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二枚目達の反乱

作者: 氷中冴樹

 その日、伊達芳明だて・よしあきにとっては、人生最悪と呼んでも良いような日だった。

 伊達芳明は、自他共に認める二枚目だった。事実、夕闇迫るこの公園の中にあって、彼を目にした者は思わず振り返らずにはいられなかった。

 赤い夕陽に照らされて、オレンジ色に輝く噴水を、ベンチに腰掛けてただボンヤリと見つめる若い男。その彫りの深い顔立ちには、悩まし気な憂いが漂い、長いまつげは夕暮れの風に震えて、だらしなく組まれた長い足にさえ、危うい均衡が感じられた。

 映画やテレビの画面ではなく、自分達と同じ空気を吸うところに、そんな人間が存在すること自体、目にした者には容易に信じられなかった。熱愛中のカップルの中にさえ、恋人にその腕を取られながらも、なにやら運命的な出会いを感じずにはおれない女性達も、決して少なくはなかった。

 女性達からは無条件の羨望を、男達からはそれに倍する嫉妬を、当り前のように受けるこの天下の二枚目が、何をそれほど落ち込むのか?彼の日常的な生活の場所から、かなり離れた、このそれほど有名でもない公園で、なぜボンヤリと過ごさねばならなくなったのか?その理由は、実に単純かつ、明解。余りに平凡かつ陳腐で、驚くよりも呆れるような理由からだった。

 伊達芳明は、今日の昼過ぎ、学校の食堂で彼の人生十八年間で、初めての体験をしたのだった。

 その体験とは、失恋だった。

 それも、決定的な上に、完膚無きまでに彼のプライドを崩壊させる、大失恋だった。

 生まれてこの方18年。相手をフルことは数知れず、ただの一度でも、相手から嫌われたことの無い男が、完全に、徹底的に、公衆の面前で嫌われたのだった。

 確かにどれほど顔立ちが良くて、性格が良くて、スタイルも良くて、頭も良くて、スポーツ万能ではあっても、伊達芳明という男を嫌う人間は存在する。大体においてそれは、俗に言うやっかみ半分であり、たいていは伊達自身が相手にしないような、世の中を斜めに見るような人種だった。どういう訳か、そういう人種は彼の学校の、主に同級生の男子達に多かった。

 けれども、彼自身が好かれたいと望み、自分から近付いて行くような相手から、彼は嫌われたことはなかった。少なくとも、好意を持たれることが、普通だった。

 それが若い女性となれば、彼に惹かれない方がおかしかった。

 そのおかしなことが、現実のものとなったのだ。

「お断わりします」

 簡単にそう言われて、伊達は相手の言葉を聞き間違ったかと思った。だからこそ、もう一度聞き直したのだった。

「君と、恋愛したいんだけれど?」

 少なくとも、常識的に高校生が学校の食堂で、そういうセリフを冗談以外に口にするとは思えない。

 ところが、そんな陳腐なセリフも、伊達が憂いを込めて、恥ずかしそうに言うと、まるで映画の一場面のような効果があるのだった。

「伊達さん、耳が悪くなったの。私は嫌だと申し上げているのよ!だいたい、あなたこの状況で、そんなセリフを口にして恥ずかしいとは思わないの!?」

 相手の女性をして、この状況と言わしめた状況とは、高校の昼休み、生徒職員が大勢集まった食堂というのが、まず大ざっぱな状況だった。それにたてて加えて、彼女は彼女自らが付き合いを公開してはばからない、男子生徒と一緒にラーメンを食べている最中だった。

 伊達芳明は、あろうことか相手が、恋人と食事している最中に、しかも衆人監視のド真ん中で、愛の告白を行なったのだった。

 天下の二枚目、学校のスーパー・スターをして、恋は盲目におとしめたと言えなくもなかったが、伊達の場合はやや様子が違っていた。

 要するに、彼には自信があったのだ。そういう状況でも、なおかつ相手が自分を恋してくれるという、生まれてこの方の経験によって培って来た揺るぎない自信が。

 だが、その自信は、この日この時、音を立てて崩壊した。

「私、伊達さんてもっと常識のある方だと思っていました。軽蔑します!」

 その一言で、伊達芳明の人生は硬直した。

「行きましょ、小堺君」

 彼女は、自分の前で、事態の推移と周囲の好奇の目をまったく無視して、黙々とラーメンを食べている恋人を促した。

「ちょっと待って。まだ、スープを飲んでいないんだ‥‥‥それに、君だって、まだ途中だろう?」

 天下の二枚目が同じ女性を争っているとは、とうてい思えない貧相な小男は、そう言うと返って非難がましい目で恋人を見返した。

「そうね。無礼なことをされたこちらが、出て行くことはないわね。あなたの言う通りだわ!」

 そう言うと女生徒は嬉しそうに座り直した。彼女の前に座る男子生徒は、その間まったく事態を理解していないんじゃないかと思えるほど、まったく変わらない態度でラーメンのスープをすすっていた。

 それも、激しく下品な音を立てて。

 どうなることかと、成行きを注目していた周囲のギャラリー達には、この下品なスープをすする音が、伊達に対する勝利宣言のように聞こえた。やっかみ半分、しかし充分な賞賛半分を込めて、食堂に居合わせた生徒達は、盛大な拍手と歓声を、このラーメン喰いの恋人同士に送った。

 みじめだったのは、伊達の方だった。

 彼の華麗なる告白タイムは、ラーメンのスープをすする音に、無惨にも前代未聞の茶番劇へと転換して行った。

 学校のスーパー・スター。華麗なる二枚目として、築き上げて来た栄光は、この瞬間あっけなく崩れ去った。彼の名誉のために付け加えるならば、この日、彼が熱い想いを告げた相手は、決して彼に釣合わないような女性ではなかった。

 彼女の名は、朝永貴子ともなが・たかこ。父親は大学教授で、母親は有名なバイオリン奏者。本人は女子テニス部のキャプテンを務めながら、生徒会の副会長にも選出される人気者。

 眉目秀麗にして、才色兼備。学校のナンバー・ワンとは行かなくとも、決して二位以下に落ちることはない。彼女は、そういう女性だった。

確かに、確かに彼女と親しい女生徒の間では、彼女の男性に対する好みが一風変わっていることは、よく知られていた。しかし、男子テニス部のキャプテンにして、生徒会長の伊達こそが、彼女にふさわしい男であることは、衆目の一致するところだった。

 事実、ごく最近までは、本人同士を除く、ほぼ全校生徒の間で、彼らは公認のカップルと思われていた。そして、伊達はそれが二人の間でも、いすれ既成事実のなることに、露ほどの疑いも抱いていなかったのだ。

