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愛としか  作者: 及川 瞳
3/6

― 3 ―

 朝はいつも新しく光っていて、それだけで随分と心を軽くしてくれる。

 目が覚めて最初に時計を見た。七時前だ。夕べはあの後、体が泥のように重くて、やっとの事でベッドまでたどり着いてそのまま眠ってしまった。十二時間以上眠っていた事になる。

 ベッドから降りて、カーテンを開けると隣のリビングから人のいる気配がした。崇之が帰ってきているのだろうかと、私は急いでドアを開けた。

「祥子……」

「あ、おはよう。早いね」

 キッチンに立って包丁を使っていた祥子が声をかけてくる。今日はジーンズ姿で長い黒髪を無造作に一つに束ねている。やっぱり美人は何を着ても似合うなあと思う。

「どうして?」

 昨日の記憶を辿ってみても、祥子がやってきた覚えがない。

「うん。夕べ、加瀬君から電話もらってね。今日だけでも傍についていてあげて欲しいって。ここの合鍵、預かったから勝手に入っちゃった。千晶、よく眠っていたから起こさなかったの」

 見るとソファに毛布が畳んで置いてあった。祥子は昨夜はここで眠ったのだろう。

 崇之の思いやりが素直に嬉しかった。そして、きっと電話を受けてすぐに駆けつけてくれたのだろう祥子の優しさにも、とてもとても感謝した。

「ありがとう」

 心からお礼を云った。

「うん。話したくなかったら、何も話さなくていいからね」

 そう云って笑ってくれる。

 それから二人で食事を作って一緒に食べた。お皿を片付けたあと交代でシャワーを浴びて、赤いソファに並んで座って二人して濡れた髪を乾かした。もう祥子のネイルも気にならない。今日のは、薄いピンクのグラデーションに小さな白い花びらがのっていた。

 私は窓から差し込む朝の暖かい日差しの中で、暗くて冷たい夜に一人出て行った崇之の事を思った。居場所はあるのだろうか。今日も仕事に行かなきゃいけないだろうに、ちゃんと昨日は眠れただろうか。

「千晶?」

 崇之の事を思い出して急に無口になった私を気遣って、祥子が顔を覗き込む。

「うん、大丈夫」

 私は笑顔を見せてそう云った。

 崇之を心配する前に私は、この不安定な自分自身をどうにかしなければならない。

 私は私の事を思い出さなきゃいけない。

 思い出せないなら、せめて知らなければいけない。

「教えて欲しいの。私の事」

 私は真剣に、祥子に懇願した。


 私の両親はお見合い結婚だった。

 母は厳格な家庭で育てられたいわゆる箱入り娘で、女子大を卒業すると同時に父とお見合い結婚をした。母よりひと回り年上の父は都市銀行に勤めていて、真面目で温和な人だった。

 穏やかな家庭だった。結婚の翌年には私が生まれ、優しい母に子煩悩な父のいる絵に描いたような幸せな家族。

 けれど、私が十歳になったある日、事態は急展開する。

 父の浮気。いや、ただの浮気なら世間にはよくある事と時がうまく解決してくれたのかもしれない。問題は父が本気だった事だ。 

 父はある意味においてとても誠実な人だった。有耶無耶にしたくなくて母ときちんと別れようとした。頑として離婚を了承しない母に、いかに自分が本気であるかを必死に説いた。自分の気持ちに誠実であるあまりに、母の自尊心を思いやれなかった父の浅はかさだった。

 母はどんどん追い詰められた。愛している人から愛されないという現実を受け入れられない。受け入れたくない。これまでの満ち足りた一点の曇りもない完璧な人生において、初めての大きすぎる試練。それに耐えられなかった。

 私の生活は一変した。父と別居した母は家事も殆どしなくなり、家に閉じこもりがちになった。自分の身の回りの事さえできないのだから、当然子供の面倒など満足に見られる筈もない。

 他の事では母に何も意見できない父だったけれど、私の事は心配して自分が引き取るか親類に預けるよう再三母に進言していた。でも、母は決して私を離さなかった。母は、夫はきっともう自分の元には戻らないと分かっていた。そして離婚届けにサインしてしまえば、簡単に赤の他人に戻ってしまうのが夫婦だ。けれど二人の子供である私は、何があっても消えない父と母の唯一の繋がりだった。

 母が父についての恨み言を聞かせる度に、私の心は次第に冷えていった。ほんの数年前までのあの温かかった時間はすべて現実の事ではなく、最初から自分は母と二人でここにこうしてうずくまっていたのではないかとさえ思えた。それはそれから八年間、母が病死するまでずっと続いた。

 父は二年前からその愛する女性と暮らしている。けれどまだ籍を入れていないのは、私の為だ。私が父を許していないからだ。

 母の葬儀の日、父は会館の外にずっと立っていた。雨が降り出しても傘も差さずに、ずっと立ち尽くしていた。親類の叔父や叔母に促されても、葬儀社の人に部屋を用意すると云われても、黙ってずぶ濡れのまま、ただ遠くから私を見ていた。

