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序章 アルバイト A 、西浦真帆 -1-

「おーい、西浦」

 名前を呼ばれて振り向いた。

 某大手レコード会社の子会社の子会社でバイト中の私は、大量の出荷伝票を打ち出す前のチェック作業でものすごくピリピリしていた。そこに飛び込んでくるのは社員の氏原さんの緊張感のない顔。

「今ヒマ? 階段横の蛍光灯が切れかかってたから、取り替えといて」


 ヒマに見えるのか。パソコンにかじりついて眉間にしわを寄せ、目付きも悪くなっているだろう私の、どこがどうヒマに見えるのか。

「別にヒマじゃないですけど」

「いいだろ別に。こういうのバイトの仕事だろ、さっさとやれよ」

「氏原さんの方がヒマそうに見えます」

「俺は忙しいの。これから青柳先生が来るんだから、出迎えの準備とか資料の確認とかいろいろな」

 じゃあその手に持ったポテチの袋は何だ。どう見ても休憩しているようにしか見えないが。

 ……でも、そうか。青柳先生が来るのかあ。


「分かりました。やっておきます」

 私はため息をついて作業を中断した。私も画面に表示される発送先を延々確認するのに疲れてきたところだし、体を動かして気分転換するのもいいかもしれない。

「おー。お茶出しもしてもらうから、さっさと済ませろよ」

 氏原さんはポテチの袋に手を突っ込みながら自分のデスクに行ってしまった。どかんと椅子に座って、パソコンでアイドルグループの公式HPを見始める。やっぱりあの人の方が私よりヒマだろ。


 しかし私も、こんなひきつった顔のままでお客様の前には出られない。

 立ち上がって伸びをして、通り過ぎるついでに壁の鏡をのぞきこむ。うん、我ながらひどい顔。ちょっと顔の筋肉をほぐそう。『いらっしゃいませ』『ごゆっくり』そう言ってお茶を出すだけだけど、青柳先生の前では笑顔でいたい。



 廊下に出ると窓の外は初夏の日差しにキラキラと輝いていた。

 私は自然に大好きな曲を口ずさむ。大好きな大好きな『blue blue blue』の曲。


 ネットの海で彼の曲に出会ったのは、私がまだ高校生だった五年前のことだった。今まで聴いたことがなかったキラキラした音と優しい歌詞、低く甘い声に魂を奪われた。

 もっと他の曲を知りたくてすぐに調べた。分かったのは、十年くらい前から動画サイトだけで曲を発表している人であること。本名年齢写真その他、個人情報は一切出さない謎のミュージシャンであること。それでも曲を楽しみに待っている人がたくさんいること。

 

 あっという間に私もその一人になった。発表されている曲は全部聴いた。何回も何回も、覚えてしまっても繰り返して聴いた。

 可愛いとかきれいとかいうよりカッコいい枠、女子というよりイケメンと言われ続けて二十年。もちろん彼氏なんかいたことのない私の、あれは初恋なのだと思う。


 この会社でバイトを始めたのも、少しでも『blue blue blue』に関われることがしたかったからだ。ほぼネットでしか活動していない彼が一枚だけ出したアルバム、それがこの会社の親会社の親会社の製作なのである。

 子会社の子会社では接点なんかあるはずもない。だから自己満足にすぎない。それでもちょっとだけ近付けた気がして嬉しかった、あの日までは。



『氏原さん、この伝票……。夕飯おごってやるって偉そうに言って私に食べさせていたあのラーメンは、全部会社の経費で落としていたんですか。係長が知ったら怒りますよ』

『あっ……これはあのっ……そ、そうだ西浦、お前確か blue blue blue の大ファンだよな。いいこと教えてやるよ、明日来る青柳先生って人さあ』

『言い訳はいいです。けどもう私にラーメンおごろうとするフリをしないでください』


 その時、私の口をふさごうとした氏原が漏らした重大な秘密。

 それが『青柳先生が blue blue blue その人である』という事実であった。



 氏原さんがどうやって彼と知り合ったのかは知らない。しかし現在私の部署では、blue blue blue の(顔出しなしでの)連続独占インタビューの企画を極秘で練っているところだったそうなのだ。ということで青柳先生の個人情報は完全部外秘。私が知っていることすら係長にも内緒である。


『これはさあ、青柳先生引きこもり脱出計画でもあるんだよ』

 氏原は得意顔で語った。彼曰く青柳先生は、中学で不登校になって以来の年季の入った引きこもりである(らしい)。三十代前半だそうなので、だとしたら人生の半分以上が引きこもり生活である。ある意味根性ある。