 それが、つい最近になって、驚天動地の出来事によって覆された。

 時は文化祭。ところは、今日と同様、ほぼ全校生徒が注目する、ファイヤー・ストームという絶好の舞台。

 女子テニス部のキャプテンにして、生徒会副会長も朝永貴子は、およそ手を取りそうにもない相手の手を取った。生徒や教師の誰もが呆気に取られる相手と、彼女は最初から最後まで、仲良く腕を組んだままだった。

 その相手の名は小境和馬こさかい・かずま。今やマンガ部と化した美術部の中で、唯一まともに油絵を描き続けている変わり者で、美術オタクと陰口を叩かれる存在だった。

 小境は、絵を描くことだけが取柄で、成績は万年低迷の最下位クラス。もちろんスポーツなどとは縁遠く、御多分に漏れず人付き合いも下手。美術部の部長になったのだって、他に成り手がいなかっただけだった。その上、いつも絵の具で汚れた汚い白衣を着いて、ファッションセンスなど皆無。およそ、女生徒達からはゴキブリのように嫌われるか、薄気味悪がられるの精一杯だった。

 そんな男が、何をどう間違えたのか、伊達の想い人を射止めたのだった。最初は心優しい彼女のボランティアさと、伊達は努めて冷静に受け止めようとしていた。ところが、暇さえあれば、美術室へいそいそと通う朝永を見送るに連れて、冷静さは次第に焦りへと変わって行った。

 そんな彼の元へ、美術部長は副会長にヌード・モデルをさせるという噂が届いた。ついに意を決した伊達は、生徒会長の権限で彼女に迫った。

 噂は本当か否か?そして、どういうつもりで、あんな貧相な男と付き合っているのかと‥‥‥。

 前半は生徒会長の権限に属することかも知れないが、後半は完全に私情から来る質問だった。そんな彼のやり方の、低俗さと幼稚さに呆れながら、朝永は答えた。

「噂は本当です。ただし、今すぐということではなくて、いずれその時が来たらいう約束です。ただ、勘違いしないで下さい。今がその時でないというのは、小境君がそう言ったからで、私としてはいつでも彼のために脱ぐつもりでいます!」

 面と向かってそう言われて、伊達は硬直した。

 そして、余りのショックで、普段は言いそうにもない、不用意な一言を口にしてしまった。

「君が脱ぐほどの魅力が、彼自身にも彼の絵にも、あるとは思えないけどネ‥‥‥」

「会長こそ、彼自身と彼の絵の価値がわからないとしたら、大した審美眼はお持ちではないのでしょうネ」

 これ以上用がなければ失礼しますと言うと、朝永は荒々しい足音を残して、生徒会室を出て行った。後には、プライドに泥を塗り付けられた伊達だけが残った。

 それでも伊達は、まだ男性の魅力としては、自分の方が上だと信じていた。だから、正面切って愛を告白すれば、彼女はきっと自分に戻って来ると確信していた。

 きっと、彼女のこの頑なな態度は、自分が今までハッキリしなかったことに対する当て付けなのだ。そうでなければ、朝永貴子ともあろう女性が、あんな男と‥‥‥この時、伊達の思考回路が正常に作動しているとは、とても言えなかった。

 そして、今日。伊達芳明は、悲劇の食堂へと足を向けたのだった。

 いったいその後どうやって、この公園にやって来たのか、伊達にはよくわからなかった。気が付いたら、この公園のベンチで、ボンヤリと噴水が定期的に噴き上がるのを見つめていた。

 もちろん、学校の午後の授業はサボったことになるのだが、彼が無断で学校を早退したのは、これが始めてのことだった。

「待ち合わせているんです!」

 噴水の向こう側から、良く通る若い女性の声が届いた。

 噴き上がる水のしぶきを透かしてみると、噴水を挟んでちょうど反対側で、背の高いスタイルの良い若い女性に、数人の男達が言い寄っているところだった。

「シャン(美人)だな‥‥‥」

 そう我知らず呟くと、伊達の体は無意識に立ち上がって、その女性の方へ歩き始めていた。

 軽く髪を掻き上げるその動作は、目撃した女性をうっとりとさせずにはおかなかった。

「お待たせ」

 伊達は、極自然にそう言うと、女性の腕を取った。

「何だテメーは!?」

 周囲の男達と、その下品な言葉は、伊達芳明の目にも耳にも届いてはいなかった。

 彼は、自分が腕を取った女性が、予想以上に美しいことに満足していた。

「何だおめェーは?」

「ようよう、あんちゃんよう、いいカッコすんなよ!」

 余り人相の良くない若い男達が、いきなり入り込んだ伊達を囲んだ。

「君の知り合い?」

「いいえ‥‥‥」

 いい声だと、伊達は思った。

 顔よし、スタイルよし、それに声もいい。伊達にとって、窮地を救うべき条件は揃っていた。

「野郎!スカシやがって!!」

 気の早い一人が、いきなり伊達の胸ぐらを掴もうとした。

 恐らく、色男金と力はなかりけりという、古くからの言葉を安直に信じた結果だったのだろう。残念ながら、スポーツ万能という伊達にとって、その言葉は必ずしも正しくはなかった。

 伊達は相手が掴みかかるところを、実にタイミング良く、ヒョイと避けると、相手の短い足に自分の長い足を軽く絡めた。伊達に掴みかかろうとした男は、そのままバランスを崩して、仲間の一人に方へ倒れ込んだ。

「あら、ごめんなさい‥‥‥」

そんな殊勝な言葉を口にして、倒れた込んだ相手に向かって、伊達は笑顔で手を差し伸べた。もちろん、相手にそんな手を取る気がないことを承知の上での動きだった。

 差し伸べられた伊達の手は、そのまま空を切って、背後に回った別の男の顔面に甲の方から当たった。

「あれまた、どうしちゃたんだろう?」

 そう言って、向きを変えた伊達の足が、残り二人の男の腹と腰を、交互に蹴り上げるに至って、男達はようやく伊達の能力を認めた。

 彼らが、どうしてもこの若い女に用があるというのなら、また展開は違っていたはずだ。しかし、彼らとしてはいい女が一人でいるという以外に、これという理由はなかったらしい。

 さらに、何の前置きもなく伊達に手を掛けたのだって、二枚目がいい子ぶって出て来たことに、とっさに反発しただけのことだった。伊達が見かけ以上に喧嘩に慣れていることを知ると、それ以上どうこするつもりもなかったようだ。

