第三章
ここまでついてきて下さった方、誠にありがとうございます。
いよいよ、事件が動き出します。
太陽が西の空へ傾き、世界を金色に染め上げる。濡れた草木や路面が、光を反射して眩しいくらいに輝く。いつもの見慣れた景色が、驚くほど美しく様変わりするひととき。いつの間にか、雨は止んでいたようだ。
窓の外を眺めて、黄金の眩しさに目を細める。
「良かった、濡れず帰れそうだ」
「ちっ」
後ろから、舌打ちの音がした。たぶん、部長だろう。例え雨で洗い流されたとしても、乾いて風が吹けば、再び花粉は宙を舞う。本当に苦しそうだから、気持ちは分からなくもないけど。花粉症じゃなくて、本当に良かった。
日没まで、あと少し。帰る準備をした後、トイレに立った。
心理学研究部の部室は、三階の最南にある。トイレは反対の最北にあるので、行き帰りには必ず、階段の前を通ることになる。用をたして部室へ戻る途中、何げなく階段を見た。コンクリート製のなんの変哲もない階段。一段一段、ゴム製の滑り止めが付いている。
「ん?」
下へ向かう階段の二段目に、何かが落ちていた。手の平サイズで、長方形の白いもの。それへ近付きながら、首をひねる。
「落し物かな?」
それを取ろうとかがんだ時、後ろから強い力で突き飛ばされた。前傾姿勢をとっていたのだから、ひとたまりもない。
「うわっ!」
眼鏡が外れて、ぼくより先に落ちる。小気味良い音を立てながら、何度かバウンドした。
「ひゃぁああああああああっ!」
受身を取らなくてはと思うが、運動音痴のぼくに出来るはずがない。情けない悲鳴を上げながら、階段を転がり落ちる。天地が何度も繰り返し見えて、目が回る。大きくて硬い何かにぶつかった後、ようやく回転は止まった。焦点の定まらない視界には、天井と蛍光灯だけが映る。
階段の角にあちこちぶつけて、全身が痛い。脈打つ度に、激しく痛む。これはアザになるだろうなぁ。それになんだか、顔が濡れている感じがする。汗か涙か、それとも血か。もしかすると、顔のどこかが切れたのかもしれない。
永遠とも一瞬とも思える静寂の後、どこかでドアが開く音がした。ややあって、誰かが叫ぶ声が聞こえる。
「人ばあえたぞー!(人が落ちたぞー!)」
それを合図に、何人もの学生達の声が聞こえ始める。
「なんじゃ? なんが起きたっとか?(なんだ? 何が起きたんだ?)」
「どんげしたっけ?(どうしたんだ?)」
「人ばあえたゆうちょったぞ?(人が落ちたって言っていたぞ?)」
ぼくの周りに、何人もの学生達が駆け寄って来た。ぼくの顔を覗き込んだり、手首を掴んで脈を計ったりしている。
「大丈夫ね? 意識ばあっちゃろかい?(大丈夫か? 意識はあるか?)」
「良かった、脈はあるみてぇじゃが(良かった、脈はあるみたい)」
「瞳孔開いちょる! ヤバいっちゃね?(瞳孔が開いている! ヤバいんじゃないか?)」
「動かさんで! ビンタ打っちょっかんしれん!(動かすな! 頭を打っているかもしれない!)」
「誰か担架、いや、救急車!」
「なんおごりよっとー?(何を騒いでいるんだ?)」
「人ばあえたげなっ(人が落ちたそうだっ)」
「そらぼくじゃーっ!(それは大変だーっ!)」
そんな騒ぎを、ぼくは他人ごとのように見聞きしていた。意識はあるのに、指一本動かせない。声も出せない。自分が一体、どのような状況なのか、確認出来ないことが歯痒くて仕方がない。
救急車なんて、大げさだなぁ。保健室へ運んでくれれば、充分なのに。大丈夫だから、そんなに大騒ぎしないで欲しいな。でももしかしたら、大怪我を負っているのかもしれない。階段から転げ落ちたんだし。骨折とかしていたら、いやだなぁ。
野次馬達の声が交じり合って、騒音にしか聞こえなくなった。ぼくに向かって何かを喋っているようだけど、何を言っているのか理解出来ない。
そうこう考えている内に、だんだん意識を保っているのがおっくうになってきた。まもなく、眠りに堕ちるように意識を手放した。
半年くらい前。ちょうど文化祭の一週間前のことを、思い出していた。何故? もしかすると、走馬灯のようなものかもしれない。だとしたら、ぼくは死ぬのだろうか? 待ってくれ! まだ十六年しか生きてないのに、あんまりだっ!
