表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
止まった柱時計と、時間の子―わたしは時間と話せる―  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/9

第9章 思い出を集める

 翌朝、朝の時間の声はかすかだった。

「……ミオちゃん、今日は何かするの」

「うん、思い出集めだよ」

「そっか。……頑張って」

 それだけだった。いつもの「起きろー!」がない。それがかえって、ミオの背中を押した。

 早く起きて、早く行こう。


 作戦は単純だった。

 祖父の家の近くで、柱時計を知っていそうな人に話しかける。商店街の人、近所の人、公園で時間を過ごしている人。夜の時間のアドバイス通りに「田中の孫です、時計の思い出を聞かせてください」と言う。それだけだ。

 簡単ではない、とミオは分かっていた。

 でも、やってみるしかなかった。


 最初に声をかけたのは、祖父の家の二軒隣に住む老夫婦だった。

 庭で落ち葉を掃いていた奥さんが、ミオを見て手を止めた。

「あら、ミオちゃんやないの。久しぶりやねえ」

「こんにちは。田中の孫です」

「知ってるよ。大きくなったなあ。お母さんは元気?」

「はい。あの——少し聞いてもいいですか。おじいちゃんの柱時計のこと」

 奥さんは箒を持ったまま、少し目を細めた。

「時計の?」

「あの時計の思い出を教えてほしくて。何か、覚えてることとかあれば」

 奥さんは少しの間、遠くを見た。

「そうやねえ。子どものころはね、あの音で時間を覚えたんよ。学校から帰ってきてゴーンと鳴ったら三時で、またゴーンと鳴ったら夕ご飯の準備をしなさいって、お母さんに言われとった」

「子どもの頃から、この辺に住んでたんですか」

「生まれた時からや。この辺の人間はみんなそうよ。あの時計の音と一緒に大きくなったんやから」

 奥さんは少し笑った。しわの多い顔が、柔らかくなった。

「止まってから、なんか静かになった気がしてね。音がないだけで、こんなに違うもんかって思った。あんた、直すの?」

「直そうと思って」

「そうか。それはええ。待ってるよ、あの音」


 次は商店街に行った。

 八百屋のおじさんは、最初に話しかけたとき、少し警戒した顔をした。でも「田中の孫です」と言った途端に表情が変わった。

「ああ、田中さんとこの。よう来たなあ」

「時計の思い出、ありますか」

「思い出? あるよ、そりゃ」

 おじさんは大根を並べながら話した。

「若い頃な、嫁さんとの待ち合わせに使ったんよ。今みたいに携帯なんてないから、待ち合わせ場所をちゃんと決めとかないといけない。あの時計の前で何時、って決めたら、絶対会えた。時間が正確やったから」

「今の奥さんですか」

「そう。何十年も前の話やけどな」おじさんはちょっと照れたように笑った。「あの音を聞くたびに、そういうこと思い出すんよ。止まってからは、なんか物足りない気がしてな」


 魚屋のおばさんは、もっと昔の話をしてくれた。

「うちの父が言うとったんよ。終戦の翌年に、あの時計がまた動き始めた日のことを。戦争中は、なんか止まっとった時期があったって。動き始めた音を聞いて、父は泣いたって言ってた。やっと普通の時間が戻ってきた、って」

 ミオは息をのんだ。

「終戦の頃から、あの時計は——」

「もっと前からやよ。うちの父の父の代から、ずっとあそこにある、って聞いた。この辺では知らん人おらんかったんよ、昔は」

 おばさんは魚を包みながら続けた。

「最近の人は知らんのかもしれんけどね。若い人は時計なんてスマホで見るから、柱時計なんて気にとめんやろ。でも昔はあれが町の時計やった。あの音が聞こえる範囲が、生活の中心やったんよ」


