序章「帰還・帰宅」
たとえば今流行している異世界を旅する物語は、現実世界へ対しての僕たちの不満の表れなのだろうか?
ある意味では、「逃れる」という概念こそが現実という物語の冒頭であるという考えが僕にはあった。では、「現実」に異世界へ行けば異能に目覚め、人に尊敬され、力で困難を克服し、英雄になることがはたして出来るのだろうか?
否。現実に異世界にてたどり着けたとしても、そこは「理」のみが違う世界であって、決して超常的かつ特別な力を持てるわけではない。
朝日が瞼に当たると、眩しさで目が覚めた。ここ二年の間僕が寝起きした場所はそんな日が差しそうな所ではなかった筈で、最初に目を開けて周囲を見渡した時に違和感を感じた。それでも懐かしさが込み上がってきたのは、二年より以前に通っていた大学の教室の中だったからだ。誰かの息子であり、誰かの友達であり、誰かの後輩であった二年間の大学生活を思い出したからだ。
「え?」
記憶がよみがえると最初に行ったのは、自分の体の隅々まで触れることだった。顔、手足、お腹、手が届く限りの背中、そして首。そこが最後になったのはきっと願っていたからだろう、思い出が夢であってくれと…。
(傷が…)
命すら危ないと思われた大怪我の名残がそこにある。夢ではなかった。
(つまり…二年間別の世界で生活して、今戻ってきた?)
寝ていた床から立ち上がり、僕は窓辺へと近づいた。朝日が眩しく手をかざして目を細め、窓の下に広がる見慣れていたはずの中庭を見る。誰一人としてそこを歩く者はいない。時計を見ると大学に人が来るまでやや時間がある。
(一限目が始まる前に、帰ろう)
荷物が残っているとも思えない。自分でも驚くくらい冷静な判断をして、僕は踵返した。
二年前に何が起きたかを書く前に、結果を先に書こうと思う。結果を書けば小説を読むときに主人公が死んでしまうのか不安に悩ませられることがないからだ。主人公などと驕りが激しいが、この場合僕を表現する言葉はそれ以外に思いつかない。
教室をでて、大学を飛び出す前に僕は入学時に入部した部室を覗き込んだ。少数ながら極めて優秀な和太鼓のサークルにようやく馴染みきった所だったのに、全部無駄になった。しかも鍵が変わっていたために中には入れなかった。
仕方なしに裏道を選んで大学をでた。既に朝の授業を受けるために登校し始めた学生を避けるために、入り組んだ住宅街を選んで通学路を避けて歩いた。
仮に可能性は薄くても顔見知りと会えば、それで面倒な騒ぎになりかねない。駅まで十五分の道のりは二十分、三十分を要してたどり着く。大勢のスーツ姿のサラリーマンが駅に入っていく波に乗ると、そのまま電車に揺られ家の最寄り駅へとたどり着く。今度はサラリーマンの波に逆らってホームに下りて、改札を通る。
(最後まで離さなかった、スイカが役に立つとは…)
チャージされていた金額に余裕は有ったが、むしろ残額がどのくらいだったなんて事は思い出してない。財布と鍵、この二つだけは二年間手放さなかった。
手持ちの現金は全て銀貨と銅貨に変わっていたのは、御愛嬌。下りた駅は所々変わっていた。長い間工事中だった駅の内装は、改札から見える二階部分に一目で分かるようにカフェの有名店や、チェーンのパスタ屋などが広告を掲げている。その上からは特等席なのだろう下を見下ろせるようにテラス風に広がっていた。
二年前と何も変わらない最寄りの駅を見ると、やっと安心感が湧いた。上京した若者が、地方に帰る時の心境とはこういうことなんだろう。
家まで三十分の道のりを僕は歩き出した。常にならバスを使う距離のはずだが、二年の生活が僕を変えた。とにかく歩くしか手段のない世界。歩けない距離は、行かないか列車を使う。それしかなかった世界。
周りの景色を見ながら考える。常に変わらないものが目の前に広がっているのに、僕は初めて見るように見渡している。気にしないはずの変化を一つも見逃すまいと視線を動かして、動かして動かす。
消防署の前を通る。
コンビニの前を通る。
知らない病院の前を通る。
友人の実家の前を通る。
家に…たどり着く。
公営団地の一つ。階段を五階まで上がって、金属のノブに手をかけ
ゆっくりと…
扉を開いた…。
こうして僕は帰ってきた。自分の世界に、自分の常識に。
だが、彼は?
彼はあの世界が彼の常識なのだ。
彼はあそこに暮らしている一人の人間だ。
だから彼の話をしたい。
僕の物語の主人公ではなく。
この物語の主人公の話を。
伊勢平野という彼の話を…