1-1 ひとりの夜
× × ×
たとえ何が起きようとも、同じように朝陽は昇る。
前夜に起きた「とても日常とは呼べない」出来事に由来する――漠然とした不安を、とりあえず睡眠をとることで払拭してみせた孝介だったが、起床直後に何度も指を鳴らしたのにテレスクリーンが近づいてこなかった時点で、我に返るはめになった。
自力で布団を退けて、トイレの手洗い場で己のまぶたから目脂を取り除く。
鏡に映る、己の冴えない姿に目を細めた孝介は、今日も普段通りの生活をしようと胸に決めた。たとえ何が起きようとも、ただの十代後半の男にすぎない自分に直接の危害が加えられることはないだろう。彼は何となくそんな気がしていた。
あるいはそうなることを内心で願っていたのかもしれない。
久しぶりに手作りした朝飯(胡椒味のおにぎり1つとチャーシューの切れ端)を食べて、孝介はいつものように卓上ニュースを見ようとする。
当然ながら、ネットワークが使えないために何も映らない。
仕方がないので勉強を始めようとするが、こちらもテレスクリーンの教材でなければ正式な学習として認められない。
孝介は退屈しのぎに食器洗い機に食器を投げ入れながら、ぽそりと呟く。
「……もしかして、いつも通りには生きられない?」
まだ朝と呼べる頃合いだったが、彼はもう眠ることを考え始めた。
彼にはテレスクリーンのゲームで遊ぶ以外の暇つぶしの方法がほぼ存在しない。
他にはせいぜい友人から紹介された奇妙な教材や娯楽作品を受容するくらいで――つまるところ、彼はテレスクリーンがなければ何もすることがないのだ。
「あと半日も何をしていればいいんだよ……」
孝介はグチをこぼしつつ、チャーシューの切れ端をつまむ。美味い。さすがは俺の両親が作った一品だ。彼はもうひと口つまんだ。
お店でお客さんに出せない仕上がりの具材は大半が伊藤家の冷蔵庫に納められ、その日のうちに何らかのメニューになって食卓に出てくる。
あらゆる調理は機械が行っているため、品質面でエラーが起きることはめったにないが、素材は自然物なので見た目だけは上手くいかない時があるのだ。
そうした時は無添加レーザーで不細工な部分を削ることになり、その削られた部分が孝介の胃袋に収まる。孝介の容姿が十人並なのは生まれつきである。
彼はふと、容器の中の不揃いなチャーシューたちを見つめた。
たしか……ウチのラーメンは本店のテレスクリーンからのネットワークで「製造」から「調理」まで管理しているはずだ……。
そのテレスクリーン・ネットワークが使えなくなった今、お店はどうなっているのだろう?
製造も調理も、仕込みも出来なくなっているのではないか?
孝介は自分の両親が家にいない理由を察した。
おそらく昨夜のあの時に「気づいて」出ていったに違いない。
だから、すぐにいなくなったのだ。
己の中のわだかまりがひとつなくなったが、逆に今度は「今後の生活」という不安が彼にまとわりついてきた。
お店がつぶれたら、今までのように気ままには生きていけない。
「何か手伝えることあるかな……」
孝介は台所から自分の部屋に向かおうとした。外行きの服に着替えるためだ。テレスクリーンが使えないために自動で着替えさせてはくれないのである。
ところが、リビングから階段に差しかかったところでインターホンが鳴った。
「開けたまえ! さらば救われん!」
古代宗教の宣教師に似た文句が玄関から聞こえてくる。
その元気とやる気とほんのわずかな狂気に満ちた、とても前向きで甲高い声色に、孝介は己の胸が高鳴るのを自覚した。
だが、すぐにも理性が心拍を押さえつける。
相手はあいつなんだ。このところ……高等社会生活団に入った頃から女の子らしくなってきたからといって、目がくりっとしてて口元がお淑やかで、カチューシャとかいう古代人の装飾品が似合っていたとしても、あいつはあいつだ。
根本的に異性として意識なんてしたくないし、絶対にしてはいけない相手なのだ。悟られるのもダメだ。笑われかねない上に仮に両想いだったら人生が終わりを迎える。
孝介は平穏を保つように努めつつ、鍵のかかっていない玄関を開いた。
彼にとっての天使がそこにいた。
「くそうっ!」
「なんだよ! 会ってすぐに嘆くなんて酷いじゃん!」
