第9章 思い出を集める
翌朝、朝の時間の声はかすかだった。
「……ミオちゃん、今日は何かするの」
「うん、思い出集めだよ」
「そっか。……頑張って」
それだけだった。いつもの「起きろー!」がない。それがかえって、ミオの背中を押した。
早く起きて、早く行こう。
作戦は単純だった。
祖父の家の近くで、柱時計を知っていそうな人に話しかける。商店街の人、近所の人、公園で時間を過ごしている人。夜の時間のアドバイス通りに「田中の孫です、時計の思い出を聞かせてください」と言う。それだけだ。
簡単ではない、とミオは分かっていた。
でも、やってみるしかなかった。
最初に声をかけたのは、祖父の家の二軒隣に住む老夫婦だった。
庭で落ち葉を掃いていた奥さんが、ミオを見て手を止めた。
「あら、ミオちゃんやないの。久しぶりやねえ」
「こんにちは。田中の孫です」
「知ってるよ。大きくなったなあ。お母さんは元気?」
「はい。あの——少し聞いてもいいですか。おじいちゃんの柱時計のこと」
奥さんは箒を持ったまま、少し目を細めた。
「時計の?」
「あの時計の思い出を教えてほしくて。何か、覚えてることとかあれば」
奥さんは少しの間、遠くを見た。
「そうやねえ。子どものころはね、あの音で時間を覚えたんよ。学校から帰ってきてゴーンと鳴ったら三時で、またゴーンと鳴ったら夕ご飯の準備をしなさいって、お母さんに言われとった」
「子どもの頃から、この辺に住んでたんですか」
「生まれた時からや。この辺の人間はみんなそうよ。あの時計の音と一緒に大きくなったんやから」
奥さんは少し笑った。しわの多い顔が、柔らかくなった。
「止まってから、なんか静かになった気がしてね。音がないだけで、こんなに違うもんかって思った。あんた、直すの?」
「直そうと思って」
「そうか。それはええ。待ってるよ、あの音」
次は商店街に行った。
八百屋のおじさんは、最初に話しかけたとき、少し警戒した顔をした。でも「田中の孫です」と言った途端に表情が変わった。
「ああ、田中さんとこの。よう来たなあ」
「時計の思い出、ありますか」
「思い出? あるよ、そりゃ」
おじさんは大根を並べながら話した。
「若い頃な、嫁さんとの待ち合わせに使ったんよ。今みたいに携帯なんてないから、待ち合わせ場所をちゃんと決めとかないといけない。あの時計の前で何時、って決めたら、絶対会えた。時間が正確やったから」
「今の奥さんですか」
「そう。何十年も前の話やけどな」おじさんはちょっと照れたように笑った。「あの音を聞くたびに、そういうこと思い出すんよ。止まってからは、なんか物足りない気がしてな」
魚屋のおばさんは、もっと昔の話をしてくれた。
「うちの父が言うとったんよ。終戦の翌年に、あの時計がまた動き始めた日のことを。戦争中は、なんか止まっとった時期があったって。動き始めた音を聞いて、父は泣いたって言ってた。やっと普通の時間が戻ってきた、って」
ミオは息をのんだ。
「終戦の頃から、あの時計は——」
「もっと前からやよ。うちの父の父の代から、ずっとあそこにある、って聞いた。この辺では知らん人おらんかったんよ、昔は」
おばさんは魚を包みながら続けた。
「最近の人は知らんのかもしれんけどね。若い人は時計なんてスマホで見るから、柱時計なんて気にとめんやろ。でも昔はあれが町の時計やった。あの音が聞こえる範囲が、生活の中心やったんよ」
文房具店のおじいさんは、話し始めたら止まらなかった。
「小学校の遠足でな、集合がその時計の前やったんよ。みんなで写真撮った。今でも家にあるよ、その写真。白黒の」
「見せてもらえますか」
「ちょっと待ちや」
おじいさんは店の奥に引っ込んで、しばらくして古いアルバムを持ってきた。
黒白の写真の中に、子どもたちが並んでいた。背景に、柱時計があった。
今と変わらない、あの形。
「これ、何年前ですか」
「六十年以上前やな。わしが七歳か八歳の頃」
六十年前も、同じ時計がそこにあった。
ミオは写真を見つめた。子どもたちの顔は小さくて、よく見えない。でも時計だけは、はっきりと写っていた。