「千晶は強かったよ」

 ずっと傍にいて見守っていてくれた祥子は、今も隣に座ってそう云ってくれる。

「千晶は十歳までご両親から宝物みたいに大事に大事にされていた。千晶は可愛くて明るくて思いやりがあって、誰からも愛される事が当然だって思わせられた。だけど、ご両親の別居からしばらくは学校も休みがちになって、柔らかだった頬は痩せて笑う事もなくなった。私は千晶がこのままどこか自分とは違う世界に行ってしまうんじゃないかって、怖かった。でも幼すぎて、どうすれば千晶を救えるのか分からなかったの」

 穏やかな声で、祥子は続ける。

「だけど千晶はちゃんと自分で踏みとどまって、現実の世界から逃げなかった。自分の事はもちろん自分でするし、お母さんの面倒もみていた。学校では勉強も頑張るし、みんなと一緒に笑うようにもなった。千晶の強さに私は感謝した。私には何もできなかったのに、千晶はいつでも私に笑って話しかけてくれた。本当に嬉しかったんだよ」

 祥子は何もできなかったと云ったけど、きっと私は祥子の存在に随分助けられていたに違いない。それは一片の疑いもなかった。

 祥子は一層優しい顔をして、話す。

「千晶が加瀬君と結婚するって聞いて、すごく嬉しかったんだ。そして安心したの。やっとお母さんの長い呪縛から抜け出せたんだって。千晶はずっと、愛を信じちゃいけないと思っていた。愛を信じちゃいけないと思い込もうとしていた。たぶん、それは間違いだって本当はわかっていたのに一所懸命、気づかない振りをしていた。今なら、分かるんじゃない?」

 祥子の話の中の両親はやはり遠いけれど、覚えていなくて客観的になっている分、よく見えてくる事もある。

 父の母への愛も私への愛も決して嘘ではなかったと思う。きっと百%の愛を注いでくれた。でも、次に出会った人を二百%で愛してしまった。人の愛がいつもマックスだとは限らない。そもそも人の心には目盛もゲージもない。

 精一杯愛した妻と子への気持ちに偽りはないけれど、それよりももっと愛しく思う人がこの世に存在する事に気づいてしまった。間違っていたとすれば、それは出会う順番。

 父は同じこの空の下で、今、何を思っているのだろう。

「千晶はね、男を見る目はあったと思う」

 急に祥子はそんな事を云いだした。

「高校とか大学で乞われて何人かの人と付き合ったけど、みんなちゃんと誠実でいい人だった。いい恋愛をすれば、きっと長い間千晶を繋ぎとめていた足枷は自然と外れて、そんなものは消えてなくなってしまうと思っていた。でも、千晶はいつも途中で気持ちにブレーキをかけて、一定の距離以上は誰も自分の心の中に入れようとしなかった。相変わらず、ずっとお父さんとも連絡を取っていないようだったし。大学在学中に、もう恋愛はいいって云っていたから本当はその頃には千晶は一生このままなのかもって思っていたの。だけど今の会社に就職して加瀬君と出会って、加瀬君が千晶の事を好きになってくれて千晶も彼の事を好きになって。加瀬君とは以前に一度会っただけだったけど、ああ、この人となら大丈夫だって確信した。とても千晶の事、大切に思っているってよく分かったから。グルグルと高く張り巡らしていた千晶の恋愛に対するバリケードを、ものともせず乗り越えて来てくれた彼だから。それで私も本当に安心して、嬉しくなったの」

 崇之の事を思った。

 もちろんそれは記憶をなくしてから後の彼だけど、私を優しく見つめる眼差しや静かに微笑む顔が思い出された。どうして過去の私は彼に心を開く事ができたのだろう。愛だろうとなんだろうと、人の気持ちに絶対はないと充分知っていた筈なのに、彼を愛する事ができたのだろう。彼の愛を信じる事ができたのだろう。

 いや。と、私は思う。本当に信じていただろうか。

 また俄かに暗い不安が心を支配する。祥子には私が崇之を愛していたように見えていたとしても、私は、本当の姿を崇之に見せていただろうか。

「祥子」

 私は名前を呼んだ。どうか昔の自分が彼女には心底誠実であったように祈りながら、その時と同じ呼び方で。

「うん」

 祥子が答える。

「私から、田上恭也、って人の事を聞いた事ある?」

 その私の出した名前にちょっと驚いて、祥子は頷いた。

「もちろん。て云うか、私も知っているよ。同じ大学だったから」

 つまり、私と祥子と田上恭也は大学の同級生で、さらに私と田上恭也は卒業後に同じ会社に就職したという事だった。

「今も同じ会社にいるよね。……彼が何か?」

 心配そうに祥子が訊く。祥子は卒業後は田上君と交流はないようだ。

「私、大学時代とか就職してからとか、彼と、その、付き合っていたの?」

 流石に、崇之と結婚してからも?とは訊けない。田上君は私に結婚を申し込んで断られたと云っていた。それが本当なら、結婚話がでるくらい深い関係だったのではないか。

 祥子はちょっと複雑な表情をして、そして口を開いた。

「口止めされなかったから先に云っておくけど、昨日加瀬君からも全く同じ質問をされた」

 私は驚いたけれど、不快感はなかった。崇之の行動としては当然だろう。

「私が知っている事をそのまま話したけど、よかったよね?」

 私は頷いた。

「私にも聞かせて」

「うん。たぶん二人は付き合ってはいない、筈」

「筈?」

 なんでそんな歯切れの悪い言葉になるんだろう。

 祥子は幼馴染で、私の両親の事もよく知っていたし、どうやら過去の恋人の数なんかもちゃんと把握しているみたいだったのに。

「えーとね、私の知っている範囲で、千晶と田上君が恋人同士だったとか付き合っていたとかはなかった。学生時代も就職してからもね。そもそも千晶と田上君は学部が一緒だったから同じ授業も多かっただろうし、何回か一緒に飲む位はしていただろうけど、ゼミも違うしサークルも入ってないし、決してそんな親密な関係ではなかったと思う。ただ、んー、大学四年の頭くらいかな。田上君が千晶にプロポーズして振られたっていう噂がたってね」