「何だ、男連れかよ‥‥‥やんなるなァ!」

「あんちゃん、ダメだよこんないい女待たせちゃ、悪い奴が多いんだから。なッ!」

 などと訳のわからないことを口にすると、男達はそそくさとその場を後にした。

「ずいぶん、待たせたわね」

 美女の意外な言葉に、多少伊達は戸惑った。

「そうだったかな?」

 当り障りのない言葉でかわしておいて、伊達は相手の顔を覗き込んだ。

 どこかで見た顔だろうか?付き合った女の中には、いなかったようだが‥‥‥伊達が、短い時間で考え込んでいると、女は面白そうに微笑んだ。

「さっきからずっと、そう、一時間以上も、あそこに座っていたでしょう?」

 女はそう言って、噴水の向こう側のベンチを指差した。

「どなたかとお待ち合わせ?それなら、余計な手間を取らせて、相手の方に悪いことをしたわネ‥‥‥」

 そう言いながらも、相手の瞳がイタズラっぽく笑っていることに、伊達は気が付いた。

 どうやら、お見通しらしい。伊達は、軽く肩をすくめた。

「待ち人来たらず、ただ、去り行くのみ‥‥‥ってネ!」

「あら、まァ。あなたみたいなを袖にする女性が、いるのかしら?」

「あなたもそうお思いになる?そうなんですよ、俺にも意外でしてね‥‥‥よろしかったら、歩きながらお話しませんか?あッ、それとも、あなたこそ、誰かとお待ち合わせでしたか?」

 いかにも粗忽といった態度で、取って付けたように言う伊達の態度は、彼が長身の優男でなければ、嫌味以外の何者でもなかっただろう。

 相手の女性は、そんな伊達の態度に、心から楽しそうに笑うと、今度は自分から伊達の腕を取った。

「わたくしも、相手にフラれましたの。よろしければ、お話させていただけません?」

「喜んで。でも、こんなに素敵なあなたのような方をフルなんて、その男は正気とは思えませんね」

「その言葉、そっくりお返しますわ」

 美男と美女が、そんなことを話ながら、腕を組んでゆっくりと歩き出すと、公園の中で行き交う人は、誰も彼もが一度は振り返った。

 そんな羨望と嫉妬の入り交じった視線を、二人は当然のように受け止めながら歩いていた。二人の背後で、ライト・アップの光が吹き上がる噴水を、鮮やかに照らし始めていた。

「驚きましたわ。似たような話って、あるものですね!」

 公園内のシャレた喫茶店で、伊達に助けられた御野原鈴子みやのはら・すずこはそう言って、驚きの表情を作った。

 その整った顔立ちと、スラリとした体格。それに何と言っても、落ち着いた雰囲気から、女子大生かOLを予想させる彼女だったが、実際には伊達と同じ高校生だということだった。

 もっとも、伊達の方はその豊富な女性経験から、相手の年齢はほぼ正確に推測していた。ただ、まさかその相手が自分と同じような体験をしていようとは、さすがに思ってはいなかった。

「同じような話って、あるものなんですね‥‥‥」

 伊達は、じみじみと呟くと、既に冷めてしまったコーヒーを、一気に飲み干した。

 鈴子の場合も、伊達とほぼ同じ経過を辿った。ただ、少し違いがあるとすれば、彼女の場合は相手つまり男が、子どもの頃からの知り合いだということだった。

「幼馴染みと言うことで、油断していたのね‥‥‥」

 鈴子は言った。

 御野原鈴子の実家は、御野原流という日舞の家元を代々やっていた。

 鈴子も子どもの頃から、舞はもちろん一通りの習い事はすべて治めていた。その中で、たしなみとして近所の合気道道場にも通っていた。さっき、チンピラに絡まれた時の尊大な態度の根拠は、その道場通いから来る自信だった。

 田代慎一たしろ・しんいちは、その道場の跡取り息子だった。家が近いこともあって、小さい頃から共に修行した仲だった。

「親たちも仲が良かったせいか、いずれ夫婦になんて話は、子どもの頃からよくしていたわ」

 遠い目をして鈴子はそう言った。

 伊達は何と答えていいのかわからず、結局何も言わなかった。伊達の場合は、高校生になってからの知り合いで、それも数ある女の中の一人という感覚だった。ある意味で、純情を貫いて来た鈴子を前にすると、どうも自分のことは軽薄に思えた。

 当然のように同じ高校に進んだ頃、慎一の態度がおかしくなったことに鈴子は気が付いた。慎一は、跡継ぎを期待され、それに応える才能を充分に発揮していた。

 それは、鈴子も同じだった。家の後を継ぐこと、それは鈴子にとって当り前のことだった。だから、慎一もそうだと、彼女は勝手に思っていたのだった。

 ついに、慎一は父親と大喧嘩をして家を飛び出した。彼は、何とバンドのギターをやっていたのだった。

 鈴子には、晴天の霹靂だった。しかも、そんな慎一の傍には、見慣れない小柄な女の子の姿があった。

 泉桃子いずみ・ももこ。鈴子達の高校の、生物部の部員だった。

 つまらない女の子。

 一言で言って、それが鈴子の泉桃子に対する印象だった。そこそこの進学校で、文化系の生物部と言えば、大半が籍だけ置いている幽霊部員というマイナーなクラブの代名詞みたいなものだった。

 桃子は、そんな不熱心な部員達の中で、ほとんど唯一真面目に活動している生徒だった。本来は部員が交代でしなくてはならない、生物部が飼っている動物の世話を、彼女はほとんど一人で、しかも毎日か欠かさずやるような娘だった。

 成績も中の下くらいで、大したことがなく、スポーツと名の付くことは跳箱すら満足に飛べなかった。当然、男子生徒の興味の対象になることは、彼女が女子であるという点を除いては、ほとんどなかった。

 それがいったいどういういきさつでそうなったのか、鈴子にはまったくわからなかったが、いつの間にか、田代慎一と親しくなっていたのだた。

「ご丁寧に、わざわざ教えてくれる人がいてね、慎一と彼女が仲良くなっていますよって‥‥‥でも、わたし、本気にしなかった。と、いうか、本気にする理由がまったくなかったのよ」

 優雅に、コーヒー・カップを口に運びながら、鈴子は呟くように言った。

 長いまつげが微かに揺れる、そんな鈴子の良く通った鼻筋を、失礼ならない程度に見つめながら、伊達は頷いていた。自分も、まったく同じだと。

自分から見てそれほど価値があるとは思えない存在に対して、人の感性はどうしても鈍くなりがちだ。別に、それは相手を侮るとか、下に見るとか、そういう優劣の問題ではなく、純粋に視界に入らない、興味の対象にならないということなのだ。

 伊達や鈴子が二枚目だからと言って、彼らが人並以上に優越感が強いとか、プライドが高いとかいう訳ではなかった。確かに、幼い時から人から誉められこそすれ、けなされることない人生を送って来たのだから、相応のプライドというものはある。また、ある程度、自意識も強いかも知れない。

