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第五章

ここまで、お読み下さっている方、誠にありがとうございます。

今回は、捜査編です。

そして、次回解決編です(早い)。

 十数分後、ぼくらは大学付属中央図書館にいた。いつ来ても、脅威の広さと在庫数を誇っている。建物自体は三階建てで、地下一階を含めて四階全てが、本で埋め尽くされているのだから驚きだ。

「ぎっしり本が詰まっちょるっ(ぎっしり本が詰まっているわっ)」

「予想以上に広い……」

 滅多にここへ来ない部長と妹は、圧倒されて戸惑っていた。

「あー、やっぱり図書館は良いなぁ」

 本棚に本が詰まっているのを見ると、なんだか無性に嬉しくなってしまう。本好きの性分だ。ここには、まだ読んでいない本が、読みきれないくらいあるんだ。図書館の静けさも、特有の雰囲気も、ぼくにはたまらない魅力だ。

 さっそく新しく入荷された本のコーナーから、一冊取って読み始める。すると、妹がぼくの肩を叩く。

「お兄ちゃん、何しに来たの?」

「あっと、いけないいけない。つい、読みふけってしまった」

 どうしても、本が目の前にあると本の誘惑に負けてしまう。この本を読むのはまたあとにして、やることべきを優先しなければ。 

 こちらに背を向けて、カウンターの奥で作業をしている司書さんに、声を掛ける。

「すみません、ちょっと確認したいことがあるんですけど」

「はい? あっ?」

 小さな丸眼鏡をかけた司書さんは、三つ編みをひるがえして振り返ると、ぼくの顔を見るなり目を見開いた。

「先日は、どうも」

「あ。ああ、どういたしまして」

 適当に答えるが、何が「どうも」なのか、さっぱり分からない。ぼくの様子を察した妹が、耳打ちしてくる。

「ほら、一昨日『図書館で煙草を吸う職員がいて困っている』って、相談に来た司書さん」

「あ。そうそう。そうだった」

 言われて思い出して、口の中で小さく呟いた。

 司書さんはぼくの怪我を見て、痛そうな顔をする。

「なんでん、殺されかけたそうで。大丈夫じゃった?(なんでも、殺されかけたそうで。大丈夫だった?)」

「はい、幸い打撲と擦り傷だけです」

 どうやら、昨日の事件は予想以上に広がっているらしい。しかも突き落とされたから、殺されかけたになっている。噂には大抵、尾ヒレが付くものだ。人から人へ何かを伝える時、どうして正しく伝わらないのだろう? 謎だ。

 司書さんは、言葉通りに受け取ったらしく、安心したように微笑む。

「それは良かった。で、今日はこちらに何か?」

「こちらでコーロギ先生が借りた本は、分かりますか?」

「ええ。図書貸し出しカードばお持ち頂ければ、お調べ出来っちゃけど……(ええ。図書貸し出しカードをお持ち頂ければ、お調べ出来るんだけど……)」

「図書貸し出しカードですか。しばらくお待ち下さい」

 司書さんに一言断りを入れて、足早に歩き出した。そして、図書館内で手持ち無沙汰になっていた、部長を探し出して声を掛ける。

「あ、いたいた。先生の貸し出しカードって、どこにあるか知っています?」

「そいじゃったら、クリボーが持っちょったはずじゃが。本ば探しちくっのは、クリボーの担当じゃったはずじゃかい(それだったら、甲斐さんが持っていたはずだけど。本を探してくるのは、甲斐さんの担当だったはずだから)」

「甲斐さんは、どちらにいるか分かりますか?」

 訊ねると、部長は顔をしかめる。

「クリボーの居場所なんて、知らんがよ(甲斐さんの居場所なんて、知らないわ)」

「ケータイで、聞けませんか?」

「そいならでくっと(それなら出来るわよ)」

 ストラップがジャラジャラ付いていて、キラキラシールでデコレーションされた、ド派手な携帯電話を取り出す部長。しかし、画面を見て顔を曇らせる。

「んだまー、圏外じゃが(あらまぁ、圏外じゃない)」

 部長が外へ飛び出していったので、ぼくと妹も慌ててついていく。部長は画面を見ながら右往左往し、アンテナが立ったことを確認すると、電話を掛け始める。

「もしもし、あたしあたし。うん、そうあたしーっ」

 新手の「オレオレ詐欺」か! と、今本人にツッコむワケにはいかないので、心の中でツッコミ。ふと妹の顔を見ると、どうやら同じことを考えていたようだ。ぼくらは、声を出さずに笑った。

 二分程すると、電話が終わったらしい。だが、部長は渋い顔をしている。

「クリボーのヤツ、カードば本に挟んじょったんじゃて(甲斐さんってば、カードは本に挟んでいたそうよ)」

「あー。それじゃあ、本ごと持っていかれましたね」

 思わず力なく肩を落とすと、妹が助け舟を出す。

「司書さんに、名前で検索掛けてもらえば?」

「ああ、その手があったか」

 再度、カウンターへ戻って、司書さんに話し掛ける。

「すみません。コーロギ先生の名前で、貸し出しした本を調べてもらえませんか?」

「そいは、本人じゃねぇといかんとですよ。カードばあいば、出来っちゃけど(それは本人じゃなければダメなんですよ。カードがあれば、出来るのだけど)」

「本人は出張中です。そして、カードは行方不明です」

「そいじゃ、残念じゃけんどお調べでけんですね(それでは、残念だけどお調べ出来ませんね)」

「そう、ですか」

 それは本当に残念だ。調べる手段を失って、途方に暮れた。

「どうしましょう?」

「部室に戻っかね(部室へ戻りましょうか)」

「それがいいと思う」

 やむを得ず、部室へ戻ることにした。その途中で、あることに気が付いて、先頭を切って歩いていた部長に声を掛ける。

「部長、もう一度甲斐さんに連絡取れますか?」

「取れっけど、どんげすっと?(取れるけど、どうするのよ?)」

「甲斐さんに直接、なんの本を借りたか、聞けばいいんですよ」

 少し声を弾ませながら言うと、妹が驚いたように目を見開いた。

「あ、そっか。甲斐さんは借りた人だから、知ってるはず」

「もう一回、掛けちみるが(もう一回、掛けてみるわ)」

 部長は張り切って、再度携帯電話を取り出した。そして、数分話して切った。

「どうでした?」

 部長は、メモしたらしい紙を、たどたどしく読み上げる。

「『ジャン=アンリ』、『カジミール』? 『ファーブル』の『昆虫記』の第十巻じゃったげな(『ジャン=アンリ=カジミール=ファーブル』の『昆虫記』の第十巻だったそうよ)」