思わず天を仰いだ孝介に、友人の萩原明日菜は容赦なくローキックを喰らわせる。非力なので痛みは起きない。
「どうせテレスクリーンが使えないから暇なんだろ。私が遊びに来てやったんだから早く入れなよ」
「……まだ着替えてないんだけど」
「構うもんか。私も暇なんだ」
萩原は押し通るような形で孝介の家に入っていく。
すれ違いざまに彼女の頭からシャンプー由来らしき良い匂いがしたが、孝介は気にしないように努めた。
「チャーシューもらうよ」
「はいはい。お好きにどうぞ」
「うん、相変わらず美味い。でも一手間を加えたらもっと上がる!」
彼女は台所に立つと、つまみ喰いしながら冷蔵庫の中身を炒め始めた。朝に孝介が作っていたおにぎりの残りや、ネギと卵もフライパンに注がれていく。
かくして作り上げられたチャーハンを自分ひとりで食べながら、萩原は「今日はテレスクリーンなしで遊べるものを持ってきたんだ」と自身のカバンを指さした。
孝介としては少し分けてほしい気持ちでいっぱいだったが、彼女に促されたので渋々カバンの中身を机に広げることになる。
ちょっぴり高そうな革のカバンの中には、暇つぶしの道具が入っていた。
データ上ではない実物の将棋盤に、これまたデータ上ではない紙で出来たトランプ。
さらにはテレスクリーンのシミュレーションゲームをそのまま現実に打ち出したような、細かいコマばかりのゲームなど。
孝介はニンマリと笑みを浮かべた。
これだけあれば(あとは萩原さえずっといれば)夜まで楽しめる。
一方で、台所からのチャーハンの匂いは彼の中に先ほどの不安を蘇らせる効果があった。
「あ……でも、お父さんとお母さんを助けないと」
「おじさんの店ってテレスクリーンで管理してたっけ? あんなの脆弱なんだから信用しちゃダメだろ。いくらでも介入できるし」
萩原は小さくため息をついてから、「ま、そろそろ回復するんじゃね?」と穏やかに笑ってみせる。
その表情は孝介を少しばかり慰めたが、まだ安心には至らなかった。
たしかに、ネットワークを所管する『公社』の臨時通信車が来てくれれば、摂津地域の通信網は弱々しくも復旧されるはずだ。
だが――孝介の脳には昨日の出来事がまだこびりついている。
ひょっとすると例の宇宙人の教材が生み出した夢だったかもしれないし、そうであってほしいが、あの巨大な兵器とパイロットの記憶はあまりにも生々しすぎた。
何より庭に大きな足跡が残っていることが、昨夜の接触を如実に証明している。
――お前たちの使っているテレスクリーン回線はすでに麻痺させている。
あのセリフはきっとウソではない。
「おいおい。あんまり深刻になるなよ。ほら食べろって」
「んぐっ!?」
「これが欲しかったんだろ? さっきから物欲しそうにしててさ」
孝介は自分の口に突っ込まれたスプーンに咳込みそうになる。
しかし、安易に咳をしてしまえば、目の前にいる萩原にかかってしまうわけで、彼女の着込んでいる高そうな茶色のコートが汚れてしまう。何より所作として見苦しい。
どうにかこらえて、彼はチャーハンを飲み込んだ。
そこそこ美味しいが、母が手作りした時の味には敵わなかった。
「……って、これ間接的なアレじゃん! ど、どうしよう孝介!」
自分でやっておきながら、抜いたばかりのスプーンを見つめて、とても恥ずかしそうにしている彼女だったが、孝介としては大惨事を避けられたことへの安心のほうが大きかった。
この件については恥ずかしくも何ともない。
「洗えば?」
「よし、やったらあ!」
萩原はスプーンを食器洗い器に放り投げる。
彼女のおかげで少し落ち着けた孝介は、とりあえず公社の対応を待つことにした。
よくよく考えてみれば、自分が今お店に行ったところで手伝えることなんて何もなかったのである。
なにせテレスクリーンが使えないから、仮想通貨も使えないのだ。
となれば、お客だって来るはずがない。
今の孝介にできることといえば、せいぜい接客くらいのもので、他の仕込みや材料の管理については全くの門外漢なのである。
だからこそ、両親も自分を連れていかなかったのだろう。孝介は納得する。
何より玄関に鍵をかけられないから、そうそう家を出ていけない、というオチでもあった。