第四章
ここまでついてきて下さった方、誠にありがとうございます。
ひとり池田屋事件後、病院で目覚めるところから、始まります。
身体中が、疼くように痛い。痛みで目を覚ました。気を失う前に見たのとは違う、白い天井が見える。どうやら、まだ生きているようだ。
「痛っ」
思わず痛みを訴えると、妹が顔を覗き込んでくる。妹の顔が鮮明に見えないのは、眼鏡をかけていないからだ。妹は、安堵のため息を吐く。
「お兄ちゃん、やっと気が付いた。良かったーっ!」
「あれ? ぼくは?」
「階段から落ちた。全身打撲と擦り傷、それに軽い脳震盪だって」
「ああ、そうだった。まさか、王道の階段落ちをすることになろうとは、思わなかったよ」
起き上がろうとすると、妹がぼくの身体をベッドへ戻そうとする。
「まだ、無理しちゃダメ。気が付いても安静にさせなさいって、看護士さん言ってた」
「看護士? じゃあここは、病院か」
あたりを見回すと、世界が白かった。部屋もベッドも、置いてあるほとんどが白一色だ。病院特有の臭いと、雰囲気が漂っている。窓が開いているのか、夕日に照らされて緋色に染まったカーテンは、風を張らんで揺れている。団体部屋の為、ぼくが寝ている分を含めてベッドが六つあり、それぞれ患者さんが横たわっていた。
その中で一際目立っているのが、部長だった。病院に白衣は珍しくないが、金髪の長い髪と超絶美形は目を惹いた。部屋の入り口には、部長見たさに何人もの男性患者達が顔を覗かせている。
「おい、あっきおんの誰じゃー?(おい、あそこにいるのは誰だよ?)」
「芸能人じゃろか?(芸能人だろうか?)」
「うんにゃ、あんげ芸能人見たこつねぇが(いいや、あんな芸能人見たことない)」
「えれぇいい女じゃのー(凄く良い女だな)」
「いやぁ、わしゃあ、あっちの女ん子ん方が好みじゃが(いや、わしは、あちらの女の子の方が好みだ)」
「おいはあん子がええ(俺はあの子が良い)」
「僕もそん子がタイプじゃー(僕もその子がタイプだ)」
あん子だの、そん子だの、誰が誰だか分からない。部長はそんな騒ぎを気にする様子もなく、パイプ椅子に腰掛けて綺麗な足を組んでいる。
「全く、意識不明ばいうから、心配したがよ。大体、なんしけ階段からあえたりしたと? 踏み外すごつ、急な階段じゃねぇじゃろが(全く、意識不明だっていうから、心配したじゃないの。大体、なんで階段から落ちたりしたのよ? 踏み外すような、急な階段じゃないでしょうに)」
呆れた口調で言われて、思い出した。
「違う。誰かから、突き落とされたんだ」
「誰ね! そんげヒデぇこつするヤツばっ! 打ち所ばワリかったら、あいやんけしぬとこじゃったとぞっ!(誰よ! そんな酷いことをする人はっ! 打ち所が悪かったら、お兄ちゃんは死んでいたのよっ!)」
ぼくの話を聞くなり、妹が怒りをあらわにした。妹は温厚なので、普段あまり怒らないのだが。家族が関わると、怒り、泣く。家族思いな優しい子だ。
ちなみに妹は感情が高ぶると、ぼくを「あいやん」と呼び、方言丸出しになる。普段喋り方が不自然なのは、方言を使うのが恥ずかしいからだそうだ。まわりはみんな方言で喋っているのに、何を今更恥ずかしがる必要があるんだろう?