「『ファーブル昆虫記』! 昔、夢中になって読んだっ!」

 何故か虫好きの妹が、男子児童のように目を輝かせて声を上げた。ぼくはタイトルこそ知ってはいるものの、読んだことはない。動物は好きだけど、昆虫はいまいち好きになれないんだよな。

「全く、お前は本当に多趣味だな。で? ファーブルって、何人だったっけ?」

「フランス人」

 妹が淀みなく答えたので、納得する。

「じゃああれは、フランス語か。読めないはずだ。それにしても、フランス語版のファーブル昆虫記を取って、どうするんでしょうね?」

「そんげ、読みたかったっちゃろか?(そんなに、読みたかったのかしら?)」

「お兄ちゃんを、突き落としてまで?」

 三人揃って唸ってしまう。三人寄れば文殊の知恵(三人集まって相談すれば、文殊=知恵を司る菩薩のような知恵が出る)という、ことわざ通りにはいかなかったようだ。しばらく考えて、発想の転換を試みる。

「例えば、コーロギ先生に恨みを持った人間の犯行、とかじゃありませんかね?」

「そいは、ないんじゃなかろか。だってケイちゃん、感謝さるることばあってん、恨みをこうごたねっはずじゃが(それは、ないんじゃないかしら。だって興梠先生は、感謝されることはあっても、恨みを買うようなことはないはずだけど)」

「だったら、逆恨み?」

 妹の発言に、部長は顎に手を当てて、考える仕草をする。

「ケイちゃんの才能ば嫉妬して? よかにせじゃかい? うーん……(興梠先生の才能を嫉妬して? イケメンだから? うーん……)」

 人の好みをどうこういうつもりはないが、イケメンか? あれが? ぼくには、四十代の森本○オにしか見えないんだけど。 

「それだと、お兄ちゃんを落とす理由がない」

 妹がきっぱりと言い切ると、部長はおどけた表情を浮かべる。

「マリオを恨んでいる人間かも、知れんじゃろが(利夫を恨んでいる人間かも、しれないじゃない)」

「ぼくは――」

「そんげヤツおらんっ。あいやんは毎日、世の為人の為に、ボランティアで相談員やっちょっとぞ! 恨みなんかこう訳なかっ!(そんな人はいないっ。お兄ちゃんは毎日、世の為人のために、ボランティアで相談員をやっているんだもの! 恨みなんか買う訳ないわっ!)」

 ぼくが口を開くより先に、妹が怒りの口調でまくし立てた。ぼくの為に怒ってくれていると思うと嬉しいが、ちょっと最近キレやすい。妹の背中を撫でながら、なだめる。

「お前がさっき言った、逆恨みかもしれないじゃないか」

「じゃったら、なおさらワリぃっ!(だったら、なおさら悪いっ!)」

 なだめるつもりが、失敗したようだ。恨みの線は、痛くもない腹の探り合いのようで、お互いの為に良くない。話題を変えた方がよさそうだ。

「もしかすると、本そのものじゃなくて、中身が欲しかったのかもしれません」

「中身?」

 部長と妹が小首を傾げたので、説明を付け加える。

「正しくは、中に挟んであったものでしょうか」

「挟んであったものって、図書カード?」

「そんげらもんぬすって、どんげすっと?(そんなもの盗んで、どうするのよ?)」

「それもそうですね。コーロギ先生の図書カードなんか盗んでも、利益価値があるとは思えませんね」

 図書館は、ここの高校生及び大学生はもとより、身分証明書があれば一般人も利用出来る。簡単に、しかも入会金、年会費一切不要。もちろん、利用も無料だ。例え紛失したとしても、再発行も容易だ。そんな物、盗む価値がない。仮に使おうとしても、すぐに本人じゃないとバレてしまうだろうし。

