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背中に冷たい感触を感じた。
床だ。硬い、おそらくは大理石か何かでできた床。
私はそこに倒れている。
身体が思うように動かせない。かろうじて首だけが動いた。
私は天井に向いていた視線を低く下げおろした。
人が見えた。
男だろうか。たぶん男だろう。
男はこちらに近づいてきた。
視界がぼやけているせいで、顔はよくわからない。
男はしゃがみこみ、私の顔を覗き込んだ。
その瞳には見覚えがあるような気がした。
けれどうまく思い出すことができない。
男は私の耳に何事かささやきかけた。
息の感触だけがあり、その言葉は届かない。
視覚も聴覚も、あらゆる全身の感覚が、遠のいていく。
代わりに、死が近づいてくる。
私は、ここで終わりらしい。そうか、終わりか。
不思議と、心が安らぐような気持がした。
私はそっと目を閉じ、意識を暗闇に落としていった――。
●
目覚めると、全身にぐっしょりと汗をかいていた。
「またあの夢か…」
ぼくは動悸が静まるのを待った。しばらくして起きあがり、着替えをして階下に向かった。時計は九時をまわっている。すこし寝過ごしたみたいだ。
朝食を作った。トーストに、ベーコンと目玉焼き。いつもどおりの簡単な朝食。それらを食卓に並べ終えると、うずらを起こすため、ぼくはふたたび二階に上がった。うずらの部屋をノックする。けれど反応はない。なかに入ると、案の定うずらはまだぐっすり寝ていた。部屋の中にはところせましと機械の類が山と積まれている。ぼくはそれらをかき分けるようにして進んだ。うずらは毛布も掛けずに、勉強机に突っ伏すように寝ていた。ぼくはその肩を強引に揺すった。
「いい加減机で寝るくせ直しなよ。風邪ひくたびに看病させられるこっちの身にもなってほしいな」
「ああ……。うん、ごめんごめん。また寝ちゃったか。つい夢中になっちゃって」
うずらは目をこすり眠たげに言った。反省の色はない。いつものことだから、ぼくもそれ以上なにか言うつもりはなかった。まあ、このやりとりが毎朝の日課みたいなものだった。
「朝飯できたよ。それと今日二限はいってるんだろ? 急がないと遅れるよ」
「やば、いっけない!」
うずらは時計を見ると、慌てて跳ね起き身支度をはじめた。部屋中を巧みに動き回るその姿に、ぼくはあらためて、あきれつつ感心した。ごみの山にしか見えないこの部屋も彼女のなかではきちんと整理づけられているんだな。きっと、たぶん。いつか存分に掃除してやろうと心に思いながら、ぼくはまた階下へと降りた。
「今夜捕まえにいくんでしょ?」
朝食を終えたあとでうずらが聞いた。
「うん、頼んでた鍵が届けばだけど」
「わたしも行くからね。あの猫の正体を絶対暴いてやるんだから!」
「はいはい、わかってるよ」
ぼくはうずらの同行を許可した。どうせ断っても意味はないのだ。
ぼくは探偵で、うずらは九歳下のいとこ。ぼくらはわけあって同居している(といって、たいしたわけでもないけれど)。彼女は普段は大学生をしているのだけど、ときどきぼくの仕事を手伝ってくれた。
とくべつ助手も雇っていないフリーの探偵としては、手助けは本当はありがたいはずなのだけど、うずらの場合、彼女が興味をもったときしか手伝ってくれないという難点があって、しかも時にその興味の方向に、依頼解決の方向とはたとえ真逆であっても突き進んでいく傾向をもっていたりもするから、正直なところ、ありがた迷惑な助手、というのがぼくのなかでの彼女の位置づけだった。
けれど、そのような不満は口にはださない。理由はふたつ。ひとつは、ぼくが居候の身だからで(家賃は払ってるのだけどなんとなく気分的に肩身が狭い)、ひとつは、彼女がぼくの批判に耳を貸す性格ではないということ。彼女は一度こうと決めたら頑として動かない。岩のように強固な意思をもっていた。
素晴らしい性格ではある。しかしこれほど助手に向かない人間がほかにいようか?
なんてことを考えていると、うずらが怪訝な顔で言った。
「なに?」
「ううん、なんでもない。ほら、そろそろ出ないと遅れるよ」