 それだ。昨日、田上君が云っていた。

「込み合ったお昼の学食で、田上君が千晶に「結婚してくれ」って云って、千晶が「しない」って云ったのを周りにいた学生が聞いていたって。彼、学内ではちょっと有名人で目立っていたから」

 田上君の祖父はカジュアルファッションブランドを扱う会社の創始者で、今もよくテレビや雑誌で取り上げられているような人らしい。斬新な経営戦略で、ほんの半世紀の間にトップブランドにまで上り詰めた新進気鋭の会社は完全な血族経営で、いずれは長男である現代表取締役社長の一人息子である彼が跡を継ぐ事は間違いないという事だった。

 会社の応接室で見た時、青年実業家っぽいと思ったのはあながち外れでもなかったらしい。上品そうに見えたのも本物のご子息だから当然だろう。大学生の頃から当たり前のように一等地に建つ高級マンションに一人暮らしで、高級外車に乗って通学していたという。

「田上君は出自がそんなだしルックスもああだし、人あしらいも完璧でかなりモテまくっていたのに、特定の恋人とか全然作らない人だったのね。それがいきなり求婚して、それも断られたっていうのでかなり話題になっていて。後で他の人が本人に事実か訊いたら、笑いながら「ノーコメントで」って答えたというから、どこまで本当か分からないんだけど」

 たぶんそれは本当の事だろう。

「私、祥子に何か相談とかしなかった?」

「あ、うん。千晶から何も云ってくれなかったので、恐る恐る一度だけちょっと訊いてみた事ある」

 その時、私と祥子の間で以下のような会話がなされたらしい。

「あの田上恭也にプロポーズされたって?」

「あ、……うん」

「それで断ったって」

「うん、まあ……」

「なんか、それ、すごいね」

「すごくないよ。あれはそういうのと違うから。全然、違うから」

「うん……?」

「私は結婚なんてしないよ。ずっと独身で、自由に暮らすんだ」

 決意したようにそう云った、らしい。

「じゃあ、今、私が彼と同じ会社にいるのはただの偶然?」

 気になっていた事を確認する。

「内定をもらった時、千晶はそう云っていたよ。千晶達の会社はすごく人気が高かったから、会計とかコンサル系を志望していた学生は殆どあそこを受けていたし。入社してから同じ課に配属になったって聞いた時も、チームが違うから話す機会も殆どないって云っていた」

 大分、話は繋がってきたと思う。田上恭也と私の事は。ただ、ここに崇之が介入すると話はまた分からなくなってくる。

 田上君はきっと嘘はついてない。少なくともここまでは。ならば、あの事故の夜は。

「事故の事と田上君の事、何か関係あるの?」

 不意に祥子がそう訊いた。ちょうど同じ事を考えていたので、驚いてしまう。

「どうして、そう思う?」

 つい逆に問いただす。

「だって、あの事故のあったマンションは田上君のマンションでしょう?」

 その祥子の言葉で確信した。

 田上君は本人の云うとおり、嘘をつかない。彼の云う事は全部本当の事なんだ。

 私はあの夜、彼に呼ばれてあのマンションに向かった。ずっと真実はそう私に告げていた。それでもなんとなく、そんな事はないと、何かの間違いだと思い込もうとしていた自分がいた。

 私は少し呆然とする。それを見た祥子は、慌てて謝った。

「ごめんね。何も話さなくていいって云ったのに」

「ううん」

 これからの事を考えなくちゃいけないと思った。

 このままこうやってずっと一生この部屋の中で、何もせずにただ息だけをして生きていく訳にはいかないんだから。

「祥子、ありがとう」

 私は心から祥子にそう云った。きっと過去においてもそうであったように、今の私にとって、彼女の存在はかけがえのないものだ。

 まっすぐ見つめた彼女の口元に、次第に優しい笑みが浮かぶ。

「千晶はやっぱり強いね。いつでもちゃんと次を見つけられる。見つけようと頑張れる。そういうところ、すごく格好よくて大好きよ」

 そんな風に云ってもらえて嬉しかった。本当に次の一歩を踏み出す力が、自分の中にあるんだって思えた。

 私と祥子は一緒に、少し笑った。


 お昼を二人で作って食べてから、私は祥子を会社に送り出した。彼女の会社の引越しは目前だから、毎日しなければいけない事が山積で本当はとてもこんな処に来ている場合ではないだろう。

 まだ少し心配そうだったけど、落ち着いて考えたい事もあるからと云うと祥子は頷いてくれた。自宅に帰って着替える手間を省く為に、祥子に私のスーツを貸してあげた。うん。やっぱり美人は何を着ても似合うと、改めてまた思う。