「うーん、分かりませんねぇ。一体何故、危険をおかしてまで、本を盗んだりしたんでしょう?」

「危険だったのは、お兄ちゃんの方」

 ぼくの呟きに、妹がすかさず真顔でツッコんできた。思わず苦笑しながら、頷く。

「まぁ、そうなんだけどさ。やっぱりコーロギ先生を困らせること以外、目的が思いつかないな」

 ふと、例の白い物のことを思い出した。少し俯いていた顔を上げて、口を開く。

「いや、待てよ? さっきの考えは近いかも」

「さっきってなんね?(さっきって何よ?)」

「『中身が欲しかった』って、ことですよ」

「図書カードじゃなかったって、いんまゆうたじゃろが(図書カードではなかったって、今言ったじゃないの)」

 首を横に振って、自分の考えを口にする。

「例の、白いものですよ」

「何それ?」

 驚いた様子で、妹が首を傾げた。

「ああ、そうか。お前は席を外していたから、知らないんだな。実は突き落とされる寸前に、長方形で手の平サイズの白いものを拾おうとしていたんだ」

「その白いものって?」

 妹に問われて、首を横に振る。

「それが、分からないんだ」

「分からない?」

「確認する前に落とされたから」

 力なく答えると、部長が小さくため息を吐いて、肩をすくめる。

「そいがなんか分かったら、事件解決なんじゃろがね(それが何か分かったら、事件解決なんでしょうけどね)」

「せめて、それが分かったらなぁ。ああもうっ、手掛かりが少なすぎるんだよっ!」

 ぼくはヤケになって、叫んだ。それを見た部長が、薄笑いを浮かべて足を組み替える。

「こんままじゃと、事件は迷宮入りんなりそじゃね(このままだと、事件は迷宮入りになりそうね)」

「ここに推理小説に出てくるような、名探偵はいない」

「いや、名探偵とくれば、殺人事件だから関係ないよ。被害者のぼくは、こうして生きているんだし」

 苦笑しながら、続ける。

「コーロギ先生がいたら、何か違ったかもしれません。でも、先生は講演会に出ていて、しばらく帰ってこないんですよね」

「八方塞がりじゃね(八方塞がりね)」

 こうして何も分からないまま、いたずらに時間だけが過ぎていった。

 

 ひとり池田屋事件から、六日後。

 夕焼け小焼けで日が暮れて、茜空にはカラスの鳴き声が良く似合う。カラスと一緒に帰りましょ~と、思っていた矢先、力強いノックの音が響いた。すかさず、部長が例のボケをかます。

「入っちょります(入っています)」

「入ります」

 野太い男の声が、返ってくる。部長のボケに動じないということは、きっと二回目以降の来訪なのだろう。ドアを開ける前に、満面の笑みを浮かべた図体のデカイ男がドアを開けた。

「誰だっけ?」

「四日前に相談に来た、失恋相談の人」

 妹に小声で訊ねると、耳打ちしてくれた。失恋相談に来た図体のデカい男って、あの暑苦しいあいつか。確か、児玉とかいう名前だったはずだ。名札にも、そう書いてあるし。

 児玉君は笑顔のまま、向かいにある椅子に勝手に座った。話を聞いてくれと、言わんばかりの表情だ。

「その後、どうなりました?」

 やれやれ。聞きたくないけど、聞かないといけない雰囲気だな。作り笑いを浮かべて訊ねると、児玉君は興奮した口調で話し始める。

「おおっ! 聞いちくるるか、相談員! 実はあいかい、もういっぺん彼女におうたっさ。そいで、堂々とゆったっと。『いんままでんおいは、偽りのおいじゃったっちゃが! 今度こそ、ホンモンのおいをみちくんね! 優しいだけじゃねぇ、強いこんおいを!』って。そんげしたら彼女、真っ赤んなってしもてから(おおっ! 聞いてくれるか、相談員! 実はあれから、もう一度彼女に会いに行ったんだよ。そして、堂々と言ったんだ。『今までの俺は、偽りの俺だったんだ! 今度こそ本当の俺を見てくれ! 優しいだけじゃない、強いこの俺を!』って。そうしたら彼女、真っ赤になっちゃって)」

 そりゃ真っ赤になるよ、そのセリフが恥ずかしい。ぼくならドン引きするぞ。自分の顔が引きつるのを感じながら、続きを促す。

「それで、彼女はなんと言ったのですか?」

「『今度こそ、本当のわば見せて!』って。目ぇウルウルさせよってから。そいがむじぃのなんのってもうっ! 見せたかったな~、あん顔!(『今度こそ、本当の貴方を見せて!』って。目をウルウルさせて。それが可愛いのなんのってもうっ! 見せたかったな~、あの顔!)」

 陶酔した表情で語る児玉君に、適当に相槌を打つ。

「そうですか、それは良かったですね」

「うん、そいかいさ、彼女おいにべったりでね。いや~ぁホント、こきに相談して良かったっと思ったっさ(うん、それからさ、彼女が俺にいつもくっ付いてきてね。いやぁ本当に、ここに相談しに来て良かったと思ったんだ)」

 児玉君は照れ臭そうに笑いながら、ぼくの肩を力強く何度も叩いた。気持ち悪いし、痛い。それより、あれを聞いてドン引きしなかったということは、やはり彼女も児玉君のことが好きなのだろう。

「あの、何か飲まれますか?」

 妹が無表情で訊ねると、児玉君はご機嫌で答える。

「アイスココアを頼むよ」

「分かりました。少々お待ち下さい」

「そんで彼女が――」

 妹が立ち去るやいなや、またしてもノロケ話を延々聞かされる羽目になった。長いので省略するが、要約すると、別れた彼女と復縁して、そりゃもう人もうらやむ仲の良さで上手くやっているらしい。ん? 「人もうらやむ」って、本人が言うのはおかしくないか? 

 まぁ何はともあれ、仲を取り持つことが出来たなら、何よりだ。

 アイスココアは、今日も上下に分離した。妹に入れ直してもらおうかと思ったが、児玉君はさして気にすることもなく、ココアをあおった。またしてもガラスコップの底には、沈殿したココアが色濃く残った。

「じゃあなんかあったら、またくっかいね~!(じゃあ何かあったら、また来るからね~!)」

 児玉君はノロケ話を思う存分話すと、そう言い残して上機嫌で帰って行った。ぼくはほとほと嫌気が差して、机に突っ伏す。

「いやもう、勘弁して下さい……」


 ひとり池田屋事件から、一週間後。

「トシぃ、今日も聞き込みすっかいねー(利夫、今日も聞き込みするからね)」

 朝も早から、元気が有り余っているハムが、意気揚々と声を掛けてきた。事件が起こってからというもの、毎日この調子だ。その有り余った力を、もっと別の方向へ向けたらいいのに。