夕方近くになって、ミオは公園のベンチに座った。
今日だけで五人に話を聞いた。手帳に、聞いたことを書いた。待ち合わせ。子どもの頃。終戦の翌年。遠足の写真。
書きながら、ミオは気づいた。
みんな、あの時計のそばで、大切な時間を過ごしていた。大きな出来事だけじゃない。当たり前の、毎日の時間。学校から帰る時間。夕ご飯の前の時間。そういうものと、あの音が重なっていた。
「どうだった〜?」
昼の時間の声がした。昨日より、少しだけはっきりしていた。
「五人に聞いた。みんな、思い出があった」
「そっか〜。それ、ちゃんと届いてるよ」
「届いてる?」
「なんか、さっきから少し楽になった気がする。重いものが、ちょっと軽くなったみたいな」
ミオは手帳を見た。
「もっと集めたら、もっとよくなる?」
「たぶんね〜。試してみて〜」
翌日も、ミオは出かけた。
今日はトキも一緒だった。事情を話すと、トキは「手伝う」と言った。理由を聞かなかった。ただ「やる意味があると思う」と言った。
二人で手分けして、商店街と祖父の家の周辺を回った。
トキは聞き方が上手かった。時計の話になると目が輝くから、話している人も引き込まれる。おじいさんおばあさんたちが、トキに向かって次々と話した。
「結婚式の帰りに、二人であの時計の前に立ってな」
「子どもが産まれた朝、病院から帰ってきたら時計が鳴ってて」
「あの音が聞こえると、ここが自分の町やって思えた」
トキは聞きながら、小さなノートに書いた。ミオも書いた。
二人合わせて、その日だけで十二人分の話が集まった。
三日目は、ミオ一人で行った。
今日は少し遠くの、祖父とは面識のない人にも声をかけた。最初は断られることもあった。「忙しい」「知らない」と言われることも。
でも、「田中さんの柱時計の話です」と言うと、立ち止まる人が多かった。
その中に、若いお母さんがいた。三十代くらいで、小さな子どもの手を引いていた。
「あの時計、修理するって本当ですか」
「はい、今お願いしてます」
「よかった。子どもが産まれたとき、あの時計の前で写真撮りたかったんです。でもちょうど止まってて。動いたら、また撮りに行きたいって、ずっと思ってた」
ミオは少し驚いた。
「あの時計のこと、どこで知ったんですか」
「夫の実家がこの辺で。姑に聞きました。昔からある時計で、前を通るたびに時刻を確認したって。なんか、ここに来るたびにその話をしてくれて」
思い出は、人から人へ渡っていた。
直接あの時計を知らない人にも、誰かの言葉を通じて届いていた。
☆
次の土曜日の朝、ミオは祖父の家の前に立っていた。
今日はお母さんも来ない。片付けでもなく、ただ来た。なんとなく、ここにいたかった。
玄関の引き戸を開けると、冷えた空気がした。誰も住んでいない家は、少しずつ温度を失っていく。でもこのにおいだけは変わらない。時間が積み重なった、古くて深いにおい。
奥の部屋の柱時計は、今日も止まっている。でも、もう悲しくはない。蒼井くんが修理を引き受けてくれた。動く日が来る。それが分かっているから、止まっていてもただ待っている感じがした。
今日、最初に向かったのは、祖父の家から二軒先の路地を曲がった角にある、小さな床屋だった。
昔から祖父が通っていた店で、ミオも子どもの頃に何度か来たことがある。店主の田所さんは、七十代の男性で、今日も開店前の掃除をしていた。
「おじいちゃんの孫の、ミオです」
田所さんはほうきを持ったまま振り返って、しばらくミオを見た。
「ああ、分かるわ。目が似とる」
それだけで、ミオは少し胸が詰まった。
「あの時計の思い出、聞かせてもらえますか」
「思い出?」
田所さんはほうきを壁に立てかけた。「あの音のことか。そりゃあ、ある」
田所さんは話した。
高校を卒業して、この床屋に弟子入りした頃のことだという。毎朝七時に、師匠より先に来て店の掃除をしなければならなかった。
「目覚まし時計が壊れとってね、困ってたんよ。でもあの時計の七時の音が聞こえたら起きられた。あの音が、僕の目覚ましやった」
