重すぎる恋心の代償
高い天井に吊り下げられた幾百ものクリスタルガラスのシャンデリアから、眩いばかりの光の雨が降り注いでいた。
壁一面に嵌め込まれた豪奢な鏡は金箔の薔薇で飾られ、そこに映る着飾った貴族たちの姿を幾重にも増殖させている。
楽団が奏でる軽やかな弦楽四重奏の調べ、磨き抜かれた白大理石の床を擦る絹のスカートの衣擦れの音、銀のトレイに載せられたシャンパングラスの触れ合う澄んだ響き。
王立学院の卒業を祝う大夜会は、甘やかな熱気と高価な香水の匂いに満ち満ちていた。
だが、その華やかな装飾の裏側で、女たちの視線は常に冷たく研ぎ澄まされていた。
美貌か器量か、家柄の格式か、男の自尊心をくすぐる媚びの巧みさか、あるいは指先ひとつの仕草に至るまでの優雅さか――。この夜会は卒業生たちにとって、社交会デビューの役割も果たしていた。
平民の娘がパン屑のために道端で媚態を売るのも、貴族の令嬢たちが舞踏会で扇の影から男の袖を引くのも、本質は何一つ変わらない。
誰がいち早く、より強い男の庇護を勝ち取り、競合する同性を蹴落として自らの価値を証明できるか。
その果てしない品評会こそが、女たちの生きる世界のすべてだった。
息をするように容姿を比べられ、十代半ばを過ぎれば、行き遅れの囁きに怯え、息が詰まるほどコルセットを締め上げて微笑みを貼り付ける。
少しでも自己を主張すれば生意気な女と爪弾きにされ、男を立てる従順さを演じ続けなければ、実家からも社会からも居場所を奪われて路頭に迷う。
平民は飢えを凌ぐために、貴族は家の存続のために、女たちは誰もが自分という人間を切り売りしながら、いつ終わるとも知れない値踏みの市場で神経を擦り減らし、社会に競争させられながら生きている。
その張り詰めた空気を、氷を削るような硬質な声が一瞬で両断した。
「――ヴァイオレット・トスカーナ公爵令嬢。貴様との婚約を白紙撤回する」
バイオリンの弓が弦の上で軋み、優雅な音色が消えた。
広間に満ちていた嬌声も笑い声も、一瞬で潮が引くように消え去った。
ざわめきが波紋のように広がり、何百もの好奇的な視線が一斉に広間の中央へと突き刺さった。
壇上では、この国の第一王子で王太子のレオナルド殿下がいた。
夜の帳を溶かし込んだような黒髪に、刃のような冷たい美貌。
濃紺の軍装風の礼装には、王族の証である純金のモールと獅子の紋章が厳格に縫い止められている。
だが、今宵の彼には、これまで婚約者のヴァイオレットにすら見せたことのない甘やかな空気が漂っていた。
彼は一人ではなく、純白のドレスに身を包んだ平民出身の聖女マリーを横に置いていた。
ふんわりと結い上げた亜麻色の髪をそっと撫で、レオナルドは自らの逞しい腕を彼女の腰へと優しく回す。
震えるマリーの肩を抱き寄せ、ふわりと頬を緩めて囁きかけた。
「もう怯えることはない、マリー。誰もそなたを蔑ませはしない。これからは私が、そなたの隣に立つ」
その声は驚くほど低く甘く、壊れ物を包み込むような慈しみに満ちていた。
レオナルドの温かい掌が腰に添えられた瞬間、マリーは胸の奥で激しい歓喜の鳥肌が立つのを感じていた。
(――ああ、やっと! やっと私を見てくれた!)