泣こうが嘆こうが、回想は勝手に進む。
当時一年だったぼくに、友人の黒木公子(くろききみこ。あだなは「公」からちなんで「ハム」)が、セミロングのくせっ毛を弾ませながら、話し掛けてきた。
「トシぃ、聞いてくんね。ワタシさ、個人的に空き部屋ば借りたっとよー。部屋っつっても、プレハブじゃけんどー(利夫、聞いてちょうだい。ワタシね、個人的に空き部屋を借りたの。部屋といっても、プレハブなんだけど)」
「へぇ? 何やるんだ?」
「聞いてたまがりね! 『お悩み相談室』をすっとーっ!(聞いて驚きなさい! 『お悩み相談室』をやるのよっ!)」
堂々と胸を張るハムに、ぼくは二の句をつげずにいた。そんな反応を見たハムが、顔をしかめる。
「聞ぃちょったけー?(聞いていた?)」
「聞いていたけど、なんで『お悩み相談室』?」
「実はさぁ、ワタシ、コーロギ先生ば憧れちょっとー。ワタシも先生みてぇに、悩みを抱えた人ん助けになりてぇっとよー!(実は、ワタシ、興梠先生に憧れているの。ワタシも先生みたいに、悩みを抱えた人の助けになりたいのよ!)」
ハムは羨望のまなざしを、あらぬ方向へ向けた。その当時、ぼくはまだコーロギ先生がどんな人なのか、全く知らなかった。気のない声で、応える。
「ほぉ、それはなかなか立派な心がけだね」
「なんけぇー、その心がこもっちょらんコメントはー?(何よ、その心がこもっていないコメントは?)」
「こめてないからさ。まぁ、せいぜい頑張って」
適当に手をひらひらと動かすと、ハムは情けない顔でぼくの手を掴む。
「ちょっ、こきまで言わせちょいて、手伝ってくれんとけー?(ちょっと、ここまで言わせておいて、手伝ってくれないの?)」
「何言ってんだ。お前が勝手に、言っただけじゃないか。それにぼくは、バスケ部の屋台を手伝う約束をしているから無理っ」
「ヒデぇ、ほんじぇん友達けー?(ヒドい、それでも友達なの?)」
「友達だよ。でも先約があるから、そっちが優先」
冷たく突っぱねると、ハムはいよいよ顔の前で手を合わせて、懇願し始める。
「頼むがー、トシぃー。他に頼めっ人がおらんとよー。みんな部活持っちょってからー。わー、なんも入っちょらんじゃろー?(頼むよ、利夫。他に頼める人がいないのよ。みんな部活持っているから。貴方は、部活は何も入っていないでしょ?)」
「だから、バスケ部の手伝いに行くって、言っているじゃないか」
あくまで断りの姿勢を崩さずにいると、ハムは疑いの目でぼくを見る。
「そもそもなしけー、部活入っちょらんとけー?(そもそもなんで、部活に入っていないのよ?)」
「そ、それは。ぼくに、趣味がないから……」
渋々答えると、ハムはぼくの左肩に手を置いて、同情するように言う。
「わー、悲しい子じゃねぇー(貴方、悲しい子ね)」
「そういう言い方するなよ、余計悲しくなるじゃないか」
半眼で睨みつけると、ハムは軽く首を傾げる。
「そもそも、趣味がないってなんけー? 例えばスポーツが好きーとか、音楽が好きーとか、パソコンが好きーとかねぇとけー?(そもそも、趣味がないって何よ? 例えばスポーツが好きーとか、音楽が好きーとか、パソコンが好きーとかないの?)」
「別にないなぁ。スポーツも得意じゃないし、音楽もそんなに興味ないし。妹はパソコンに詳しいけど、ぼくはさっぱりだし」
「じゃあ、なんが好きとー?(じゃあ、何が好きなのよ?)」
「しいて言うなら、読書かな。多くはないけど、小説は読む方だよ」
答えると、今度はぼくの両肩を掴み、真剣な面持ちでハムは言う。
「クリぃねー(暗いわね)」
「だから言うなって」
ハムはぼくと肩を組むと、ハツラツとした声を出す。
「よしっ! そんもぞなぎぃトシば、優し~いワタシが誘っちやるがー! 『お悩み相談室』の相談員としてっ!(そんな可哀想な利夫を、優し~いワタシが誘ってあげるわ! 『お悩み相談室』の相談員としてっ!)」
「だから、ぼくは屋台の手伝いが――」
「断りね(断りなさい)」
結局ハムにゴリ押しされて、ふたりだけのお悩み相談室の相談員として、駆り出されることとなってしまった。
そして、文化祭当日。まずは、客寄せから始まった。
「お悩み相談室でーす! 一回百円で、どんなお悩みでもお伺いしまーす! もちろん、お聞きしたお悩みは一切他言致しませーん!」
サンドイッチマンよろしく、体の前後に段ボール製の看板を付けられて、校門で声を張り上げる。しかも、パーティーグッズの赤と白の縦縞帽子を被らされて、黒ブチの鼻眼鏡までかけさせられる始末。一見、道頓堀太郎。その上、いつも眼鏡も付けているから、二重眼鏡で一層カッコ悪い。
これはハムの発案で、とにかく目立つことだけがポイントだ。案の定、通りすがりの人々に笑われている。恥ずかしくて、顔から火が出そうだ。ほとんど罰ゲームじゃないかっ!