「まだやるんだ?」

「当たり前じゃねけーっ! 犯人ばみつくるまで、とことんやらなーっ(当たり前じゃないの! 犯人を見つけるまで、とことんやらなくっちゃっ)」

 気乗りしないぼくの手を引っ張り、ハムは連日聞き込みに連れまわした。だが、捜査は一向に進展しない。それに一週間も経つと、話題性も薄くなり、記憶も曖昧になるらしい。

「そんげ前んごた、覚えちょらんが(そんな前のこと、覚えていないよ)」と、あしらうヤツもいた。

 ぼくらの努力を嘲笑うかのように、降りしきる雨が不快感に拍車を掛けていた。ハムの苛立ちも、最高潮に達する。

「あ~、もうひんだりー。トシぃ、ちょっ茶ぁしばかんけー?(あ~、もうとても疲れたわ。利夫、ちょっとお茶しない?)」

「賛成~」

 ぼくとハムは聞き込みに疲れて、学生食堂へ向かった。放課後なので、食堂内の人けはまばらだ。ハムはクリームソーダを飲んで、一息吐く。

「あ~、生きかやったぁー(あ~、生き返ったぁー)」

「まだ肌寒い時季なのに、よく冷たいものが飲めるな」

 呆れて言うと、ハムは不思議そうに首を傾げる。

「そう? ワタシはいくらさむしても、アイスクリームくうけど?(そう? ワタシはいくら寒くても、アイスクリームを食べるけど?)」

「なんでだよ? 一層寒くなるじゃないか」

 顔をしかめながら問うと、ハムはスプーンでアイスを掬って口へ運び、にっこりと微笑む。

「甘いもんば、別腹じゃかい(甘いものは、別腹だから)」

「いやいや。牛じゃないんだから、胃はひとつだろ?」  

 余談だが、英語でも「別腹」と同じ意味の「another hole(別穴)」と、いう言葉がある。どうでもいい、ムダ知識だが。

「まぁ、食堂内は暖房が効いているから、温かいけどさ」

 クリームソーダをすすってハムは頬杖を付き、急に難しい顔になって尋ねてくる。

「そいにしてん、犯行時を誰もみちょらんちゅーのはおかしと思わんけー?(それにしても、誰も犯行を見ていないのはおかしいと思わない?)」

「だよね。まるで口裏を合わせたかのように、『気付いた時には落ちていた』だもんなぁ」

 言いながら、あることを思い出して小さく笑った。それを見たハムが、気味悪がる。

「なんけぇー? 急にわろてからー(何よ? 急に笑って)」

「いやぁ、『藪の中』を思い出してさ。それと真逆だなって、思ったんだよ」

「やぶんなかー?」

 ハムが首を傾げたので、熱いカフェモカを飲みながら語り始める。

「芥川龍之介の作品でさ、『藪の中』っていう小説があるんだよ。登場人物は、第一発見者の木こりと、盗人と、一組の夫婦の四人だけ。それぞれ証言をするんだけど、木こりの証言以外は、三人共バラバラなんだ」

「バラバラって、どんげら風にけー?(バラバラって、どういう風に?)」

「まぁ聞きなって。まず第一発見者の木こりは『いつものように木を切りに来て、藪の中で男の死体を発見した』と、証言した」

 刑事ドラマやサスペンスミステリーなどが大好きなハムは、興味津々とばかりに食いついてくる。

「まぁそら、ミステリーの基本じゃねー。誰かんけしなんと、話が始まらんっちゃかい(まぁそれは、ミステリーの基本よね。誰かが死なないと、話が始まらないから)」

 誰か死なないと話が始まらないって、良く考えてみたら物騒な話だ。

「で、容疑者のひとりめの、盗人が証言するんだ。『ひとめぼれした女を、どうしても手に入れたくなった。そこで女の夫を木に縛りつけ、夫の目の前で女をレイプした。その後女を賭けて夫と決闘し、夫を殺した。振り返ると、女はいつの間にか藪の中へ逃げていた』」

 話を聞くなり、ハムは顔をしかめて吐き捨てるように言う。

「最低な男じゃねぇー(最低な男ね)」

「うん。この男がいなかったら、事件は起こらなかったろうね。で、ふたりめはその女だ。『夫の目の前で辱めを受けて、とても生きてはいけない。だから心中しようと夫を殺したが、自分は死ぬに死に切れなかった』」

「う~ん。夫を殺しちょいて、自分だけけしに切れんかったって。結局、自分がむじっちゃねー(う~ん。夫を殺しておいて、自分だけ死に切れなかったって。結局、自分が可愛いのね)」

 ハムは複雑な顔をして、何度か頷いた。ぼくも軽く頷いて、話を続ける。

「で、最後に死んだ夫の証言――」

「けしんだ人間が、どんげして証言すっとけー?(死んだ人間が、どうやって証言するのよ?)」

 言いかけたところで、仏頂面のハムが口を挟んできた。話の腰を折られて不機嫌になったぼくは、ぶっきらぼうに説明する。

「イタコが口寄せするんだよ」

「なんけ、そらおかしじゃろー(何よ、それはおかしいじゃない)」

「そんなこと、ぼくに言われたって困るよ。文句があるなら、芥川龍之介に言ってくれ」

 カフェモカをひと口飲んで、続ける。

「まぁとにかく、イタコの口を借りて夫が証言するんだ。『おれは木に縛られた上、妻を目の前でレイプされた。さらに盗人はおれの妻に、自分の妻になる気はないか? と、告白した。すると、妻は頷いた』」

 それを聞いて、ハムはますます渋い顔になる。

「はぁ? 訳分からん。なしけ、レイプ犯と結婚ばすっとー?(はぁ? 訳が分からないわ。なんで、レイプ犯と結婚するのよ?)」

「うん、ぼくも訳が分からない。しかも妻は『貴方について行く代わりに、夫を殺してくれ』って、盗人に向かって言うんだ」

「どうしてそうなったっけー?(どうしてそうなった?)」

 ハムは展開についていけずに、呆気に取られた顔になった。苦笑しながら、軽く頷いて先を話す。

「どうしてだろうね? でもこれには、さすがに盗人もドン引きしてさ。盗人は妻を蹴り飛ばして、夫に訊くんだ。『あの女をどうする? 殺すか? それとも助けるか?』」

「どうしてぇとけ、こん盗人はー(どうしたいのよ、この盗人は)」

「夫は引き続き証言する。『おれが戸惑っているうちに、妻は逃げた。盗人はおれの縄を切ると、妻を追って藪の中へ走り去った。縄を解きながら耳を澄ますと、聞こえるのはおれの泣き声ばかりだった』」