 しかし、それはあくまでも程度の問題で、世間一般から見て飛び抜けて高いという訳ではなかった。

「結局、人はそう見ないということなのかな?」

 空になったコーヒー・カップの取っ手を、指の先でクルクルと回しながら、伊達は独り言のように言った。

「そうね、人は勝手に決めるわね。ああいう顔だから、こうに違いない。こういう育ちだから、きっとこうだろう‥‥‥中身なんて、みんな大した違いはないのにね」

「人並にトイレにも行けば、ゲップもする?」

「そうそう!」

 鈴子が、自分の言葉に、形の良い唇を緩めて微笑むのを見て、伊達もなんだか嬉しくなった。

「だいたい、何で二枚目は失敗しちゃいけないんだ?失敗しない人間なんて、この世にいる訳ないじゃないか!?」

「そうそう、美男だって美女だって、真剣に恋もするし、フラたら悲しいし、悔しいのよ!」

 思わず知らず、少し鈴子は興奮し始めたらしい。

 彼女が、思わず音をたててコーヒー・カップを受け皿に戻すと、周囲の何人かが振り向いた。しかし、神を撫で付けて、少し気を落ち着かせた鈴子は、やや声のトーンを落としながらも、断固した口調で続けた。

「だいたい、おかしいと思わない?映画だってマンガだって、たいていのドラマと来たら、ほとんど判で押したみたいに頭が良くて、裕福で、品がある美男美女は悪役よ!?しかもたいてい、意地が悪くて、プライドが高くて、そのクセ負け惜しみが強い、嫌な性格だと相場が決まっているわ!!これって、立派な、一つの偏見だと思わない!?」

 いくらなんでも、そう一方的に決めつけることもないだろうとは思いながらも、伊達にしてもそう思わないではなかった。

 苦笑いを押し殺すのに苦労した伊達は、何気なく視線を外の公園の風景に向けた。既に木々の緑は闇に沈み、コンクリートの敷石やプラスチックのベンチは、水銀灯の明りに妖しく照らし出されていた。

「そう言えば、完璧な美男美女のカップルって、余り見ないよな‥‥‥」

年齢や服装にバラつきはあるものの、空が夜の闇に閉ざされるようになって、園内にはことの他カップルの姿が目につくようになっていた。

 と言うより、時間と場所の問題なのか、男女のカップル以外の組合せは、捜す方が難しいような雰囲気だった。そんな、数多くの二人連れを見るとはなしに見ていて、伊達はフト以前から気になっていた疑問を口にした。

「そう?そうね、言われてみれば確かに‥‥‥」

 伊達や鈴子ほど顕著ではないにしても、俳優ばりの二枚目や美人というものは、そこそこに存在していた。

 ところが、これが奇妙なことに、なかなかいい男の相手は、可もなく不可もない程度の顔付き。女が美人であれば、どちらかと言うと男の方は水準以下というような顔付き。まァ、人間顔だけじゃないというのは真理だとしても、どうしてこうも、見事にアンバランスなのか、不思議と言えば不思議だった。

「何か、面白くないな‥‥‥」

「何だか、腹が立って来るわ‥‥‥」

 二人は、ほぼ同時にそう言うと、外に向けていた視線を、それぞれ相手の顔に向けた。

「世間の相場が、そうだとしても‥‥‥」

「どうして、私達が、それに付き合わなきゃいけないの?」

 世間一般から見て、充分に美男美女の二人は、お互いにそう口にすると、相手の顔を見て微笑んだ。

「たまには、世間の常識に挑戦するのも、悪くないな」

「二枚目達の復讐という訳ネ?」

「いや、単なる反乱さ。美男美女と言われる者達の‥‥‥」

 伊達の、彼の顔付きだから似合うキザなウインクに、鈴子はこれもまた、平凡な顔付きの女がやれば嫌みな表情で頷いた。

「乾杯しましょう。その、二枚目達の反乱に‥‥‥」

「本気?」

「もちろん!やる気なんでしょう?」

 優雅な仕草でウェイターを呼んだ鈴子は、伊達の問いにイタズラっぽい微笑を浮かべて応えた。

「昔から、悪事への誘いは、女の特権よ」

「訂正してくれ、美女の特権だ」

 ウェイターから渡されたグラスを目の前に掲げて、伊達は楽しそうに目だけで笑った。

 それに対して、鈴子も口元だけに微笑みを浮かべると、同じように、しかしグラスの高さは胸元に押さえて応じた。

 事情を知らずに、たまたまそんな二人の動作を目撃した周囲の人達は、その余りに絵になる光景に、驚かずにはいられなかった。そして同時に、意味もなく軽い嫉妬を感じずたことも、事実だった。

 世の中不公平だ!どうして、いい女には、いい男が付くんだ?世の中不公平だわ、どうしてあんないい女に、いい男が付いてしまうのかしら?当然と言っても、腹が立つわ!等々‥‥‥。

 中には、自分の目の前の相手を見て、お互いに思わず心の中でため息を吐いてしまった、やや不幸なカップルもいないではなかった。どちらにしても、伊達や鈴子からすれば、理不尽な意見であることに、変わりはなかった。

 次の日から、伊達を振った朝永貴子の恋人の近くに、御野原鈴子の姿が見られるようになった。そして、鈴子を振った田代慎一の恋人の周辺には、伊達芳明の影がチラチラするようになった。

 自分達の想い人が、いったいどれほど相手を選んだのか、お互いに相手の恋人に接近することで、それを確かめようというのだった。もちろん、相手がこちらに気を移したらしめたもの。所詮その程度の相手さと、想い人を慰めるにしても、蔑むにしても、やりたいようにできるはずだった。

 あまり建設的でも、健康的でもない話だったが、確かに彼らの言うとおり二枚目らしかぬ行動には違いなかった。それが、反乱と呼べるほどの代物かどうかはともかくとして‥‥‥。

「それで、状況はどう?」

 あの夜以来、二人の待ち合わせの場所兼作戦会議の場所となった、公園の中の喫茶店で、粋なスーツ姿の伊達は鈴子に尋ねた。

 花柄のワンピースに、レースの帽子というやや派手な服装の鈴子は、暑そうにその帽子で自分の顔を扇ぐと、首を振った。

「敵もさるもの、苦戦中‥‥‥そっちは?」

「同じく、暖簾に腕押し、糠に釘‥‥‥どうも、君の幼馴染みの好みは、よくわからん」

「それは、お互いさまよ」

 ピッシャっと言い切って、自分の前に出されたグレープフルーツ・ジュースを、鈴子は一気に喉に流し込んだ。

 その豪快な飲みっぷりに、伊達は少々驚いた。だが、汗で絡み付いた後れ毛と、口元からわずかにこぼれるジュースの雫に、見た目の穏やかさとは異質の、野生的な美しさを感じて、目を細めた。

「あなたの、想い人って、こう言っちゃなんだけど、少し変よ!」

 一気に飲み干したジュースのコップを、テーブルにトンっと置くと、長いまつげの下から見上げるように、鈴子が言った。

 そのいつになく真剣な視線に、伊達は言われた言葉の乱暴さにも気が付かずに、想わず飲もうとしていたアイス・コーヒーから口元を離した。

「彼女がどうしたって‥‥‥?」

「あの二人、ここのところ、毎週日曜日にはデートしているの、知っている?」

「小境の、スケッチに付き合っているんだろう?」

 面白くも無さそうに、伊達は言うとアイス。コーヒーを再び口元へ運んだ。

「あら、付けたりしたことあるんだ」

 鈴子の少し嘲笑じみた言葉に、伊達は答えなかった。

 いくら何でも、人のデートを付け回したなどとは、彼は認めたくはなかった。彼にしてみれば、それはあくまでも、恋しい相手を変態の毒牙から守ることが目的だった。いや、目的だとしたかった。