 文房具店のおじいさんは、話し始めたら止まらなかった。

「小学校の遠足でな、集合がその時計の前やったんよ。みんなで写真撮った。今でも家にあるよ、その写真。白黒の」

「見せてもらえますか」

「ちょっと待ちや」

 おじいさんは店の奥に引っ込んで、しばらくして古いアルバムを持ってきた。

 黒白の写真の中に、子どもたちが並んでいた。背景に、柱時計があった。

 今と変わらない、あの形。

「これ、何年前ですか」

「六十年以上前やな。わしが七歳か八歳の頃」

 六十年前も、同じ時計がそこにあった。

 ミオは写真を見つめた。子どもたちの顔は小さくて、よく見えない。でも時計だけは、はっきりと写っていた。


 夕方近くになって、ミオは公園のベンチに座った。

 今日だけで五人に話を聞いた。手帳に、聞いたことを書いた。待ち合わせ。子どもの頃。終戦の翌年。遠足の写真。

 書きながら、ミオは気づいた。

 みんな、あの時計のそばで、大切な時間を過ごしていた。大きな出来事だけじゃない。当たり前の、毎日の時間。学校から帰る時間。夕ご飯の前の時間。そういうものと、あの音が重なっていた。

「どうだった〜?」

 昼の時間の声がした。昨日より、少しだけはっきりしていた。

「五人に聞いた。みんな、思い出があった」

「そっか〜。それ、ちゃんと届いてるよ」

「届いてる?」

「なんか、さっきから少し楽になった気がする。重いものが、ちょっと軽くなったみたいな」

 ミオは手帳を見た。

「もっと集めたら、もっとよくなる?」

「たぶんね〜。試してみて〜」


 翌日も、ミオは出かけた。

 今日はトキも一緒だった。事情を話すと、トキは「手伝う」と言った。理由を聞かなかった。ただ「やる意味があると思う」と言った。

 二人で手分けして、商店街と祖父の家の周辺を回った。

 トキは聞き方が上手かった。時計の話になると目が輝くから、話している人も引き込まれる。おじいさんおばあさんたちが、トキに向かって次々と話した。

「結婚式の帰りに、二人であの時計の前に立ってな」

「子どもが産まれた朝、病院から帰ってきたら時計が鳴ってて」

「あの音が聞こえると、ここが自分の町やって思えた」

 トキは聞きながら、小さなノートに書いた。ミオも書いた。

 二人合わせて、その日だけで十二人分の話が集まった。


 三日目は、ミオ一人で行った。

 今日は少し遠くの、祖父とは面識のない人にも声をかけた。最初は断られることもあった。「忙しい」「知らない」と言われることも。

 でも、「田中さんの柱時計の話です」と言うと、立ち止まる人が多かった。

 その中に、若いお母さんがいた。三十代くらいで、小さな子どもの手を引いていた。

「あの時計、修理するって本当ですか」

「はい、今お願いしてます」

「よかった。子どもが産まれたとき、あの時計の前で写真撮りたかったんです。でもちょうど止まってて。動いたら、また撮りに行きたいって、ずっと思ってた」

 ミオは少し驚いた。

「あの時計のこと、どこで知ったんですか」

「夫の実家がこの辺で。姑に聞きました。昔からある時計で、前を通るたびに時刻を確認したって。なんか、ここに来るたびにその話をしてくれて」

 思い出は、人から人へ渡っていた。

 直接あの時計を知らない人にも、誰かの言葉を通じて届いていた。


          ☆


 次の土曜日の朝、ミオは祖父の家の前に立っていた。

 今日はお母さんも来ない。片付けでもなく、ただ来た。なんとなく、ここにいたかった。

 玄関の引き戸を開けると、冷えた空気がした。誰も住んでいない家は、少しずつ温度を失っていく。でもこのにおいだけは変わらない。時間が積み重なった、古くて深いにおい。

 奥の部屋の柱時計は、今日も止まっている。でも、もう悲しくはない。蒼井くんが修理を引き受けてくれた。動く日が来る。それが分かっているから、止まっていてもただ待っている感じがした。