妹を宥めるように、笑って見せる。
「誰って、後ろから突き飛ばされたから見てないよ」
「犯人ば分かったら、殺人罪で逮捕しちやる!(犯人が分かったら、殺人罪で逮捕してやる!)」
妹は悔しそうに、奥歯を噛み締めた。そんな妹に呆れて、頭を撫でてやる。
「逮捕ってお前、警察官でもあるまいに。それにぼく、まだ死んでいないし。あ、そうだ。ベッドの頭の方、上げてくれるか? このままだと話しづらい」
「分かった」
妹が、ベッドのリモコンを操作した。すると、ベッドの頭から腰までの部分が上に向かって傾斜し、斜め四十五度くらいの位置で止まった。おかげで、ふたりの顔が見やすくなった。眼鏡を掛けていないので、視界はぼんやりしているけど。
何か面白いことでも思いついたのか、部長が笑みを浮かべながら言う。
「さしずめ、『ひとり池田屋事件』ゆうたとこじゃね(さしずめ『ひとり池田屋事件』といったところね)」
「『池田屋事件』って確か、新撰組が浪士を討った事件ですよね?」
「それとお兄ちゃんに、なんの関係が?」
首をひねるぼくと妹に、部長は人差し指を立てて「ちっちっち」と、左右に振った。不敵な笑みを浮かべながら、部長は高らかに言う。
「分かってねぇね。『池田屋事件』ゆうたら、階段あえじゃが(分かってないわね。『池田屋事件』っていったら、階段落ちじゃないの)」
「なるほど、それで『ひとり池田屋事件』ですか。それで?」
「なんね?(何よ?)」
「その心は?」
尋ねると、部長は何でもないような口調で答える。
「ねぇが(ないわよ)」
「分かっても、大した意味はないんですね。たぶん、言いたかっただけでしょう?」
「うん」
「うんって……」
疲れている時に、部長とやりとりするのは正直とても辛い。深々とため息を吐いた後、部長に質問する。
「あれから、どれくらい時間が経ったんですか?」
「まる一日ってとこじゃね(まる一日ってところね)」
「そんなにっ?」
それを聞いて、驚いて目を見開いた。
「別に昨日は、睡眠不足って訳でもなかったはずなのに。まぁ、相談客がたくさん来て、疲れてはいたけど」
自分の身体を確認してみれば、包帯やガーゼだらけだ。幸い、骨折はしていないようだが。そういえば、さっき妹が「全身打撲と擦り傷、軽い脳震盪」って、言っていたな。
「ふたり共、ぼくの為に学校を休んだんですか?」
はたと気が付いてぼくが問うと、部長は首を横に振りながら答える。
「んにゃ。授業はちゃんと出たが。でも部活は、マリオばおらんとどうもならんかい、休みにしたと(いいえ、授業はちゃんと出たわよ。でも部活は、利夫がいないとどうにもならないから、休みにしたの)」
「わたしも、そう」
部長の横に座っている妹も、小さく頷いた。
「ああ、良かった。ぼくなんかの為に、学校を休ませてしまったら悪いですから」
胸を撫で下ろすと、妹は顔をしかめて訴えてくる。
「全然良くないっ。お兄ちゃんのことが心配で、授業に身が入らなかった!」
良く見れば、妹の目の下には黒々とした隈が出来ている。どうやら、ずいぶん心配をかけてしまったようだ。痛む腕をなんとか持ち上げて、妹の頭を撫でてやった。すると、妹の顔が益々悲しそうに歪んだ。
「ごめんな。今日はちゃんと、寝るんだぞ?」
出来るだけ柔らかい口調で言い聞かせると、妹の目から涙が零れ落ちた。
その時突然、騒がしかった病室の入り口が、一層騒がしくなる。
「なんしょっとか、わっどんー? みんな、自分んとこ戻りねのっ(何しているんだ、貴方達は? みんな、自分の病室へ戻りなさいっ)」
「ええーっ、こんくれぇいいじゃねけーっ!(ええーっ、このくらい良いじゃないかーっ!)」
「つまらーんっ」
「先生、ケチじゃー!(先生、ケチだー!)」
「つべこべ言わんと、はよ戻らんねっ(つべこべ言わずに、早く戻りなさいっ)」
回診に来た中年の医師が、入り口に群がっていた男性患者達を追い払った。そうしてようやく、医師はぼくが目を覚ましたことに気付いたようだ。近付いてきて、ぼくの顔色を伺う。
「長木さん、気付かれましたか。気分はいかがですか? 気持ち悪かったり、吐き気はありませんか?」
「いえ。今のところは、特に」
