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夕方、会社から帰った崇之はなんだか疲れているようだった。その後も夜までに三度、会社から電話がかかってきて対応に追われていた。
夕食後、崇之はすまなそうに云った。
「明日、また会社に行かなきゃいけないんだ。朝、千晶を病院に送ってから出社して、そっちの検査が終わるまでには迎えに行くから」
なんだかとても大変そうで、申し訳ない気持ちがこみ上げる。
「私、病院には一人で行けるから、直接会社に行ったら?」
「それは駄目だよ」
すぐにきっぱりと却下される。
崇之はとても優しいけれど、いささか私に対して過保護すぎる気がする。
確かに私は事故以前の記憶はなくなっているけど、社会生活を送る上での知識や常識(電車には切符を買って乗るだの、信号は青で渡るだの)はちゃんとある。病院くらい充分一人で行って、医師の話を聞いてこられる。
けれど崇之のその口調には確固たる信念が感じられて、再度同じ提案をする気力を殺がれた。
明日、もう一度一通り検査をして、今後の治療方針を担当医師と話し合う事になっていた。全生活史健忘は発症後、自然に記憶が戻ってくる事も多いらしいけど、何にしろ、しばらく通院しなくてはならない事は間違いないだろう。その度に彼は付き添ってくれるつもりだろうか。
夜、お風呂からあがって携帯を見たら祥子からメールがきていた。会社の引越しの進捗状況と、ランチの時に隣のテーブルにいた高校生と今日持っていたハンカチが全く同じものだった事が書いてあった。昨日の事には一切触れてなくて、そういう心遣いが嬉しかった。私も今日食べたものや明日再検査に行く事を書いて送信した。
ベッドに入って、眠る前にもう一度タガミキョウヤの事を思った。
けれどやはり何かを思い出す事もなく、私はそのまますうっと簡単に眠りに落ちた。
「おはよう」
リビングに笑顔の崇之がいる朝が、日常になりつつあった。
一緒に朝食の準備をする。私が食器を並べて、崇之がパンと玉子に火を通す。コーヒーが落ちきったところで崇之の携帯が鳴った。もう覚えたこの着信音は会社からだ。
窓際に立って遠く外を見つめながら話す崇之の真剣な横顔。
右耳に当てた携帯を、クロスした左手で持つ癖。
内容は聞き取れなかったけれど、幾度か軽く頷いたり首を振ったりしながら話している。きっと頼りにされている、会社にとって必要な社員なのだろう。過去の私も同じようにちゃんと仕事できていただろうか。
やっと電話が終わって、左手だけで携帯を閉じる。
窓の外を見たまま、彼は独り言のように呟いた。
「旅に出ようか」
あまりに唐突だったし、私に云っているのかも分からなくて何も応えられない。崇之はゆっくりと振り向いて、もう一度、紛れもなく私に向かって云った。
「二人で一緒にどこか遠くをあちこち旅して回ろう。放浪に飽きたら、ちょうどいい土地を見つけてそこに住めばいい。海の側もいいな。温かい南の海。真冬でも海水が生ぬるいくらいの。千晶は寒いのが苦手だから。どう?」
どうと云われても、云っている内容が突飛過ぎてなんとも返事のしようがない。ただ黙って呆然と見あげるだけの私を見つめ返す崇之の瞳に、哀しみにも似た色が一瞬浮かんで消えた。
「……ごめん。食事、冷めちゃったかな。食べよう」
すぐにいつもの声に戻って、崇之は云った。
病院での検査は恙無く終了した。
腕の打撲は完治した。CTスキャンも脳波検査も、まったく異常は見当たらなかった。ただ、消えた記憶の方には回復の兆しもなく、それをこれからどう治療するかという話になった。
「視覚、聴覚、触覚、臭覚など、どんな日常の刺激も記憶を呼び起こすきっかけに成りえます。これまでの例で云うと、ある日何らかのきっかけで突然すべてを思い出す場合もありますが、長い時間の間に徐々に思い出すというパターンの方が大多数ですね。ただ何十年もほとんど記憶が戻らない、という方もいらっしゃいます」
医師の面談開始時間ぎりぎりに病院に駆けつけた崇之は、私の隣に座って医師の話を真剣に聞いていた。仕事は終わらなかったので、中断して来たらしい。