聖都の最深部、泥水と汚物にまみれた最貧民街のスラムでマリーは生まれた。
飢えで親兄弟が次々と冷たくなり、昨日の友が今日のパンを奪い合う地獄のような環境で生まれ育ったマリーにとって、他人はすべて蹴落とすべき敵だった。
盗み、騙し、他人を泥溝へ突き落としてでも踏み台にしなければ、翌朝には冷たい亡骸になって転がるしかなかった。
男の機嫌を取り、媚びを売り、時には弱者を装って施しを掠め取る。
女が生き残るための武器を泥水の中で必死に磨き上げ、治癒の奇跡を足がかりにようやく這い上がってきたのだ。
「二度と飢えたくない」
「あの苦しい餓えが続く日々にだけは戻りたくない」
その渇望のすべてが報われたのだと、マリーは陶酔に浸りながら、レオナルドの胸元に頬をすり寄せた。
そして、レオナルドはマリーを慈しむように見つめた後、冷淡に視線を壇下へと落とした。
その金眼からは、一瞬で先ほどの甘さが消え失せ、冷たく細められた。
「……殿下、理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
ヴァイオレットは、澄んだ声で問い返した。
トスカーナ公爵家の家紋である黒百合の刺繍が施された、深い菫色のベルベットドレス。
凛と伸びた背筋、結い上げた艶やかな紫紺の髪、そして夜の泉のように澄み渡った瞳。
婚約破棄をされてなお、動揺や恐怖の色は、その白い肌のどこにも浮かんでいなかった。
周囲を取り囲む貴族たちの間から、ひそやかな囁き声が漏れ始める。
「とうとう殿下の堪忍袋の緒が切れたのだわ」
「ええ、昔からトスカーナ令嬢に対する殿下の態度はひどかったもの」
「あんなに冷遇されながら、よく今日まで耐えられたこと」
人々は口々に囁き合い、ヴァイオレットに哀れみと嘲笑の目を向けた。
レオナルドが、幼い頃からヴァイオレットを疎ましく思い、理不尽な意地悪を繰り返してきたと、社交界の皆は思っていた。
しかし、実はレオナルドはヴァイオレットを疎ましく思っていなかった。
レオナルドは非常に優秀であったが、それゆえに孤独を感じ、歪んだ性格をしていた。
彼の手元には、かつて王宮の中庭で拾い上げた一匹の白猫がいた。
レオナルドはその猫を偏愛し、銀の首輪をつけ、専用の離宮に閉じ込めて庭へすら出さず、自分が選び抜いた最高級の肉だけを与えて手ずから育てていた。
他人がその猫に指一本触れることすら許さず、猫が少しでも窓の外を見つめれば、窓をすべて鉄格子で塞いだ。
その猫に向けられた深い独占欲と全く同じ――いや、それ以上にねっとりとした執着の檻に、ヴァイオレットを閉じ込めたがっていた。
幼い頃から、レオナルドはヴァイオレットが自分以外の世界を見ることを決して許さなかった。
十歳の春、王宮の中庭で隣領の侯爵令嬢とお揃いの淡桃色のリボンを結び合い、弾んだ声で笑い合っていた時のことだ。
背後から無言で歩み寄ったレオナルドは、ヴァイオレットの髪を乱暴に引っ張り、結ばれたばかりのリボンを力任せに引きちぎった。
「下品な色だ。公爵令嬢がそのような安っぽい布切れで浮かれるな」
泥水が澱む噴水へ投げ捨てられたリボンを見つめ、凍りつく友人の令嬢を冷たい眼光で睨み据え、二度と近づくなと願いながら威圧した。友人は震え上がり、それきりヴァイオレットと言葉を交わすことさえ恐れるようになった。
十四歳の冬の舞踏会では、亡き母の形見である銀糸のレースをあしらった淡い水色のドレスを纏ったヴァイオレットを一瞥するなり、多くの貴族の前で言い放った。
「ひどく似合わないな。色褪せた雑巾のようだ。二度と私の前にその布切れを着て現れるな」
彼女が傷つき、そのドレスを二度と身につけなくなると、翌朝にはトスカーナ公爵家に荷馬車が横付けされた。
中には深海のように暗い青や重苦しい紫の、豪奢だが息の詰まるようなドレスばかりが山のように詰め込まれていた。
「私の選んだものだけを身につけていろ」という傲慢な文面を添えて。
十六歳、乗馬の講習でようやく心を通わせ、風を切る楽しさを教えてくれた白毛の牝馬を、レオナルドは「見た目が悪く、公爵令嬢を乗せるには不適格な駄馬だ」と独断で辺境警備隊へ払い下げてしまった。