「びんた打っちょりますけ、念の為MRI(磁気共鳴画像診断=身体を輪切りにレントゲン撮影する検査)ばしましょう(頭を打っていますから、念の為MRIをしましょう)」
「頭?」
言われて頭を触ってみると、頭にはコブが出来ていて包帯が巻かれていた。額には、大きなガーゼが当てられているようだ。意識し出したら、鈍く痛み始めた。痛みに顔を歪ませると、妹が心配そうに声を掛けてくる。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫大丈夫」
妹を安心させるべく、無理矢理笑顔を作った。でもたぶん、引きつった笑みだったのだろう。妹は笑わなかった。
「なんも問題なければ、明日ん昼でん退院出来ますが(何も問題がなければ、明日の昼頃にでも退院出来ますよ)」
ぼくらのやりとりを見ていた医師は、そう言って優しく微笑んだ。
医師が立ち去った後、スピーカーから「蛍の光」が流れた。どうやら、面会時間の終了を告げているようだ。それにしても、閉店や終了を知らせる曲は、なんで「蛍の光」なんだろう? あれは学び舎や教師との、別れの歌のはずなのに。ぼくの予想としては、卒業式=終わりの連想によるものだと思う。
最近では、卒業式で歌われる機会は少なくなった。実際にぼくも、小中学校の卒業式で歌うことはなかった。やっぱり、時代なんだろうな。
部長が音楽に気が付いて、パイプ椅子から立ち上がる。
「もう終わりね? じゃああたしらはもういぬっかい、安静にしちょきね(もう終わりなの? じゃああたし達はもう帰るから、安静にしておきなさいね)」
「はい、お見舞いありがとうございました」
ベッドの上から軽くお辞儀をすると、部長は軽く頷いて笑った。妹も後ろ髪を引かれる(思いが断ち切れない)様子で、ゆっくりと立ち上がる。
「お兄ちゃん、また明日も面会にくるから。何かあったら連絡して」
「分かった」
軽く手を振って、二人を見送った。
帰っていく部長と妹を見て、男性患者達が名残り惜しげに騒ぎ出す。
「ええ~っ、もういぬっとけ~?(ええ~っ、もう帰るのか~?)」
「アンタら、もちっとおらんね(君達、もうちょっといなよ)」
「こらっ、わっどん、ま~だこきにおったっとか! はよ部屋に戻らんねっ!(こらっ、貴方達、まだここにいたの! 早く病室に戻りなさいっ!)」
「すんませーん」
「分かりましたよ~」
婦長らしい中年女性に怒られて、男性患者達は口々に文句を言いながら、自分の病室へと戻っていった。
「はは……。どこへ行っても、部長はモテるなぁ」
そんな光景に、力なく笑うしかなかった。
翌日。MRIの結果は、異常なし。退院が分かった時は、まだ授業中だったので、妹にはなんの連絡もしなかった。これを知ったら、妹は怒るかもしれない。
無事退院し、その足で学校へ行った。学校の門を通る時、ちょうど昼休みのチャイムが鳴るところだった。授業から開放された生徒達の声で、学校中が一気に賑やかになる。騒がしい教室へ入ると、クラスメイト達がぼくに注目する。
「おっ、長木ばきよったぞ(おっ、長木が来たぞ)」
「ほんまじゃ(本当だ)」
「うわぁ、なんじゃそい。痛々しいが(うわぁ、なんだよそれ。痛々しいな)」
包帯や絆創膏だらけのぼくの姿を見た女子達が、顔を歪めて悲鳴を上げた。
「いや~、もぞなぎ~っ(いや~、可哀想~っ)」
「聞いたがよ。突きあえされたんじゃってー?(聞いたわよ。突き落とされたんですって?)」
「大丈夫? 痛くねぇと?(大丈夫? 痛くないの?)」
「学校ごつもん、そんげ無理してこんでいいとぞ?(学校なんてものは、そんなに無理して来なくて良いんだぞ?)」
クラスメイト達がぼくを取り囲み、次々と心配そうな声を掛けてきた。笑みを作って、答える。
「大丈夫だよ。打撲と擦り傷、脳震盪を起こしただけだから。脳検査の結果も、問題なかったし」
ぼくの返事を聞いて、クラスメイト達は心底安心した表情を浮かべる。
「そうねぇ、良かったねぇー(そうなの、良かったわね)」
「昨日と今日のノートば取っちょるけぇ、かしたげるが(昨日と今日の分のノートを取っているから、貸してやるよ)」
「くれぐれも、無理せんでよ?(くれぐれも、無理しないでよ?)」