「より積極的な治療を望まれる場合は、催眠療法という選択もあります」
医師の言葉に焦る。何十年も記憶が戻らないのは困る。もちろん私は、記憶を取り戻す為にどんな方法でも試してみたかった。なのに、
「催眠療法には副作用がありますよね」
と、崇之が云う。医師は催眠療法の利点と起こりうるかもしれない弊害について説明をしてくれた。
けれど崇之は、考える余地もない程明らかに自然治癒を待ってのんびり治すという方針でいきたいようで、その場では結論を出さずに次回の通院日にもう一度話し合う事になった。
病院を出て、すこし口論になる。
「催眠療法、どうして駄目なの? 先生だって薦めてくれたのに。なんでもやってみるべきじゃない?」
それは当然の主張だと思う。けれど、崇之はやはり消極的だった。
「催眠療法は“療法”であって“治療”ではないって云われたよね。効果も確定されていないのに、精神に関わるような施術を受けさせたくない」
「少しでも思い出す可能性があるなら、何でもやりたい」
「無理せずにゆっくり治療しようよ」
「でも普通の治療だけじゃ、いつ全部思い出せるのかわからないし」
「しばらくの間、このままでもいいじゃない?」
「よくない!」
あまりにも簡単にこのままでもいいなんて崇之が云うので、つい声を荒げてしまった。崇之は自分の事じゃないからそういう安易な事が云えるんだ、と腹がたった。
「ごめん。ごめんね」
私が怒ったのを見て取って、簡単に謝るのもなんだかとても気に障った。
車に乗って走り出しても、私が黙ったまま崇之の方を全然見ないので崇之はとても気にしているようだった。意気消沈して、信号で停まるたびに何度も謝ってきたけど私はずっと窓の外を見ていた。
このまま記憶が戻らなかったら、私はどうなるんだろう。
こうやってずっと崇之と一緒に暮らして、主婦をやって、彼の子供を産んで育てるんだろうか。
それは私にとって、まったく現実味のない事だった。
崇之はとてもいい人だと思う。優しいし仕事もできそうだし、一般的に結婚相手としての評価はかなり高い筈。私も決して嫌いではないけれど、でも今現実に夫だと云われても、やはりまだ許容できていない自分がいる。
そもそも結婚がよく分からない。意味自体はちゃんと分かっているつもりだけど、その自分が理解しているつもりの「結婚」を、私自分がしている事がなんだかまだ信じられない。
このままでいいはずなんてない。一刻も早く記憶を取り戻して、過去の自分と今の自分を繋げなきゃいけない。それはきっと崇之にとっても必要な事だ。
私は思い立って、運転している崇之に話しかける。
「会社、私も連れて行って」
「え?」
私の検査終了までに予定の仕事が終わらなかった崇之は、この後私を家まで送ってから、もう一度出社すると云っていたのだ。
「上司にも一度は挨拶しておく必要あるし。お礼も云わないと」
入院中から花や果物など、上司・同僚・後輩・取引先など会社関係から沢山のお見舞いの品をいただいていた。すべて崇之が対応してくれていたので、結局私は一度も誰にも会っていないし、お礼も云っていない。
「今でなくても……」
彼は少し渋ったけど私が押し切った。事故の前には私が一日の大半の時間を過ごしていた場所だから、職場に行って人に会えば何かを思い出すきっかけが得られるかもしれない。
崇之は渋々ウインカーを上げると車線を変更し、会社に向けてUターンした。
会社は駅裏の大きなオフィスビルの九階にあった。
公認会計士事務所としては全国でもかなり大手の方で、ここが本社で支店が都内にあと五つと他県にも二つあるそうだ。受付に指紋認証の機械があって、ここで首から提げる社員証を受け取ってからでないと社員用のエレベーターに乗れない事になっていた。すこしドキドキしたけれど、私の指紋も忘れられる事なくちゃんと認識してくれて社員証が貰えた。すました写真の横の私の名前は、旧姓の「佐藤千晶」だった。
「仕事上ではそのままにするって。顧客にも殆ど結婚した事云ってなかったし」
と、崇之が教えてくれた。