抗議するヴァイオレットの目の前に差し出されたのは、彼が選んだ黒く巨大な軍馬だった。
「お前は愚かで、無能で、隙だらけだ。私が手元で監視していなければ、何をしでかすか分かったものではない」
いつだってレオナルドは、眉間に深い苦々しさを刻みつけ、苛立ちを隠そうともせずにヴァイオレットを罵倒した。
それでも、ヴァイオレットは彼の手を振り払うことができなかった。
十五歳の秋、深夜の王宮の書斎でのことだった。
国王が過労で倒れ、周囲の重臣たちが権力闘争に明け暮れる中、王太子としての重責をすべて背負わされた十五歳のレオナルドは、誰にも見られない執務室の片隅で、書類の束を抱えたまま過呼吸を起こして倒れていた。
蒼白な顔で脂汗を流し、小刻みに震えながら、彼は胸を掻きむしっていた。
その部屋に夜食を届けに入ったヴァイオレットが駆け寄ると、レオナルドは血走った瞳で彼女を睨みつけ、「見るな! 誰もお前など呼んでいない!」と罵りながら、彼女の腕を爪が食い込むほど乱暴に握り締めたのだ。
痛みに耐えながら、ヴァイオレットは逃げ出さなかった。震える彼の細い指を両手で包み込み、背中をゆっくりとさすり続けた。
「大丈夫です、レオナルド様。私はどこにも行きません。ここにいます」
そう囁き続けると、レオナルドは呼吸を荒げながら、力尽きたようにヴァイオレットの胸元へ額を押し当て、彼女のドレスの裾を子供のようにぎゅっと握りしめて眠りに落ちたのだ。
翌朝には、彼はまたいつもの尊大で冷酷な少年に戻り、「昨晩のことは忘れろ、誰かに話したらただではおかない」と冷たく吐き捨てた。
だが、あの夜に触れた彼の冷え切った指先の震えが、ヴァイオレットの心を縛り付けてしまった。
(この人は、誰にも弱音を吐けないのだわ。こんなにも歪んで私を傷つけるのは、重責に押し潰されそうだから。私が隣で受け止め、どんな意地悪にも耐えて支えてあげなければ、この人はいつか壊れてしまう)
自分の足で立つ強さを持っていたはずのヴァイオレットだが、その生真面目な責任感と哀れみという名の優しさが、彼女に自己犠牲を強いてしまっていた。
そして半年前、聖女マリーの出現によって、その歪みは決定的な破局を迎えた。
マリーが何よりも我慢ならなかったのは、ヴァイオレットの強さだった。
男に媚びを売り、狡猾に計算して他人の足を引っ張ることでしか生き残れなかったマリーにとって、ヴァイオレットの存在は己が生きてきた過去の浅ましさを突きつけ、身悶えさせるものだった。
どれほど冷遇されても背筋を伸ばし、手を抜くことも誰かを欺くことも知らず、真っ直ぐな正義感と気高さを失わない公爵令嬢を醜い感情に染め上げてやりたかった。
(何よ、あいつ。生まれが良いからって、何一つ汚い手を使わずに涼しい顔をして! 私は泥の中を這いずり回って、極限まで擦り減らされて生きてきたのに……!)
聖女と崇められても。
欲しいものは何でも手に入り、お腹いっぱい食べられるようになっても。
マリーの心は、ずっと飢えたままだった。
――王太子の婚約者の座をこの女から奪ってやれたら、この女はどんな顔をするんだろう。
そう想像しただけで、胃の奥の底から甘美な熱がせり上がり、ゾクゾクと笑いが漏れそうになった。
学院の中庭で、マリーは勝ち誇った笑みを浮かべてヴァイオレットに詰め寄った。
「殿下は私に夢中なのよ。あなたがいくら高貴な生まれでも、男性の心までは縛れないのよ。正しく生きているつもりのお嬢様、早く諦めて身を引いたらどうなの?」
そのギラついた挑発に対し、ヴァイオレットは怒るでもなく、かつてレオナルドの飼い猫が閉じ込められた部屋を思い出しながら、静かに忠告したのだ。
「マリー様。忠告しておきますが……殿下の愛は、あなたには受け止めきれませんよ」
その一言が、スラムで育ち、恵まれた環境で生まれ育ったように見える者への嫉妬に狂っていたマリーの逆鱗に触れた。
顔を怒りで真っ赤に染めたマリーは右手を振り上げると、ヴァイオレットの頬を思い切り平手打ちした。
――パァンッ!
