プロローグ
荒れ狂う暴風に叩きつけるような豪雨の中、事件は起きた。
「逆撫シグレ、やはり貴様は弱者だ……」
顔全体を仮面で隠した男はそう告げた。
剣を持つシグレの姿を見てそう告げたのだ。
「ふざけるなッ!」
激情に駆られシグレは目の前の男へと剣を向け疾駆する。
「だが今の俺は強い」
男は向けられた剣を軽々と弾き、回し蹴りでシグレを追撃した。
横腹へと深く入りシグレは吹き飛ばされ痛みに耐え切れず地に伏せる。
「剣技、体術、経験。その全てがお前と俺では天地の差だ」
立ち上がろとするシグレに男は蹴りを加え、容赦なく追い詰める。
再び地面に倒れた血塗れの身体を豪雨が洗い流し、傷口を暴風が責めたてた。
「そして覚悟など比較にもならんほどだ」
もう力も入らない。
反撃はおろかシグレには男の言葉に反論することさえできなかった。
「生きるとは地獄だ。耐えようもないほどの」
男は明らかな怒りをシグレへとぶつける。
「暗黒とは惰弱だ。世界を呪いほど」
そう言うこの男の目は暗黒だった。
仮面の上からでもハッキリとわかる、希望も絶望も何もかもを呑み込んだ目だとシグレは感じた。
「光を浴びた暗黒は、最愛を喰む骸の権威。余は魔人なりて運命を捻じ曲げる剣。暗黒の蹉跌は枝分かれし、闇夜と紛れ繰返す」
男は鞘から剣を抜き、とどめを刺さんと首筋に狙いをつけ剣を振るった。
その瞬間、甲高い金属音が鳴り響く。
それは剣が首斬り裂いた音ではない。
剣を剣で弾いた音だ。
「……ス、スアサ!」
「ボケッとしてんじゃねぇ! はやく逃げろシグレッ!」
颯爽と現れたスアサと呼ばれる女性はシグレを掴んで逃げようとした。
「──前言撤回だ。よく耐えたシグレ」
しかし相対した仮面の男と向き合いスアサは歩みを止めた。
この男には荷物を背負ったままでは逃げ切れないと。
「お前は船に乗ってろ! こいつは私が相手をする」
スアサはシグレを庇うように前に立つと、シグレを蹴り飛ばし港へつけていた船へと乗せる。
「──スアサァッ!!」
そう叫ぶがいなや男はスアサへと激しい感情をあらわにした。
「誰だか知らんが熱い視線をくれるなよ。思わず殺しちまう」
二人は激突する。
そこから言葉はなかった。
ぶつかり合う剣は徐々に鋭さを増し、響き渡る金属音が言葉の変わりに耳に劈く。
しなる鞭のように美しく振り抜かれたスアサの剣と、全てを破壊せんと全身全霊で振り抜かれた男の剣は、対極だった。
一合ずつ打ちあうたび太刀筋は深くなり、その速度は増していく。
実際は三十秒ほどの斬り結びがシグレには永遠に思えるほどとても永く感じた。
「……チッ」
だが、その永遠は突然幕を降ろした。
幕を降ろしたのはスアサだった。
バックステップで距離を取り剣を構え直す。
「……師匠ごっこも、これで終わりだな」
そう誰にも聞こえぬ声で呟やくとスアサは懐から短刀を取り出し、船を港へ繋いでいたロープに向かって投げた。
「シグレ、最後に一回しか言わないからよく聞け」
寸分違わず投げられた短刀はロープを切断し、船を繋ぎ停めていたモノから解放する。
「強くなれ、誰かの為に」
解放された船は嵐に任せて出航する。
「お前らしく生きろ。生きることは楽しいことだ」
これで目論見通り、シグレは監獄島から脱獄することに成功したのだ。
──スアサを置いて。
「スアサッ! スアサはどうするんだよッ!?」
その問いに返事はなかった。
嵐の中、あっという間に監獄島は見えなくなり声自体、届いたのかも定かではなかった。
「スアサァァァァァァァァァァァァァァァアッッ!!」
逆撫シグレは今ここに脱獄を成功させ、外界へと解き放たれた。