「毎日?」
「何年もな。結局、ここに住み続けることになったのも、あの音が聞こえるところがいいって思ったからかもしれん」
田所さんは照れたような顔をした。
「変やろ、そんな理由」
「変じゃないです」
ミオは手帳に書きながら、本当にそう思った。
次は少し離れた場所に住む、祖父の昔の知り合いの家を訪ねた。
お母さんから名前だけ聞いていた山本さんという女性で、七十五歳だという。インターフォンを押すと、すぐに出てきた。
「田中さんのお孫さん? まあ」
山本さんは縁側に通してくれて、お茶を出してくれた。
「時計の思い出を聞きに来たんです」
「そうかい」
山本さんはお茶を持ったまま、少し遠くを見た。
「あの音はね、子どものころから聞いとった。家が近かったから、六時になったら夕ご飯、九時になったら寝る時間、そうやって覚えてた」
「時計代わりに?」
「そう。今みたいにあちこちに時計があるわけじゃないから、あの音が町の時計やったんよ。みんなそうやって育ったと思う」
山本さんは続けた。
「でも、一番覚えてるのは——」
少し間があった。
「お父さんが死んだ日の朝のことやな。夜中に亡くなって、朝方にやっと落ち着いて、ぼんやりしとったら、あの時計が鳴ったんよ。六時の音が。外が明るくなってきて、時計が鳴って——ああ、時間は続くんやって思った」
「時間は続く」
「辛くても、嬉しくても、時間は同じように鳴るやろ。それが、なんか、助かった気がした。あの頃は」
ミオは手帳に書きながら、手が少し止まった。
時間は続く。辛い日も、嬉しい日も、同じように。
それは、今のミオにも言えることだった。
商店街に戻ると、昼近くになっていた。
いつも前を通るだけだった郵便局の前に、年配の男性が一人、手紙を持って立っていた。退職した郵便配達員だと後で分かった。吉田さん、という人だった。
話しかけると、向こうから言ってきた。
「時計の修理、始まったんやって? この前、蒼井くんの店の前で聞いた」
「はい。今、預かってもらってます」
「そうか。早く動いてほしいな」
吉田さんは空を見上げた。
「あの音はね、雨の日も雪の日も聞こえた。配達してたころ、それが分かった」
「雨の日も?」
「当たり前に聞こえとったから、あって当然と思ってたけど——止まってから、雨の日にふと、あれ、ってなった。音がない」
吉田さんは続けた。
「配達の途中で、天気が悪い日はしんどいこともあってね。でもあの音が聞こえると、ああまだ町が動いとると思えた。不思議なことやけど」
「不思議じゃないと思います」
「そうか?」
「音が聞こえるって、ここにいるってことだと思うから」
吉田さんはミオを見た。少し驚いたような顔で、それから笑った。
「そうやな。まあ、早う戻ってきてほしい。雨の日がまた、寂しいから」
午後になって、ミオは商店街の奥にある小さな喫茶店に入った。
疲れたわけではないけれど、座って書いたことを整理したかった。
窓際の席に座ると、向かいの席におじいさんが一人、コーヒーを飲んでいた。白髪で、背が高い。ミオと目が合うと、軽く頷いた。
ミオも頷いた。
「田中さんのお孫さんやないか」
「……はい」
「よう似とる。目が」
今日、二度目の言葉だった。
おじいさんは元教師だった。三十年以上、この町の小学校に勤めていたという。
「田中さんとは、PTAで一緒やった。無口な人やったけど、気がつく人やった。何かあると、いつの間にかそばにおる、みたいな」
「おじいちゃんが、ですか」
「そう。本人は何も言わんけど、ちゃんと見とるんよ。子どものことを」
おじいさんはコーヒーカップを持ったまま、少し考えた。
「時計の話を聞きに来たんやろ? 聞こえとった」
「すみません」
「謝らんでいい。思い出があるから」
おじいさんは話してくれた。毎年、卒業式の朝のことだという。学校を出て、子どもたちが散っていく。その日の夕方、一人で町を歩いていると、時計が鳴る。
「六時の音が鳴るたびに、ああまた一年終わったなと思った。送り出した子たちが、この音を聞きながら育っていくんやと思った。それがよかった」