 今日、最初に向かったのは、祖父の家から二軒先の路地を曲がった角にある、小さな床屋だった。

 昔から祖父が通っていた店で、ミオも子どもの頃に何度か来たことがある。店主の田所さんは、七十代の男性で、今日も開店前の掃除をしていた。

「おじいちゃんの孫の、ミオです」

 田所さんはほうきを持ったまま振り返って、しばらくミオを見た。

「ああ、分かるわ。目が似とる」

 それだけで、ミオは少し胸が詰まった。

「あの時計の思い出、聞かせてもらえますか」

「思い出?」

 田所さんはほうきを壁に立てかけた。「あの音のことか。そりゃあ、ある」

 田所さんは話した。

 高校を卒業して、この床屋に弟子入りした頃のことだという。毎朝七時に、師匠より先に来て店の掃除をしなければならなかった。

「目覚まし時計が壊れとってね、困ってたんよ。でもあの時計の七時の音が聞こえたら起きられた。あの音が、僕の目覚ましやった」

「毎日?」

「何年もな。結局、ここに住み続けることになったのも、あの音が聞こえるところがいいって思ったからかもしれん」

 田所さんは照れたような顔をした。

「変やろ、そんな理由」

「変じゃないです」

 ミオは手帳に書きながら、本当にそう思った。


 次は少し離れた場所に住む、祖父の昔の知り合いの家を訪ねた。

 お母さんから名前だけ聞いていた山本さんという女性で、七十五歳だという。インターフォンを押すと、すぐに出てきた。

「田中さんのお孫さん? まあ」

 山本さんは縁側に通してくれて、お茶を出してくれた。

「時計の思い出を聞きに来たんです」

「そうかい」

 山本さんはお茶を持ったまま、少し遠くを見た。

「あの音はね、子どものころから聞いとった。家が近かったから、六時になったら夕ご飯、九時になったら寝る時間、そうやって覚えてた」

「時計代わりに?」

「そう。今みたいにあちこちに時計があるわけじゃないから、あの音が町の時計やったんよ。みんなそうやって育ったと思う」

 山本さんは続けた。

「でも、一番覚えてるのは——」

 少し間があった。

「お父さんが死んだ日の朝のことやな。夜中に亡くなって、朝方にやっと落ち着いて、ぼんやりしとったら、あの時計が鳴ったんよ。六時の音が。外が明るくなってきて、時計が鳴って——ああ、時間は続くんやって思った」

