、した」

「それはただの同僚じゃんか」

 いやちょっと待って。ここで私は気付く。

 確かに婚姻届にはサインしたけれど、あれは役所に提出して初めて効力が発生するものだ。あの後崇之はあの紙を出しに行ったのか、それともまだなのか。

「千晶、本当に婚姻届にサインしたの?」

「うん。……した」

「彼の事、好きなの?」

 ストレートな祥子の質問に頷く。

「うん。好きってわかった。いつからそうだったのかわからないけど」

 もうそれは紛れもない事実だと知ってしまったから、祥子にも隠す事はない。

「なら、えーと。千晶は今日、彼が好きって気付いて、今日、結婚したって事?」

「うん……」

 改めてこうやって確認されると、なんだかすごくおかしな事態になっているのかも、と思われてきた。聞かされた祥子の方も、びっくりを通り越して唖然としていた。

「やっぱりよくわかんないな。だから結局、なんでそんな早急な事に?」

 なぜ急に結婚する事になったか。それはもう本当に身も蓋もない云い方をすると、崇之のキスがうまかったからだ。とは、とても云えない。

 もちろん崇之だって、これまで他の女の人とお付き合いした事くらいあるだろう。けど、あの手慣れた感じはなんなのか。どうやっても遊び人には見えないけれど、実は隠されたすごい武勇伝とかあるのかもと疑ってしまう。

「彼が転勤になるって聞いて、それで……」

 この理由もあながち間違ってはいない筈。

「確かにサインはしたけど、でもあれって提出してなかったらまだ大丈夫だよね」

「なにが大丈夫?」

「加瀬君の事は好きだけど、やっぱり結婚は違うかもって」

 少し困惑しながら話す私を見つめながら、ここに至ってやっと祥子も落ち着いてきた。勢いでサインした事には後悔していても、私に結婚してもいいと思うような男性ができた事に、祥子はなんだかとても嬉しくなっていた。

 大学生の時、付き合っていた恋人と自分から別れて、もう恋愛なんかしないって私が云いだした日の事を祥子は思い出す。両親の不和が原因で私に恋愛に関するトラウマがあるのを知っていて、それをとても残念に思ってくれていた。

 祥子自身もずっと恋をしているからわかる。人を好きになる気持ちはもうしないって宣言して封印してしまえるようなものじゃない。もっと不自由で融通が利かなくて、でも胸の奥の方からしみじみ幸せでとても大切でかけがえのないものだ。それを自分から放棄するなんて間違っていると祥子は思っていた。

 でも、だからって、他人が強制してさせるものでもできるものでもないから、祥子にはどうにもならなかった。

 だけど今、目の前の私は好きな人がいるってちゃんと云った。あんなに頑なだったのに、まあよく口説き落としてくれたものだ、と、祥子はまだ会った事もない崇之に敬意を表したい気持ちだった。

 私は常々祥子から、あなたは一見ガードが堅そうだけど今一つ詰めが甘いというか、一旦この人は大丈夫って信頼すると簡単に気を許して隙だらけになるから気をつけて、と云われていた。仕草とか立居振る舞いが女の子っぽくて、でも頑張り屋で健気な処が同性の祥子にさえ可愛いくて守ってあげたいと思わせるくらいだから、男の崇之が二年以上も好きで傍にいたのなら、さぞやいい加減、押し倒したい衝動にも駆られた事だろう、彼も気の毒に、と祥子は改めてしみじみと思った。ただ、それを実行していたら今日のこの結果にはたぶん至っていないのだけれど。

 それに祥子には彼がセオリーを外れて、とにかく何をさておいてもまず籍を入れようとするのも分かる気がした。恋愛に懐疑的で、やっと好きって自覚したのにすでに今、違うかもなんて云ってグルグルしている私を捕まえておくには、まず絶対的な既成事実をつくるのが一番だ、と。

 祥子は私を巡って、すでにまだ見ぬ崇之に親近感を覚え始めていた。祥子が想像する崇之という人物は、婚姻届を書かせはしたけど、きっとこのまま勝手に出すような事はしない気がした。

「まあとにかく、今度、その加瀬君に会わせてよ。千晶の事だから変な男には捉まらないだろうけど、この目でちゃんと見極めないとね」 

「……うん」

 まだ困惑している私を見て、安心させるように優しく云った。

「大丈夫。私がついているって。加瀬くんとやらが千晶を幸せにできないような不甲斐ない奴だったら、私が容赦しないから」

「うん」

 今日、祥子に会って話せて本当に良かった。

 私はやっと少し笑えて、頷きながら思った。幼馴染で、誰よりも一番信頼している祥子の頼もしいセリフが、とても心強かった。


 週末はそのまま祥子と楽しく過ごせたけれど、月曜日の朝がくると崇之にどう話を切り出そうかとそればかり考えていた。会社について第三監査課の部屋に入ると、思いがけず目の前に崇之が立っていて今まさに出かけるところだった。