九階のワンフロアーが全部、私たちの会社だった。エレベーターを降りた左手に「総合受付」とかかれたカウンターがあり、その正面に来客用エレベーター、そして右手にはずらっとドアの並ぶ長い廊下が奥まで続く。ドア群の反対側の壁は一面のガラス張りで明るく、柔らかな日差しが床を暖めていた。
かつて何度も歩いたはずの見知らぬ廊下を、崇之について歩く。途中で何人か社員らしき人とすれ違ったけど、軽く会釈はするものの話しかけられる事はなかった。これだけの人数がいたら、同じ会社の社員でも一緒に仕事をした事がない人の方が多いだろう。
「第三監査課」と書かれたドアをノックもせずに開けて、崇之が先に入った。続けて入ろうとしたら、急に後ろから声をかけられた。
「千晶先輩?! もう大丈夫なんですか?」
振り向くと黒のスーツ姿の可愛い女の子が、右手に不似合いな大ぶりのビジネスバッグを持って立っていた。ここの社員だろうから「女の子」という表現はよくないかもしれないけど、今年入社の新人なのだろう。まだ女子大生といった初々しさがある。
「え? 千晶さん?」
ドアの中で人が動く気配がして、目を転じると広い部屋は低いパーテーションで個室風に、二十個ほどの机が仕切ってあった。私に気づいて手前のデスクでパソコンに向かっていた同じ歳くらいの男性が、立ち上がってこちらに歩いてきた。
「元気そうじゃない。よかった」
と、笑顔で云った。後輩の女の子もうんうんと頷いている。
「お、千晶君。いらっしゃい」
そう云いながら部屋の一番奥のオープンスペースに置かれた机から、三十代前半の大柄な男性がこちらに歩いてきた。
「チーフ、遅くなってすいません。今、病院の帰りなんですが、彼女がちょっと会社を見たいと云うので」
崇之が彼、チーフにそう云った。
「いいよいいよ。どうぞこっちに。残念ながら今みんな、殆どお客さんの所に出ちゃっているけど」
さっきから圧倒されて何も言葉を発する事ができない私を気遣ってか、彼はいっそうにこにこと優しくそう云ってくれた。
部屋の角を簡易パーテーションで仕切って作られた応接室に通される。テーブルに椅子が四脚。窓際に、わさわさと葉を茂らせた大きな観葉植物が置いてある。
「えーと、僕は佐藤義弘。千晶君と加瀬君の直属の上司です。まあ、上司って云うほどカッコイイものじゃないけどね」
首から下げたネームプレートには「佐藤義弘 第三監査課 監査部主任」と書いてあった。
私が属するこの課には、私を含め「佐藤」という苗字が三人いるそうだ。それで必要性に迫られて、「佐藤」は千晶さんだの義弘さんだの下の名前で呼ばれる事が多くなったらしい。
とは云っても、彼は今春から主任になって「チーフ」と役名で呼ばれるようになったし、もう一人の佐藤さんは書類整理のみのパートで勤務時間も短く、佐藤姓の重複で混乱するような事態はまず起きないようだ。
監査課は主に法人の顧客の税務・経理を指導監査し、申告書を作って税務署に提出する仕事をしていた。公認会計士事務所としては最も基本的な仕事をする部署だ。この第三監査課では所員三人を一チームとして、五十社ほどの顧客を担当していた。チームの中でもそれぞれ一人一人に専任担当顧客は割り振ってあるけれど、チーム内の顧客企業の管理は三人が協力して行なっている。
「チーフ」はこの課内に五つあるそのチームの指揮指導をする職だ。
私と崇之は別のチームだけど義弘さんが担当チーフなので、今回の事故で直接的に一番迷惑をかけたのが彼だと云っても過言ではないだろう。私と崇之が抜けた分を、本来の仕事もしながらずっと補ってくれていた。
他にチーム内に兼任担当がいるとは云っても、歴史的にそれぞれの企業にはそれぞれが抱える特殊事情や案件がある。特に決算業務はやはり主担当者でなくては分からない事柄も沢山あるのだ。月末近くに急に二人も抜けられて相当大変だったと思うけれど、彼はそんな素振りは微塵も感じさせず優しく対応してくれた。
「千晶君、体調どう? 元気そうだね」
「おかげ様で体の方は完治しました。入院中はいろいろとお心遣いいただきましてありがとうございました。仕事ではご迷惑をおかけして申し訳ありません」
