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うずらが出るのを見送り、食器の片づけをはじめようとしたところで、視界の端に「通知」が浮かんだ。事務所側の呼び鈴が押されたようだ。時計を見ると、十時半をまわっていた。新しい依頼人と会う時間だった。ぼくは片づけを後まわしにして事務所に向かった。
硝子戸を開くと、スーツ姿の男性がひとり立っていた。右手にはアルミ質のアタッシュケースが握られていた。
「シロツカさん、でしょうか。探偵の……」
「ええ、シロツカです。シロツカ探偵事務所です」
男性はほっとした表情を浮かべた。おそらく、ここが目的の場所と確信できず不安だったのだろう。初めて訪れる依頼人のほとんどは、彼と同じ表情を浮かべる。なぜなら探偵事務所であることを示す標識が、どこにも置かれていないからだ。代わりにあるのが「深山パン」の標識。事前に教えているとはいえ、これでは困惑するのも無理はない、と毎度のことながらぼくは思った。
「わたくしは、ご連絡さしあげていました、村雲と申します。村雲弥代です。本日は、私事の相談に乗っていただきたく、やってまいりました。どうぞよろしくお願いいたします」
村雲はそう言って丁寧に頭をさげた。ぼくもつられて頭をさげた。
村雲は、電話での印象もそうだったけれど、声だけ聞くとずいぶん若く感じた。だから見た目も若い男性をイメージしていた。けれど実際には、顔のしわ、白髪の量だけから判断しても、五、六十はいってそうに見えた。顔つきはとても温厚で、そこに黒スーツをきめているので、タクシーかなにかの運転手が似合いそうだなと思った。
「まあ、とにかく入ってください」
ぼくは村雲をなかへと促した。村雲はなにか珍しいものでも見るみたいに室内をみまわした。ぼくは新しい依頼人にはいつもそうするように、説明をはじめた。
「ここは昔、パン屋だったんです」
「パン屋、ですか」
「ええ。むかしぼくの叔父が経営していて、ある事情から店をたたむことになったのですが、それが、ぼくが独立を考えて事務所探しをはじめた時期とちょうど重なっていましてね。試しに話をもちかけてみたら快諾してくれて、それでこうしていま、探偵事務所として使わせてもらっているのです。
本当は仕事が落ち着いたら別の場所に移るつもりでいましたので、あまり手をくわえていないのです。外に標識を出していないのもそのせいです。まあ、そんなつもりでいて、もうかれこれ五年も居ついてしまっているんですけれど。
そんなわけですので、多少の居心地の悪さがあるかもしれませんが、その点はご容赦くださると助かります」
ぼくは村雲をさらに奥へと案内した。いまさっき村雲を迎え入れた事務所入口の空間は、かつてパン屋の店舗部だった場所で、現在は資料置き場に使っている。依頼人との応接スペースは事務所本体、つまりこの奥にある、かつてパン屋の厨房だった場所に設けていた。
事務所に移るとぼくは、ソファを指して、村雲に座るよう促した。村雲が座ったあとで、ぼくもその向かいに腰を落とした。ぼくは村雲の反応をうかがった。この空間に対する反応だ。
室内は、手をあまり加えてないとはいえ、さすがにオーブンや冷蔵庫といった調理器具は撤去し、床にはカーペットを敷き、机や椅子やソファ、それに書類棚などの事務用品一式を置いているので、探偵事務所を名乗れる最低限の見た目にはなっている。壁についたシミや油のにおいはわずかに残っているけれど、気にしなければ気にならないレベルだった。
けれどもちろん、訪れるひとたちがどう感じるかはわからない。なかには嫌な顔をするひともいる。だからぼくは、いつもまずこうして、依頼人の反応を見る癖がついていた。
幸いにも、今回の依頼人は、あまり気にしないひとのようだった。ぼくはすこしほっとした。
「では、お話をうかがいましょうか」
村雲は無言でうなずいた。