「うん、ありがとう。心配掛けてゴメン」
安否が確認出来るやいなや、二年とも同じクラスになった黒木公子ことハムが、目を輝かせて質問してくる。
「そいでー? 犯人ば分からんとけー?(それで? 犯人は分からないの?)」
「いや。後ろからドンッ! だったから。何も見てないんだ」
首を横に振りながら答えると、ハムは明らかに残念そうな顔をする。
「なんけー。じゃったら、なんの手掛かりにもならんじゃねけー(何よ。それだったら、何の手掛かりにもならないじゃないの)」
「そんなこと言ったって、しょうがないじゃないか」
顔をしかめながら言うと、ハムは薄笑いを浮かべて、急に張り切りだした。
「よしっ! じゃったら、ワタシが犯人ば見つけて、カタキばとっちやるがー!(よしっ! だったら、ワタシが犯人を見つけて、仇をとってあげるわ!)」
「仇って、ぼくまだ死んでないし」
「そうとなったら、さっそく聞き込みじゃけー!(そうとなったら、さっそく聞き込みよ!)」
言うが早いか、ハムはぼくの腕を掴んで歩き出す。必死に抵抗するものの、空しくそのまま引き摺られていく。
「おいっ、どこ行くんだよ?」
「ゆうたじゃねけー。聞き込みじゃが、聞き込み! ああ、いんまこそワタシの手腕が試されっ時じゃわーっ(言ったじゃない。聞き込みよ、聞き込み! ああ、今こそワタシの手腕が試される時だわっ)」
まるで歌うような口調で、ハムが心底嬉しそうに言った。呆れて、ハムを見る。
「手腕って、なんだよ」
「いんままで観てきたサスペンスミステリードラマが、生かされっちゃがーっ!(今まで観てきたサスペンスミステリーが、生かされるのよっ!)」
「ドラマのように、いくかなぁ?」
呆れてボヤくと、ハムは自信満々の笑みを向けてくる。
「大丈夫じゃが。ワタシに任せちょきー(大丈夫よ。ワタシに任せておきなさい)」
ハムに手を引かれて、運動部兼理系部棟に着いた。ハムは通りすがりの生徒に、手当たり次第に声を掛け始める。
「こないだ、こん子が突きあえされたっちゃけど、なんか見ませんでしたかねー?(この間、この子が突き落とされたんだけど、何か見ませんでしたか?)」
すると、生徒達は皆、一様に首を横に振る。
「オイが見た時には、もうあえた後じゃったね。人だかりが出来ちょったくらいしか、見ちょらんねぇ(オレが見た時には、もう落ちた後だったな。人だかりが出来ていたくらいしか、見ていないんだ)」
「ボクも、みんなばおごりよったんを、見かけただけじゃもん(ボクも、みんなが騒いでいたのを見ただけだよ)」
「アタシも人が集まっちょったから、なんかあったっちゃろかって思っただけじゃし(アタシも人が集まっていたから、何かあったんだろうかって思っただけだし)」
その後、何人も聞き込みをしたが、大体似通った証言しか得られなかった。何ひとつはかどらない状況に、苛立ったハムが腕組みをして唸った。
「うーん。テレビドラマんごつ、いかんもんじゃねぇー(うーん。テレビドラマのようには、いかないものね)」
「まぁ、そりゃそうだろう」
気のない返事をすると、ハムが不服そうに顔をしかめる。
「なんけー、まるで他人ごとみてぇな言い方じゃねけー(何よ、まるで他人ごとみたいな言い方じゃないの)」
「いや~。なんだかもう、どうでもよくなってきちゃって」
頭を掻きながら苦笑すると、ハムが怒ってぼくの額にデコピンをかました。
「あいてっ!」
「いけんっ。そんげなあんべじゃ、正義ば貫けんぞ!(ダメよっ。そんな調子では、正義は貫けないわよ!)」
ハムが意気揚々と足を踏み出した時、午後の始業チャイムが鳴り始めた。
「っと、ヤバッ! 授業が始まる!」
「急がなっ!(急がなくちゃっ!)」
ぼくらは急いで、教室へ戻った。
放課後、ハムがぼくに向かって両手を合わせて謝る。
「すまんねー、トシぃ。ワタシこん後バイトじゃけー(ごめんね、利夫。ワタシこの後バイトだから)」
「いいよ、別に。気にしないで行きなよ」
苦笑しながら言うと、ハムは悔しそうに地団太を踏む。
「もうっ、しんきなよっ! こんげらこつなら、今日シフトなんこまんかったのにーっ! 続きは、また明日やろやー(もうっ、忌々しい! こんなことなら、今日はシフトを入れなかったのにっ! 続きは、明日やろうね)」