私が頭を下げると、隣で崇之も同じように頭を下げた。チーフは恐縮して頭を横に振る。
「いやいや。怪我がたいした事なくて本当によかった。しかし、さすが千晶君。しっかりしているね。ほんと、安心した」
チーフはそう云ったけど、その屈託の無い笑顔でほっと安心したのはこちらの方だった。この人の下で仕事ができるのは幸運な事だ。
その時簡易パーテーションのドアをノックして、さっきの可愛い後輩がコーヒーを持ってきてくれた。私の分だけミルクを添えてくれる。ホルダーにセットするプラスチックカップ入りのコーヒーだったけど、充分に美味しかった。
「それで、今後の事だけど」
チーフは何も入れないコーヒーを一口飲んでから、口を開いた。
「上とも相談した。会社サイドは君達をバックアップするという方針で変わらない。千晶君は当面、ここの部署は難しいだろうけど総務課ならいつからでも勤務できる。総務課長のOKも取れている」
仕事で忙しい中、いろいろ奔走してくれたのだろう。それを思って、感謝しながら聞いていた。
けれど話しながらチーフは崇之を見て表情を曇らせる。その様子に私も崇之を見た。
少し小首をかしげて話を聞く癖はいつもと同じだけど、視線を落としたままの崇之はひどく難しい顔をしていた。
「加瀬君。やはり退職するという気持ちに変わりないの?」
その言葉に私は驚く。初耳だったし、私が退職したりさせられたりというのはわかるけど、今回まったく無傷だった崇之が仕事を辞める必要性がどこにあるのか分からなかった。
「加瀬君が彼女を心配する気持ちはよく分かるよ。千晶君の復職も今すぐでなくていいし、この月末を越えたら君にももう少しゆっくり休んでもらえるから」
そう宥めるようなチーフの言葉にも、崇之は顔をあげなかった。私はかけるべき言葉が見つからず、どうしていいのかもわからなかった。
「……すみません。いろいろご配慮いただいたのに。進行中の仕事と後の引継ぎは完璧にやりますから」
その崇之の言葉を遮るように、チーフは云った。
「休職届を出しなさい。僕は何より仕事を優先すべきだとは決して思わない。けれど、今はよくない。今、君がここを辞めてしまうのは加瀬君にとっても千晶君にとってもよくない事だと思う」
あくまで残留を勧めるチーフの言葉に、最後まで崇之は頑なに同意しなかった。チーフも退職を了承しなかったので、この話はなんの結論もでないまま持ち越しで終わった。
明後日が決算報告会だという会社の確定申告書を今日までに仕上げる為、これから崇之はチーフと最終の打ち合わせをするという。それほど時間はかからないというので、私は一階ロビーにある応接室で待つ事にした。
私を応接室に送る為の崇之と連れ立って部屋を出ようとした時、思い出したようにチーフが声をかけてきた。
「あ、加瀬君。カワノ興産さんからメールがきていたんだ。仮払金の内訳明細、頼んでいただろ? できた明細一覧表は添付してあったけど、期首にこっちが伝票入れて経費に振り替えた仮払金の額が違うんじゃないかって。結構な額だからあれの処理次第で税額も随分変わってくるし至急連絡して欲しいって。千晶君は僕が案内するから、先方の経理部長にすぐ電話して」
崇之はすこし躊躇したけれど、そちらを優先する事にした。
「三十分くらいで行くから」
廊下に出たところで念を押される。
私はチーフに促されて、さっき来た通路を歩いてエレベーターへ戻った。二人だけになると柔和な顔をしていたチーフの表情が、また崇之と進退の話していた時のように明らかに曇るのが分かった。
私はいろいろと申し訳なくなって、謝らずにはいられなくなる。
「すみません。私のせいでご迷惑をおかけして」
「いやいや、君のせいじゃないよ。気にしないで。それより、加瀬君が会社辞めるって話、聞いていたの?」
私は首を横に振る。
「あいつの事、気をつけてやって」
ぽつりと呟くようにそう云われて、私は思わずチーフの顔を見る。
「事故からこっちの加瀬君を見ていると、なんかすごく不安になるんだ。今も表面上は変わってないように見えるけど精神が安定していないというか、いつも別の事を考えているような目をしている」