乾いた破裂音が響き、ヴァイオレットの白い肌が赤く腫れ上がった。
だが、殴られたヴァイオレットが冷静にマリーを見据えた直後、マリーは通路の向こうから生徒や教師たちの足音が近づいてくるのを察知した。
スラム街で幾度となく使ってきた、生き残るための、被害者の仮面を即座に被った。
マリーは自らその場に激しく倒れ込み、額を芝生に擦りつけながら、髪を乱して泣き叫び始めた。
「痛いっ……! やめてください、ヴァイオレット様! 私はただ、殿下のご公務をお手伝いしたいだけなのに……っ! 平民だからって、そんな風に叩いて突き飛ばさなくてもいいではありませんか……!」
駆けつけた者たちの目に映ったのは、平然と立ち尽くすヴァイオレットと、床で涙を流して震える可憐な聖女の姿だった。
マリーは自ら殴りつけておきながら、自分が暴行を受けたと泣き喚き、周囲の同情を一瞬でかっさらった。
さらに数日後、マリーは自ら階段を転がり落ち、中庭の池に神殿の聖典を沈めた。
そして「すべてヴァイオレット様にやられた」と大騒ぎを繰り返した。
当然、ヴァイオレットは身に覚えのない言いがかりを毅然と否定した。
「私は階段にすら近づいておりません。頬を殴られたのは私の方です。殿下、どうか公平にお調べください」
しかし、生徒たちの前でヴァイオレットを見下ろすレオナルドの口元には、冷酷な嘲笑が浮かんでいた。
「言い訳は見苦しいぞ、ヴァイオレット。聖女が嘘をつくはずがないだろう。貴様のような冷酷で高慢な女なら、それくらいの嫉妬や悪意を抱いても何ら不思議ではない」
レオナルドがヴァイオレットに言い渡した処分は、社交界の誰もが耳を疑うものだった。
「反省の色が見えるまで、離宮の地下室で頭を冷やせ。水と食事は一切与えるな。公爵令嬢としての驕りを捨て、自らの浅ましさを悔い改めろ」
ヴァイオレットが連行されたのは、王都の離宮のさらに深い地下、かつて重罪人を一時的に収容するために使われていた石造りの狭い地下室だった。
窓もなく、壁からは絶えず冷たい水滴が滴り落ちていた。敷物も毛布もなく、ゴツゴツとした冷え切った石畳の上に、ヴァイオレットは薄いドレス一枚で放り込まれた。
湿った暗闇がそこには広がっていた。
水滴が床を打つピチャリ、ピチャリという音だけが鼓膜に落ちてくる。
時間が経つにつれ、石の冷たさがドレスを通り抜けて骨の芯まで凍えた。
初日は空腹に耐え、二日目には喉の激しい渇きに意識が霞み始めた。
実の父親であるトスカーナ公爵は、娘が理不尽な罪で地下室に放り込まれたと知っても、王家への抗議はおろか、水一杯すら差し入れようとはしなかった。
「殿下の不興を買った娘など知らん」「公爵家の立場を危うくするな」と、屋敷の自室に閉じこもり、保身に走っただけだった。
(誰も来ない……)
暗闇の中、膝を抱えてガタガタと震えながら、ヴァイオレットは血がにじむほど唇を噛み締めて耐えた。
母が亡くなって以来、父にとって自分は王家と繋がるための駒に過ぎなかった。
そしてレオナルドにとっては――歪んだ自尊心を満たすため、ただ痛めつけるだけの標的でしかなかったのだと、冷え切った身体に思い知らされた。
三日目の夜、軋むような重い音を立てて鉄扉が開いた。
差し込んできたランタンの光が、暗闇に慣れた目を容赦なく突き刺した。
コツ、コツと近づいてくる乾いた軍靴の足音に、ヴァイオレットは息を殺し、身を固くした。
現れたのは、レオナルドだった。
彼は無言のまま膝をつくと、冷え切った彼女の細い肩を乱暴に抱き起こした。
骨がきしむほどの痛みに、ヴァイオレットはぎゅっと目を瞑った。
渇いた喉で喘ぎながら、朦朧とする意識を振り絞って彼を見上げる。
だが、ランタンの光に浮かび上がったレオナルドの表情を見て、ヴァイオレットはぞっとするような嫌悪に固まった。
かつて十五歳の夜に見せた、あの脆い弱さはどこにもなかった。
頬を異常に紅潮させ、底知れぬ狂気の悦楽を滲ませた怪物が、そこにいた。
レオナルドは、震える手でヴァイオレットの乱れた髪を掻き上げると、冷たい耳元に濡れた唇を密着させた。
「……ヴァイオレット。先週の講義の後、庭園で男に本を拾ってもらっただろう」
掠れた、低くドス黒い声が耳の中に流し込まれていく。
「あの時、ヴィーはあの男に向かって、女神のように柔らかく微笑んでいたね。私にはあんな可愛く笑ってくれたことないくせに」
ヴァイオレットの見開かれた目から、いく粒もの涙がぽろぽろと零れ落ちていく。
「あんな下らん男に笑いかけるなんて許さない。ヴィーの笑顔も、涙も、吐息も、苦痛に歪む顔すらも、すべて私だけのものだ。……ほら、誰も助けに来なかっただろう? ヴィーの父親も、自分可愛さにヴィーを見捨てた。ヴィーの味方は、世界中で私しかいないんだよ。ヴィーをこの暗闇から救い出せるのも、ヴィーを生かすも殺すも、私にしかできないんだ」
レオナルドは恍惚とした笑みを浮かべ、ヴァイオレットの首筋に額を押し当てて深く匂いを吸い込んだ。
「だからもう二度と、私以外の者に笑いかけたりするな。私だけを見て、私の腕の中だけで、怯えて縋りついていればいい……」
その瞬間、地下室の冷気の中で、ヴァイオレットの魂を縛っていた最後の鎖が砕け散った。
私がいなければこの人は壊れてしまう?
