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すたー・げいず/4


 4/わたしが見る世界



 わたしは丘にいる。

 蛍星の降った日から二日が経った。

 わたしはアハトの丘にいる。

 広い広い草原のど真ん中で体育座りをして、今にも襲い掛かってきそうなほどに広い海を眺め、海の色を映した遥か彼方の空を見詰め、それらの狭間で真っ直ぐに横たわる水平線を見据えている。

 我ながら、何やってんだが、という思いだった。

 アハトの丘に来たのは数時間も前もことだ。

 お昼もここで食べたし、さっきまで昼寝もしていた。それくらいに今日はいい陽気だったが、今となっては海の果てに少しずつオレンジ色が混ざり始め、空の色も青と紫の中間のような色彩だ。

 そう、もうすぐ日暮れが近いのである。

 もうすぐ、夜になる。

 二日前と違い、アハトの丘に影人の姿はない。

 まるで祭の後のような静けさ。

 丘の草を撫でながら、どこか寂寥とした風が吹く。その風には春の夜の冷たさが混じっている。無為に過ごした時間は短いようで長く、遠く朱色の空には星が浮かび始める。

 アハトの丘の夜。

 その水平線の向こうを、わたしは見据えている。


 わたしは丘にいる。

 蛍星の降った日から三日が経った。

 わたしはアハト丘にいる。

 広い広い草原のど真ん中で大の字になって、今にも落ちてきそうなほどに広い空を眺め、その海原のような大空で静かに泳ぐ雲を見詰め、それらの狭間を吹き抜けてゆく風を見据えている。

 我ながら、何やってんだか、という思いだった。

 白状します。

 わたしが昨日アハトの丘に行ったのは、蛍星を見たかったからです。

 そして、結局は何も見れませんでした。

 そりゃ、サスケの言った事を忘れたわけではない。

 蛍星の夜は、わたしなんかよりずっと前からアハトの丘に通っていた影人たちですら見たことのない光景だったのだ。

 それをたったの二日後にもう一回見ようなんて、そんなもんダメに決まっている。

 なのに、


 わたしは今日も、アハトの丘にいる。

 草原の風は暖かく、柔らかい。目を閉じて風の音を聞いていると、まるで自分が風に乗って空を飛んでいるような気分になる。

 風は空より高く舞い上がり、雲を突き抜け、海を越え、世界を渡る。

 まだ見たことのない景色を越えて、終わることなく世界を渡る。

 その世界を、わたしは見据えている。


 わたしは丘にいる。

 蛍星の降った日から四日が経った。

 わたしはアハト丘にいる。

 陽が落ちた。

 月が昇った。

 銀色に光る三日月は刀のように鋭く輝いて海を照らす。落陽の光とはまた違った趣を持つその光は、外灯もなく真っ暗闇であるはずの八番丘を薄暗闇にする程度には明るい。

 わたしはアハトの丘の一番端っこ──草原と海の境に立って、空を見上げていた。

 自然にあふれ、民家の一つもないこの丘から見上げる星空は眩い。星の光は幾億年の旅路を経てもなお褪めず、視力0.7でもその色彩がはっきりと見て取れる。

 一様に見える星々にもその色、光り方、明るさなど様々なものがあって、「やっぱり全部違う星なんだなあ」とか、そんな当たり前なことを今さら思ってみたりした。

 でも、わたしが見たい星は、どこにもなかった。

 白くて細長い尾を引き、夜空を縦横に翔ける星。そんなものなど最初から存在しない、とでも言うように、夜空には無数の点だけが光り輝いている。

「──見たんだもん」

 真っ黒い海に向かって、わたしは呟き、

 そして、叫んだ。

「ぜっっっっったいに見たんだから!!」

 そうだ。

 うそじゃない。

 蛍星は、確かにこの空を飛んだのだ。わたしは、それをたくさんの影人たちと一緒に見たのだ。それは、それだけは、絶対にほんとだ。この丘に集ったみんなと一緒に──

 振り返っても、丘には誰もいない。

 今日の影人たちの集会は終わった。

 だから、誰もいない。当たり前のこと。

 なのに、「影人などお前の妄想だ」と言われているような気がした。

 スカートのポケットを探ると、わたしの右手が固い感触を覚える。それを握り締めて、取り出す。朴訥な黒い球体。これが、わたしのあの日の証明。わたしが生きた十七年間で、もっとも綺麗だったもの。一瞬でわたしの心を奪って、手に触れたときにはもう息絶えていたもの。

 わたしは、あの光をもう一度見たい。

 世界の九割を"死"が覆いつくしたこの世界で、眩しいほどに強く光るあの生命を、もう一度見たい。

 蛍星を握り締め、あの光が現れた星海の向こうを、わたしは見据えている。


 わたしは丘にいる。

 蛍星の降った日から五日が経った。

 わたしはアハトの丘にいる。

 広い広い草原のど真ん中でいじけたように膝を抱え、今にも襲い掛かってきそうなほどに広い海を眺め、海の色を映した遥か彼方の空を見詰め、それらの狭間で真っ直ぐに横たわる水平線を見据えている。

 決意は昨日のうちに固まった。

 家の掃除をして、荷物はまとめて、大して入っていなかった冷蔵庫の中身はお腹の中に入れた。家電のコンセントは全部抜いて、洗った食器もしまった。用意した書置きは机の上。そうしておけば、近所のおばあさんが心配することもないだろう。