 祥子が部屋を出て一人になると、自然と崇之の事が思い出される。キッチンの棚に置かれた彼の青いカップとか、サイドテーブルに置き忘れられたままの彼のジャケットがひどく手持ち無沙汰に見えた。

 私はつい、テーブルから自分の携帯を取り上げて、そしてすぐに思い直してもう一度同じ場所に置く。彼に電話をかけてどうするのだろう。なんて云えばいいのか分からないし、そもそも自分が彼にどんな事を伝えたいのかも分からないのに。

 とりあえずお茶でも淹れようかと思った時、誰かの来訪を伝えるチャイムの音が響いた。一瞬、崇之かと思ったけど、彼なら鍵を使ってそのまま部屋に入ってくるだろう。

 私は少し緊張しながら、応答する為の受話器を取る。と同時に壁にかけられた小さなモニターに外の来訪者の姿が映し出される。あまり解像度はいいとは云えないけれど、そこには二十代後半くらいの男性が映っていた。

 きちんとした趣味のいいスーツ姿で、私の応えを待つその人の顔を見た瞬間「あ、会った事のある人だ」と思った。でも、それは病院で意識を取り戻してから会った誰とも一致しなくて、もしかして事故の前に会った事のある人なのかもしれない、記憶は全部なくなってしまった訳じゃないのかもしれないと思い、俄かに気持ちが高揚する。

「はい。どちら様でしょうか」

 どきどきしながらそう返事をした私に、彼はあっさりとこう挨拶をした。

「初めまして」

 そして。

「千晶さんですね。加瀬修一と申します」

と云った。


 彼は崇之のお兄さんだった。会った事があると思ったのは、彼の中に崇之の面差しを見たからだろう。

「え、そうですか? 親類からはあまり似てないってよく云われていましたけど」

 部屋で直に会ってすぐ、つい「似ていますね」と云った私に、修一さんは穏やかに笑いながらそう云った。

 確かに第一印象としては崇之は柔らかそうで、修一さんは精悍な感じがする。

 けれどやはり兄弟だ。なんていうか、全体から醸し出される、人を落ち着かせるような大らかな雰囲気が同じだった。ゆっくりとした、大事に言葉を選ぶような話し方も似ていると思った。

 とにかく、電気ポットでお湯を沸かして紅茶を入れた。修一さんはリビングの崇之の椅子に座っている。自分の家族については聞いたけど、崇之の家族の事は何も知らない事に気づいて、私は少し焦る。私は嫁としてどうだったのだろう。

 そもそもさっき修一さんは「初めまして」と云った。これはもしかすると加瀬家から私たちの結婚を反対されていたのに、それを押し切って入籍したので崇之の家族とは面識がないとかいうんじゃなかろうか。

「ここ半年ほど仕事で渡米しておりまして。昨日の朝、帰国しました。ご挨拶が遅れてすみません」

 修一さんは丁寧に頭を下げた。私も慌てて「こちらこそ」と頭を下げる。

 崇之の実家は長野で、私は先月入籍してから崇之と一緒に彼のお父さんや親戚にもちゃんと挨拶に回っているらしい。お母さんは五年前に病気で他界されたそうだ。挨拶回りの時に長期出張中だった修一さんとは、まだ会っていなかったのだ。

「あ、これ、桜桃です。お好きだと聞いていたので。残念ながら国産物ではないのですが」

 修一さんは持っていた大きな包みをテーブルに置いた。中には桜桃の箱が二つも入っていた。私の好きな果物は桜桃らしい。こんな時期はずれに、きっと苦労して探して持ってきてくださったのだろう。私は感謝してそれを受け取った。

 それからお互いに紅茶を飲みながら、少し黙ってしまう。彼はいつ知ったのか、私が事故で記憶をなくした事を知っているようだった。義兄となった修一さんが弟の妻に、帰国してお見舞いがてら初めて会いに来ても何の不思議もない。

 けれど、この場に崇之が同席しない事に違和感はないのだろうか。そんな私の訝しがる思考を感じ取ったのか、修一さんは重い口を開いた。

「夕べ遅くに崇之が私の家に来ました。それで、事故の事を聞きました」

「え……」

 私は予期せぬ事にびっくりして、言葉を詰まらせた。

 修一さんは大学進学で長野から出てきて、卒業後そのままこっちで就職した。崇之も後を追うように同じ大学に入り、ここで就職して、結局私と結婚するまでずっと修一さんのマンションで一緒に暮らしていたそうだ。

 ちょうど昨日、帰国して荷物を解いていたところに、夜遅く崇之がやって来たという。

「あ、あのそれで、崇之さんは今……」

「仕事に行きました。なんか月末ですごく忙しいとかで」

 それを聞いて私は安心した。

 とりあえず落ち着く場所はあって、ちゃんと仕事にも行けたのだ。昨日からずっと、闇に消える彼の背中が頭から離れなかった。

「よかった」

 思わずそう呟いてしまう。そんな私を黙って見つめていた修一さんは、静かに訊いた。

「千晶さんは、崇之と別れたいですか」

 単刀直入なその言葉に、一瞬怯む。

 修一さんの瞳はとても真剣で、ああこの人は本当に崇之の事が大事なんだなと思うと同時に、そんな信頼しあえる兄弟がいる崇之が羨ましくなった。

「……わかりません」

 できるだけ正直に、ちゃんと修一さんの問いに答えたかったけれど、私にはそう云う事しかできなかった。なぜならそれが、本当に正直な今の自分の気持ちだったから。

 崇之の優しい眼差しを思った。離れてみて今、私は崇之の事が好きだと思う。

 だけど私は、彼が私を好きでいてくれるから好きだと思い込もうとしているだけかもしれない。彼とここで暮らす事が安直で、一番自分に都合がいい事だから帰ってきて欲しいと思ってしまうのかもしれない。