 死んだ夫に同情するように、ハムは頷く。

「そら泣くわなー。目の前で、最愛の妻がレイプされたっちゃかい。しかもその妻が盗人と結婚すって、とんでもねぇ女じゃねけー(それは泣くわよね。目の前で最愛の妻がレイプされたんだから。しかもその妻が盗人と結婚するって、とんでもない女ね)」

「全くだよ。ぼくも、夫には同情するね。で、その夫だけど『おれはおれの胸に小刀を突き刺した。その後、誰かが小刀を引き抜いた』そのまま出血多量で、夫は死んでしまったってワケだ」

 語り終えると、ハムは難しい顔をして腕を組む。

「矛盾しちょっちゃねけー。三人が三人とも、自分がやったゆうちょるなんて(矛盾しているじゃないの。三人が三人とも、自分がやったって言っているなんて)」

「でも、真実はひとつしかないはずなんだ。そして、他のふたりは嘘を吐いている。三人の証言で共通しているのは、妻がレイプされたことと、夫が死んだってことくらいだね」

「なるほど、謎が謎呼ぶ殺人事件ってワケじゃねー。おもしりくなってきたっちゃねけー。そいで?(なるほど、謎が謎呼ぶ殺人事件ってワケね。面白くなってきたじゃないの。それで?)」

 嬉々として先を聞きたがるハムに、残念なお知らせをしなければならない。

「おしまい」

「はぁー?」

「話はそこで終わりなんだよ」

 ぼくの答えを聞いて、ハムは憤慨した。

「なんけそらっ! 探偵や刑事は、おらんとけーっ?(何よそれっ! 探偵や刑事は、いないのっ?)」

「いないよ、それに解決もしないんだ」

「納得いかんがーっ! 中途半端にもほどがあるがーっ!(納得いかないわっ! 中途半端にもほどがあるわよっ!)」

「だけど、そうすることでこの話は魅力的になったんだ」

「魅力的?」

 ハムが小首を傾げたので、薄笑いをしながら補足する。

「これだけしかないから、ぼくら読者は想像するしかないんだ。真相はどうなのか? 犯人は一体誰なのか? いくらでも想像出来る。でも、答えは存在しない。作者の芥川龍之介も死んだ今、謎は謎のままとなった。謎は解けないからこそ、人を魅了するんだよ」

「わからんわー。ワタシは謎は解けてこそ、謎じゃと思っちゃけどー(分からないわ。ワタシは謎は解けてこそ、謎だと思うけど)」

 ハムは腕組みをし、納得いかないとばかりに渋面した。そんなハムを見て、思わず苦笑する。

「まぁ、考え方や見方は、人それぞれだからね。だから真相は『藪の中』なんだ」

 

「たぶん、一番初めに長木君ば見つけたんは、アタシじゃと思っちゃけど(たぶん、一番初めに長木君を見つけたのは、アタシだと思うのだけれど)」

 休憩後、またしばらく聞き込みを続けると、第一発見者を見つけることが出来た。「灯台下暗し」とはよくいったもので、心理学研究部向かいの科学研究部の部長が、第一発見者だった。関係ないけど「灯台下暗し」と「大正デモクラシー」って、ニュアンスが似ていると思う。閑話休題。

 発見当時の状況は、次の通り。


 事件当日。雨が降りしきる中、けなげにも体育系の部活はほとんど外へ出払っていた。理系の部活(心理学研究部を除いて)は真面目に、部室で部活動にいそしんでいた。

「ぁぁぁぁ……」

「ん? いんまなんか聞こえんかったっかね?(ん? 今何か聞こえなかった?)」

 ようやく準備が整って、いざ実験に取り掛かろうとしたところで、化学研究部部長の岩佐由美子いわさゆみこは妙な声を耳にした。実験用のグローブとゴーグルとマスクを付けた男子部員のひとりが、由美子に訊ねる。

「運動部の音じゃねぇと?(体育系の部活の音じゃないのか?)」

「いや、なんかちげぇ気がすっちゃが。なんちゅーか、胸騒ぎっちゅーか……(いや、何か違う気がするのよね。なんと言うか、胸騒ぎというか……)」

 標準より控え目な胸の谷間を、由美子は手で押さえた。部員が、怪訝な表情で助言する。

「そんげ気になるんじゃったら、ちょつ見てこんね(そんなに気になるんだったら、ちょっと見て来なよ)」

「ああ、うん。アタシが戻るまじ、始めんでよ?(ああ、うん。アタシが戻るまで、始めないでよ?)」

 由美子は部員達に釘を刺し、部室から顔を覗かせる。見渡すが、誰もいない。

「はて? なんかと聞きまちごぉたっちゃろかい?(はて? 何かと聞き間違えたのかしら?)」

 由美子はグローブとゴーグルとマスクを外し、廊下へ出た。今一度廊下を確認するが、やはり誰もいない。

 化学研究研究部の向かいには、心理学研究部がある。そちらから聞こえたのかと思ったが、今は話し声がわずかにもれてくるくらいだ。そもそも、心理学研究部から大きな音がすることは、少ない。

 むしろこちらが、実験中の音で迷惑を掛けているくらいだ。この間はうっかり電圧の調整に失敗して、あたり一帯の窓ガラスをビリビリと共鳴させてしまった。幸い割れはしなかったものの、一時は騒然となったものだ。