「卒業生の子たちも、あの音を聞きながら育つんですね」
「そうや。僕が教えた子がいつかこの町で時計の音を聞く。孫と一緒に聞く。そういうことが続いていく。時計って、そういうもんやと思う」
帰り道、*「どうだった〜?」*と昼の時間が来た。
「四人に聞いた」
「どんなこと言ってた〜?」
「みんな、違う話だった。でも全部、あの音と一緒にいた」
「そうか〜。それ、すごくいいよ〜」
「いい?」
「思い出って、みんな違うでしょ。同じ音でも、聞いた人によって、違う時間になる。それが積み重なってる。それだけで、ぼくたちは動ける」
「思い出が時間を動かすってこと、最初に聞いたとき、よく分からなかったけど」
「今は?」
「少し分かった気がする」
「どんな感じ?〜」
「音が同じでも、受け取った人の数だけ、違う時間になる。それが全部つながってて、時間になる、みたいな」
昼の時間はしばらく黙っていた。
「……そう。それが正確だと思う〜。ぼくには難しくて説明できなかったやつ〜」
「難しいこと聞かないでって言ってたくせに」
「眠くなるから〜。でもミオちゃんが言ってくれたから、ぼくは眠くならなかった〜」
夜、ミオは手帳を読み返した。
田所さんの目覚まし代わりの話。山本さんの、父が亡くなった朝の話。吉田さんの、雨の日も鳴っていた話。年配の先生の、卒業式の夕方の話。
全部が、あの音だった。
ミオ自身の思い出も、書いてみた。
小学二年生の夏休み。祖父の家に泊まっていた。蚊帳の中で眠れなくて、暗い天井を見ていた。怖い夢を見た後だったかもしれない。そこへゴーン、と鳴った。低い音が、夜の家に広がって、消えた。
怖くなくなった。
ただそれだけだった。でも、その夜のことを今でも覚えている。あの音が、暗い夜に「ここにいていい」と言ってくれた気がした。
おじいちゃんはその音を、毎日守っていたんだ。
「書けた?」
夜の時間が来た。
「うん。自分のも書いた」
「どんなこと?」
「蚊帳の中で、怖かったとき。あの音が聞こえて、安心した」
「覚えてるよ、その夜。ミオちゃんが小さかった頃」
「え、覚えてるの?」
「あの時計が動いていた夜は、全部覚えてる。ミオちゃんが最初にあの家に泊まった夜も、おじいさんが時計の前で眠ってしまった夜も、お母さんが子どものころに泣きながら帰ってきた夜も」
「みんなの夜を、見てたの」
「見てたというより、一緒にいた。時計の中から、ずっと」
ミオは少し胸が熱くなった。
「おじいちゃんが守ってた意味が、分かった気がする」
「どんな意味?」
「あの音を聞いてきた人が、何十人も何百人もいる。一人ひとりに、違う夜があって、違う朝があった。その全部に、あの音があった。それを守るってことは、その人たちの時間を守ることだったんだ」
「そうだよ」
夜の時間は短く言った。
「おじいさんが、ずっとそうしてきたんだ」
翌日、ミオはもう一か所だけ訪ねた。
商店街の外れにある、古い和菓子屋だった。
店先に栗の入った和菓子が並んでいて、甘いにおいがした。店主は五〇歳くらいの女性で、ミオと同じくらいの娘がいると言っていた。
「時計の思い出ですか?」
「はい。覚えていることがあれば」
女性はしばらく考えた。
「わたしが一番覚えてるのはね、夕方の音じゃなくて、お昼の音なんですよ」
「お昼の?」
「十二時の音。うちはお昼が忙しい店でね、十二時の音が鳴ると、わーっとお客さんが来るんです。それを聞くたびに、よし来た、って気合が入る。もう何十年もそうやってきた」
女性は笑った。
「あの音が聞こえなくなってから、十二時になっても、なんか間が抜けた感じがして。変なもんですよね、音一つで」
「変じゃないです。その音と一緒に、仕事してきたんだから」
「そうですね。早く戻ってきてほしいな。また気合入れたいから」
その夜、夜の時間に話した。
「思い出、いっぱい増えてきてるね。朝も昼も、少し元気になってきてる」
「もっと集めたら、もっとよくなる?」
「うん。続けて。ただ……一つ、聞いてもいい?」
「何?」