「あ、おはようございます」

 何事もなかったようににっこりと挨拶されて、私もとにかく挨拶を返した。ドア横の自分のネームプレートの下に帰社時間を書きながら、崇之は私のプレート下の予定欄を確認する。

「千晶さん、今日は一日中、社内業務ですよね。俺は昼前に帰れるから、ご飯一緒に食べましょう。話、あるし」

 そう云われて、少し緊張して頷いた。

 午前中、土曜日に預かってきた資料をコピーしたり、会計ソフトに打ち込んだりしていたけれど、ともすればぼんやりして手元がお留守になりがちで自分で何度も集中集中と云い聞かせていた。

 十一時過ぎに崇之が帰ってきたので、少し早めにお昼休憩に入った。このビルは最上階がレストランになっていて、ここに入っている企業共通の社員食堂になっている。夜十時までやっていて一般の人も利用できるけど、社員証を通すと半額ちかくに割引されるので、ありがたい存在だ。

 崇之は今日はメインが魚の煮つけの日替わり定食を、私はオムライスを注文した。レストラン内にはまだそんなに人は多くなくて、はす斜め前に崇之と同じチームの小林さんが一人でラーメンを食べていた。簡単に挨拶をしただけで、彼はすぐに持参していたノートパソコンに向かった。同僚達にとって、ここでも私と崇之の組み合わせを見るのは全く珍しい事ではなかった。

「加瀬君、あの、届、出した?」

 席について料理がきて、さあ食べましょうってところで、もう待てなくて訊いてしまった。崇之はテーブルに備え付けのお手拭を渡してくれながら、あっさり云った。

「いや、まだ。明後日くらいには戸籍謄本が届くかな」

 私の本籍地の役所に提出するので、崇之の方は戸籍謄本が必要だったらしい。

「千晶さん。とにかく食べて。この後、予定があるから」

「あ、うん」

 まだ自分は〝佐藤千晶〟のままなんだって判明して、やっと私は安心して食事を始められた。

「それから証人なんだけど、所長と佐藤チーフに報告がてら頼もうと思っているけど、いいよね?」

 そう云われて初めて、婚姻届には証人二人のサインと捺印が要る事を知った。昨日はもう半分、すでに入籍されているんじゃないかと諦めていたけど、結構まだ手続きが残っているとわかると、ついまた未練がましい事を云いたくなる。

「加瀬君、あのね。幼馴染の祥子っていう親友がいるんだけど、まず先に彼女に会ってくれないかな」

「もちろん会いますよ。親友でも親でも恩師でも誰にでも。ただ書類がそろい次第、即入籍はしますから」

 と、一蹴された。すかさず自分の逃げ場を先回りして塞がれた気持ちで、二の句が継げなかった。

「千晶さん、もう観念して。これから、所長とチーフに会って話すアポイント取ってあるんだし」

 この後の予定って仕事じゃなくてその事だったのか。相変わらずの手回しのよさに驚くと同時に、今度こそもうすっかり抗う気をなくしてしまった。 

 覚悟を決めようと思った。けれど、するとここに至って、自分が結婚するんだという人生で初めての経験に今更ながらすごく緊張してくる。

「千晶さん。もう食べない? 俺、貰おうか?」

 半分食べたところで手つかずになってしまったオムライスを見て、崇之がそう尋ねた。

 小さい時から食事は残さないようきつく躾けられてきたので、大抵はそうしているけど、一度体調が悪いのに接待の会食で無理して食べて、三日くらい胃を壊して寝込んだ事があった。その時に事情を話して以来、崇之は一緒に食事する時はいつも私が無理をしないよう気をつけてくれた。

「うん。ありがとう」

 お皿を渡しながら、お礼を云った。

 自分はすごく幸せ者だと思う。好きな人にこんなにも優しく大事にしてもらっている。もっと素直にまっすぐ崇之の事だけを考えて、ただ無心に愛せたらどんなにいいだろうと思った。

 それからまず、二人で所長室に行き結婚の報告をして、快く証人欄に署名・捺印をもらった。その時初めて他人から「おめでとう」と云われて、ちょっと恥ずかしかったけれど素直に嬉しいと思えた。

 次に佐藤チーフの処に行き、崇之が、

「結婚する事になりました。ぜひ、証人になって下さい」

と、完成間近の婚姻届を広げた。

 チーフが崇之に転勤の話をしてからまだ一週間も経っていなかったので、彼はこの事態の急展開に呆然としていた。あの時、崇之はどうにかすると云っていたけれど、でもまあまず無理だろうから稟議書を回して特例で私も一緒に転勤させられるよう、上に掛け合ってみようと考えていたところだったのだ。

 チーフにとってはこの短期間にいかにして崇之が私に結婚を承諾させたかは、ここに入社して以来の最大のミステリーだったけれど、プライバシー保護の為、一切詳細は聞かなかった。ただ、自分の事のように喜んでくれた。

    続く


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