 科学部の部室のドアを開けっ放しにしたまま、由美子は最北端の科学研究部から南へ向かって歩き始める。

 さすがに三階ともなれば、体育系の部活が発する威勢の良い声も半減する。窓を開ければ聞こえるが、締め切ってしまえば静かなものだ。

「……」

「え?」

 もし廊下に誰かがいたら、もし窓が開いていたら、聞き逃してしまったであろう小さな声。そちらへ目を向けると、階段があった。登り階段には何もない。下り階段を見るなり、由美子は仰天して思わず声を張り上げる。

「ひっ、人ばあえたぞーっ!(ひっ、人が落ちたぞーっ!)」

 下り階段の踊り場に、血塗れの人間が落ちているのを発見した。由美子の叫びを聞いた科学部部員達が驚いて、廊下へ飛び出してくる。

「なんじゃなんじゃ? なんが起きたっとか?(なんだなんだ? 何が起きたんだ?)」

「どんげしたっけ? 部長?(どうしたんだ? 部長?)」

「人ばあえたゆうちょったぞ?(人が落ちたって言っていたぞ?)」

 科学部の部員達が騒ぎ出したのをきっかけに、他の部室のドアも次々と開いて、人が集まってきた。由美子は真っ先に階段を駆け下りて、踊り場に倒れている人物を確認に行く。

「いやぁああっ! りっ、りふーっ!」

 倒れていたのは由美子の想い人であり、心理学研究部の副部長、長木利夫だった。

 実は心理学研究部の三人は、それぞれ個性的な美少女と美少年の集まりである。誰もが認める超絶美形の井崎芽久美を筆頭に、健康的なスポーツウーマンの長木芳恵、そして癒し系眼鏡君の長木利夫。

 それぞれ熱狂的なファンクラブが存在していて、他の人間は容易に部員にはなれない。心理学研究部に、三人以外部員がいないのはその為だ。一応部に所属している幽霊部員達は、実は各ファンクラブの諜報部員という噂だ。

 中でも長木利夫は、男女共に「守ってあげたい男子ナンバーワン」に選ばれている。童顔で、細身で頼りない。まるで、ハムスターやウサギといった、小動物のような愛くるしさ。彼を見ていると、なんだか守ってあげたい気持ちになる。彼を見たいが為に、相談に行く者もいるくらいだ。

 実は「長木利夫を見守る会」という、ファンクラブもある。ただしこのファンクラブは、本人に気付かれないことが絶対条件なので、公式ホームページは検索避けがされているほどの徹底振りだ。何故、本人に気付かれてはいけないのか? それはあくまで、そっと「見守る会」だからである。ちなみに「りふ」というのは、ファン同士で付けた「利夫」の隠語だ。

 その長木利夫が、目を見開いたまま仰向けに倒れている。トレードマークの眼鏡は、階段の途中に落ちていた。

 眼鏡を外すと、一層幼い顔立ちになるとファンは大喜びなのだが、今は喜んでいる場合ではない。その顔は、真っ赤な血で染まっている。制服には、鮮血や階段の汚れが付いていた。由美子はオロオロと、パニックに陥る。

「だ、大丈夫ねっ? 意識ばあっちゃろっか?(だ、大丈夫なのっ? 意識はあるのかしら?)」

 すぐ側まで降りて来た、同じく「長木利夫を見守る会」会員の津島真由美つしままゆみが長木利夫の顔を覗き見て、彼女もさっと顔色を変える。

「瞳孔開いちょる! ヤバいっちゃね?(瞳孔が開いている! ヤバいんじゃない?)」

 そうこうしている間にも、野次馬と化した生徒達がぞろぞろと駆けつけて来る。

「動かさんで! びんた打っちょっかんしれん!(動かさないで! 頭を打っているかもしれない!)」

「誰か担架、いや、救急車!」

「はよぅ、保健先生ば呼んでこんねっ!(早く、保健の先生を呼んで来てっ!)」

 真由美が長木利夫の手首を掴み、脈拍を測る。

「大丈夫じゃ、脈はあるみてぇじゃが(大丈夫、脈はあるみたいね)」

 外にいた体育系の部員のひとりが異変に気付き、何人か引き連れて集まってくる。

「なんおごりよっとー?(何を騒いでいるんだ?)」

「人ばあえたげなー(人が落ちたそうだ)」

「そらぼくじゃーっ!(それは大変だーっ!)」

 そして混乱は混乱を呼び、事件はおおごとになった。


 ぼくの記憶と科学部部長の証言に間違いがなければ、廊下にいたのはぼくだけだった。つまり犯行当時、犯行現場を見ることが出来たのは、犯人だったということになる。何よりも被害者のぼくが、犯人を見ていないということが致命的だった。

「ぼくが犯人を、ひと目でも見ていれば……っ!」

 今更、いくら悔やんでも仕方がない。


 ひとり池田屋事件から、九日後

 部室に、乱暴なノックの音が響いた。

「入っちょります(入っています)」

 部長の返事を聞くまでもなく、ドアは勝手に開く。

「また話を聞いてもらいてぇんだけど」

 そちらに目を向けると、真っ赤な髪に制服を着崩した、姿勢の悪い女の子が立っていた。

「ああ、死にたがっていた子でしょう?」

「覚えてたか」

「もちろん」

 即答すると、少女はバツが悪そうに目を逸らした。いくら覚えが悪いからといって、この子はちゃんと覚えている。髪を真っ赤に染めている一年生なんて、珍しいからな。それに、開口一番に「死にたい」なんて言う人は、滅多にいない。