「私がいるから、でしょうか」
思い切って聞いてみる。婚姻届という紙を私の知らない過去に出したが為に、彼は私の傍にいなければならない。
「違うよ。それは違う。というか逆だな」
「逆?」
「僕は入社してからの彼をずっと見ていたけど、最初の頃はいつもきちんとして隙がなくて、柔らかくってバランスのとれた男だなと思っていた。でもなんていうかな、同時に物凄く危うい感じもしていたんだ。ベール越しに世界を見ているような。人当たりもいいし社内でも社外でも評価高かったから、そんな事を思っていたのは僕くらいかもしれないけどね」
そこでチーフは一度、口を閉じた。乗り込んだエレベーターが下降する低いモーター音が響く。
「でも、彼は君の事を好きになって変わったよ。へんな云い方だけど、なんていうか、すごく健全になった」
チーフは思い出したように、ちょっと笑顔になる。
「君への恋愛感情を全然隠してなくて、一所懸命で健気だった。でも千晶君はなかなか受け入れてあげなくてさ。もう最後の方は課をあげて皆が加瀬君を応援していた。あれはちょっと、思い出す価値あるよ」
覚えていなくても、そんな風に云われるとなんだか恥ずかしくなる。
「君も毎日人の中で上手にやっていたけど、自分の中に一本線を引いてそこから他人を決して入れないようにしていた。それは信念にも似て頑なで。結局は加瀬君の粘り勝ちだったけど。僕は君たちはお互いに必要な二人が出会うべくして出会ったと思っている。だから事故後最初に加瀬君に会った時、僕はすこし怖かった。昔の彼を思い出したから。事故直後だからかと思ったけど、ふと、このままどこかに行ってしまうような不安定さがどんどん強くなるんだ」
私は今朝の崇之の言葉を思い出す。
「旅に出ようか」
あれは冗談ではなく、本気だったのかもしれない。
「ごめんね。本当は記憶をなくした千晶君の方が大変なんだってわかっているんだけど。今、あやふやな彼を辛うじて日常に繋ぎとめているのが千晶君だと思う。今日二人を見てはっきりそう思ったよ。事故の前に無理にでも籍を入れていて、本当によかった」
「そう、でしょうか」
「加瀬君は結婚式もしたいし派手に披露宴もしたかったんだけど、千晶君はそういうのはしたくないって云っていて。そもそも最初は籍なんて形式に過ぎないんだから、できればそれさえも省略したいって云っていたって。でも、もしあの時籍を入れてなかったら、きっと君は今、加瀬君を受け入れる事はできなかっただろう?」
そう云われれば確かに結婚という形をとっていなければ、いくら「あなたたちは恋人同士だったのです」と云われても彼と暮らすどころか、まずは敬語で話す間柄からのスタートだっただろう。
一階に着くとチーフは総合カウンターで応接室のカードキーをもらった。
ここは複数の色々な会社が入っている雑居ビルで、一階の共同フロアの南側に入居企業が自由に使える応接室が三つ並んでいる。ちょっとした商談くらいなら、わざわざ上まであがらなくてもここで話ができるので便利がいい。夕方から来客予定があって予約をしていたのですんなり鍵を借りられたけれど、どうやら今は他の応接室も全部空いているようだった。
部屋の中に入るとチーフは空調を整えてくれて、奥の簡易キッチンの使い方を教えてくれた。お茶とコーヒーが自由に淹れられるようになっている。
「いつでも相談にのるから。何かあったら必ず連絡しなさい」
そう云って、チーフはオフィスへと戻っていった。本当に部下思いのいい人だ。
私は奥の椅子を引いて座った。
今日までずっと私はなんとなく、自分の存在がどこか嘘っぽくて薄っぺらな感じがしていた。それはきっとこの世界には自分の他は崇之しかいなくて、自分を知らない私には彼の中に見る自分だけが己のすべてだと思っていたから。
けれどここに来てチーフや同僚や後輩に会って、彼らの中にもちゃんと自分がいる事を知った。
祥子の中にも同じように私が存在したと、今更ながら思った。
ただ、同時に自分の事だけじゃなく、崇之にも私が知らない別の一面があるのだろうと思って、なんだかその事が私を少し心細くさせた。