「時間は続く」

「辛くても、嬉しくても、時間は同じように鳴るやろ。それが、なんか、助かった気がした。あの頃は」

 ミオは手帳に書きながら、手が少し止まった。

 時間は続く。辛い日も、嬉しい日も、同じように。

 それは、今のミオにも言えることだった。


 商店街に戻ると、昼近くになっていた。

 いつも前を通るだけだった郵便局の前に、年配の男性が一人、手紙を持って立っていた。退職した郵便配達員だと後で分かった。吉田さん、という人だった。

 話しかけると、向こうから言ってきた。

「時計の修理、始まったんやって? この前、蒼井くんの店の前で聞いた」

「はい。今、預かってもらってます」

「そうか。早く動いてほしいな」

 吉田さんは空を見上げた。

「あの音はね、雨の日も雪の日も聞こえた。配達してたころ、それが分かった」

「雨の日も?」

「当たり前に聞こえとったから、あって当然と思ってたけど——止まってから、雨の日にふと、あれ、ってなった。音がない」

 吉田さんは続けた。

「配達の途中で、天気が悪い日はしんどいこともあってね。でもあの音が聞こえると、ああまだ町が動いとると思えた。不思議なことやけど」

「不思議じゃないと思います」

「そうか?」

「音が聞こえるって、ここにいるってことだと思うから」

 吉田さんはミオを見た。少し驚いたような顔で、それから笑った。

「そうやな。まあ、早う戻ってきてほしい。雨の日がまた、寂しいから」


 午後になって、ミオは商店街の奥にある小さな喫茶店に入った。

 疲れたわけではないけれど、座って書いたことを整理したかった。

 窓際の席に座ると、向かいの席におじいさんが一人、コーヒーを飲んでいた。白髪で、背が高い。ミオと目が合うと、軽く頷いた。

 ミオも頷いた。

「田中さんのお孫さんやないか」

「……はい」

「よう似とる。目が」

 今日、二度目の言葉だった。

 おじいさんは元教師だった。三十年以上、この町の小学校に勤めていたという。

「田中さんとは、PTAで一緒やった。無口な人やったけど、気がつく人やった。何かあると、いつの間にかそばにおる、みたいな」

「おじいちゃんが、ですか」

「そう。本人は何も言わんけど、ちゃんと見とるんよ。子どものことを」

 おじいさんはコーヒーカップを持ったまま、少し考えた。

「時計の話を聞きに来たんやろ? 聞こえとった」

「すみません」

「謝らんでいい。思い出があるから」

 おじいさんは話してくれた。毎年、卒業式の朝のことだという。学校を出て、子どもたちが散っていく。その日の夕方、一人で町を歩いていると、時計が鳴る。

「六時の音が鳴るたびに、ああまた一年終わったなと思った。送り出した子たちが、この音を聞きながら育っていくんやと思った。それがよかった」

「卒業生の子たちも、あの音を聞きながら育つんですね」

「そうや。僕が教えた子がいつかこの町で時計の音を聞く。孫と一緒に聞く。そういうことが続いていく。時計って、そういうもんやと思う」


 帰り道、*「どうだった〜?」*と昼の時間が来た。

「四人に聞いた」

「どんなこと言ってた〜?」

「みんな、違う話だった。でも全部、あの音と一緒にいた」

「そうか〜。それ、すごくいいよ〜」

「いい?」

「思い出って、みんな違うでしょ。同じ音でも、聞いた人によって、違う時間になる。それが積み重なってる。それだけで、ぼくたちは動ける」

「思い出が時間を動かすってこと、最初に聞いたとき、よく分からなかったけど」

「今は?」

「少し分かった気がする」

「どんな感じ?〜」

「音が同じでも、受け取った人の数だけ、違う時間になる。それが全部つながってて、時間になる、みたいな」

 昼の時間はしばらく黙っていた。

「……そう。それが正確だと思う〜。ぼくには難しくて説明できなかったやつ〜」

「難しいこと聞かないでって言ってたくせに」

「眠くなるから〜。でもミオちゃんが言ってくれたから、ぼくは眠くならなかった〜」


 夜、ミオは手帳を読み返した。

 田所さんの目覚まし代わりの話。山本さんの、父が亡くなった朝の話。吉田さんの、雨の日も鳴っていた話。年配の先生の、卒業式の夕方の話。

 全部が、あの音だった。

 ミオ自身の思い出も、書いてみた。

 小学二年生の夏休み。祖父の家に泊まっていた。蚊帳の中で眠れなくて、暗い天井を見ていた。怖い夢を見た後だったかもしれない。そこへゴーン、と鳴った。低い音が、夜の家に広がって、消えた。

 怖くなくなった。

 ただそれだけだった。でも、その夜のことを今でも覚えている。あの音が、暗い夜に「ここにいていい」と言ってくれた気がした。

 おじいちゃんはその音を、毎日守っていたんだ。

「書けた?」

 夜の時間が来た。

「うん。自分のも書いた」

「どんなこと?」

「蚊帳の中で、怖かったとき。あの音が聞こえて、安心した」

「覚えてるよ、その夜。ミオちゃんが小さかった頃」

「え、覚えてるの?」

「あの時計が動いていた夜は、全部覚えてる。ミオちゃんが最初にあの家に泊まった夜も、おじいさんが時計の前で眠ってしまった夜も、お母さんが子どものころに泣きながら帰ってきた夜も」

「みんなの夜を、見てたの」

「見てたというより、一緒にいた。時計の中から、ずっと」

 ミオは少し胸が熱くなった。

「おじいちゃんが守ってた意味が、分かった気がする」

「どんな意味?」

「あの音を聞いてきた人が、何十人も何百人もいる。一人ひとりに、違う夜があって、違う朝があった。その全部に、あの音があった。それを守るってことは、その人たちの時間を守ることだったんだ」

「そうだよ」

 夜の時間は短く言った。

「おじいさんが、ずっとそうしてきたんだ」


 翌日、ミオはもう一か所だけ訪ねた。

 商店街の外れにある、古い和菓子屋だった。

 店先に栗の入った和菓子が並んでいて、甘いにおいがした。店主は五〇歳くらいの女性で、ミオと同じくらいの娘がいると言っていた。

「時計の思い出ですか?」

「はい。覚えていることがあれば」

 女性はしばらく考えた。

「わたしが一番覚えてるのはね、夕方の音じゃなくて、お昼の音なんですよ」

「お昼の?」

「十二時の音。うちはお昼が忙しい店でね、十二時の音が鳴ると、わーっとお客さんが来るんです。それを聞くたびに、よし来た、って気合が入る。もう何十年もそうやってきた」