ちなみにハムは、空き部屋を掃除して構えたお悩み相談室で待機している。つまり、ここにはぼくひとり。
当然、こんなふざけた格好をしているので、客足があるわけがない。閑古鳥が鳴くとは、まさにこんな状況をいうのだろう。やってくるのもせいぜい、手伝いをするはずだったバスケ部の友人が、からかいに来る程度だった。
文化祭二日目。頭にきたぼくは、異議を申し立てた。
「もうイヤだ! 今日はお前が客寄せやれ!」
「なんけぇー、もう音をあげたとかー? まこうち最近の若むんは、堪え情がねぇしていかんがねぇー(何よ、もう音をあげたの? 本当に最近の若者は、堪え情がなくてダメねぇ)」
「お前も、最近の若者だろ?」
「大体ワタシが客寄せやったら、誰が相談員やっとけー?(大体、ワタシが客寄せをやったら、誰が相談員をやるのよ?)」
「ぼくがやる」
「えーっ? ワタシが相談員やりたくて始めたとにー。本末転倒もいいとこじゃが、全くー(えーっ? ワタシが相談員をやりたくて始めたのにー。本末転倒もいいところじゃないの、全く)」
ハムは文句を言いながらも、素直に交代した。しかし彼女は、やるとなればやる女だ。堂々とサンドイッチマンルックを着込んで、声を張り上げる。
「お悩み相談は、いかがですかー? なんでも相談に乗りますよー! 一回百円! たったの百円ですよー!」
通りがかった男子高生に、ハムは営業スマイルを浮かべてチラシを差し出す。
「そこ行くオニーサーン、ちょつよっちみんけー?(そこ行くお兄さーん、ちょっと寄っていかない?)」
呼び込みとしては、なかなかのものだが。お悩み相談室の客寄せとしては、何か違う気がする。好奇心旺盛なハムのことだから、きっとこういうアルバイトも経験しているのだろう。
しばらくすると、呼び込みの効果があったのか、男性がひとりやって来た。たぶん四〇歳といったところだろう。黒ブチ眼鏡に白衣というのが、博士といった雰囲気だ。髪は整えられ、ヒゲも綺麗に剃られている。中肉中背で、爽やかな印象を受ける。女生徒に人気がありそうだ。察するに大学の教授か、はたまた助手か。手には、ハムが配布していたチラシがある。
「『お悩み相談室』ちゅーんは、こきですかね?(『お悩み相談室』というのは、ここですか?)」
低くもなく高くもないのんびりとした声は、聞いていて気持ちが良い。これが俗に言う「一/Fゆらぎ」という声か。例えるならば、○本レオ。そう思ったら、顔も○本レオに見えてきた。
「はい、どんな悩みでもお聞きします。もちろん、一切他言は致しません」
営業スマイルを浮かべて大きく頷くと、男性も笑い返してくる。
「じゃ、ひとつお願いすっかね(じゃあ、ひとつお願いしようかな)」
「どうぞ」
「ほじゃねぇ、なんを相談すっか分からんで困っちょるって、いうのはどうじゃろかい?(そうだね、何を相談するか分からなくて困っているって、いうのはどうだろうか?)」
男性は、穏やかに笑いながらパイプ椅子に腰掛けた。男性が言った意味が分からず、思わず聞き返す。
「はい?」
「ははっ、からかってワリかったね。実は『お悩み相談室』ばやっちょるて聞いてから、気になって来てみただけじゃっちゃが(ははっ、からかって悪かったね。実は『お悩み相談室』をやっているって聞いて、気になって来てみただけなんだ)」
そう言って、男性は朗らかに笑った。ぼくも、釣られるように笑う。
「それでも充分ですよ。お客さんが誰も来なくて、暇していたんで。来て下さっただけでも、御の字です」
「君は良い子じゃね(君は良い子だね)」
少し驚いた表情を浮かべた男性は、ぼくの頭を撫でながら続ける。
「じゃったら、まこぅち相談しよかね(じゃあ、本当に相談しようかな)」
「どうぞ、なんでもお聞きしますよ。もちろん、他言は致しません」
笑みを浮かべて頷くと、男性は真顔になってため息を吐く。
「最近、ハードスケジュールでからよ。大学ん教授でんねぇとに、講義せんといかんかったり、かといって、高校ん授業をサボるワケにもいかんでから(最近、ハードスケジュールでね。大学の教授でもないのに、講義しなくちゃいけなかったり、かといって、高校の授業をサボるワケにもいかなくてね)」
