進入不可 その三
進入不可 その三 です。
今更ですが、この小説のジャンルはファンタジーです。
ただし、剣に魔法、モンスターなどは登場しません。
特殊な小冊子を手に入れてしまった男が
不可思議な現象と対峙していくお話です。
それから約二時間後、僕は石田春生と妹の桜子が住んでいるアパートで目を覚ました。左手首には腕時計が付けられたままで、時計の針は午後四時三十二分を指していた。外はもう白み始めているはずなのに、部屋が暗いのは遮光カーテンが引かれているせいだろう。曇っていて明朝の日差しが入ってこない可能性もある。
そんな外の天気を気にしている場合ではない。
僕が気を失うまでの話を黙って聞いていた桜子ちゃんは僕にどんな言葉を浴びせようか考えあぐねている様子だ。
どんな言葉が出てきたとしても今の僕には受け入れることが出来る。
「井上さんは、うちがおるのが嫌ってことでいいんだな?」
開口一番がそうなるとは予想もしていなかったけれど、嫌だなんて考えるわけもなかった。そうじゃなくてと、桜子ちゃんを宥めるように出来るだけ優しい口調で話しかけた。
「僕と一緒にいるせいで危険な目に遭うかもしれないんだ。それにこの呪いは残りの小冊子を探して読めばすぐに解かれる。だから、僕ひとりでなんとかなる」
「そげなことわかっちょーわね」
僕の返答の何がいけなかったのは全く理解できなかった。相変わらずの出雲弁で普通に怒っているかもしれないけれど、口調の強さが余計に怖さを増している。これ以上、桜子ちゃんを怒らせたくはないけど、言わないといけない。
「わかっているのなら駄々をこねないで。それにゴールデンウィークは明日まで、というか日付が変わって今日までだ。大学の授業だって始まる。君は学生で学ぶことがある。変な出来事に関わる必要なんてないんだ」
「そぎゃんこと言ったら、井上さんは社会人で仕事があーがね。お互いにやるべきことがあると違うか?」
「それは、そうだけれども」
大人という立場を引き合いに出しても無駄だった。これはどうやって納めればいいのか早めに考えないと。どのように言えば僕の気持ちが伝わるのかなどと考える暇もなく、桜子ちゃんは初めて会った時のように僕の胸座を掴んだ。
「井上さん、よく聞きんしゃいや。うちのことを心配してごさいのは嬉しいけど、それは違うけんね。うちは井上さんにまだなんもしてあげとらん。お兄ちゃんを探す時に、うちは井上さんに何度も助けられた。だけんな? うちにも井上さんのことを助けさせてよ」
助けさせてという言葉が僕の心を射抜いた。僕が桜子ちゃんを相手にしないという意味での寂しさ、助けたいという優しさ、そして、彼女が僕に抱く気持ち。それらの感情がすべて「助けさせて」という言葉に集約されていた。
もうこんな言葉を言われてしまったら、伝わってしまったら断ることが出来ない。
胸座を掴んでいる手に触れる。無理矢理ではなく、ゆっくりと丁寧に引き剥がす。僕の仕草に桜子ちゃんは素直に従って腕を降ろした。
「うちも一緒に探していい?」
桜子ちゃんはどうしたわけか、僕と視線を合わせようとしない。
「一つだけ約束」
「ん」と、言いながら小さく頷く。
「絶対に無理をしない」
「ん」
僕と目を合わせようとしないが短い返事だけが返ってくる。
「この約束を守れなかったら、君がどんなに怒っても、僕を嫌っても、一緒に小冊子探しはさせない。いいね?」
「ん、わかった」
「よし、じゃあ、早速だけどあの小冊子を僕に返してくれるかな」
なるべく明るい口調で話しかけてみる。重苦しい真面目な話の後は、これくらい砕けた感じのほうがいい、はずだ。お世辞にも僕は女の子の扱いが上手ではないので、正解などわからないのだ。
「あんな、井上さん」
桜子ちゃんの声は低い。まだ明るく振る舞うのは早かったのだろうか。
「どうしたの?」
「ごめんけど、お腹すいたけん、なんか作ってもいいーだーか?」
そういいながら、僕に顔を向けた桜子ちゃんは恥ずかしそうに唇から小さく舌を出して、笑った。後になって教えてもらったことだけれど、この会話をしている時、桜子ちゃんが僕と顔を合わせなかったのはお腹が空いて腹ベコの合図がいつなるのかわからなくて、もし恥ずかしい音が鳴りでもしたら死にたくなるから、正面を向けられなかったそうだ。
しかし、そう言われると、僕のほうも腹が減ってきた。よくよく考えれば上野公園に入る前に食べたものといえば、おにぎりくらいだ。その前に食べたものはほとんど吐き出してしまったので何か胃の中に入れたくなってきた。
「すこし早いけれど、朝食にしよう。冷蔵庫には何がある? 僕で良ければ作ってあげるよ」
「ほんに!」と、桜子ちゃんは目を輝かせた。そういえば、僕の手料理が食べたいと言っていたのを思い出した。いつかは振る舞ってあげようとは思っていたけれども、昨日の今日で作ることになろうとは考えもしなかった。