 やはり全部をリセットして、全てを一から一人で始めるのが正しい事のような気もする。

「ごめんなさい。わからないんです」

 もう一度、私は云った。結局、崇之にはひどい事をしているのだろう。そしてそれは、修一さんをもきっと傷つける。

「どうか謝らないでください。私があなたに謝る為にここに来たのですから」

 私は顔をあげて、修一さんを見た。

「本来なら、記憶をなくして想像を絶する孤独と不安の中にいるであろう千晶さんの事を、私達は何よりも優先して考えなくてはなりません。あなたには結婚した意識がないのですから、崇之とは別れて再出発するという道が一番正しい選択と云えるのかもしれない。 それでも私は云わずにはいられません。どうか崇之の傍にいてやって下さい」

 深く頭を下げられて私は慌ててしまい、どうしていいのか分からなくなる。

夕べ遅くに修一さんのマンションに行った崇之は、アメリカにいると思っていた兄の姿をそこに見つけて驚いた。だけど驚いたのは修一さんも同じで、崇之は予期せぬ事に取り繕う暇もなく、すっかり憔悴した姿で兄の前に現れてしまった。心配していろいろ訊ねる修一さんに、事故に遭って私の記憶がなくなった事だけを話した。

 それ以外は何を訊いても答えなかった。

「千晶さん。崇之の左耳の事をご存知ですか」

 不意に違う話題を振られて、私はきょとんとしてしまった。

「え、いえ、以前には聞いていたかも知れませんが、耳が……?」

「崇之の左耳は、よく聞こえていないんです」

 そして、私は知らなかった崇之の昔の話を聞いた。


 崇之の家は父親の代まで、長野ではかなり名の通った建設と金融関係の会社を経営していた。今は会社は役員だった親戚に丸ごと譲ってしまい、修一さんも崇之もサラリーマンとなり、父親は隠居生活をしているそうだ。

 父の代ではすでに普通の会社だったけれど、祖父が仕切っていた頃は戦後すぐの混乱に乗じて裏でかなり際どい商いもしていたという。豊かな資金力に物を云わせて人や物を自在に操り、法律すれすれの商売でさらに財を成した。

 時が過ぎて世の中も変わり、そんな事はもう過去として誰からも忘れ去られた筈のある日、事件は起こった。

 小学二年生の夏に、崇之は誘拐された。

 犯人は祖父の時代に仕事上で確執のあった人の息子で、ずっと長い間精神を病んでいた。その時にはすでに当事者の祖父も犯人の親も他界していたし、年代から考えて犯人は直接、祖父と関わった事もないと思われた。

 けれど、半分親から捨てられたような恵まれない辛い幼少期を過ごした彼は、その鬱積した黒い想いを、理不尽にも親が憎んでいた相手の血族である崇之に投影した。

 崇之は学校から帰宅したところを車に押し込められ、随分昔に手放した犯人の父親がかつて所有していた廃工場に監禁された。目的は金銭ではないから身代金は要求されない。犯人からなんの接触もない誘拐に、警察の捜査は難航した。

 当の崇之は、最初こそ知らない場所に無理やり連れてこられて怯えていたけれど、二日目には落ち着きを取り戻していた。一緒にいる犯人が、ずっとただそこでうずくまっているだけで、まるで自分に無関心だったからだ。

 犯人は一日の大半を、ぼんやりと壁に寄りかかって過ごしていた。時折眠り、食事や飲み物を買いに行く時だけ部屋の外から鍵を掛けたけれど、それ以外はまるで自分が攫ってきた崇之の事が目に入っていないかのように全く干渉しなかった。

 それで、崇之は自力で逃げ出そうとした。犯人の様子を観察し、部屋の様子や小さな窓から見える範囲で外の状況を把握し、タイミングを見計らってその部屋から駆け出した。

 荒れ放題の広大な工場跡には崩れかけた建物に伸び放題の夏草が生い茂り、逃げる崇之の姿を隠してくれた。けれど、同時に絡み合う下草に何度も足を取られて転びそうになる。

 闇雲に崇之は走った。どこも同じ風景に見えた。

 息を切らして我慢できなくてとうとう立ち止まった時、後ろから物凄い力で腕を引っ張られ、振り向かされたところを思い切り平手で左頬を殴られた。幼い崇之の小さな体はいとも簡単に吹っ飛び、荒い砂利交じりの地面に叩きつけられた。殴られた左半分の顔は痺れたように感覚がなく、ただ、ごうごうという耳鳴りが大きく頭の中に響いていた。血の匂いがしたと思ったら、急にひどく咳き込んだ。頬の内側を切ったらしく、咳をするたびに口元を覆った手の指の間から、真っ赤な血液が幾筋も滴った。