 女性は笑った。

「あの音が聞こえなくなってから、十二時になっても、なんか間が抜けた感じがして。変なもんですよね、音一つで」

「変じゃないです。その音と一緒に、仕事してきたんだから」

「そうですね。早く戻ってきてほしいな。また気合入れたいから」


 その夜、夜の時間に話した。

「思い出、いっぱい増えてきてるね。朝も昼も、少し元気になってきてる」

「もっと集めたら、もっとよくなる?」

「うん。続けて。ただ……一つ、聞いてもいい?」

「何?」

「ミオちゃん自身は、どう? 思い出を集めながら、何か変わった?」

 ミオはしばらく考えた。

「おじいちゃんのことが、前より近い気がする」

「近い?」

「会いに行く感じで、話を聞いてたのかもしれない。町の人が覚えてるおじいちゃんを、少しずつ集めてる感じがする」

「そうか」

「設計図を守って、時計を守って、みんなの時間を守ってきた人のことを、わたしは全部は知らなかった。でも、少しずつ分かってきた」

「おじいさんは話さない人だったから、ミオちゃんには直接は話さなかったと思う。でも——

 夜の時間は少し間を置いた。

「分かってほしかった、とは思ってたと思うよ。あの人なりに」

「……うん」

 ミオは目を閉じた。

 胸の靄が、また少し薄くなった気がした。

 町の人たちの話を聞くたびに、少しずつ薄くなっていく。なくなるわけではないけれど、軽くなる。

 思い出を集めることは、時間のためだけではなかった。

 ミオ自身が、祖父のことをちゃんと受け取るためでもあった。

「明日も行く?」

「うん」

「いい顔してる、今」

「見えないでしょ」

「気配で分かる。ちゃんと前を向いてる顔の気配がする」

 ミオは少し笑った。

 窓の外で、冬の風が鳴っていた。

 止まった時計は、奥の部屋でまだ止まっている。でも、動く日が来ることをミオは知っている。

 その日まで、集め続けよう。

 この町の人たちが持っている、あの音の記憶を。

 それが時間に届いて、時間が動く。

 それがやがて、あの柱時計を動かす力になる。

 ミオはそう思いながら、目を閉じた。


 それから数日後、久し振りに夜の時間が来た。

「ミオちゃん」

「うん」

「朝が今日、久しぶりにはっきりした声で話せたって言ってた」

「本当に?」

「うん。昼も、今週の月曜日より全然いい。思い出が集まってきてる」

 ミオは手帳を開いた。

 今までに、数十人に話を聞いた。待ち合わせ、遠足、結婚式、子どもが産まれた朝、終戦の翌年、毎日の夕方、学校の帰り道などなど。

 全部、あの時計の前にあった時間だった。

「まだ足りない?」

「十分かどうかは分からない。でも、確実に動いてる。続けて」

「うん」

「それと——止まった時間が、最近静かだよ。気づいてる?」

 ミオは少し考えた。

「そういえば、近頃、声を聞いてない」

「思い出が集まると、止まった時間は力を使いにくくなる。流れが強くなるから」

「流れが強くなると、止まれない?」

「そう。川の流れが速いと、石は動かせない。それと同じだよ」


 その夜、ミオは手帳を読み返した。

 一番気に入っている話が一つあった。

 商店街の端にいた、もうかなり年配の女性から聞いた話だ。

 その人は、子どもの頃に迷子になったことがあるという。家が分からなくなって、泣きながら歩き回って、気づいたらあの時計の前にいた。時計の音が聞こえてきて、その方向に歩いたら、たどり着いていた。

「あの音が、家に連れて帰ってくれたんよ。それからはね、あの音が聞こえたら、ああここが自分の場所やって思えた。今も、そう」

 ミオはその言葉を、何度か読み返した。

 あの音が、家に連れて帰ってくれた。

 祖父も、同じことを思っていたのかもしれない。だからずっと、あの時計を守ってきた。

「そうだよ」

 夜の時間の声がした。

「また読んでたの?」

「ミオちゃんが手帳を開くと、なんとなく分かる」

「おじいちゃんも、そう思ってた?」

「あの人は多くを語らなかったけど、時計の前に立つときの顔を見れば分かった。自分のいる場所を確かめるみたいな顔をしてた」

 ミオは手帳を閉じた。

「修理、うまくいくといいな」

「うまくいくよ。きっと」

「きっと、ってはっきりしない」

「時間には、先は見えない。でも、今起きてることは分かる。今、いい方向に動いてる。それは確かだよ」

 ミオは窓の外を見た。

 冬の夜空に、星がいくつか出ていた。明石の街の灯りの中でも、見えるものがある。

 遠くから、海の音がかすかにした。

 あの時計が鳴ったら、この辺りまで届くだろうか。

 届くといい、とミオは思った。

 また鳴ってほしかった。この町の、時計の音が。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