「はいはい。また明日ね」
正直面倒臭かったので、追っ払うように手を振った。そんなぼくを睨むと、ハムは忙しなく学校を後にした。ハムを見送った後、携帯電話を取り出して妹に電話を掛ける。妹は電話に出るなり、心配そうな声を出す。
『お兄ちゃん? 具合はどう?』
「もう大丈夫。今は退院して、学校に来てるんだ」
『えっ?』
妹が虚を付かれたような声を出した。予想通りの反応をする妹に、思わず笑ってしまいそうになる。それを堪えて、もう一度繰り返す。
「だから、もう学校に来ているんだよ」
『なんで、退院する時に連絡しなかった?』
妹の声のトーンが下がった。やっぱり、怒っている。取り繕うように、あえて明るい口調で言う。
「退院する時は、まだ授業中だったからさ。終わってから、連絡しようと思って」
『そんなこと気にしないで。電話してくれたら、すぐ迎えに行ったのに』
妹の声が焦れた声に変わった。さっきから声の調子が何度も変わって、聞いている分には面白い。こんなこと言ったら、間違いなく怒るだろうけど。笑いを堪えていると、今度は心配そうな声色に変わる。
『そのまま帰る?』
「いや、部室へ行くつもりだ」
『大丈夫? 無理しないで』
「大丈夫だってば」
『じゃあ、部室で待ってる』
「うん、また後で」
電話を切ると、いつも通り心理学研究部へ向かう。その途中、何人もの人に好奇の目で見られて、どうにも気まずい。昨日の事件が、相当広まっているようだ。まぁ実際、ぼくとハムが広めたようなものだけど。居たたたまれなくなって、部室へ逃げ込んだ。
「お兄ちゃんっ! 顔色悪い、大丈夫?」
中へ入るなり、妹が駆け寄ってきた。昨日から妹は、いやに心配性だ。小さな子供の面倒を見るお母さんみたいで、どうにもこそばゆい。
「ああ、平気だ。ちょっと、人に見られて気まずか――」
「とにかく座って。なんだったら、横になってて。今、温かいもの用意するから」
ぼくの言葉を遮って、あわただしく妹がミニ冷蔵庫を開けた。苦笑しながら、大人しくパイプ椅子に腰掛ける。
「はいはい、分かったよ」
一方、いつものように椅子に深々と座り、机の上にしなやかな足を乗せた部長が、薄笑いを浮かべながら訊ねてくる。
「聞いたがよ、相棒と探偵ゴッコしちょるげなね(聞いたわよ、相棒と探偵ゴッコをしているそうじゃない)」
「一体、どこから情報を得たんですか?」
驚いて聞き返すと、部長は楽しそうに笑いながら答える。
「そんげらこつ、どきでんいいじゃろが。そいでどうね? なんか掴めたっと?(そんなこと、どこでもいいじゃない。それでどうなの? 何か掴めたの?)」
部長が話をうながしたので、苦笑しながら首を横に振る。
「いえ、全然。誰に訊いても『見た時には、落ちていた』の一点張りですよ。突き落とされる瞬間を見た人や、犯人を見た人はいないみたいです」
部長は「ふーん」と、つまらなそうに言うと、何かを思い出すかのような表情で、顎に手をやりながら口を開く。
「そじゃねぇ。あたしんらが見た時も、あえた後じゃったね。外がほたゆなってから、出てったっかい。人だかりば出来ちょって、おごっちょったがよ。そんうち、誰かが呼んだ救急車ば来て、運ばれてったっと(そうねぇ。あたし達が見た時も、落ちた後だったわね。外が騒がしくなってから、出て行ったから。人だかりが出来ていて、大騒ぎだったわよ。そのうち、誰かが呼んだ救急車が来て、運ばれて行ったってところね)」
「大体、みんなと同じ証言ですね」
軽くため息を吐くと、部長はぼくを指差す。
「そいで、マリオはどうね?(それで、利夫はどうなの?)」
「ぼくですか?」
「あえた時の状況は、なんか覚えちょらんと?(落ちた時の状況は、何か覚えていないの?)」
部長に訊かれて、初めて気が付く。
「そういえば、聞き込みにばかり気を取られていて、自分のことは疎かでした。うーんと、確かトイレに行った後部室に戻ろうとした時、階段に何かが落ちているのを見つけたんです」
「なんが?(何が?)」
「ええっと……」
懸命に思い出そうと、考えをめぐらせる。が、思い出せない。目を伏せて、首を横に振る。