 犯人は何の感慨も持たず、体を丸めて震える崇之を見下ろした。そして口元を押さえたまま泣くことも忘れた崇之の腕をつかむと、そのまま引きずって歩いた。

 雑草の合間に、打ち捨てられた錆びた鉄屑やコンクリートの欠片が散乱していた。崇之の剥き出しの皮膚や薄い夏服が摩擦で破れても、犯人はただ相当の力で崇之をずるりずるりと引きたてて行った。

 元の倉庫に着くと崇之を中に放り込み、犯人は鴨居に縄を掛けて首を吊って死んだ。

 最後まで彼は何の言葉も、恨み言や呪いの言葉さえも発する事はなかった。

 やっとの思いで居場所をつきとめ、救出に行った警察が最初に目にしたのは、真夏の朽ちた倉庫の中、吊り下がったまま半分腐敗を始めた犯人の下で呆然と座り込んでいる崇之の姿だった。

 その事件の後、崇之は長い入院を余儀なくされた。体の傷は順調に回復したが、鼓膜は無事だったのに左耳はうまく聴力を取り戻す事ができなかった。

 けれど何より一番深刻だったのは、崇之の心だった。口が利けなくなり、彼の顔からは表情が消えた。

「私は逃げたのです」

 修一さんは急にそう云った。

「崇之が誘拐された時、私もその場にいました。犯人はまず私を捕まえて車に押し込もうとしましたが、私はその手を振り切って逃げました。犯人は深追いせず、傍で恐怖で動けずに立ち尽くしていた崇之を車に乗せて行ってしまいました。私は崇之を身代わりにして逃げたんです。あの時、車の中から必死で助けを求めて私を呼んだ崇之の声を、今も忘れる事はできません」

 修一さんは辛そうに云った。もう何年もきっとこんな風に苦しんできたのだろう。

「でもそれは、修一さんのせいではないです」

 修一さんだって、まだ十一歳のほんの子供だったのだ。そんな突然の非常事態に崇之を助けられなかったとして、誰が彼を責める事ができるだろう。

「わかっています。両親からも警察からも、私は何も悪くない、仕方なかったんだと何度も云われました。崇之本人からも一度も責められた事はありませんし、彼はずっと変わらず手放しで私の事を慕ってくれています。けれどあの夏に崇之が失ったものの大きさを思うと、私は許されたくはないのです」

 それまでの崇之は、活発で明るい子供だった。誰もが大抵そうであるように、子供としての無邪気さと奔放さを持ち、人生はただ楽しく毎日輝いていて自分という生の在り方なんて考え至る暇もなかった。

 救出されてからの崇之の目は、物を映しはしてもその存在までは彼に伝えない。

 崇之の声は彼の叫びを乗せて内から外へと発せられる事はない。

 自分以外の人を、いや自分自身でさえも認識する事を拒んだ。

 それでも入院して一ヶ月目には、どうにか崇之は戻ってきた。ゆっくりと言葉を取り戻し、食事を口に運び、人と話して笑えるようになった。やがて退院して学校にも通えるようになった。

 そうやって何もかも元に戻った、大人達はそう信じ喜んだ。

 けれど、修一さんには分かっていた。

 違う。崇之は、もうあの崇之ではないと。

 今も手を伸ばせばその温かな手に触れられるけれど、瞳を覗き込めば見つめ返してくれるけれど、あの夏の日以前の完全に健やかな崇之とは決定的に違ってしまった。どんなに笑っていたとしても、何か大切な心のパーツが一つ、強引に毟り取られて粉々にされた。決して元通りに修復する事は叶わない。

「私にできる事ならどんな事でもしてやりたかった。だけど私じゃ駄目だったんです。もう諦めなければならないのだと思っていました。ならばせめて崇之が、このまま平穏に暮らしていけたらと願うだけだったのです」

 佐藤チーフの云っていた事を思い出した。

『物凄く危うい感じもしていたんだ。ベール越しに世界を見ているような』

 彼も崇之の遠い昔の心の傷を見抜いていたのだ。

 そして、修一さんもまたチーフと同じ事を云った。

「だけど、崇之は変わりました。千晶さんと出会って。あなたを愛し、あなたに愛された崇之は、なくした筈のあの懐かしい七歳以前の健やかな崇之でした。それは奇跡のようで、どれだけ嬉しく思い、またどれだけあなたに感謝した事か」

 私を見つめる修一さんの優しい瞳は、やはり崇之とよく似ている。

「どうか崇之の愛情を疑わないで下さい。あなたの事を話してくれる時のあの声とあの笑顔は、紛れもない真実だったのですから」

 修一さんの真剣な思いに圧倒されていた。

 何か云わなければと思ったけれど、うまく言葉が出てこなかった。

「崇之とまた会ってもらえますか」

 そう尋ねる修一さんに、私は答えた。

「はい。崇之さんとは、これからもっと沢山の事を話さないといけないと思います。話したいです」

 その言葉を聞いて、安心したように彼は「ありがとうございます」と云った。

 それから、帰る修一さんをマンション下のエントランスまで送っていった。挨拶をしてそのまま行きかけた修一さんは、思い直してもう一度私にこう云った。

「ずるいですね。私は今、この話を聞かされてしまったあなたは、きっと崇之の事を放っておけないだろうと確信しています。きっとそうなるだろうと分かっていて話したんです。すみません」