ってことは、高校の先生か。でも、高校でこの先生を見かけた覚えはない。何故だろう? 単にぼくが、先生の顔を覚えていないだけかもしれない。大きく頷いて、同情する。
「それは大変ですね」
「うん。日帰り出張じゃてザラじゃかい、もうくたくたじゃっちゃが。幸い昨日今日は文化祭じゃかい、ようやっと一息吐いたとこじゃが。(うん。日帰り出張なんかもザラだから、もうくたくたなんだ。幸い昨日今日は文化祭だから、ようやく一息吐いたところだよ)」
「良かったですね、文化祭様々じゃないですか。せっかくですから、文化祭をゆっくり楽しまれてはいかがですか?」
提案すると、先生は苦笑する。
「うん、文化祭も見て回りてぇっちゃけどね。一生懸命やっちょる学生どんにはワリっちゃけど、せっかくの休みじゃき、出掛けてぇ気持ちばつえぇと(うん、文化祭も見て回りたいんだけどね。一生懸命やっている学生達には悪いんだけど、せっかくの休みなんだから、出掛けたいって気持ちが強いんだよ)」
「だったら、出掛けたらいいじゃないですか」
「へ?」
ぼくの発案に、先生は虚を衝かれたようだった。軽い調子で、笑いながら続ける。
「サボっちゃえばいいんですよ。学生も教員も、今日はみんなお休みです。大丈夫、ぼくは絶対に誰にも言いませんから」
「ははっ! ほじゃね。サボってしまえば良いとかっ!(ははっ! そうだね。サボってしまえばいいのかっ!)」
先生は本当に楽しそうに、声を立てて笑った。そんな時、ドアが開いた。どうやら、ハムが帰って来たようだ。
「トシぃ、ちょつよくうー……。あいっ! なしけこきに、コーロギ先生ばおっとーっ?(利夫、ちょっと休憩……。あれっ! なんでここに、興梠儀先生がいるのっ?)」
「コーロギ先生?」
言われて初めて、彼がコーロギ先生だと知った。ぼくは化学を専攻していたので、生物学のコーロギ先生の存在を、まるで知らなかった。
先生はぼくの頭を撫でながら、ハムに笑い掛ける。
「いんま、悩みば相談しよったとこじゃが。いやぁ、なかなか良か相談員じゃね、こん子は(今、悩みを相談していたところだよ。いやぁ、なかなか良い相談員だね、この子は)」
「いえ、そんな大層なもんじゃないですよ」
褒められて、照れ臭くなった。ハムはまるで自分の手柄みたいに、先生に話し掛ける。
「じゃろーっ! こん子は相談員ば向いてるって見抜いてから、ワタシが誘ったっとですよー(でしょうっ! この子は相談員に向いていると見抜いて、ワタシが誘ったんですよ)」
「へぇ、君は人を見抜く才能ば冴えちょっちゃね(へぇ、君は人を見抜く才能が冴えているんだね)」
「じゃっつろーっ!(そうでしょうっ!)」
得意げに、ハムは胸を張った。
「良く言うよ。単に人手が足りなくって、ぼくを引っ張り込んだだけのクセに」
苦笑すると、ハムが「余計なことは言うな」とばかりに、睨みつけてきた。一瞬後、笑顔に戻ったハムは先生に媚を売る。
「ねぇ、先生ーっ。もしお暇じゃったらー、一緒に文化祭ば見て回りませんかねー?(ねぇ、先生っ。もしお暇でしたら、一緒に文化祭を見て回りませんか?)」
「いやぁ、せっかくんお誘いじゃけんど、私はこん後、出掛けんといかんとよ(いやぁ、せっかくのお誘いだけれど、私はこの後、出掛けなければならないんだ)」
先生は、こちらへ向かって意味深長な笑みを見せた。ぼくは肩をすくめて、笑い返した。ハムはそれに気付いた様子もなく、顔をしかめる。
「え~、残念~」
「ワリぃね、私もやるこつばいっぺあっとよ(悪いね、私もやることがいっぱいあるんだ)」
先生はぼくに百円を手渡すと、軽く手を振りながら去って行った。ハムは名残惜しそうに、大きく手を振りながらそれを見送った。
先生の姿が見えなくなるやいなや、ハムはぼくに問い詰めてくる。
「先生ば、どんげら話ばしよったっけー?(先生は、どんな話をしたの?)」