「ふーん、変態ねェ‥‥‥まァいいわ。ともかく、何事も起きなかったでしょう?」

 それは、その通りだった。

 余り何も起こらないので、とうとうバカらしくなって、伊達は付けるのを止めたのだった。あの情けない小男には、それが分相応だと、伊達は妙に納得していたのだ。

「まったく、わかっちゃいないわね。いいこと?仮にも女がめかし込んで、恋しい男と二人きり、それも人気のないところで、何時間も一緒にいるのよ!何で、何も起こらないよ!?」

 言われて、伊達はキョトンとしていた。

 それは男に、女をどうこうするだけの知恵も度胸もないからだと、彼はそれで納得していたのだ。改めて問い詰められても、他に考えようはないように思えた。

「いいこと、何時間も、あの二人の場合は、ほとんど半日、同じ場所に二人きりでいるのよ?それでも、何もしないってことは、女もそれでよしとしているということなのよ!?それがどーいうことか、あなたがデートで同じことをしたら、相手がどうするのか、考えてみればわかるんじゃないの?」

 相手がどうするかって、そんなことしたことがないからわからないと伊達は思ったが、一応自分なりに考えてみた。

 もし伊達が、デートで相手に話しかけもしないで、別のことを一心不乱に別のことをしていたとしたら、相手は‥‥‥。

「何かするだろうな、そりゃ。それでも何もしなければ、怒って帰っちゃうんじゃないか?」

「でしょう?デートっていうのは、そういうものよ。普通はね。ところが、あのトーヘンボク、ウンでもなければスンでもない、挙げ句に話しかけたらうるさい!邪魔するな!ですって」

「トーヘンボクって、あの小境?君、デートしたの?」

 意外そうな顔で、伊達は聞き返した。

「しましたよ。ちゃんと、美術や絵画の基礎知識を仕込んで、話が合うようにして、彼の行き付けの画材店で待ち伏せして、ぶつかった拍子に絵の具をバラ撒くなんて恥ずかしいマネして、お近付きになったわ。それで、あなたから聞いていた貴子さんの部活の日をワザと狙って、スケッチに誘ったら、簡単に乗って来るじゃない?これはもう、簡単だわと思ったわよ‥‥‥」

 目の前の美女が、あの貧相な小男を誘惑したかと思うと、伊達は不安と興味を隠すことはできなかった。

 それでも、それが浅ましいと感じる自意識が、なるべくさり気なさを装いつつ、先を促すように言わせた。

「それで?」

「もう、女としてのプライド、ボロボロ‥‥‥こんな惨めな気分にさせられたの、初めてよ!」

 鈴子は、伊達から聞いた話から相手の好みを考えて、TシャツにGパンというラフな装いにも、知性を感じさせる渋目のスケッチ・ブックを選んで勇躍出かけた。

 だが、結果は無惨だった。なるべく二人きりになれる、郊外の山の中を選んだにも関わらず、二人の間には男女の緊張感は、髪の毛ほども生まれなかった。

「挙げ句に、わたしは、足を取られて小さな川に転ぶという、醜態まで演じたのよ!」

「わざと?」

「まさか、わざとズブ濡れになるほど、真剣じゃなかったわよ!でも、上着はTシャツでしょ?少し危険だったけど、この好機を生かさない手はないと思ったのよ‥‥‥」

 濡れた鈴子のTシャツが、体の線をあらわにした姿を想像して、思わず伊達は唾を飲み込みながら、身を乗り出した。

 その反応に、やや冷めた視線を送りながら、鈴子は小さくため息を吐いた。

「そうよね、普通の、それが健全な男の子の反応よネ‥‥‥」

「それじゃ?」

「濡れたわたしを見て、そのままじっとしていろって言うのよ」

「はん?」

 伊達には、鈴子の言葉の意味が理解できなかった。

「いいこと、普通女の子が目の前で水に落ちて、濡れネズミになったら、大丈夫かとか何とか言って、下心があるにしてもないにしても、着替えろと、服を乾かせとか言ったりしたりするものじゃない?」

「そりゃ、そうだろうな‥‥‥」

「ところが、あの美術部長。いきなり、わたしをスケッチし始めたのよ!しかも、動くと怒るのよ!?」

 伊達は、最初は唖然として、次におかしくなった。

 確かに、水に濡れてTシャツが肌に吸い付いた鈴子には、それなりの色気や、意外な美しさが感じられても不思議ではない。むしろ、感じられて興奮する方が、正常かも知れない。

 小境というこの美術部長の美意識は、こと美術的な観点からは、極めて正しいのかも知れない。けれど、それはどう見ても、高校生の男子としては正常な反応とは思えなかった。

 自分自身の女性としての魅力ではなく、モデルとしての魅力しか相手にされなかったことが、鈴子のプライドを激しく傷付けたことは確かだった。他人にはおよそ見せたことのないような、醜態をさらした結果得たものが、そういう結論では確かに鈴子の立場はなかった。

「それで、どうしたの?」

「頭に来たから、そのまま帰ったわ。バカバカしいったらないわよ!それよりも、あなたの憧れの朝永さんときたらは、あんな男相手に一緒にスケッチするでもなく、日がな一日、ただ一緒にいるだけですって?信じられないわよ!いったい、何が楽しくて、一緒にいるのかしら?あなたに、心当たりないの!?」

「いいや、全然‥‥‥」

 そう答えて、伊達は心の中でため息を吐いた。

 それがわかるくらいなら、苦労はしない。それがわからないから、こんなこと頼んでいるんじゃないか!そう思いながらも、そこは女性の扱いには慣れたもので、相手に対する気遣いは忘れなかった。

「そんなことより、何だか、余計な苦労させたみたいだね。ごめんよ」

「いいのよ、やろうと言い出したのはこっちも同じだし、それでそっちの様子はどう?」

「それが、似たようなもので‥‥‥」

 伊達は、鈴子から聞いた鈴子の幼馴染み田代慎一の行動予定を検討し、彼と顔を合わせずに、その恋人と出会える時間と場所を捜した。

 鈴子の幼馴染みと顔を合わせたくなかったのは、計画がバレるのを警戒したことはもちろんだった。だが、相手が合気道の達人だということも、大きな理由にはなっていた。

 ともかく、その鈴子の幼馴染みを奪った相手、泉桃子は毎週日曜日ともなると、近くの公園の花壇の世話に赴いていた。鈴子によると、桃子と田代慎一との、デートとも呼べないようなデートは、もっぱらその公園が舞台ということだった。