「分かりません。思い出せないんです」
「びんた打ったショックで、忘れてしもうたっちゃないと? 思い出せんのじゃったら、無理せんでいいとぞ?(頭を打ったショックで、忘れてしまったんじゃないの? 思い出せないのであれば、無理しなくていいのよ?)」
部長がぼくをなだめる様に、優しい口調で言った。後頭部にあるたんこぶに触れると、鈍い痛みを感じる。部長が言うように、本当に忘れてしまったのだろうか? ん? いや、待てよ? そうだ! それを確認する前に、突き落とされたんだ。
「確か、白いものだったと思うんです。手の平サイズで長方形の」
「手ん平サイズで、長方形のシリぃもん? なんじゃろか? ハンカチじゃろか? そいとも財布?(手の平サイズで、長方形の白いもの? 何かしら? ハンカチかしら? それとも財布?)」
部長は自分の手の平を見ながら、あれかもしれない、これかもしれないと、呟いている。状況を思い出しながら、口を開く。
「まぁとにかく、それを取ろうと屈んだ時、後ろから突き落とされたんです」
「犯人の狙いは、そいじゃったんじゃなかろか?(犯人の狙いは、それだったんじゃないかしら?)」
「その白いものですか? もしかしたら、誰かに拾われたらマズいものだったのかもしれませんね。例えば、煙草とかケイタイとか?」
「ヤクかんしれんよ?(麻薬かもしれないわよ?)」
突然、物騒なものが出てきて、飛び上がりそうなほど驚く。
「ヤクって、そんなっ! ここは高校ですよっ?」
「いやぁ、分からんよ? 意外と身近んとこで、流しちょるって噂じゃし。粉じゃったらシリぃし、袋ん大きさじゃて手ん平サイズらしいがよ?(いえ、分からないわよ? 意外と身近なところで、流しているって噂だって聞くしね。粉だったら白いし、袋の大きさだって手の平サイズらしいわよ?)」
「ええっ? 本当ですかっ?」
「こん前なんか、夜中に駅前で売っちょんの見たし(この前なんか、夜中に駅前で売っているのを見たしね)」
悪い笑みを浮かべた部長が、怖過ぎる。ムダに顔が整っているだけに、恐ろしい。背筋が寒くなるのを感じて、激しく首を横に振る。
「いやいや、勘弁して下さいっ。この手の話は一旦止めましょうよっ!」
「もしかすっと、マリオばあえた手掛かりかんしれんよ?(もしかすると、利夫が落とされた手掛かりかもしれないわよ?)」
「はい、お兄ちゃん。お待たせ」
どうにか話を終わらせたいと思った時、ドアが閉まる音がした。そちらへ視線を向けると、妹からカップを手渡された。中には、温められた白い液体が入っている。うっすら白い膜が張っていて、懐かしい匂いがする。それを受け取って、首をひねる。
「ホットミルク? コーヒーでも、紅茶でもなく?」
「コーヒーや紅茶だと、カフェインが入っているから。ホットミルクなら、身体が温まって良く眠れる」
「まぁそうだけど。でもここには、電子レンジはなかったよな?」
「向かいの化学研究部で借りてきた」
「あ、そっか。ありがとな」
そういえば科学研究部には、実験用の電子レンジがあるって聞いたことがある。電球を入れてプラズマを発生させたり、加熱による物質変化を観察するそうだ。
考えてみれば、電子レンジってスゴいよな。電子を振動させることによって発生した摩擦熱で加熱するって、その発想がスゴい。実は、偶然の産物だったらしい。何かの実験をしていた時、たまたま研究員のポケットに入れていたチョコレートが溶けたことから、思い付いたのだとかなんとか。閑話休題。
「んだまー。ヨッシーったら、お母さんみてぇじゃね(あらまぁ。芳恵ったら、お母さんみたいじゃない)」
部長は声を立てて笑った。ぼくも釣られて笑う。
「そうなんですよ。昨日からぼくにべったりで、スゴい心配性なんですよ」
すると妹が、真剣そのものの顔と声で言う。
「じゃって、あいやんば殺されかけたっとぞ? どんげ心配したこつかっ! 授業休んで、ずっと一緒におりたかったくれぇじゃったがっ!(だって、お兄ちゃんが殺されかけたのよ? どれだけ心配したことかっ! 授業休んで、ずっと一緒にいたかったくらいなんだからっ!)」
こいつ、ブラコンだったのか? お兄ちゃんは、お前の将来が心配です。