「仕事が忙しくて、大変だって言っていたよ」
要約して、一言で説明した。嘘は言っていない。ただ、守秘義務があるから詳しくは言わない。先生にも、絶対言わないって約束したし。
ハムはぼくの話を疑うことなく、言葉通りに信じたようだ。ハムはわざとらしく、深々とため息を吐く。
「じゃろねー。確かん先生は、忙し過ぎっと思っちゃがー。ちょつでん、肩代わり出来たらいっちゃけどねぇー(でしょうね。確かに先生は、忙し過ぎると思うのよ。少しでも、肩代わり出来たらいいんだけどねぇ)」
「そうは言っても、ぼくらに先生の代わりは出来ないよ」
「うーん、じゃねぇー。ゆうてもてにゃわんこっちゃねー(うーん、そうよねぇ。言っても仕方がないことよね)」
先生はあの後、助言通り文化祭を抜け出して、どこかへ出掛けたのだろうか? それは、先生だけが知っている。
それからというもの、『コーロギ先生お墨付きのお悩み相談室』は噂が噂を呼び、客足が絶えなくなった。といっても、行列が出来る程の盛況ではない。ドアの前に常に二、三人、多くて五人待っているといった状況だ。
どうやらハムの呼び込みと、ぼくの相談役が功を奏したようだ。
それというのも、ぼくのお節介の虫が騒ぎ出して、つい親身になって相談に乗ってしまったからだ。一生懸命話を聞いてくれる相手がいると、人は話したくなるものだ。解決策を見出してくれなくとも、話をするだけすると気が晴れるということは良くある話だ。
相談に来るのは、学生ばかりではない。その親である四十代以上の男女の方が、上回る。どうやら学生よりも、親の方が悩みを抱えているようだ。
内容も相談というより、「とにかく話を聞いて欲しい」といったことが多い。しかも、一人に掛かる時間が結構長い。あまりに長くて効率が悪いと、ハムが制限時間を設けたくらいだ。ハムが手に持ったタイムウォッチが、電子音を発する。
「はーい、お時間でーす」
「ええっ? もう終わり? 話し足りないよ」
中年男性は文句を言いながら、百円玉をハムに支払った。ハムはそれを、営業スマイルで受け取る。
「ありがとうございまーす。またご利用下さいませー」
「もう百円払うから、延長は効かないの?」
「どうする?」
ハムに問いかけると、彼女は小さく首を横に振って耳打ちしてくる。
「まだ後ろに、待っちょる人ばおっとぞー? そん客ば痺れを切らすかんしれんじゃねけー(まだ後ろに、待っている人いるのよ? その客が痺れを切らすかもしれないじゃないの)」
「ああ、そうだよな。あの――」
申し訳ない気持ちで、目の前の客に謝ろうとした時。ハムが笑みを浮かべて、客に断る。
「では、今一度お並び頂けますでしょうかー? 今なら十分少々で、順番が回って参りますのでー」
「そんくらいなら、待ってやらんこともない」
客は不承不承、椅子から立ち上がって外へ出て行った。結局、その客は十周くらいした。よっぽど、話し相手が欲しかったらしい。
文化祭最終日。最後の客が去った後、『営業終了』の張り紙を表に貼ってドアを閉めた。
「――ろの、やの、とう。スゲきっ! トシぃー、ちょっみちみねー!(――六の、八の、十。スゴいっ! 利夫、ちょっと見てみなさいよ!)」
クッキーの空き缶に入れた、百円玉を数えていたハムが声を弾ませた。見れば、机の上には十枚ずつ詰まれた百円玉のタワーが、五つも建っている。百×十×五で五千円だ。
「うわっ、こんなに?」
「いやぁー。ワタシも、こきまで大成功するとは、想像しちょらんかったわー!(いやぁ。ワタシも、ここまで大成功するとは想像していなかったわ!)」
「うん、ぼくも。初日は、正直ダメだと思っていたよ」
「ワタシ達のチームワークが良かったっちゃねー! わー誘って、良かったー!(ワタシ達のチームワークが良かったのね! 貴方を誘って、良かった!)」
「お前の誘いに良かったと、今は思うよ!」
上機嫌のハムは満面の笑みを浮かべて、抱きついてきた。ぼくも嬉しくなって、その場で一緒に何度か跳ねた。その衝撃で机に建った百円玉の塔が、音を立てて崩れ落ちる。