 高校一年の女の子が、無骨な軍手をはめて、苗やらスコップやらを積んだ重そうな一輪車を押して歩く姿は、とても可愛いとか美しいとか呼べるものではなかった。しかし、何気なく言葉を掛けるとして、これほど好都合の場面もなかった。

「手伝いましょう」

 そう言って、伊達は強引に桃子から一輪車を奪った。

 鈴子と同じやり方で、芸がないと言えばそれまでだったが、やはり趣味が同じというところから話の糸口を見い出すことが、手っとり早かった。伊達は、植物好きの青年を装うことで、桃子の作業を手伝う口実を作ったのだ。

 実際のところは、伊達は土いじりなど大嫌いだった。しかし、ここでそんなことを言ってはいられなかった。花壇の土の中から這い出る、極太のミミズに内心穏やかでなかったが、それでも優等生の本領を発揮して、事前に予習しておいたことは完璧だった。

 すっかり、同好の士だと思ったのか、桃子は楽しそうに伊達の質問に答えた。

「それで?」

 土にまみれた、健康的な桃子の様子を聞かされて、鈴子は次第に苛立って来たのか、少しきつい口調で先を促した。

 鈴子の口調に、自分の本来の目的から、話の内容が逸脱しかけたことを知った伊達は、軽く咳払いをすると語調を改めた。

「あれは、まだバージンだな‥‥‥」

 次の瞬間、鈴子の罵声と同時に、彼女の持っていた帽子が投げつけられた。

 突然のことに、伊達は何が相手の気に触ったのか、わからなかった。わからないまま、その帽子を両手で受け取ったが、鈴子が空になったとはいえ、氷がまだ入っているコップを手に持ったのを見て、大いに慌てた。

「当り前でしょう!そんな、慎一がそんな、あんた、そんな目で慎一を見ていたの!?あなたは、そうかもしれないけど、あなたと彼を一緒にしないでちょうだい、この女ったらし!!」

 慎一を見ていたのも何も、伊達は鈴子の幼馴染み顔など知らなかった。それに、だいたい男女の仲を推し量る基準として、道徳的な価値観を抜きにすれば、極めて妥当なポイントだと彼には思えたのだ。

 彼は、鈴子がこの問題にこれほど興奮するとは、予想もしていなかった。しかし、彼の目の前には、興奮して、周囲の注目にも気が付かずに顔を紅潮させている、純情な女の子がいた。

 意外な相手の反応に、伊達は思わず普段の慎重さを忘れて、不用意な一言を口にした。

「ひょっとして、君もまだだったの?」

 ガチャンと大きな音がして、ガラスのコップが床に砕け散った。

 店中の注目を一身に浴びていることに、まったく気が付かないのか、背が高く顔立ちの美しい娘は、興奮し切った眼差しで目の前の男を見おろしていた。

 わずか数秒の出来事だったが、気が付いた時には娘の姿は入口の向こうに消えていた。店内のざわめきで、我に返った伊達はウェイターに詫びを言うと、弁償代わりに金を渡して、足早に店を出た。

「それにしても、彼女があんなにウブだとは‥‥‥」

 そう呟く伊達の口元に、なぜだか楽し気な微笑みが浮かんでいた。

 その夜、伊達の家に鈴子から電話があった。昼間の自分の態度を失礼だったと謝ると、今後も予定通り小境に近付くということを、事務的な口調で伝えただけだった。

 伊達はこの時、小境という美術部長のことや自分の憧れた朝永貴子のことよりも、御野原鈴子という女性が自分のことをどう思っているのかということの方が、ずっと重要になっていることに気が付いた。しかし、そのことを電話で口にしないだけの分別は、さすがに彼にも残っていた。

 伊達は、自分も予定通り、泉桃子に近付くと答えて電話を切った。

 次の日曜日。伊達は、泉桃子が来るはずの公園へ出向いた。

 朝のまだ早い時間で、公園にはジョギングや散歩のついでに、軽く運動するために寄ったおじさん達が多かった。穏やかな光景に、桃子が手入れをした花壇の花が、密やかに、しかし可憐に花を付けていた。

 伊達は、桃子が今日手入れをするつもりだと言っていた、植木の方へ足を運んだ。近付いてみると、熱と埃のためか葉がかなりしおれていた。

 伊達は足元の土を、踵で軽く掘り返そうとして驚いた。まるでコンクリートみたいに、土がカチカチに固まっていた。木の根本に生えている雑草すら、茶色く変色していた。

「水が少ない上に、排ガスと埃で木が弱っているところへもって来て、強力な殺虫剤やら除草剤のせいで、木全体が弱っているんだと‥‥‥」

 伊達の背後で、低い声が響いた。

 声の主に心当たりのある伊達は、驚きもせず、ゆっくりと振り返った。

「それでも、桃子の奴。何とかするんだって、市の公園課に掛け合いに行ったよ。もっとも、こんなこと、君には言うまでもなかったかな?」

 薄汚れたシャツに、細いネクタイをだらしなくぶら下げている相手の顔を見て、伊達は心の中で小さく頷いた。

 なるほど、この顔で合気道やっていて、しかもバンドのギタリストととなれば、そりゃ女は放っておかんな。鈴子が、小さい頃からこいつ一筋だったことも、わかるわな‥‥‥。

「田代慎一君かな?」

 さり気なく、伊達は相手の名を呼んだ。

 慎一は、少し意外そうな顔をしたが、すぐに何か思い当たったのか、少しはにかんで鼻の頭をかいた。

「そうか、桃子から聞いたのか‥‥‥案外、おしゃべりだからな」

「悪かったね、君みたいな人がいるのに、近付いたりして」

 伊達は、笑顔を浮かべながらも、相手の出方を慎重に窺っていた。

 だが、そんな伊達が拍子抜けするほど、相手は無頓着だった。

「仕方がないさ。あいつは、来るものは拒まずだし、何と言っても花の好きな人間に、悪い人はいないって言葉を、本気で信じているんだから」

「そこに、惚れたんだろう?」

「さァ、どうかな。俺は、花のことなんか、まるでわかっちゃいないし。約束は破るし‥‥‥そうか、約束なんて、あいつはしたことがないんだっけ‥‥‥」

 どちらからともなく、二人は公園のベンチに座った。

 伊達はとかく、慎一は本当に疲れているようで、今にも眠りそうな顔をしていた。

「市が管理している公園だ。素人が勝手に手を出しちゃいけないんだが、もう何年にもなるらしい。あいつが、手入れをするようになって‥‥‥」

 そう言って、慎一は公園の植え込みと花壇に目をやった。

 伊達は、今日ここに慎一が来ることを知っていた。知っていて、あえてやって来たのだった。どうしても、田代慎一という男に、会ってみたくなったのだ。

 だが、そうでありながら、伊達には何のために慎一と会うのかが、今一つハッキリしていなかった。鈴子のことを切り出したものかどうかとも考えながら、伊達は言葉を選んだ。

「付き合いは、長いのかい?」

「俺があいつを手伝うようになったのは、つい最近さ。でも、あいつが公園や学校の花の面倒見ていることは、すいぶん前から知っていた。おかしな奴がいるものだと思ったよ。せっかく植えた苗が、次の日にはそっくり踏み荒されていることなんて、しょっちゅうだった。変人扱いされて、すいぶんイジメられていたよな」