「そんなことくらいで休むなよ」
「あいやんは、自分ばどんげな状況じゃったか知らんから、そう言えっとよっ!(お兄ちゃんは、自分がどんな状況だったか知らないから、そう言えるのよっ!)」
「えっ? ぼく、そんなにヤバイ状況だったの?」
妹の剣幕とその内容に驚きながら訊ねると、部長が面白そうに語り始める。
「そじゃねぇ。顔面蒼白で、瞳孔開いちょったね。ビンタ切って、顔中血塗れ。おまけに、ピクリとも動かんかったしね。しばらくすると、白目剥いてから。野次馬が、悲鳴上げちょったわ。いやー、あいはちょつとしたホラーじゃったね(そうねぇ。顔面蒼白で、瞳孔が開いていたわね。頭を切って、顔中血塗れ。おまけに、ピクリとも動かなかったしね。しばらくすると、白目剥いちゃって。野次馬が、悲鳴上げていたわよ。いやー、あれはちょっとしたホラーだったわ)」
自分がそんな状況になっていたなんて、知らなかった。想像して恐ろしくなる。
「うっ、それは怖いですね」
「じゃろ? そいを見た時、心臓ばワシ掴みされたみてぇにいてなって。もしかしたら、あいやんはけしぬんじゃなかろかって。目の前が、真っ暗になったっとよ(でしょう? それを見た時、心臓をワシ掴みされたみたいに痛くなって。もしかしたら、お兄ちゃんは死ぬんじゃないかって。目の前が真っ暗になったのよ)」
もし妹が同じ状況になったら、きっと自分も同じ気持ちになるだろう。胸が詰まって、うっすら涙まで浮かんできた。感極まって、辛そうな妹の頭を撫でる。
「心配掛けたね」
「でも大した怪我じゃなくて、本当に良かった」
妹はぼくに胸にしがみ付いて、とうとう泣き出した。手を妹の背に回し、赤子をあやすように軽く叩く。
「ゴメンな」
「うん。だから、犯人探しなんて危ないことしないで欲しい」
「そうだな。これからは、自重するよ」
「でも、犯人が見つからんと、安心出来んね(でも、犯人が見つからないと、安心できないわね)」
しんみりとした空気を打ち破ったのは、例によって部長だった。せっかくの感動シーンが、台無しだ。相変わらずのKY(空気読めない)っぷりだ。
ぼくと妹は離れて、椅子に座る。少し冷めたホットミルクを飲みながら、一昨日あったことを思い出すことにした。
「ええっと。確か一昨日は、告白したくても勇気がない女の子が、相談に来たんでしたね。で、その次は、死にたいと言った不良みたいな女の子」
「けしにたがっちょったあん子、あいかいどんげしたっちゃろかい?(死にたがっていたあの子、あれからどうしたのかしら?)」
珍しく真剣な面持ちで、部長が言った。部長も部長なりに、彼女のことが気になっていたようだ。目を伏せて、派手な格好をした彼女を思い出す。
「物騒な噂を聞かないところをみると、自殺をした訳ではないとは思いますけど……。生きていて欲しいですよね」
「彼女なら生きてる」
妹がぼくを労わるように、微笑んできた。それを聞いて、驚いて目を見開く。
「えっ? 本当に?」
「うん。お兄ちゃんが、心配してると思って調べておいた。一年の教室を一通り探して、見つけた。毎日観察しているけど、ちゃんと登校している」
「よしっ、でかしたっ!」
「お兄ちゃんの役に立てて、良かった」
妹の気配りが嬉しくて、思わず妹を抱きしめた。妹はぼくの腕の中で、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、彼女は安心だな。えっと、その次に来たのは司書さんだったっけ?」
間違いを訂正するように、妹が口を開く。
「違う。その前に『鼻』の話をしているところへ、失恋相談の人が来た」
「ああ、暑苦しいデカブツか。あのノロケっぷりと、彼女の口調をマネたと思われる女の子喋りは、正直気持ちが悪かったな」
今思い出しただけでも、身の毛がよだつ。
部長が足を机の上で組み替え、音を立てながらコーヒーをすする。
「そいかい司書ば来よって、マナーがワリぃ女の話ばしよったね(それから司書が来て、マナーが悪い女の話をしたわね)」
「それは、部長には言われたくありませんよ」
ツッコむと、部長は意外そうな顔をする。