「あははっ! 崩れてしもたーっ!(あははっ! 崩れちゃったっ!)」
「はははっ! 拾お、拾おっ!」
そんななんでもないことも、今はおかしくてたまらない。笑いの器官が壊れてしまったみたいだ。ぼくらは笑いながら、床に散らばった百円玉を拾い始める。
「よーしっ! 打ち上げしよや、打ち上げーっ! 今夜はとことん歌おーやーっ!(よーしっ! 打ち上げしましょう、打ち上げっ! 今夜は徹底的に歌おうねっ!)」
「うんっ!」
ぼくらはその金でカラオケボックスへ行き、飲み食いして歌いまくり、その日のうちに使い果たした。
文化祭が無事終わり、約一ヶ月後。
ホームルームが終わって、教室で帰り支度を整えていた時。モデル並みに超絶美形の女が、金色の長い髪と白衣をなびかせながらやってきた。美女は教室のドアを開けるなり、声を張り上げる。
「長木利夫さんは、いるかしらぁーっ!」
「あっ、はいっ!」
弾かれるように返事をして、美女の側へ駆け寄った。クラスメイト達が、何ごとかと注目する。そして訪問者の美しさに、誰もが驚く。
「うわっ、なんじゃあいっ!(うわっ、なんだよあれっ!)」
「えれぇ美人じゃねけっ(スゴイ美人じゃないかっ)」
「胸でけぇっ!(胸大きいっ!)」
「足なげぇーっ(足長ーいっ)」
そんな騒ぎをものともせず、美女は話し掛けてくる。
「貴方が、長木利夫さん?」
「は、はいっ。そっ、そっそそそうですけどっ?」
光り輝くような美女を目の前にして、緊張で声が裏返った。美女は、ナチュラルピンクの唇を吊り上げて微笑む。
「コーロギ先生がお呼びです、心理学研究部まで一緒に来て下さい」
「コーロギ先生? 心理学研究部?」
戸惑うぼくに構わず、美女は颯爽と歩き出す。それを慌てて追いかける。美女の通った後には、瑞々しいオレンジの匂いが香った。嫌味のない、香水の匂いだ。香水を付けてはいけないという校則はないので、違反ではない。
が、化粧と染髪は、明らかに違反だ。良く見たら、ピアスもマニキュアもしている。何故、誰も彼女を咎めないんだろう?
いや、それどころか彼女が通ると、男女問わず誰もがその美しさに振り返る。美人って、凄いっ!
呼ばれもしないのに、何故か一緒についてきたハムが、顔を強張らせる。
「ひょっとして文化祭の件で、怒られっちゃろかー?(ひょっとして文化祭の件で、怒られるのかしら?)」
「お前が勝手に人の名前を使って、商売したからだろ?」
そう、『コーロギ先生お墨付きのお悩み相談室』と、銘打ったのはハムだ。
「でも、おかげで大盛況じゃったじゃねけー(でも、おかげで大盛況だったじゃない)」
「そうかもしれないけどさ。そもそも、なんで呼び出されるのがぼくなんだよ?」
「そりゃわば、相談員じゃったからじゃねぇとー?(それは貴方が、相談員だったからじゃないの?)」
「お前が代表者なんだから、呼び出されるのは、ぼくじゃなくてお前のはずだろ?」
「そんげらことゆうたって、知らんがー。事実呼ばれたんは、トシじゃねけー(そんなこと言われたって、知らないわよ。事実呼ばれたのは、利夫じゃない)」
ぼくらが醜い言い争いをしていると、美女がしなやかな金髪をひるがえして、振り返る。
「ああ、貴女は来なくて大丈夫ですよ」
美女は、ハムの方を見ながら言った。
「え? ワタシはいーとけー?(え? ワタシはいいの?)」
ハムは嬉しそうに笑って立ち止まり、ぼくに向かって大きく手を振る。
「じゃあねー、トシぃ。こってり絞られてこんねーっ!(じゃあねー、利夫。こってり絞られてきなさいねー!)」
「そんなっ、ヒドいよっ! なんでぼくだけなんだよーっ!」
ぼくの情けない悲鳴は、細く長く尾を引いた。
美女が足を向けたのは、部活棟だった。一階と二階には体育系の部室があり、合気道部、アメリカンフットボール部、剣道部、硬式野球部、サッカー部、バスケットボール部、陸上競技部などの部室がある。三階から上にある理系の部室は、物理研究部、化学研究部、心理学研究部などだ。他の文化部は、また別に棟があるらしい。