「今日は、どうしたですか?」

「うん、なんつぅか……」

 どうも歯切れが悪い。警戒を解かせるように、微笑んでみせる。

「まぁ、とにかく座って下さい」

「あ、うん」

 少女は落ち着きなく、手を握ったり開いたりしながら椅子に座った。ややあって、ぼくを見ながら口を開く。

「オレさ、生きがい見つけた」

「本当ですかっ。それは良かった。実はあれから、ずっと気になっていたんですよ。もし、あの後死なれたらどうしようって!」

 死にたがっていた子が、生きがいを見つけた! それがとても嬉しくて彼女の手を取ると、少女は驚いた顔をする。

「オレのこと、気にしてくれてたんだ?」

「当たり前じゃないですかっ!」

「そっか、当たり前か」

 全力で頷くぼくを見て、少女ははにかんだ。なんだ、こうやってちゃんと笑えるんじゃないか。化粧が濃いのは気になるけど、女の子らしくて可愛げがある。ますます嬉しくなって、声を弾ませる。

「良かった、やっと笑ってくれましたね。前よりずっと良い笑顔です」

「そ、そぉか?」

「はいっ」

「ちょっと待ったっ!」

 そこへ盆を持った妹が、割り込んできた。思わず、顔を曇らせる。

「なんだよ、急に」

「お兄ちゃんは、警戒心がなさすぎる」

 明らかに渋面した妹は、机の上にコーヒーが入ったカップを少々乱暴に置きながら言った。コーヒーの飛沫が飛んで、机の上を汚した。意味が分からず、聞き返す。

「どういうことだよ?」

「こんないかにも不良な子に関わったら、大変」

 それを聞いた少女が、妹に食って掛かる。

「んだとっ!」

「こんな髪して、化粧して制服着崩してるなんて、不良以外の何者でもない」

「んだまー、そいはあたしん対する挑戦じゃろか?(あら、それはあたしに対する挑戦かしら?)」

 そのセリフを聞いた部長も突っ掛かってきた。確かに部長も髪を染めているし、化粧もしているし、制服も着崩しているもんな。あれ? 何だか、面倒臭くなってきたぞ?

「あたしんとは、不良じゃねぇが。おしゃれじゃもん(あたしのは、不良じゃないわよ。おしゃれだもの)」

「そーだそーだ、人を見た目で判断してんじゃねーよっ」

 いつの間にか、部長と少女がタッグを組んでいる。なんだ? この状況? これ以上揉めるといけないと、慌てて仲裁に入る。

「け、ケンカは止めて下さいよ。せっかく彼女が、生きがいを見つけたって報告に来てくれたんですから、素直に喜んで上げましょうよ」

「おおっ! 長木さんは、話が分かるな!」

 少女はぼくにかばわれて、嬉しそうにぼくの名を呼んだ。少し驚いて聞き返す。

「名前、覚えていてくれたんですか?」

「名札付いてるからな」

「あ、そういえばそうですね」

 左胸の名札を確認して苦笑すると、少女は満面の笑みを浮かべる。

「オレの名前は坂元さかもとってんだ、よろしくな」

「坂元さんですか。こちらこそよろしくお願いします」

「こらぁ、お兄ちゃんに近付くなっ、この不良っ!」

 妹が坂元さんを指差して、怒鳴った。妹の手を掴んで下ろしながら、妹を叱り付ける。

「なんでお前は、そんなに坂元さんを毛嫌いするんだ?」 

「不良だからっ!」

「即答かよっ。じゃあ、そこの金髪ねーちゃんはいいのかっ?」

 妹の答えに、坂元さんは怒って反論した。すると聞かれもしないのに、部長は頬を膨らませながら言う。

「あたしんとは、おしゃれじゃもん(あたしのは、おしゃれだもの)」

「じゃあ、オレだっておしゃれでいいじゃねぇか」

 やれやれとため息を吐き出すと、みんなの顔を見渡す。

「わかりましたよ。じゃあ、部長も坂元さんもおしゃれってことで。坂元さんは、不良じゃないんだってさ。分かったか?」

「むーっ」

 妹に言い聞かせると、ものすごく不機嫌そうな顔をした。とても納得している顔には見えない。妹はぼくの背中にしがみ付いて、ぼくの肩ごしに坂元さんを睨む。

「お兄ちゃんは、わたしのだから」

「はいはい。全くしょうがないな、いつまでもお兄ちゃん子で」

 そうか、妹はぼくを坂元さんに取られると思ったんだな。呆れながらも、そんなつまらない意地を張る妹が可愛いなと思った。苦笑しながら、坂元さんに謝る。

「ごめんね、坂元さん。うちの妹がわがままで」

 すると坂元さんは、妹を小馬鹿にするように笑う。

「いつまでも、お兄ちゃんお兄ちゃんって、ガキかてめぇは」

「なんじゃとっ?(なんですってっ?)」

 妹がまた怒鳴りかねないので、妹の頭を撫でてなだめる。

「いいんだよ、お兄ちゃん子で。こんな頼りない兄だけど、こうやって慕ってくれているんだ。それが嬉しいんだよ」

 そう言ってやると、妹はおとなしくなった。坂元さんは例によって「ふ~ん」と、言って続ける。

「長木さんって、優しいんだな」

「そうでもないですよ。世の中には、もっともっと優しい人はたくさんいます。そんな人達に比べたら、ぼくなんてまだまだです」

 ぼくは褒められることに慣れていないので、照れ臭くなって笑った。坂元さんは、楽しそうに笑う。

「やっぱアンタ、いい人だよ」

 坂元さんは素っ気なく言うと、部室を出て行った。またしても、コーヒーに手を付けることはなかった。もしかすると、コーヒーは好きじゃないのかもしれない。それだったら、悪いことをしたな。

 するとすかさず、部長がそのコーヒーに手を伸ばす。

「これ、わたっていい(これ、貰っても良いかしら)?」

「どうぞ?」

「ちょうど、コーヒーが飲みてぇと思っちょったとこちゃが(ちょうど、コーヒーが飲みたいと思っていたのよね)」

 部長は嬉しそうに、音を立ててコーヒーをすすった。

 