 伊達は、かなり意外な気がした。

 慎一がずいぶん前から桃子を知っていたことではなく、知っていながら、かなり冷めた目で見ていたような口ぶりだったからだ。伊達は、少し探りを入れてみることにした。

「そうすると、何度も彼女を助けた訳だ。それで、仲良くなったんだな」

「まさか、バカな奴だと笑っていたよ」

 伊達は自分の見方が当たっていたことに、かなり驚いた。

「聞いていいかな、君と彼女の知り合ったきっかけを?」

 何気なさを装った伊達の言葉だったが、慎一は口をつぐむとそれまで遊ばせていた視線を、真っ直ぐに伊達に向けた。

 伊達は、困ったような表情を作って、首をすくめた。

「ゴメン、単なる好奇心だ。気に触ったのなら、謝る」

「俺が、メチャメチャにしたのさ、この花壇を‥‥‥」

 感情の抑揚のない、直線的な声。それが、返って口にするものの、感情の激しさを物語っていた。

 伊達は、自分のしていることが、ひょっとするととてつもなく悪いことなのかも知れないと、ふと意味もなく膝が震えた。

「何もかもうまくいかなくて、それが当然のような気がして。何度でも植え代えて、面倒をみるあいつの姿が、たまらなく忌々しく感じて‥‥‥つまりは、ガキっぽい八つ当りだったんだな」

 伊達は、黙って聞いていた。

 慎一の言葉は、伊達に向かって話しているのではなく、自分自身に話しているような口調だった。

「それで、あいつ、どうしたとおもう?」

 ふと、慎一に問われて、伊達はゆっくりと首を振った。

 考えた動作と言うより、正直な反応だった。

「俺にむしゃぶりついた。俺が足で蹴って引き離すと、花壇の植えに身を投げ出した。泣きながら、どうしてどうしてって言いながら‥‥‥夜で、雨が降って来て、俺は最低の奴だった」

 伊達は、何も言うことが出来なかった。

 鈴子は、どうして泉桃子に慎一が惹かれたのか、わからないと言った。確かに、楽しそうに花壇の世話するだけの桃子と、それを不器用に手伝うだけの慎一を見れば、不思議な組合せだろう。

 けれど、ある日二人は巡り会い、心と心、本音と本音でぶつかり合った。例えそれが、最悪の結果であったにしろ‥‥‥。

 伊達は、心の中で大きくため息を吐いた。鈴子さん、ダメだよ。最初にいちばん醜いもの同士を見つめ合った二人には、顔立ちや頭の良さだけでは、どうにもならない。

「後で聞いたら、その少し前から、花壇荒しが続いていて、心配で、どうしても見に来てしまったんだと。まったく、何もできないクセに、危ない真似しやがる。後で、そう言ったら、そう言う俺はどう何だって、笑われちまった」

 恥ずかしそうに、うつ向きながらそう言った少し不良っぽい二枚目が、実は嬉しそうに微笑んでいることに、伊達は気が付いていた。

 伊達の中で、一つの答えが出ていた。

「それで、その犯人は?」

「近所のガキだった。後で見つけて、脅しておいたよ‥‥‥あっ、このことは桃子には言うなよ。子供を脅したなんてことを知ったら!」

「それなら、一つ取り引きと行こう」

 伊達は、この男に会って初めて優位に立ったような気がして、思わずニヤリと笑いながら言った。

 慎一は、キョトンとして伊達を見つめた。

「今度、あんたの美人の幼馴染みに会ったら、何でもいいから、無条件で謝るんだ」

「何だって?」

 慎一が、聞き返した時には、伊達は既に立ち上がっていた。

 慌てた慎一が、伊達を捕まえようと立ち上がると、公園の入口に桃子の姿が見えた。

「桃子さん!」

 伊達は、救いの神に手を振った。

 慎一は、桃子の手前手荒なことも出来ず、立ち往生してしまった。それを、目の隅で確認して、伊達は小さく頷いた。

 どんなことでも、本物にはかなわない。当然の理屈だった。

「桃子さん、手伝いは終わりだ。後は、あの乱暴な二枚目に頼むんだね。彼は、君にメロメロだよ」

 そう言って、何が何だかわからない桃子の肩を、軽くポンと叩くと、伊達は公園を後にした。

 自分がここに来ることは、もうないだろう。だが、せっかく覚えた演芸の知識は、何かの機会に役に立てよう。

 幸せに、お二人さん。馬に蹴られて、死んじまえだ!心の中で、そんな捨てゼリフを吐いた伊達だった。

「バレたみたい」

 さすがに、例の公園の喫茶店は使えないので、近くの別の店で出会うと、いきなり鈴子はそう言った。

 伊達は、とっさに自分の正体が田代慎一に知れたのではないかとギクリとした。なるべく冷静さを装いながら、彼はコーヒーを口元に運びながら、先を促した。

「誰に、何がバレたんだい?」

「あなたの片思いの相手、朝永貴子嬢に、わたしの正体がよ‥‥‥」

 鈴子は、再び小境和馬と出会うべく、彼のスケッチに行く先を調べて、先回りした。

 ところが、予定では別の用事で来れないはずの貴子が、小境と一緒に現われたのだった。内心驚いた鈴子だったが、あくまでも和馬と同じ絵画好きという姿勢を崩さずに、首尾良くお互いの紹介を済ませた。

 相変わらず、数時間というもの和馬は黙ってスケッチを続け、鈴子も同じようなことをしているフリを続けた。鈴子が呆れたことに、その間、貴子は和馬からも自分からも、少し離れた手ごろな場所を見つけると、黙ってそこに座り続けていた。

 自分が作った弁当の入ったバスケットを持って、黙って和馬の姿を見つめ続けているだけ貴子の様子には、鈴子には理解し難いものがあった。

「いいかげん飽き飽きして、どうしようかと思ったら、貴子さんが、お茶にしようと言ってくれたのよ。まッ、認めるのもシャクだけど、さすがにあなたの目に止まっただけのことはあるわ。声をかけるタイミングといい、弁当の用意の仕方といい、非の打ちどころがなかったわ。ところが、あの唐変木と来たら‥‥‥!」