 彼は頭を下げた。この人も誠実ないい人だと思った。


 部屋に戻ると、テーブルに置きっぱなしにしていた携帯電話が鳴っていた。

 田上恭也からだった。

「もしもし」

「いよいよ離婚?」

 開口一番、不遜な事をさらりと云った。

「……崇之さん、どうしている?」

「俺に訊くかな。そういう事」

「会社からかけているんでしょう?」

「お客さんのとこに行っている。ちょっとトラブっているみたいだから、今日は遅くなるかもね」

 それでも律儀にちゃんと質問に答えてくれる田上君に、なんだか少し笑ってしまう。

「田上君は暇そうだね」

「俺は今月、もう決算全部終わったから。あとは報告会が一つだけ。……昨日、あれから何があった?」

 不意に田上君が訊いた。

「どうして?」

 田上君はその質問には答えなかった。やはり崇之の様子が昨日とはずいぶん違っていたのかもしれない。

「佐藤さん、家を出たの?」

「出てない」

 出たのは崇之の方だけど、それは云わなかった。

「祥子に聞いたよ。田上君の事」

「祥子……西広祥子ね」

 学部は違っていても、名前くらいは知っているようだった。

「どうするんだ、これから」

「なんでそんなに気になるの」

「……まあ、一応三角関係だし」

 彼は言葉を濁した。

「田上君次第じゃないかな」

「俺?」

「あの事故のあった日の事を教えて」

 はっきりそう云うと電話の向こうの田上君は一度、黙った。そして。

「記憶がないって云っても、やっぱり佐藤さんは佐藤さんだな。その強さは変わらない。いいよ。俺の家で話す。いつ、来る?」

 即答できなかった。

 真実を明らかにしたい。でもいざとなったら、情けないことに私は躊躇してしまった。それを今するのか、明日するのか。こういう状況ではあるけれど、そもそも独身男性が一人暮らしをしている処に一人で行っていいものか。

「……会社、辞めるんだろうな、きっと」

 決めかねている私の返答を待たずに、そう独り言のように田上君はポツリと呟いた。それは私の事ではなく、たぶん崇之の事だ。

 結局いつ行くかの返事をしないまま、電話を切った。田上君にはそれがいつになろうが、大して重要な事ではないようだった。

 田上君との電話を切ったその手で、崇之に電話した。

 けれど、受話器の奥で二コール目の呼び出し音が響いた処で我に返って、慌てて電話を切る。

 自分でもびっくりする。なんで私は崇之に電話なんてしているんだろう。崇之は仕事中だし、今はお客さんの処に行っていると田上君が云っていた。接客中に電話なんかしたら迷惑極まりないじゃないか。

 と、反省している最中に電話が鳴った。崇之からだ。

「もしもし。千晶?」

「ご、ごめんなさい。仕事中だよね」

「いや、今は大丈夫。千晶は? 体調、大丈夫? 薬、飲んだ?」

 そう矢継ぎ早に訊く崇之の声を聞いていると、なんだかすごく安心できた。

「うん。祥子、来たよ。夕べ泊まっていってくれた。嬉しかった」

 祥子の思いやりと崇之の優しさが。

「そう、よかった」

 安心したように崇之もそう云った。

「お菓子とか果物とか、あと電子レンジだけで調理できる食品もなんかいっぱい、持ってきてくれた」

 崇之は笑っていた。

「それから今日は、お兄さん……修一さんも来られたよ」

「え? 兄さんが?」

 私に会いに行く事を知らされていなかったのだろう。崇之は驚いていた。

「兄さん、何か云っていた?」

「ううん。帰国したからって挨拶に来てくださっただけ。とてもいい人だね」

「でしょう。性格もいい上に、何でもできる自慢の兄貴だからね。やっと千晶に会わせられてよかった」

 いつもの左側を下げるように小首を傾げて人の話を聞く癖も、電話を右耳でしか取らないのも、崇之の消せない辛い過去がそうさせていたんだと思うと、思い出すその仕草さえ愛おしく感じられた。

「夕べはごめんなさい。あんな風になってしまって」

「いいんだ。俺もすごく焦っていて。ごめんね」

 うまく謝る事ができて、ほっとする。

「それで、その、俺、たまにはマンションに千晶に会いに行ってもいいかな。いや、明日は嫌とか、夜は駄目とか云ってくれれば約束は絶対に守るし」

 なんだか崇之が一所懸命喋っていて、つい笑ってしまう。

「うん。ここはあなたの家でもあるんだから。それに、もっとちゃんと、たくさん話をしなきゃいけないよね、私達」

 きっと結論を出すのは、まだ早すぎる。そう、まだ私と崇之と田上君についての全部のパーツは揃っていない。

「ありがとう」

 たぶんいつものあの笑顔で、崇之はそう云った。


 電話を切って五分も経たないうちに、再びインターホンが鳴った。

 これ以上、私たちに縁のあるどんな人がどんな用でここを訪ねて来ているのかまったく想像できず、私はインターホンの受話器を取った。

 来訪者は引越し業者だった。確かに以前、ここに引っ越した時の荷物が一つ行方不明になっていると崇之から聞いていた。やっとそれが見つかったとの事で持ってきてくれたのだ。どこでどうなったのか、その荷物は北海道を回ってさらに四国まで行ってきたらしい。