「なーんがよ。あたしは、図書館で煙草吸うたりせんよ?(何よ。あたしは、図書館で煙草を吸ったりしないわよ?)」
「マナーっていうのは、煙草のことばかりではありませんから。いや、今はそんなことはどうでもいいんですけどっ」
少し顔をしかめつつ、唇を尖らせながら部長に言い聞かせた。妹は軽く肩を竦めると、続きを話し始める。
「司書さんの次には、部長のファンクラブが来た」
それについて、補足。
「正確には部長に告白に来た人を、ファンクラブの会員達が連れ去ったんだよ」
「『女神井崎芽久美様を崇拝する紳士同盟』じゃが」
さらに部長が、自慢するように補足した。苦笑しながら頷き、続ける。
「ああ、そうでしたね。で、その後、研究員の甲斐さんが書籍と論文を持ってきたんでしたね」
その論文は部長からボロクソにけなされて、ダンボールの中へ放り込まれた。
それを聞くなり、部長は手をひとつ打ち鳴らして、背もたれから身体を起こす。
「じゃがじゃが! クリボーが、ケイちゃんに本を持ってきてくれたっちゃが。どきやったっちゃろかい?(そうそう! 甲斐さんが、興梠先生に本を持ってきてくれたんだったわ。どこへやったかしら?)」
「ちゃんと管理しといて下さいよ、図書館の本なんですから」
呆れて言うと、部長は「あれ~?」と、言いながら探している。数秒後。
「ねなったっちゃけど(なくなったんだけど)」
「ええっ? 昨日の今日で、もう失くしたんですか? しっかり探して下さいよ?」
驚いて叱り付けると、部長は頬を膨らませる。
「まこぅち見つからんとよ。昨日は確かに、『こきに』あったっちゃけど(本当に見つからないのよ。昨日は確かに、『ここに』あったんだけど)」
「こきに」を強調ながら、部長は机の上を何度も叩いた。妹も頷く。
「昨日、お兄ちゃんがそこに置いた。その後は、誰も触ってない……。はず」
「そういえば、そうだった。開いてみたんだけど、読めなかったんだ。そして、ぼくがそこに置いた」
それ以降、部長も妹も触っていないと言う。もちろん、ぼくも触っていない。まさか、本に足が生えて逃げていった、ということはないだろう。実際にあったら、怖いし。
「じゃったら犯人は、あん本目当てじゃったってことじゃっちゃろか?(だったら犯人は、あの本が目当てだったってことなのかしら?)」
「あいやんが本ば受け取るのを、犯人は見ちょったんじゃ! そいで本を奪う為に、あいやんばあえたっちゃがっ!(お兄ちゃんが本を受け取るのを、犯人は見ていたのよ! そして本を奪う為に、お兄ちゃんを突き落としたのよっ!)」
妹の口調が、怒りで荒れた。妹をなだめながら、考えを口にする。
「犯人は、別にぼくじゃなくても良かったんじゃないかなぁ?」
「なんね、そい?(何よ、それ?)」
部長が首を傾げたので、分かりやすく説明する。
「つまり、騒ぎさえ起こせれば良かったんです。自然と、そちらに目が行きますからね。もちろん犯人にとっては、ぼくが一番都合が良かったんでしょう。そしてその騒ぎに乗じて、本を盗み出したのだと思います」
「なんでお兄ちゃんじゃなくて、甲斐さん襲わなかった?」
まるで「甲斐さんだったら良かったのに」と、言わんばかりの口振りだ。それじゃあ、甲斐さんが可哀想だ。部長も腕組みをしながら、小首を傾げる。
「クリボーじゃいかんかった理由って、なんじゃったっちゃろかい?(甲斐さんじゃダメだった理由って、何だったのかしら?)」
「タイミングかもしれません。甲斐さんが持っている時は、何か事情があって奪えなかったんです。そうこうしているうちに、本はぼくに渡ってしまいました。そして、ぼくがひとりになったところを見計らって、後ろからドーンッ!」
ジェスチャーを交えながら、二人に説明した。すると、妹が苦虫を噛み潰したような顔をしながら呟く。
「そうまでして、欲しかった本って?」
「分からんが。本はもう、犯人の手に渡ったっちゃもん(分からないわよ。本はもう、犯人の手に渡ったんだもの)」
「いえ、確かめる方法ならありますよ」
そう言って、ぼくは口元に笑みを浮かべた。
ここまでお読み下さった方、ありがとうございました。並びにお疲れ様でした。
もし、不快な気持ちになられましたら、申し訳ございません。