 鈴子は、まるで自分のことのように、怒りをあらわにした。

 和馬は、生返事だけしておいて、一向に動こうとしなかったのだ。仮にも恋人が、自分のために作ってくれた弁当を食べようとしないなんて、鈴子には思いもよらなかった。

 だが、もっと意外だったのは、そのことを貴子が、当然のように受け止めていたことだった。

「文句を言うどころか、わたしに謝るのよ。この間はごめんなさい、失礼なことをしてしまって、ですって!水に落ちたわたしを、和馬が助けようともしないでスケッチしたことを、貴子さんが謝るのよ。もう、バカバカしいったらないわ」

 鈴子の憤激は、伊達にもよく理解できた。彼もまた、似たような感情を慎一と桃子に感じたのだった。

 なぜか、相手のことを、自分のこと以上に理解し認め合うことに、伊達と鈴子はお互いに、理不尽な苛立たしさを感じていたのだった。

「それで、何でバレたと?」

 鈴子が怒りで話題を別の方向に持って行くことを恐れて、伊達は軽く先を促した。

 鈴子も気を取り直すと、レモン・ソーダーのストローを喰わえて、喉を潤すと先を続けた。

「貴子さんがね、あなたのことを聞いたのよ。ひょっとして、うちの生徒会長、伊達芳明を御存知ですかって‥‥‥」

 さすがに、これには伊達も緊張した。

 思わず手にしたコーヒー・カップを、音を立ててテーブルに戻すと、目の前の涼し気な女性の顔を見つめ直した。

「知りませんが、どうしてって?聞くと、ただなんとなく、雰囲気が似ていたものだからなんて言っていたけど、あれは、何か掴んでいるわね。ひょっとしたら、こうして一緒のところを誰かに見られて、それが耳に入ったのかも知れないわ」

「おいおい、何でも自分と同じに考えるなよ」

 少なからず先走った鈴子の意見に、思わず伊達は苦笑していた。

 だが、鈴子はかなり真面目だった。

「あら、それ位の取り巻きがいるって、あなたも言っていたじゃない?」

「それはそうだけど、彼女はそんな陰口には耳を貸さないさ‥‥‥」

 言いながら、伊達は自分の言葉に含まれた意味の深さに、思わず口ごもった。

 鈴子は、さすがに気が付いたらしく、少し皮肉な口調で言った。

「それって、わたしへのあてつけかしら?だいたい、あなたもドジを踏んだようじゃない!?」

「なに?」

「慎一が、なんだか分からないけど、ともかくゴメンって、昨日、いきなり謝って来たわ‥‥‥言わせたの、あなたでしょう?」

 鈴子の言葉に、とりあえず伊達は答えなかった。

 鈴子は、伊達の沈黙を肯定と受け取ったのか、言葉を続けた。

「ともかく、何だかよくわからないけど、スッキリしたことは事実だわ。とりあえず、お礼は言っておくわね。ありがとう」

 長いまつげの目を伏せて、少し口ごもるように、鈴子は言った。

 再び、コーヒーを口元に運んだ伊達は、まったく別のことを口にした。

「もう、やめない?」

「そうね、潮時でしょうね‥‥‥これ以上、ままごとみたいな関係に振り回されるのは、美容にも健康にも悪いわ」

 鮮やかな手付きで、ストローを操りながら、鈴子はそう言ってジュースを吸った。

 そんな、何をやらせても非の打ちどころのない、完璧な動作と知性を感じさせる美しさを持った鈴子に、伊達は柔らかい視線を向けた。

「美容と健康のために、もっと建設的なことをしないか?」

 伊達は、情けないことに、自分の言葉が弱冠の震えを帯びていることを、自覚しない訳には行かなかった。

 彼はこれまで自分が経験したことがないほど、緊張しながら、決定的な一言を口にしようとしていた。

「ふーん、どんなことかしら?」

 恐らくは、相手の口から出るであろう言葉を予期しているのだろう。髪を掻き上げながら、艶やかに伊達を見上げる鈴子の表情には、自信に満ちた微笑みが浮かんでいた。

 伊達は、そんな鈴子の表情に苦笑しながらも悟った。結局、自分や鈴子のような種類の人間には、慎一と桃子や、和馬と貴子のような関係は、縁がないのだ。

 だが、それはそれでいいはずだった。世間から、何と言われようと、絵に描いたような見かけ通りの関係だって、あっていいはずだ。自分と鈴子なら、それが可能なはずだ。

「とりあえず、付き合ってみない?」

「それって、わたしが好きだということ?」

 艶やかに、しかしさわやかに、鈴子はイタズラっぽく笑った。

 誰もが羨む、妖しい美しさがあった。

「まずは、お互いを良く知るところから‥‥‥」

 すべて始まるのだと言いかけて、伊達は言葉を飲み込んだ。

 いや、正確には言葉を飲み込まされたのだった。伊達の顔の正面に鈴子の顔が接近し、やげてほんの一瞬、その唇が彼の唇に触れた。

 店内のざわめきがその瞬間に途切れ、次にため息と歓声ともつかない声が、店の中に溢れた。誰もが、絵に描いたような美男と美女との、決定的な瞬間を目撃した興奮に酔いしれていた。

「それが、恋愛の第一歩ということね。いいわ、わたしも今回のことで良くわかったわ」

軽やかに席を立った鈴子は、そう言って身を翻した。

「でも、覚えておいてネ。わたしは、そう簡単には捕まらないわよ!」

 店を出る時に振り返った鈴子は、伊達に向かってそう宣言すると堂々と胸を張って歩き出した。

 その後ろ姿を、目を細めて見送りながら、伊達は心の中で頷いていた。

 わかってるさ、今度は失敗しない。そうそういつまでも、二枚目達がやられてばかりいる訳がないだろう。

 外見だけでなく、内面的にも、誰にも文句の付けようのない完璧な関係を作る‥‥‥これはこれで、立派な世間に対する反乱かも知れない。

 そう思って、伊達は一人でニヤリと笑うと、足早に鈴子の後を追った。

 男が追って来るの知って、女は適度に歩調を落とした。二人が並ぶと、どちらからともなく、腕を絡めた。

 その仕草を目撃した人々からは、思わず小さなため息が漏れた。そして、彼ら彼女らは思った。どうせ、ああいう奴らは長続きしやしないさ!と‥‥‥。

 果して、本当の世間の常識がどちらにあるのか?完璧な二枚目同士の関係が本当に反乱になるのか?

 そもそも恋愛に常識だとか、セオリーだとかは存在しないという意見も、ないではないのだが‥‥‥。



END


個人的には、超珍しい純恋愛ちょっとコメディのそれも現代物の短編小説です。気に入っていただけたなら、これに勝る喜びはありません。なお、これ以外にもHINAKAの創作小説サークル『あんのん・http://ryuproj.com/cweb/site/aonow』のホーム・ページには、こちらに載らないマンガやアニメの評論や感想などが、創作小説に混じって置いてありますので、御覧いただければ嬉しい限りです。それでは、出来れば次作でお会いしましょう!

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