見たところ、この部屋の中にキッチンは見当たらずベッドから見て左手側に引き戸が見えた。その先がキッチンだと当たりをつける。何を作るのか冷蔵庫の中を見なければ始まらない。僕はベッドから足を降ろして立ち上がってみたが、予想以上に足腰に力が入らず、また腹部に痛みが走って再びベッドに腰を降ろしてしまった。
痛みが体の自由を奪っていくのがわかる。これはまともに歩くこともままならないのかもしれない。
「大丈夫?」
桜子ちゃんが側に寄って、僕の肩に手を乗せる。思うように体が動かないのは、社会人になって初めてのことだ。それもそのはず、僕は昨日一日で強烈な打撃を腹部に何度も叩きつけられ嘔吐したのだ。最後の最後では倒れた僕の頭を踏みつけられもした。あ、首の痛みはそのせいか、と冷静に思い返す。
「ごめんな。気が付かんと無理させてしまったわ。やっぱうちがご飯つくっちゃるけん、井上さんはそこで横になっとーといいわ。めっちゃ美味いもん作っちゃるけんな」
そう言って、桜子ちゃんは僕をベッドに寝かしつけて、キッチンの方へと消えた。
そして、キッチンのほうから換気扇が回る音が聞こえ始めた。
調理をしている桜子ちゃんを一人にさせたまま、僕は部屋を照らす照明を眺めた。
桜子ちゃんには強気な発言をしたものの、実際はなにもできない男だと思い知らされる。桜子ちゃんは守ってくれたと言ってくれたのは嬉しいけれど、実のところ、僕は何もしていない。渡辺姉妹に二度も襲われた時、僕は彼女の盾となり、身代わりになっただけなんだ。本当に守れる人というのは、立ち向かう勇気と力があることだと思っている。彼女が窮地に立たされた時、僕がやったことは意地と根性で立ち向かい捨て身になることだけだった。
僕が情けないのは今に始まったことではない。それにさっきは一緒に探そうと約束を交わしてはいるけれども、本当に危険なことが起きれば彼女を逃すことを優先するつもりだ。おそらく、そうそう危険なことは起きないとも半ば思っている。
僕に掛けられている呪いに危険性を感じられないからだ。
キッチンから包丁で何かを刻む軽快な音が聞こえてくる。それもかなり手際が良い。
何を作ってくれるのか予想はしているけれど、目の前のテーブルに運ばれるまではわからない、ということにしておこう。
僕はいつ打ち明けるべきか考えてみる。
僕に掛けられた呪いについて。
食事を始める前がいいのか、それとも後がいいのか。
引き戸が勢い良く開き、桜子ちゃんが顔を覗かせる。その隙間から魚の脂が焼きあがっていくいい匂いが鼻に届いた。
焼き魚なんて久しぶりだ!
「井上さん、卵焼き、ほんに塩でいい?」
そういえば、卵焼きの味付けについても話をしたっけ。
「塩でいいよ。むしろ塩じゃなかったら、卵焼きじゃないよ」
「そげだよね」
嬉しそうに答えて桜子ちゃんは引き戸を閉めようとした。
「桜子ちゃん」
「ああ、もうちょっと待って。この卵焼きが出来たらすぐに食べれるけんね。めっちゃうまいからおどろくでー」
「僕の呪いは、言葉が見えることなんだ」
閉じきろうとした引き戸を、桜子ちゃんは再び開いた。
「またなにゆっとらいかわからんけど、どういうことだ?」
「僕も詳しく説明できないんだけど、人の発した言葉の文字が視認できるんだ」
「漫画みたいにフキダシで見える感じ?」
「そんな感じ」
「そんだけだ?」
「それだけじゃなくて。視認できた言葉の感情や気持ちが直接伝わるんだ」
この言葉が見える呪いのおかげで僕は彼女が発した言葉に込められた気持ちや思いがわかったんだ。さらに、言葉の感情が僕の体と心に入り込む。
呪いの意味をきちんと理解できなかった桜子ちゃんだが、次第に顔色を変えて手にしていた菜箸を上下に降り出す。なんだろう、ちょっとその仕草かわいい。
「ちょーちょー。なんそれ。なんなんそれ。んじゃなんだで、そいじゃ、え? 待ってよ。うちがどんな気持ちでおるとか、そんなんもわかっとか言うで! そんなのって卑怯だで! おかしいわ! なして、もっとはや言ってくれんかったで!」
僕に言えないこと、伝えられない気持ちは、悪いけれど伝わっている。それはもう呪いのせいだということにしてもらわないと困る。
今度こそ、必死になって宥めようとした矢先、キッチンから黒い煙が上がってきた。換気扇では吸い込めないほどの焦げ臭い匂いがこちらまで臭ってくる。
「桜子ちゃん、魚! 魚!」
桜子ちゃんがキッチンの方へと振り返ると大きな悲鳴を上げた。
「もうなんもかんも最悪だわ!」
その言葉にちょっとした殺意が込められていることも、僕には伝わっている。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
進入不可 その三 いかがでしたでしょうか。
楽しんでもらえたのなら嬉しいです。
井上優太に掛けられた呪いがようやく明かされました。
明日も投稿予定としています。
よろしくお願いいたします。