そんなものは、思い上がりも甚だしい幻想だった。
この男は最初から壊れていて、自分をあの白い愛猫と同じように息の詰まる檻に閉じ込め、飼い殺そうとしているだけなのだ。
そして、保身のために自分を切り捨てた父もまた、二度と信じるに値しない。
(――もう、誰かのために自分を擦り減らすのはやめる)
暗闇の中で、ヴァイオレットの心に静かな炎が灯った。
(私の人生は、私のものだ。私の足で立ち、私のために生きていく)
大夜会の壇上に立つレオナルドの視線を、ヴァイオレットは逃げることなく見つめ返した。
地下室でのあの狂気じみた執着は、どこへ行ったのか。
彼は誇らしげにマリーの腰を引き寄せ、目障りな邪魔者を早く排除してしまおうと、冷たい眼差しを向けていた。
「理由だと? お前よりも聖女マリーが王太子妃に相応しいからだ」
平坦で、底冷えのする声が広間に響き渡った。
マリーはレオナルドの腕の中で勝利の陶酔に身を震わせ、扇の陰で勝ち誇った笑みを浮かべている。
「……承知いたしました」
ヴァイオレットは静かに瞼を伏せ、優雅にカーテシーを捧げた。
上質なベルベットの衣擦れの音だけがしんとした広間に小さく響いた。
「王太子殿下、ならびにトスカーナ公爵家の決定に従い、謹んで婚約破棄をお受け入れいたします。どうぞ、お健やかに」
婚約破棄をされたはずの公爵令嬢は、誰の目にもすがることなく、背筋を伸ばして踵を返した。
ざわめきながら左右に割れる人垣の間を、凛とした足取りで歩くヴァイオレットを、誰も止めることはできなかった。
大広間の重厚な扉を抜け、誰もいない夜の回廊へと出た瞬間、柔らかな夜風が彼女の頬を撫でた。
その唇には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
(――さようなら、レオナルド様。そして、マリー様……どうかお幸せに)
* * *
婚約破棄の二週間前。
王都の北に広がる、昼でも陽の差さぬ迷いの森。
濃霧に煙る木々の奥深くに、苔むした石造りの小屋が隠されるように建っていた。
軋む木の扉を乱暴に開け放ち、深々とフードを被った聖女マリーが足を踏み入れる。
部屋の中央に怪しく浮かぶ、暖炉の青白い炎。
その光の傍ら、古びた揺り椅子に腰掛けていたのは、黒いローブにとんがり帽子姿の女――感情喰らいの魔女、ニケルガだった。
煙管からくゆり立つ紫の煙の向こうで、妖しく光る琥珀色の瞳が、ギョロリとマリーを捉えた。
「本当に、殿下の心を奪うことができるの!?」
マリーは焦燥に駆られた声で詰め寄った。その苛立ちは、もはや限界に達している。
邪魔なヴァイオレットを自作自演の冤罪で地下牢に叩き落とし、これでレオナルドが自分へ乗り換えるはずだと信じ切っていたのだ。
なのに、あの地下室から戻ったレオナルドは、マリーを選んではくれなかった。
どんなに媚びを売ろうと、甘い声で縋りつこうと、彼の瞳がマリーを映すことはなかったのだ。
スラム街で泥水を啜ってきたマリーにとって、王太子妃という至高の富と権力は何としても手に入れたいものだった。
そして何より――苦労も知らず、泥の味も知らず、どこまでも真っ直ぐに生きてきたあの気高い公爵令嬢が憎くてたまらなかった。
(あいつから、すべてを奪い取ってやりたい)
あと一歩で届かない富への焦燥と、ヴァイオレットを引きずり降ろしたいどす黒い嫉妬心が混ざり合い、マリーの胸の中で狂気じみた執念へと膨れ上がっていた。
そんな折、神殿の禁書庫の片隅で、マリーは偶然にも『魔女ニケルガの伝承』が記された古文書を見つけ出したのだ。
ニケルガは煙管の灰をトントンと落とすと、机の上に置かれた真鍮の天秤を指差した。
「ええ。王太子レオナルドの心から、婚約者への恋心を完全に抜き去ることなど造作もないことです。……ただし、契約の絶対条件をお忘れなきよう。奪い去る想いの質量と同じだけの代償を、あなたが支払うことになります」