 サスケとコタロウにも、このことは伝えた。

 サスケは愛らしい顔で微笑み、「シャンテさんらしい」と言った。

 出発は、明日と決めた。

 だからわたしは、丘から見える光景を目に焼き付けることにした。

 飽きるまで、丘から見える光景を眺め続けた。

 やがて、水平線の向こうに太陽が沈み、代わりに月が出て、頭上に巨大な弧を描いて沈み、再び太陽が昇った。

 夜明けだった。

「られ、もお朝……?」

 海から吹く風が寝ぼけ眼をこじ開ける。

 どうやら草原に寝転がったまま一夜が明けたらしい。まったく、我ながら「気付いたら寝てた」というパターンが多すぎる。シートも敷かずに寝転がっていたから、背中と髪の毛には雑草が絡みまくっていた。

 風邪を引かなくてよかったと、心底思う。

「はあ、ねむ……」

 大きなあくび一つ、わたしはやおら立ち上がる。

 そして草原に背を向け、歩き出す。

 海は朝陽を浴びてさぞ綺麗であろうが、わたしはそれに一瞥もくれない。振り向かずに歩く。背中と髪の毛についた雑草を手で払い落としながら、とうとうアハトの丘を後にする。しかし最後の一歩で、

 その足が、

 止まる。

 ──振り向く。

「行ってきます」

 向き直り、再び歩き出した。

 いや、今度は小走りだ。

 林の小道を通り、石段を下り、じぐざぐにうねった道を抜け、木陰が作るトンネルを過ぎ、畑の連なる道を進み、首なし地蔵の塚を越え、長い長い坂道を降りていく。感情が昂ぶっていく。心が身体を突き動かす。

 わたしは勢いに任せてどんどん坂を下る。

 やがて、下った先にバス停が見えた。

 ぼろぼろの停留所であった。

 申し訳程度の屋根と、背もたれに『雲印乳業』と書かれた青いベンチ。

 どこまでも田舎。

 標識の時刻表はもう掠れて読めやしないし、ここを走っていたバスはとうの昔に廃線となっている。

 けれど、バスはそこにいた。

「すいませーん、乗ります」

 わたしがバスに近づくと、すでに事情を知っている顔のない運転手が、当惑した表情で顔のない顔を出した。

「本当に行くのかいね」

 うなずく。顔のない運転手は運転席の右上に掲示されている路線図を指して、

「次は、雲の停留所だよ。降りられないよ」

「じゃあ、そこでは降りません」

「その次は空の停留所だよ。やっぱり、降りられないよ」

「じゃあ、そこでも降りません」

「その次は暗闇の停留所だよ。ぜったい降りられないよ」

「じゃあ、そこでも降りません」

「ほんじゃ、どこで降りるってーの」

 一拍の間があり、

「いちばん素敵なところで」

 顔のない運転手は、ぽかん、という感じで言葉を失った。

「わたしの知らない、見たことも、想像したこともない世界が、この地球にはあるんです。わたしはそれをこの目に収めていきたいんです。風みたいに、アテもなく世界中を渡りたい……。そうして、通り過ぎたすべての場所の景色を、ずっと忘れないでいたい」

 ──あの蛍星の夜を、ずっと忘れないと誓ったように。

「だから、乗ります」

 ぽかん、としていた顔のない運転手の顔が、瞬く間に少年のような笑みへと取って代わった。けらけらと大声で笑い、そして窓から右手が突き出された。その右手の親指は、春の青空を指すように真っ直ぐ立っている。

 ぶしゅるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる。

 同時に、バスが吼えた。

 乗車用と下車用のドアが勢いよく開き、ぜんぶの窓が一気に開け放たれる。フロントライトとテールランプとバックランプが一斉に点灯し、ウインカーが壊れたような速度で点滅する。顔のない運転手はマジックインキを取り出して、路線図に大きなバツを書き殴った。

「おっしゃ、乗んなお客さん!」

 バスに乗り、適当な席に着く。

 窓から見える景色が、いつもと違って見えた。「この町を出る」という心境だけで、世界はその様相をがらりと変えてしまうのだ。

 今にして思ってみれば、この町だって言い表せないほど素敵な町だった。自然があって、人は優しくて、大きな港があって、変な主がいる変なお店があって、最高の眺めの丘がある。

 ここを発つことは、正直ものすごく寂しい。

 でも、わたしは行くのです。

 窓の外を見て感傷に浸っている暇などないのです。いつ死んでしまうか分からないけれど、残りの人生すべてを使って、世界を巡りたいのです。そして、

「──あ」

 そして、わたしは気付いた。

 壁のところどころに貼られた路線図。バツ印を打たれたのは運転席のものだけで、他の路線図にそんなものはない。へたくそな地球儀の絵が描いてあり、ど真ん中にただ一言、こんなことが書いてあるだけだった。

『ぜんぶ』

 それを見た瞬間、思わず席を立った。

 運転席の隣まで駆けて、顔のない運転手の肩に手を置き、もう片っぽの手でフロントガラスの向こうに広がる空を指差した。

 そして、わたしの声と運転手の声が、見事にハモった。

「しゅっぱつ、しんこー!!」

 ぶしゅっ、ぶしゅるっ、ぶしゅるるるるるるるるるる。

 雄叫びと共に、バスは大空に舞い上がる。

 バス停があっという間に遠くなる。

 視界に映るのが海の青と空の青だけになる。それでもバスは上昇していく。運転手がハンドルを切り、バスは左へ傾ぐ。窓の向こう、遥か遠ざかったアハトの町が見える。

 その町にある丘からの風景を、わたしはずっと覚えている。




 すたー・げいず/おしまい

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