ドアは突然、開いた。
温かい部屋でぼんやりと椅子に座っているとうっかりまた眠ってしまいそうで、私は立ちあがり、ブラインド越しの窓から外を眺めていた。いきなり開いたドアの音に、私は少し驚いて振り向く。
開いた扉の側には若い男性が立っていた。上質なスーツをすんなりと着こなしている。贅沢に慣れた青年実業家、というのが一番近い印象かもしれない。
大きいけれど切れ長の目は、ただじっと私を見ていた。結んだままのその口元からは彼の意思を何も感じとる事ができなくて、私は言葉も忘れてただその場に立ち尽くしていた。
彼は私から視線を逸らさずに、後ろ手にドアを閉める。本能的にすこし怖くなって、後ずさりしたい衝動にかられた。
「リアルで記憶喪失の人って、初めて見た」
彼は開口一番、なんともどうでもいい事を感情を乗せずに云った。
けれどそれで、彼が私を知っている事が判明した。彼の印象は決してよくなかったけれど、それは彼の意図するところでもあるような気がした。
私はやっと口を開く。
「どなたですか」
「その質問、二回目」
その時、やっと彼の声に聞き覚えがある事に気づいた。
「タガミキョウヤ、さん?」
彼は右手に持っていた自分の社員証をかざして見せた。プレートには私と同じ会社名と『第三監査課 法人監査部 田上恭也』と書いてあった。
昨日の電話の主の正体は同じ会社の同僚だった。同じ会社の同じ部署の人間なら、私の携帯番号や事故の事も知っていて当然だ。
謎が一つ解けた事は喜ばしいけど、彼の私に対する言動には明らかに幾ばくかの悪意のようなものが感じられた。その理由は分からないけど、この状況からすると事故以前に何か確執があったのではなかろうか。
けれど。
彼が昨日の電話の最後に云った言葉は。
『どうしてって、きっとあの事故の日、最後に君の頭の中にいたのは俺の筈なのに』
あの日、私は崇之と一緒だった。そして事故に遭った。
この事実と彼の云っている事は、同時に成り立つだろうか。
「なんで忘れちゃったの?」
そう彼は訊いた。続けて訊く。
「全部忘れたかった? 忘れたいって思ったら、忘れられた?」
「何を云っているのかわからない。ちゃんと話して。あなたは私の何?」
単刀直入に訊かなければ、ずっとこのままはぐらかされて終わりそうだった。
「昔、君に振られたオトコ、かな」
「嘘だ」
彼が私の事を好きな訳は絶対にないと思った。
「嘘じゃないよ。俺は、嘘はつかない。嘘をつくくらいなら何も云わない。結婚して欲しいって云ったけど断られた。私は結婚というものを信じていない、嫌悪さえしている、だから一生誰とも結婚なんかしないって云ったんだ。君が。なのに、君は加瀬と結婚した。嘘つきは君の方だよ。佐藤さん」
静かに、けれど突きつけるように彼は続ける。
「いつまで加瀬の処にいるの? あいつの事、何も覚えてないんだろ? 愛されていても愛せなくて辛くない?」
田上君の矢継ぎ早な問いに、私は何も云い返せなかった。たぶん、それらは私自身がずっと心の奥で思っていた事だから。
ほんの少し前に佐藤チーフに云われた事と反するけれど、私には田上君の言葉の方が何倍も素直に、そして簡単に納得する事ができた。
崇之の過ぎた優しさに甘えていた。やっぱり、私は惰性だけであの家にいちゃいけない。
だけど、あそこを出て私はどこに行けばいいんだろう。今私が生きているこの世界のどこかに、私の居場所はあるんだろうか。
「行く処、ないんでしょう? なら、俺の処に来ればいい」
田上君は何でもない事のようにさらりと云った。
「大丈夫。俺は君に愛されたいとは全然思っていないから。そのままで俺の元にいればいい。至極シンプルだろ」
私は田上君の真意を計りかねていた。彼は嘘はつかないと云ったけど、本当の嘘つきは嘘をつかないという嘘を簡単につくのではないか。
だけどそれと同時に、彼が嘘はつかないと云ったらそれは紛れもなく本当の事のような気もした。彼は嘘をつくほど懸命に、物事や他人に執着するような事をしないように思えたのだ。
「あの日、事故があった日に一体何があったの?」