マリーは嘲笑った。
あんな風に、好きな相手をいじめて地下室に閉じ込めるような男だ。
どうせその恋心とやらも、男特有の幼稚な独占欲とサディズムが少し混ざった程度のお遊びに過ぎない。
「構わない! 男の愛なんて、所詮は形ばかりの薄っぺらいものでしょ? サインするよ!」
マリーは差し出された羊皮紙に、迷うことなく自らの血で名前を書き殴った。
ニケルガの口元に、昏い愉悦が浮かんだことにも気づかずに。
「契約は成立しました。……想いの質量を正確に検分した後、代償を清算に伺いましょう」
契約の翌日から、レオナルドの態度は一変した。
ヴァイオレットへの病的な執着は霧散し、代わりにマリーを優しく腕の中に抱き寄せ、甘やかに囁きかけてくるようになったのだ。
そして迎えた大夜会――大勢の前でヴァイオレットを無慈悲に切り捨て、マリーを高らかに寄り添わせたレオナルド。
マリーは自らの完全な勝利を確信し、幸福の絶頂に酔いしれていた。
しかし――破滅は、あまりにも唐突に訪れた。
ヴァイオレットが王都を去った、まさにその翌朝。
王太子の執務室を訪れたマリーを待っていたのは、氷のように冷え切ったレオナルドだった。
「何の用だ。事前のアポイントメントのない者の立ち入りは許可していない」
羽ペンを走らせる手を止めず、書類を見つめたまま平淡に言い放つ。
「で、殿下……? 昨夜はあんなに優しくエスコートしてくださったではありませんか。これからは私が殿下をお支え――」
「聖女マリー。貴様の今月の活動実績書を精査した。消費された神殿予算に対し、民への治癒実績が著しく低い。費用対効果が見合わないな。来月以降の特別手当を七割削減する。異論があれば書面で提出しろ。三分以内に退室しなければ近衛を呼ぶ」
「え……? あ、あの、殿下……?」
「あと二分」
昨夜の甘い眼差しも、愛の囁きも、すべては幻だったかのように消え去っていた。
マリーがどれほど涙を浮かべて取りすがろうと、媚びを売ろうと、レオナルドの瞳には一片の光すら宿らなかった。
(こんなはずじゃなかった……! 昨夜の殿下は、あんなに優しかったのに!)
数日後、与えられた離宮の自室で、マリーは狂ったように陶器の壺を壁に投げつけ、ベッドの上で爪を噛んでいた。
その時、密閉されたはずの部屋に、生ぬるい風が吹き抜けた。
蝋燭の炎が一斉に青く染まり、部屋の影が蠢いて人の形を成す。
「――さて、聖女様。代償の清算とまいりましょうか」
闇の中から滑り出るように黒を纏った魔女ニケルガが現れた。
手には、あの真鍮の天秤と、鈍く光る黒いガラス瓶が握られている。
「ニ、ニケルガ……!? な、何よ、どうしてここに……!? 代償って、もう終わったんじゃないの!? 殿下の様子が変だったわよ! あれが代償じゃないの!?」
「言ったはずよ。想いの質量を量らねば、代償の額も決まらないと。……王太子の心から抽出した恋心からようやく不純物を取り除き、純度を測定できる状態になったのよ」
ニケルガは冷酷に微笑み、テーブルの上に天秤を置いた。
そして、黒い小瓶の封蝋を長い爪で弾き飛ばし、栓を抜く。
――ゴオッ、と部屋中の空気が悲鳴を上げた。
「ひっ……!?」
突如として部屋を襲った凄まじい重圧に、マリーは息ができなくなり、床に四つん這いになってへたり込んだ。
空気が鉛のように重く、内臓が押し潰されそうだ。
瓶の口から這い出してきたのは、光を乱反射させる、ドロリとした濃密な黒紫色の泥のような何かだった。
数万人の怨念と狂気が凝縮されたような、巨大な丸々と太った怪物の腕のように見えた。
ニケルガが小瓶を傾け、そのドス黒い塊を天秤の右皿へと落とした。
ギギギギ……メキメキメキッ、ズドォォォンッ!