 ダンボール箱の角は擦り切れており、表面には何か紙を何度か貼っては剥がした跡が見て取れる。さらに私には意味不明の四桁の数字が、マジックで書いては消し書いては消ししてあった。確かにこれはかなりの冒険をしてきたようだ。

 その引越し業者の支店長という男の人は、こちらの居心地が悪くなるくらいペコペコと頭を下げて謝罪の言葉を並べ、その荷物とやたらと大きいのに妙に軽いお詫びの品を置いて帰って行った。

 荷物にはワレモノ注意の赤いシールが貼られており、それの左下の内容物を書く余白には『時計、CD』と書いてある。

 とにかく、私はその箱を開けてみた。

 中にはクッションシートにぐるぐる巻きにされた壁掛け時計が二つと置時計が一つ、頑丈な小箱に写真のアルバムとCDとDVDが入っていた。布製のアルバムは綺麗な白いレースで飾られていて、表紙には『Happy Wedding』と刺繍してあった。中の写真は会社で開いてくれたという結婚を祝う会の時のものだったので、この可愛いアルバムはきっと会社の誰かが作ってくれたものなのだろう。

 写真の中には私の知らない私や崇之がいた。昨日会った佐藤チーフや同僚や後輩がいた。それから知らない人たちも沢山いた。覚えていない自分の姿は私を少し混乱させるけど、それでもどうにか落ち着いて見ていられたのは、写真の中の顔がみんな笑っていたから。

 崇之の明るい笑顔。私も崇之の隣でちゃんと幸せそうに笑っていた。CDにはそのアルバムの写真データが、DVDにはその時に撮影された動画が入っていた。

 リビングのテレビでDVDを再生してみる。

 場面はいきなり大きな四角いケーキを前にした崇之の横顔から始まった。彼はカメラに気づいてこちらに顔を向け、子供のように笑ってみせた。崇之の隣にいた同じ年頃の男性陣の中の一人が私を呼ぶ。カメラはぐらぐら揺れながら左へ転じて、立ったままテーブルを囲んでいた女性三人の中の私を捉えた。振り向いた私は背中を押されて崇之の隣に立つ。

 白いケーキにはマジパンで作った可愛いウサギの新郎新婦が載っていて、ピンクのクリームで『Bon Mariage! TAKAYUKI&CHIAKI』と書いてあった。私達は周りの皆にあれこれ駄目出しをされながら、ケーキ入刀の真似事をした。

 その後はいかにも素人が撮りました、という感じのブツ切れの映像で、所長と副所長の真面目なお祝いの言葉が入っていたかと思うと、切り分けられたケーキを巡って若手所員がジャンケン争奪戦をする様子や、テーブルの料理を甲斐甲斐しく取り分けているチーフの姿などが、取り留めもなく延々と収められていた。

 そして、最後のお開き前の会場を俯瞰で映した映像には、崇之と私が何か飲み物を手に話をしていた。遠くて会話は聞き取れなかったけれど、崇之が会場の奥を指差しながら何か云うと私はそちらを見て頷き、そして二人で顔を見合わせて笑った。そこで映像は終わっていた。

 私はもう一度、最初から再生して見直す。今度は自分と崇之ではなく、田上恭也に注意して。

 時折、画面の端々にまぎれるように映る彼の姿を探す。田上君はこの華やかな場の雰囲気の中で浮いてしまわない程度の柔和な表情をしていたけれど、決してそこにいる事を納得しているのではないと思った。

 手に持ったジュースのコップに口をつける事もなく、彼はただ見つめていた。いつ映りこんでもただ窓際の壁に寄りかかり、このパーティーの主役を目で追っていた。

 ああ、そうなんだ。

 彼の言葉に嘘はないけれど、なにか釈然としなかった現実。

 私はこれまでもやもやとした霧の向こうに見え隠れしていたものの正体が、今はっきりとピントが合って細部まで見えた気がした。


「今日、行ってもいい?」

 私は田上君に電話をして、そう云った。

 彼の仕事の状況は分からなかったけど、一応会社の終了時間の五時を回るまで待った。三コール目に電話に出た彼は、あっさりと「いいよ」と承諾した。マンション名と部屋番号を確認して、電話を切った。

 出かける前に部屋を片付けていたら、ふと、崇之の事を思い出した。

 彼は今晩、ここへ来るだろうか。昨日の今日で、さらにさっき電話で話したばかりだ。これからも会って話そうとは云ったけれど、また一緒に住むという事にはならなかった。

 向こうには久しぶりに会ったお兄さんもいる。今日は仕事も長引きそうだと田上君は云っていた。

 だけどここは会社から近いし、もしかしたら心配性な崇之の事だから様子だけでも見に寄ったりするかもしれない。本人に「今日、来るの?」とは訊きづらい。だけどこちらから「夜に田上君の家に行くから今日はいません」と云う訳にもいかず困ってしまう。

 結局、古風に置手紙を残す事にした。来たら見るだろうし来なければそれはそれで済む。

『人と会ってきます。帰宅時間は分からないから、待たないで下さい』

 もしこれを本当に崇之が見るなら「人と」と書かずに「祥子と」と書いておいた方が、なんの疑いもなく安心してお兄さんの処に帰れるだろうとは思った。

 けれど、彼に嘘をつく事が躊躇われてやはりそうは書けなかった。

                                      続く


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