「ぼく、ここへ来るのは初めてなんですが、ずいぶん賑やかなんですね。それになんだか、薬品や汗の臭いとか、色々混ざった臭いがします」
知らない場所に連れてこられて戸惑いがちなぼくに、一歩先を歩く美女が小首を傾げた。その何気ない仕草ひとつさえも、美しい。例えるならば、風になびく黄色い薔薇。
「そう? ここはいつもこんな感じですよ。いつも、どこの研究室でも実――」
美女の言葉を遮るように、どこかから小さな爆音が聞こえた。
「ぅわっ!」
驚いて、思わず悲鳴を上げてしまった。横をすれ違う学生達は、慣れているのか皆平然としている。驚いたのは、ぼくひとりだと気が付いて恥ずかしい。
「これも、いつものこと」
茶目っ気のある口調で言って、彼女は無邪気に笑った。恥ずかしさと美女の美しさに、自分の顔が紅く火照るのを感じる。
「あの、ところで貴女は?」
「あたしは心理学研究部部長、井崎芽久美です」
「イザキメグミさん、ですか」
美女にピッタリの素敵な名前だ。メグミという、響きが良い。ただ単に名前を教えて貰えただけなのに、無性に嬉しくて仕方がない。笑い掛けられる度に、胸が高鳴って顔が緩んでしまう。動揺しながら、イザキさんに問い掛ける。
「それで、あのっ、イザキさん。ぼくは何故、呼び出されたのでしょうか?」
「それは、思い当たることがあるでしょう?」
問われて、思わず言葉に詰まった。
「うっ……。そ、それってやっぱり文化祭のこと……、ですよね?」
「分かっているじゃない」
憎たらしいくらい鋭く言い放たれて、急に胃が痛み出した。腹を押さえていると、イザキさんは少し心配そうな顔をして立ち止まった。
「大丈夫? トイレなら、そっちですけど」
「いえ。別に、トイレに行きたい訳では……」
苦笑いを浮かべるぼくに、イザキさんは薄笑いを浮かべる。
「薬なら、医学部が作ったものがありますけど?」
「い、いえ。結構です」
それは、服用しても大丈夫なものなのだろうか? 保障がないものは、飲みたくない。
「大丈夫なら、行きますよ」
「は、はい」
イザキさんは、また颯爽と歩き出す。その後を、おぼつかない足取りでついていく。しばらくして『心理学研究部』の扉の前へ辿り着いた。胃痛は、増すばかりだ。そんなぼくに構わず、イザキさんは白く細い拳で扉を軽くノックした。
「コーロギ先生、お連れしました」
「どうぞ」
「失礼します」
中から、中年男性の声が聞こえた。イザキさんが、ドアを開ける。
まず目に入ったのは、汚い部屋だった。天井に届きそうなほど、ダンボール箱が積まれている。床に置かれたダンボール箱は、フタが開いていて書類が詰まっていた。安物のステンレス製の棚には、心理学研究部には相応しくない、標本らしき箱や研究機材のようなものが並んでいる。棚には、白いホコリが積もっていた。
床には、ゴミだかなんだか分からないものが、ごちゃごちゃ落ちている。それを踏まないように気を付けながら、中へ入る。
コーロギ先生はパイプ椅子に腰掛けて、気さくな感じで声を掛けてくる。
「やあやあ。ご足労掛けてすまんね、長木君」
「は、ははっ初めまして! な、なが、ナガイキ、利夫ですっ!」
後ろめたさと緊張しすぎで、噛んでしまった。先生は不思議そうな顔をして、瞬きをする。
「あい? 君とは、初対面じゃねぇはずじゃけんど?(あれ? 君とは、初対面ではないはずだけど?)」
「え? そうでしたか?」
とにかく、人の顔と名前を覚えるのが大の苦手だ。いつもつるんでいるハムや、一緒に昼食を食べる友達なんかは別だけど。半年も一緒にいるクラスメイトの顔と名前が、今でも一致しない。実はこういうことが、しょっちゅうある。
「えっと、ごめんなさい。どこかでお会いしましたっけ?」
ずいぶんまぬけな質問だ。失礼にもほどがある。先生は苦笑しながら、答える。
「確か文化祭二日目に、相談に乗ってもらったと思うけど」
「――あっ!」
そうだ、思い出したっ! あの時、ハムにも「コーロギ先生だ」って教えてもらったのに、すっかり忘れていた。なんてことだ、恥の上塗りじゃないか!