耳を劈く金属の悲鳴とともに、天秤の右皿は机の分厚い樫の天板を一瞬で叩き割り、床板深くまでめり込んで火花を散らした。支柱はくの字に曲がり、部屋全体が地震のように激しく揺れる。
「な、何なのよそれ……! そんなの、ただの恋心じゃないわ! 化け物よ!」
マリーは恐怖に顔を歪めながら、床を這って後ずさった。
「ええ、ただの恋心ではないわ」
ニケルガは歪んだ天秤を見下ろしながら、氷のように冷たい声で告げた。
「好きな子をいじめて気を引きたい、などという生易しいものではなかった。……婚約者が自分以外の世界を見るのが耐えられず、友人を奪い、愛馬を奪い、服を奪い、最後には暗い地下牢に閉じ込めて飢えさせ、自分がいなければ呼吸すらできないように仕向けようとした……。愛という美しい呼び名で偽装された、底なし沼のような病的独占欲ね。……魂を腐らせる、ドロドロのヘドロそのものよ」
ニケルガの琥珀色の瞳が、冷酷にマリーを一瞥する。
「あなたが奪ったのは、男の執着の成れの果てよ。……さあ、この天秤を釣り合わせるだけの代償を、あなたの肉体と命から頂戴するわ」
「やめて! 払えない、そんなの払えるわけがない! 契約を破棄する! あの感情を彼に返して!」
「一度結んだ契約は絶対よ。……支払えないなら、すべてを毟り取るまで」
ニケルガが指を鳴らした瞬間、見えない牙がマリーの全身に食らいついた。
「ぎゃあああああああああっ!」
引き裂かれるような絶叫が離宮に木霊した。
瑞々しく輝いていた亜麻色の髪は油分を失って白く濁り、パラパラと束になって床に落ちていく。
真珠のように滑らかだった白い肌は見る見る水分を奪われ、干からびた樹皮のように深い皺が幾重にも刻まれた。
頬は削げて髑髏のように骨が浮き、澄んでいたヘーゼルアイは濁った灰色へと変色する。
背骨がメリメリと音を立てて曲がり、口内からは砕けた歯が血とともに吐き出された。
若さ、美貌、声の張り、そして残されていた数十年分の寿命――そのすべてを吸い尽くしてもなお、床にめり込んだ天秤の針は中央へ戻らなかった。
「そう……足りないのね。まあ、これ以上取ると魂が消滅しちゃうわね。残りはこれからの惨めな余生で清算していただくことにするわ」
ニケルガは満足そうに天秤を回収すると、夜の闇の中へと消え去った。
床に残されたのは、ぶるぶると震える、骨と皮ばかりの老婆だった。
翌朝、変わり果てたマリーを発見した侍女の悲鳴が離宮に響いた。
報告を受けたレオナルドは、執務机から視線すら上げず、無機質に言い放った。
「身元の知れぬ不審な老婆がなぜ離宮に侵入している。治安上好ましくない。即刻地下牢へ投獄し、事の次第を取り調べろ。……それから、そんな些細なことで二度と執務の手を止めさせるな」
かつてヴァイオレットを閉じ込めたあの冷たく暗い地下室の扉が、今度はマリー自身を閉じ込めるために、重々しい音を立てて閉ざされた。
* * *
それから一ヶ月後。
隣国の国境に近い港町の、温暖な潮風が吹き抜けるカフェのテラス席で、ヴァイオレットは穏やかな陽光を浴びていた。
テーブルには、焼きたてのスコーンと濃厚なクロテッドクリーム、深紅のベリージャム。そして、湯気を立てる極上のダージリンティーが置かれている。
「ごちそうさま、ヴァイオレット。あんな特濃の塊、一千年生きてきて初めて口にしたわ。あまりのカロリーに、当分は人間の感情なんて見たくもないくらいよ」
向かいの席で上品な青いドレスを着たニケルガが言った。
森の奥深くで世を忍んでいた頃の、顔を覆う深いフード付きのローブなどもう脱ぎ捨てている。
陽光に濡れたように艶めく豊かな濡れ羽色の黒髪に、磁器のように滑らかで白い肌。
切れ長な琥珀色の瞳は妖しい色気を放ち、すれ違う誰もが足を止めて振り返るほどの、息を呑むような絶世の美女がそこにはいた。
「ふふ、お粗末様でした。でも本当に助かったわ、ニケルガ。……あの細工も見事だったわね」
ヴァイオレットがスコーンにたっぷりとクリームを塗りながら言うと、ニケルガは紅を引いた艶やかな唇の端を吊り上げ、得意げに細めた。
「ええ。恋心をいきなり奪ってレオナルドが即座に無感情になってしまったら、大夜会であなたに婚約破棄を言い渡すことはなかったでしょうからね。だから、あなたが無事に隣国の馬車に乗り込むまでの数日間だけ、レオナルドがマリーに好意を寄せているように見せかける『幻惑のまじない』をかけておいたのよ」
「ええ。おかげでレオナルド様はマリー様に気を取られ、私は誰にも怪しまれずに王都を抜け出すことができたわ」
そう言って微笑んだヴァイオレットだったが、その瞳には微かな憂いの色が差した。
