序章 アルバイト A 、西浦真帆 -2-
「……あの」
青柳先生はきまり悪そうに言って、私から目をそらした。
しまった。急に遭遇したのに焦って、つい黙り込んじゃった。バイトらしくクールに対応しないと。
「す、すみません。氏原さん……氏原なら、事務室の方で先生をお待ちしてました」
クールとは。落ち着け自分。
お客様に向かって社員をさん付けしちゃったよ。この前ハタチになったんだからしっかりしろ私、大人だろ。
「いえ、氏原さんのことではなくて。約束の時間までまだありますし。僕が早く来すぎちゃって」
青柳先生は視線をあちこちにさまよわせながら早口に言った。
何だか知らないけどキョドりすぎだよ。人のことは言えないかもしれないけど、どうしたの先生。
私が警官だったら、即この人に職質する。たとえ高級スーツを着ていてサングラスかけててカッコ良くても職質する。そのくらい挙動不審だ。
「あっあの、西浦さん!」
何か一大決心って感じで言われた。ハイ。
「そ、その、女性がそんなところに登って作業なさるのはいろいろ危険ではないでしょうか。良かったら僕が、代わりましょうかっ!」
……いったいどうした青柳先生。
「いえ、いいですよ。お客様にそんなことさせられないですし。こういうのバイトの仕事ですし」
「でっ、でも……」
青柳先生はいっそう挙動不審になった。
「そ、その……あの……に、西浦さん、スカート……短いですし……」
どこを見ていた青柳。
警官じゃないけど今すぐ職質したくなってきたぞ。
憧れのミュージシャンが一瞬でエロおやじ認定になったよ。
「大丈夫ですよー。これ、スカートじゃなくてキュロットですからっ!」
この人はお客様この人はお客様この人はお客様。そう頭の中で唱えてギリギリ笑顔をキープした自分えらい。
だいたい、短いって言ったって膝上十センチだし。
動き回ることの多いバイトなんだから、ひらひらした服なんか着て来ない。ここの事務室エアコンの効きが悪くて暑いから今日はキュロットにしてみたんだけど、次回からジーンズに戻そう。
「ホント大丈夫ですから気にしないで行ってください。氏原さん待ってますし」
人をエロい目で下から見てないでとっとと行ってくれ。
「でっ、でもっ、やっぱり危ないですしっ」
ホントに引きこもりなのこの人。めっちゃ食い下がってくるじゃん。
「慣れてますから大丈夫ですよ、ホントに」
私の営業スマイルもそろそろ限界を迎えるぞ。いいや、もう仕事に戻ろう。
取り外した蛍光灯を置こうとかがみこむ。
……と、すぐ近くに青柳先生の顔があってビビった。思ったより近くに来てた。
「て、手伝いますから」
しつこいけど目は泳いでる。サングラス越しでも必死で視線をそらしているのが分かるぞ。
あなた、何がしたいんですか青柳先生。
「いえ、むしろ危ないですからいいです」
蛍光灯、置かせてください。
「ほ、ホントに僕がやりますから」
「いいですってば」
青柳、邪魔。どけ。
「本当に大丈夫です。危ないですから離れてください」
ついに私の天使のほほえみも限界を迎えた。つっけんどんな口調になり、青柳先生を無視して外した蛍光灯を無理やり壁に立てかけて置く。
で、今度は交換用の新品を取りたいんだけど……青柳先生が絶妙に邪魔な位置にいて非常に取りにくい。
相手の肩を避けるように手を伸ばす。取りにくいなあ。あとちょっと後ろに下がってくれたらいいのに、ホントにもう。
うー、あと二センチ。あと一センチ。指が外装のボール紙に届けば何とか。
そう思って前のめりになりすぎた。年代物の脚立がバランスを崩し、大きく揺れた。
つま先が踏板からはずれるのをスローモーションのように感じていた。
ヤバ。落ちる。この勢いだと、最悪足首くじくかも。
いや、それよりも絶妙に邪魔な位置にいる青柳先生が迫って来て……。
ダメ、この人ミュージシャンなんだから。
この人の作る曲、すごくいいんだから。
歌声だって素敵なんだから。
私のせいでケガなんかさせちゃいけない。
青柳先生だけは救わなきゃ!