「あ、あの時はすみませんでした! 勝手に人の名前を使って、商売したりして! その、本当に悪かったと思っています! 反省文でもなんでも書かせて頂きますので、どうか許して下さいっ!」
何度も何度も、頭を下げた。それを見た先生は、声を立てて笑う。
「あはははっ、そんげ『ショウリョウバッタ』んごつ、びんた下げんでよか。叱る為に、呼んだんじゃなか(あはははっ、そんな『米つきバッタ』みたいに、頭下げなくて良いよ。叱る為に、呼んだんじゃないんだ)」
「はぃ?」
ショーリョーバッタ? なんだそれ? 恐る恐る頭を上げると、先生は楽しそうに笑っている。
「逆にお願いしてぇことばあって、きちもろたと(逆にお願いしたいことがあって、来てもらったんだ)」
「お願いしたいこと?」
情けない顔をしているぼくに、コーロギ先生はにこやかに言う。
「君に、私の代理ばしちもろてぇと(君に、私の代理をしてもらいたいんだ)」
「そんな! 先生の代理だなんてっ!」
激しく動揺し、顔を横に振りながら答えた。一体何を考えているんだ、この人は? そんなこと、出来るはずがないじゃないか。
ぼくの顔色を見て考えを読んだのか、先生は穏やかに笑いながら、否定を示すように手を左右に振る。
「いやいや。仕事んことじゃなか。私ん代わりに、相談員ばしちもろてぇと。ほら、君が文化祭でやっちょったごつ(いやいや。仕事のことではないんだ。私の代わりに、相談員をして貰いたいんだ。ほら、君が文化祭でやっていたように)」
「あ、そっちでしたか」
急に気持ちが楽になった。それだったら、なんとかなるかもしれない。少し落ち着いたぼくを見て、先生は続ける。
「昔っから私は、人ん相談に乗んのが好きでね。じゃけんど、近年は大学の講義にも出んといかんくなって(昔から私は、人の相談に乗るのが好きでね。けれど、近年は大学の講義にも出なくてはならなくなってしまって)」
それは愚痴か、それとも自慢か。口を挟まずに、ただ黙って続きを聞く。
「ほれ、えれぇーなっと、会議とか講演会とか出んといかんし(ほら、偉くなると、会議とか講演会とか出なければいけなくなるし)」
これはやはり自慢だな。でも偉そうに聞こえないのは、先生の人柄だろう。
「そいで、困っちょったと。相談したい人ばおっても、私ばおらんちゃもん。そいで誰か代わりば、やっちくるる人ばおらんもんかな~と、考えちょったと(それで、困っていたんだ。相談したい人がいても、私がいないんだから。それで誰か代わりを、やってくれる人がいないかな~と、考えていたんだ)」
一旦言葉を区切ると、先生はぼくを指差す。
「そんげ折、君が文化祭で相談員ばしよった。これはよか機会ば思て、君にお願いしようと思ったっと(そんな折、君が文化祭で相談員をしていた。これは良い機会だと思って、君にお願いしようと思ったんだよ)」
「それは、反省文の代わりですか?」
訊ねると、先生は意味ありげな薄笑いを浮かべた。口は笑っているのに、目は笑っていない。断ることは許されない、そんな感じだ。蛇に睨まれた蛙になったような、錯覚を覚えた。寒気と同時に、背中に汗が伝うのが分かる。
ややあって、先生はゆっくりと口を開く。穏やかなのに、何故か重い。
「まぁ断られんといいな~ごつ、考えてちょっと(まぁ断られないといいな~と、考えているんだ)」
「うっ……。わ、分かりました」
ぼくに、選択権はなかった。返事を聞くなり、先生は満面の笑みを浮かべて訊ねてくる。
「ところで君、部活ばなん入っちょる?(ところで君、部活は何に所属しているんだい?)」
「何も入っていませんけど」
「よかよか。ちょうど『心理学研究部』の副部長の席ば空いちょっちゃかい。さっそく、君にやっちもろたろ(良かった。ちょうど『心理学研究部』の副部長の席が空いているから。さっそく、君にやってもらおう)」
「そんなっ! 副部長なんて、ぼくには無理ですっ」
慌てて手を横に振ると、先生は噴き出すように笑う。
「なーんが、副部長ゆうても緊張せんでよか。いんま、井崎君しか部員おらんでかい、君ば入れば自動的ん副部長んなるっちゅーだけじゃが(何、副部長といっても緊張しなくて良いんだよ。今は井崎君しか部員はいないから、自動的に副部長になるっていうだけだから)」
「ああ、そういうことですか」
ひとりしかいないって、どんだけ寂しい部活なんだよ。
「マイナーな部活じゃけ、せんないこっちゃね(マイナーな部活だから、仕方がないことなんだよ)」
ぼくの考えを読んだかのように、先生は声を立てて笑った。
そんなこんなで、現在に至る。
あの時素敵で憧れたイザキさんは、初対面のぼくを警戒させない為に猫をかぶっていたのだと、のちに知ることとなる。今なら、部長に見惚れたり、照れたりすることはない。だって、超絶美形の皮を被ったオッサンだからな。
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