『それを何とかしようって話になって、毎月うちの会社でインタビューしようって話になったんだよ。青柳先生の人生更生計画なんだよ』

 と氏原さんはドヤ顔で言っていた。

 この人は不登校のクラスメートを本人の意志も聞かずに無理やり学校に連れて行こうとするタイプだ。それは親切ではなく迷惑と呼ぶ行為だと思うので、本当に大丈夫なのかファンとしてかなり心配である。


 ……しかしまあ、それはそれ。長年『blue blue blue』に魅せられてきた身には、その生みの親に実際に会えるというのは眩暈がするほど刺激的な話である。

 青柳先生はとても無口な人で、挨拶しても黙って頭を下げるだけだし、建物の中でもサングラスをしているから顔なんかちゃんと見たことがないんだけど、それでもドキドキする。


 更に氏原さん曰く、青柳先生はとんでもないチキンハートであるため私が彼のファンであることは公言禁止。彼の正体を知っていることも話してはならない。曲の感想を言うなんてもってのほか。


『そんなこと聞かされたら、動揺し過ぎて二度と外出できなくなるかもしれないだろ。言うなよ、絶対言うなよ』

 声をひそめて氏原さんは言った。ホントかな。私が青柳先生の正体を知っていることが係長にバレた場合、ラーメン代についての不正も芋づる式に明るみに出るかもしれないので口止めしているのでは……と疑わないでもない。


 しかしラーメン代の秘密を黙っている代価として私は青柳先生にお茶出しをするという役目を与えられている。たとえ会話が交わせなくても、お茶を出したら引っ込むバイトAでしかなくても、手離すにはあまりにも惜しい。携帯の音楽ダウンロード履歴も全部彼の曲で埋まっているくらいには大ファンなのだから。


 

 ということで、青柳先生の前では『ただのバイトA』ではなく『かわいい女子大生バイトA』くらいにはなりたい私である。曲と本人は別ものってことくらい分かってるし、親しくなりたいとか大それた望みを抱いているわけではない。それでも憧れの人には良い印象を与えておきたいものではないだろうか。


 トイレに寄って髪を整え、数時間にわたる発送先チェックの仕事でこわばった顔の筋肉をほぐして笑顔の練習をしてから、蛍光灯を取り替えるべく用具置き場に向かった。


 まずは脚立。あー、新しい方はどこかの部署で使ってるのか。こっちの古いやつ、ガタガタするから苦手なんだよね。まあいいや、蛍光灯を取り替えるくらいならすぐ終わる。ちゃっちゃとやってしまおう。

 問題の照明の下まで運ぶ。なるほど、ちかちかしている。隣りのやつも黒ずんで来てるね。一緒に替えてしまおう。ということで、用具置き場に替えの蛍光灯二本を取りに行く。


 いったん電源を落として、脚立に登った。エレベーター使用者が圧倒的に多いから、階段はめったに使われない。その横のこの場所は北向きで窓も小さいから、明かりを消してしまうと薄暗くなるんだけど作業が出来ないほどじゃない。


 平成元年購入とマジックで書いてあるこの脚立、やはり尋常じゃなくガタガタする。不況が続くからって物持ち良すぎるんじゃないだろうか。私はバランス感覚の悪い方ではないが、危険な香りは十分している。係長に言おう、『あの脚立ガタガタして怖かったですー』ってなるべく女の子っぽく可愛く。あと、氏原さんがヒマなくせに私に蛍光灯交換をさせたって言いつけてやろう。


 脚立のてっぺんでバランスをとる。よし、行ける。

 両手で古い蛍光灯を掴んで軽く回し、端子の片側をはずして落っことさないように持ち替えて……。


「西浦さん……ですよね……? 何してるんですか……」

 いきなり後ろから声をかけられてビックリした。具体的に言うと蛍光灯を落っことしそうになった。

 誰だ、人が天井に集中してる時に驚かせるヤツは。


 振り返るとブランド物のスーツをかっちりと着こなし、サングラスをかけた背の高い男性が目に入った。

「あ……青柳先生、こんにちは。お早いですね」

 あこがれの人との思わぬ遭遇に、私の舌はもつれる。

 社員の人だったら、特に氏原さんだったら『何してるかは見れば分かるだろ』的なことを言おうと思っていたのだが思いとどまった。


 落ち着け私、今の位置関係(物理)は私の方が上。猫の喧嘩だったら圧倒的に有利なポジション。

 だから埃だらけの蛍光灯を持って力強いポーズで脚立の上に仁王立ちしていることなんか忘れて、出来るだけ可愛い女子大生バイトっぽく振る舞うのだ!


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