「ミオちゃん自身は、どう? 思い出を集めながら、何か変わった?」
ミオはしばらく考えた。
「おじいちゃんのことが、前より近い気がする」
「近い?」
「会いに行く感じで、話を聞いてたのかもしれない。町の人が覚えてるおじいちゃんを、少しずつ集めてる感じがする」
「そうか」
「設計図を守って、時計を守って、みんなの時間を守ってきた人のことを、わたしは全部は知らなかった。でも、少しずつ分かってきた」
「おじいさんは話さない人だったから、ミオちゃんには直接は話さなかったと思う。でも——
夜の時間は少し間を置いた。
「分かってほしかった、とは思ってたと思うよ。あの人なりに」
「……うん」
ミオは目を閉じた。
胸の靄が、また少し薄くなった気がした。
町の人たちの話を聞くたびに、少しずつ薄くなっていく。なくなるわけではないけれど、軽くなる。
思い出を集めることは、時間のためだけではなかった。
ミオ自身が、祖父のことをちゃんと受け取るためでもあった。
「明日も行く?」
「うん」
「いい顔してる、今」
「見えないでしょ」
「気配で分かる。ちゃんと前を向いてる顔の気配がする」
ミオは少し笑った。
窓の外で、冬の風が鳴っていた。
止まった時計は、奥の部屋でまだ止まっている。でも、動く日が来ることをミオは知っている。
その日まで、集め続けよう。
この町の人たちが持っている、あの音の記憶を。
それが時間に届いて、時間が動く。
それがやがて、あの柱時計を動かす力になる。
ミオはそう思いながら、目を閉じた。
それから数日後、久し振りに夜の時間が来た。
「ミオちゃん」
「うん」
「朝が今日、久しぶりにはっきりした声で話せたって言ってた」
「本当に?」
「うん。昼も、今週の月曜日より全然いい。思い出が集まってきてる」
ミオは手帳を開いた。
今までに、数十人に話を聞いた。待ち合わせ、遠足、結婚式、子どもが産まれた朝、終戦の翌年、毎日の夕方、学校の帰り道などなど。
全部、あの時計の前にあった時間だった。
「まだ足りない?」
「十分かどうかは分からない。でも、確実に動いてる。続けて」
「うん」
「それと——止まった時間が、最近静かだよ。気づいてる?」
ミオは少し考えた。
「そういえば、近頃、声を聞いてない」
「思い出が集まると、止まった時間は力を使いにくくなる。流れが強くなるから」
「流れが強くなると、止まれない?」
「そう。川の流れが速いと、石は動かせない。それと同じだよ」
その夜、ミオは手帳を読み返した。
一番気に入っている話が一つあった。
商店街の端にいた、もうかなり年配の女性から聞いた話だ。
その人は、子どもの頃に迷子になったことがあるという。家が分からなくなって、泣きながら歩き回って、気づいたらあの時計の前にいた。時計の音が聞こえてきて、その方向に歩いたら、たどり着いていた。
「あの音が、家に連れて帰ってくれたんよ。それからはね、あの音が聞こえたら、ああここが自分の場所やって思えた。今も、そう」
ミオはその言葉を、何度か読み返した。
あの音が、家に連れて帰ってくれた。
祖父も、同じことを思っていたのかもしれない。だからずっと、あの時計を守ってきた。
「そうだよ」
夜の時間の声がした。
「また読んでたの?」
「ミオちゃんが手帳を開くと、なんとなく分かる」
「おじいちゃんも、そう思ってた?」
「あの人は多くを語らなかったけど、時計の前に立つときの顔を見れば分かった。自分のいる場所を確かめるみたいな顔をしてた」
ミオは手帳を閉じた。
「修理、うまくいくといいな」
「うまくいくよ。きっと」
「きっと、ってはっきりしない」
「時間には、先は見えない。でも、今起きてることは分かる。今、いい方向に動いてる。それは確かだよ」
ミオは窓の外を見た。
冬の夜空に、星がいくつか出ていた。明石の街の灯りの中でも、見えるものがある。
遠くから、海の音がかすかにした。
あの時計が鳴ったら、この辺りまで届くだろうか。
届くといい、とミオは思った。
また鳴ってほしかった。この町の、時計の音が。