私は尋ねた。どんな事実でもいいから、本当の事が知りたかった。
田上君は何も隠したり繕ったりするつもりはないようだった。しごく淡々と順番に話し始める。
「佐藤さんは俺の処に来る途中だった。事故のあったマンションはね、俺の住んでいるマンション。佐藤さんから、今、マンションに着いたって電話を受けている最中に物凄い音がして急に電話が途切れた。それで慌てて降りてみたら、鉄骨が散乱した歩道に君が倒れていて、加瀬が傍で必死に君の名前を呼んでいた。たぶん加瀬は君を追いかけて来ていたんだろうね。あの日、佐藤さんは一人で先に車で来た筈だから、君の車は今も自宅にはないんじゃないの?」
いや、私の赤い車は確かに私たちのマンション裏の駐車場にあった。携帯ショップに行く時に乗り込んで、免許証を取り出したのだから間違いない。
その時、完全に今まで忘れていた事を思い出す。
退院した最初の夜、ベッドに私を運んでくれた後の崇之の、何かを探るような背中を見た気がしたのは私の鞄から車のキーを取り出していたのではないか。
崇之の、私と一緒に食事に行ったという証言を覆す証拠をなくす為に。誰も気がつかないうちに、田上君のマンションのパーキングから私の車を運んだ。
これは崇之が嘘をついていたという事だ。だけど私はおそらく崇之に内緒で、田上君の処に行こうとしていた。
前にも考えてみた事があった。私は崇之を裏切っていたのだろうか。
「私は何故、あなたのマンションに行ったの?」
訊かなければいけない。
「俺が来いって云ったから」
「それは、つまり……」
ここで話は中断される。勢いよくドアが開いて、崇之が飛び込んで来たからだ。
「……田上さん」
少し息を弾ませながら、崇之は向かい合って立つ田上君と私を見た。
出先から戻った田上君は、オフィスで私が下の応接室にいるのを聞いてここに来た。そして打ち合わせを終えた崇之は、田上君がここに行った事を聞いて慌ててやって来たのだろう。
「何、しているんですか」
無理して抑揚をおさえて、崇之は話す。
崇之は田上君と私の、何をどこまでどんな風に知っているのだろう。事故の日に、自分とは別の男に会いに行った妻を連れ戻しに行ったのが事実だとしたら、それはもうどうにも修復しがたい夫婦の亀裂が生じてしかるべきだろう。
けれど、それならこれまでの崇之の優しさはなんだったのか。今も、どう見ても崇之のこの状況の不満の矛先は、田上君だけに向いている。
「何って、話していただけだよ」
「何の話ですか」
真剣に問い詰める崇之の顔を見ながら、田上君は何故か楽しげに唇の端を上げて少し笑っていた。
「佐藤さん、教えてあげたら?」
急に話を振られて私は必要以上に動揺する。教えてあげたらと云われても、何も話せる筈はなかった。
「千晶、何、云われたの?」
崇之はそんな私の狼狽振りを見て心配そうに訊いた。でも、何も話せない私はただ黙り込むしかなかった。
「事故のあった日にあんな場所にいたのは、公には二人で食事に行く途中だったって事になっているみたいだね」
田上君は、突き放したような口調で喋る。
「本当は違うんじゃないの? 彼女は本当に都合よく忘れているみたいだから、お前が教えてあげればいい。佐藤さんはあの日、俺と……」
「やめて!」
次の瞬間、崇之がカッとしていきなり田上君の胸倉に掴みかかろうとしたのを必死で止める。
「やめて! お願いだから」
田上君にはまったく抵抗する気はなく、崇之のされるままだった。私は崇之の、田上君のシャツを掴んだ腕にすがって、そう懇願するしかできなかった。
そんな辛そうな私を見て崇之は落ち着きを取り戻し、何かにはっと気づいて田上君を放した。崇之は何故か、田上君の左肘辺りを気にしていたように見えた。
「帰ろう……」
崇之は田上君を見ないように、彼から視線を逸らして云った。この状況下、このまま田上君を残してここを去る事に戸惑っている私の肩を少し強引に抱いて、崇之は応接室を出た。
崇之に引っ張られるように歩きながら、私は田上君を振り向く。彼は崇之に掴まれて歪んだシャツの胸元を軽く押さえたまま、じっとリノリウムの床の一点を見ていた。この時感じた例えようのない違和感は、後にその真実を知る事になる瞬間まで私の胸に黒い染みのように残ったまま、その存在を主張し続けていた。