 それから三十分くらいした後、小気味良いノックの音が響いた。例によって、例のごとく部長が応える。

「入っちょります(入っています)」

「はいはい。もう、いくら言ってもムダでしょうね」

「こんにちは」

 ドアを開けると、三十歳中頃くらいで薄化粧をした私服の女性が、苦笑しながら立っていた。彼女を見るなり、すぐさま妹が声を上げる。

「あ、煙草の件で来た、司書さん」

 それを聞いた司書さんは、微笑んで頷く。

「先日は相談ば乗って頂いて、助かりましたが(先日は相談に乗って頂いて、助かりました)」

「どういたしまして。その後、何かありましたか?」

 訊ねると、司書さんは立ったまま話し始める。

「ええ。あの後署名を募りまして、日教組に申し出たとです。そんげしたら、すぐお叱りの書類が出まして。行動ば、改めさせることば出来ました(ええ。あの後署名を募りまして、日本教職員組合に申し出たんです。そうしたら、すぐお叱りの書類が出まして。行動を改めさせることが出来ました)」

「それは良かったですね。あ、立ち話もなんですから、お座りになってはいかがですか?」

 営業スマイルで椅子を勧めると、司書さんは首を横に振る。

「いえいえ。すぐおいとましますけ、こきでいいですが(いえいえ。すぐ帰りますから、ここで良いですよ)」

 司書さんは苦笑しながら、話を続ける。

「あん人の行動を改めさすることば、出来たっちゃけど。もっともヘビースモーカーじゃかい、仕事中でんちょいちょい喫煙室ば行ってしまうとですよ。じゃけんど、図書館内で吸わるるよか、よっぽどマシですが。おかげで、助かりました。まっこちおおきんね(あの人の行動を改めさせることは、出来たんですけど。そうはいうもののへビースモーカーだから、仕事中でも度々喫煙室へ行ってしまうのですよ。けれど、図書館内で吸われるよりかは、よっぽどマシです。おかげで、助かりました。本当にありがとう)」

「どういたしまして」

 司書さんはお辞儀をすると、晴れ晴れとした笑みを浮かべて去って行った。

 良かった。これで、図書館の平和は守られた。タバコの不始末によって図書館が燃える心配も、本にヤニが付く心配も、喘息で苦しむ人もいなくなった。ひとり、そっと胸を撫で下ろした。

 

 ひとり池田屋事件から十一日後。

 ようやく仕事にひと区切りがついたとのことで、久々にコーロギ先生が部室へやってきた。

「なるほど、私がおらん内にそんげらこつばあったとか(なるほど、私がいない内にそんなことがあったのか)」

 妹が淹れたコーヒーを味わいながら、先生がほがらかに笑った。

「先生が甲斐さんに頼んだ本って、フランス語版『ファーブル昆虫記』ですよね」

「うん。まちごぉちょらんね(うん。間違いないね)」

「それの中身についてなんですが、何か心当たりはありませんか?」

 訊ねると、先生は軽く首を傾げる。

「中身? 中身なんて知らんがよ。手にしたことすらねっちゃかい(中身? 中身なんて知らないよ。手にしたことすらないんだから)」

「ですよね」

 唯一の手掛かりを失って、肩を落として呟く。

「コーロギ先生が帰ってきたら、何か分かるかと思ったのに」

 そんなぼくの肩を叩いて、妹が優しく微笑む。

「大丈夫。きっとそのうち見つかる」

「だといいけど」

「うーん。シリして手ん平サイズんもんって、なんじゃろかい?(うーん。白くて手の平サイズのものって、何かしら?)」

 部長はずっと、そのことにこだわっていた。先生は興味を引かれたらしく、部長に訊ねる。

「なんか、思い付いたっとか?(何か、思い付いたのかい?)」

「んにゃ。逆に思い付き過ぎてから、検討つかんくなったっとですが(いいえ。逆に思い付き過ぎてしまって、検討がつかなくなったんです)」

 部長は思いつく限りの「白くて手の平サイズのもの」を、書き出していた。ペン習字のお手本みたいな綺麗な字が、ノート一面にびっしり並んでいた。気になって、それを音読してみる。

「ハンカチ、ポケットティッシュ、財布、マスク、文庫本、メモ帳、手帳、手紙、はがき、煙草、合成麻薬、豆腐、はんぺん、餅、でこん(大根)、卵、こんにゃく……。なんか途中から、おかしなことになってきてますよっ?」

「色々考えちょったら、ひだりーっちゃが。やいや、おでんばくいてがねぇ(色々考えていたら、お腹が減ったのよ。ああ、おでんが食べたいわねぇ)」

「なるほど、これはおでんの具ですか。そう言われてみれば、腹空いたな」

 空腹を覚えて呟くと、先生が気前良く五千円札を取り出す。

「長木兄妹、これでおでんばこうちきてくれんじゃろか?(長木兄妹、これでおでんを買ってきてくれないだろうか?)」

「えっ? いいんですか?」

「よかよか。私もひんだりーけぇ、みんなでくおや(良いよ良いよ。私も腹が空いたから、みんなで食べよう)」

「ありがとうございますっ!」

 差し出された五千円札を、有り難く受け取った。その上で、先生に問う。

「先生は、何が良いですか?」

「んー、はんぺん、餅きん、でこん、卵、こんにゃ――」

「部長には訊いていませんよっ!」

 何故か部長が、質問に答えた。先生はおかしそうに笑ってメモを取ると、ふたつ折りにして差し出す。

「うん。私も、そいがいい(うん。私もそれが良い)」

 先生は本当に人格者だ。部長には聞こえないように、先生に耳打ちする。

「でも、部長は甘やかすと、付け上がるタイプですから。ほどほどにしておいた方が良いと思いますよ、先生」

ここまでお読み下さった方、ありがとうございました。並びにお疲れ様でした。

もし、不快なお気持ちになられましたら、申し訳ございませんでした。

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