「……マリー様は、今どうされているの?」
「地下牢よ。老いさらばえて声も出せない姿で、レオナルドの命によって幽閉されているわ」
ニケルガが淡々と告げると、ヴァイオレットはそっとカップを見つめ、静かに息を吐いた。
「そう……。あの方は、生きることに必死だったから。飢えと寒さの中で、誰かを蹴落とさなければ明日を迎えられない過酷な世界を生きてきた。男の庇護を奪い合うこの国の歪みに、彼女もまた呑み込まれていただけなのかもしれないわ。……彼女もいつか救われる日が来るといいのだけど」
「ヴァイオレット、同情する気? あの娘はあなたを地下室に閉じ込めて飢え死にさせようとしたのよ」
呆れたように長い睫毛を伏せ、眉を寄せるニケルガに、ヴァイオレットは静かに首を振った。
「同情ではないわ。ただ……彼女も、私も、同じ檻の中でもがいていただけなのだと思ったの。私はあの暗い地下室で、ようやく国のために生きる自分を捨てられたけれど、彼女にはその機会すら与えられなかった。もし、彼女があれほど過酷な飢えを知らずに育っていたなら、違う道もあったのかもしれないと思うと……少しだけ、胸が痛むのよ」
ヴァイオレットの言葉に、ニケルガはふっと表情を和らげ、深く息を漏らした。
「……まったく、あなたという人は。あの男の毒をあれほど浴びてなお、その柔らかさを失わないのね。だからこそ、あの男も狂おしいほどにあなたへ執着したのでしょうけれど」
ヴァイオレットは小さく苦笑し、遠く広がる青い海へ視線を向けた。
「私は子どもの頃から、レオナルド様の理不尽な振る舞いでずっと苦しんできた。……でも、十五歳の秋に書斎で倒れていた彼を見てから、勘違いしていたの。『この人は不器用なだけかもしれない』『私が受け止めなければ壊れてしまう』って。哀れみと責任感を愛だと錯覚して、自分を犠牲にしていたのね。そして父もまた、家という檻の中で保身に縋っていた」
「王都の彼らは、自ら選んだ檻の中で今も苦しんでいるわ」
ニケルガが琥珀色の瞳を細め、紅茶を揺らしながら言う。
「レオナルドは氷の賢王として冷徹に不正を暴き、あなたの父親の公爵家を真っ先に取り潰したわ。そしてレオナルド自身は、胸にぽっかりと空いた巨大な穴の理由がわからず、お気に入りの白い猫を撫でることも忘れ、夜ごとに悪夢に苛まれている」
「そう。……それぞれの選んだ道の結果ね」
ヴァイオレットはカップを置くと、ふっと悪戯っぽく微笑んだ。
そして、周囲の客が誰も見ていないのを確認して、そっと卓上の小さな一輪挿しへ指を向けた。
彼女の指先から、星屑のような淡い紫の光の粒子がこぼれ落ちる。
すると、挿されていた一輪の萎れた野薔薇が瞬く間に若返り、みずみずしい蕾となって花開き、テラス席一帯に爽やかで甘い芳香を漂わせた。
「まあ、いざとなれば公爵邸の結界なんていつでも吹き飛ばして、この力でひとっ飛びに逃げ出せたんだけれどね」
ニケルガは呆れたように肩をすくめ、クスクスと喉を鳴らした。
「まったくよ。三百年前にこの世を去った、大魔女と呼ばれて好き勝手に世界を旅していた私の親友が、急に人間なんかに生まれ変わるから。しかも貴族のお嬢さんに。あなたがあの地下室で記憶と魔力を完全に思い出し、私にフクロウ便を送ってきた時、あの地下室ごと王都を灰にして更地にするんじゃないかとヒヤヒヤしたわ」
「ふふ、そんな物騒な真似はしないわよ。ただ、子どもの頃から貴族としての責任を叩き込まれてきたから……公爵令嬢としての責務を終わらせたかったの。あの大夜会で公爵令嬢としてのヴァイオレットはおしまい。これからは、私の本当の人生を探しにいくわ」
ヴァイオレットの菫色の瞳が、かつて天空を自由に駆けていた魔女の輝きを取り戻し、爛漫と輝いた。
「ねえ、ニケルガ。旅に出ましょう? 風の精霊から聞いたのだけれど、ずっと東の果ての国に、もちもちした白い皮で包まれた、あずきとかいう豆の甘いスイーツがあるらしいのよ」
「もちもちした皮……? 何それ、小麦粉のケーキとは違うわけ?」
「ええ、お米という穀物を搗いて作るんですって。口に入れると信じられないくらい柔らかくて、中からとろりと甘い餡が出てくるらしいの。食べてみたくない?」
「ふふ、いいわね。一千年生きてても、そんなの食べたことないわ。どこまでも付き合うわよ、私の親友さん」
二人は顔を見合わせて楽しそうに笑い声を響かせた。
重すぎる愛の檻も、他者を値踏みし合う歪んだ世界も、すべては遥か彼方の出来事。
澄み渡る青空の下、自由になった二人の魔女は、まだ見ぬ未知の甘味を求めて軽やかに歩き出した。