手を伸ばす。何とか脚立につかまって持ちこたえられないかと精一杯指を伸ばす。
脚立ごと後ろに倒れて自分のケガがひどくなってもいい。青柳先生にケガがなければいい。
blue blue blue の曲は、私なんかの何百倍も価値があるんだから。
なのに、
「あ、危ない西浦さん」
先生は私に向かって不用意に手を差し伸べる。これ以上なくダメなタイミングで。
なぜそういうことをするの青柳先生!
ダメだ、脚立ごと倒れ込んだりしたら最悪だ。私は力いっぱい脚立を蹴り飛ばした。
しかしその勢いで私の体はより前のめりになってしまい、不器用に手を広げている青柳先生に思い切り体当たりすることになった。
もつれあって床に倒れこむ私たち。先生……あなただけは助けたかったよ……。
……いってぇ。
バランスを崩してから落ちるまで、たぶん数秒。横から見ていたら一瞬のことだっただろう。
その間にものすごくたくさんのことを考えた気がする。これが走馬灯というヤツか。(違う)
じゃなくて、青柳先生は? 先生は無事?!
「いたたた」
耳元で、イヤホン越しに何度も何度も聴いた甘い声がした。
冷静になったら探すまでもなかった。私は思いっきり青柳先生を下敷きにしていた。
上からのしかかるように抱きついて、頬と頬が触れ合っていて。
も、ものすごく恥ずかしい。まるで私が青柳先生に襲いかかったみたいになってる。
いや、そんなこと考えてる場合ではない。今やるべきことは、青柳先生の安否確認だ。
「青柳先生、大丈夫ですか! お怪我はっ……」
「西浦さん、怪我はないですか……」
向こうもほぼ同時に正気に戻ったようで、言葉がかぶった。
そして想定すべきだったことが起こった。
私と青柳先生は同時に相手の顔を見ようとして首を動かして、
もともと頬が触れ合う至近距離にあったのにそんなことをしたから必然的に、
唇と唇が触れ合って、どちらの言葉も動きも止まった。
何だコレ何だコレ何だコレ。
頭が真っ白になる。
何やってんの私。何やってんの青柳先生。
もしかして私、今、青柳先生とキスしてる……?
あ、サングラス吹っ飛んでる。初めて見た、青柳先生ってこんな顔なんだ。
色白で目が大きくて、好きな感じの顔。
……じゃなくて!!
我に返ったら恥ずかしさが一気にこみ上げてきた。
顔に血が昇ってくるのが分かる。頬っぺたや目の周りが急速に熱くなってくる。
私は急いで先生から離れようとした。
しかし、そこでまた起こる奇跡(悪い意味で)のシンクロ。
ほぼ同じタイミングで、先生も我に返ったらしい。
そして私を離そうと、肩に手を置いてそっと押そうとした。(と後に聞く)
だが私の方は先に言ったとおり、頭に血が昇った状態で急速に先生から離れようとしている。
そして青柳先生という人は、基本タイミングが悪い。
結果、私の肩に置かれるはずだった手は盛大に空を切る。そしてその少し下の、人並みにはあるふくらみの上に着地した。
またもや止まる時間。
「……西浦さん」
「……はい」
「……これは事故です」
「……はい。分かります」
「……決して狙ったわけじゃないんです」
「……はい」
分かるけど。分かったけどさあ。
「あの、もう離していただけないでしょうか?」
全然手が胸から離れないんだけど。
「あっ」
青柳先生は驚愕した表情になって慌てて手を引っ込めた。
「えっ、あっ、そのっ。も、も、申し訳ありません、何だか無意識に……っ!」
無意識とか言われても、免罪符にはならないからね?
普段だったらすぐにそう切り返せるのに、どうしてしまったのか自分。言葉が口から出て来ない。
青柳先生も色白の顔を赤くして、手を開いたり閉じたりしながら黙りこくってしまう。
『いつも二十分前には来る青柳先生が十分前になっても来ない』
と心配した氏原さんが先生を探しに来るまでの十分間、私たちはそんな風にものすごく気まずい状態で沈黙していた。