崇之は私を車に乗せると、そのまままっすぐ私たちのマンションに帰った。
一度だけ長い信号待ちの途中で「田上さんと何の話をしていた?」と訊かれたけれど、私が口を開かなかったのでその崇之の言葉は車内に漂って消えた。その後は、彼はもう一切田上君の話はせず、表面上は何事もなかったように振舞っていた。だけど。
「夕食の買い物、行ってくる。何か食べたいもの、ある?」
部屋に戻って一息つくと、何事もなかったかのように、また昨日と同じような優しい笑顔でそう崇之は訊いてきた。けれど、そんな当たり前の日常にはもうこの先、戻れない気がした。
「ここに座って」
私はテーブルを挟んで向かい合う椅子を崇之に示した。自分も片方に座る。
「でも」
「お願い。座って」
崇之は諦めたように黙ったまま、私の前に座った。
「今まで、いろいろとありがとう」
そう切り出すと崇之は少し驚いた顔をして、それから哀しそうに視線を落とした。
「お礼なんて、云わなくてもいい」
切ない、雨の路地裏に捨てられた仔犬の目をした。
でも、私は続ける。
「私がこんな事になって、たくさん迷惑かけたし」
「迷惑なんて思ってない」
「私はこのまま、ここにはいられない」
「どうして」
「いるべき理由がないもの」
崇之は説得すべきうまい言葉を探しているようだった。お互いに心の中は動揺して乱れていたけれど、声を荒げる事もなく話を続けた。
「駄目だ。ここにいて」
「いられない」
「君は俺と結婚したんだ」
「私はそんなつもりない。……ごめんなさい。覚えてないから。あなたの事、何も」
「かまわない。俺はずっと愛しているから」
「違う。あなたが愛した私はもういない。ここにいるのはあなたを知らない違う私だから」
「違わない。ずっと君は君でしかない」
どこまでいっても平行線だ。
私は困り果てて、結局、その話題を振るしかなかった。
「事故の日に私があんな処にいたのは、田上恭也に会う為だったんでしょう?」
崇之ははっと顔をあげて、私をまっすぐに見た。それだけで、田上君はやはり嘘なんかついていなかったんだと分かった。
「違う……」
そう崇之は否定してくれた。
「私はあなたに嘘、つかせちゃうね」
「違う。違うんだ。田上さんは……あの人は……」
そう云ったきり、何も云えなくなる。
こんな状況で少しも私を責めないのはまだきっと私の知らない事が、知っていたけど忘れてしまっている事があるのだろう。崇之はそれを隠そうとしている。
でももう、崇之には訊きたくなかった。
私はすごく疲れていた。
「ここを出るね」
私はそう云って立ち上がった。
部屋に戻って、とにかく当座の身の回りの荷物をまとめないと、と考えながら。
「……千晶!」
崇之は音を立てて椅子から立ち上がると、強い力で私の腕を引き寄せて包み込むように抱いた。
不意の事で、されるままに抱きしめられる。肌で感じる人の体の温もりがびっくりするくらい心地よくて、体中の力が抜けてしまいそうになる。それはこの腕が崇之のものだからなのか、それとも人はみんなこんなに温かいのかはわからない。
もう煩わしい事は何も考えずに、このままこの広い胸にいられたらと一瞬だけ思った。それはとても楽で幸せな事かもしれない。
けれど。
やはり私は「けれど」と逆らわずにはいられなかった。
静かに彼の胸を押して、離れる。
崇之の目を見上げた。彼も私の瞳を見つめ、今これ以上何を云っても私の意志が変わらない事を悟って、掴んでいた私の腕からゆっくりと手を放した。
「わかった。俺が出るから。千晶はここにいて」
そう静かに云った。崇之は自分の部屋に入ると、スポーツバッグ一個に着替えを詰めて出てきた。
「やっぱりコンロは使っちゃ駄目だよ」
玄関でコートを着ながら、落ち着いたのか少し笑顔でそう云ってくれる。こんなに優しい人なのに、どうして私は彼をうまく許容できないんだろう。
暗い夜の闇の中に出て行く彼の背中に、私は何も声をかけてあげられなかった。
続く