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止まった柱時計と、時間の子―わたしは時間と話せる―  作者: 明石竜


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第8章 止まった時間の提案

 十二月に入った。

 朝の時間の声は、さらに遠くなっていた。聞こえるには聞こえる。でもラジオの電波が弱くなったみたいに、途切れ途切れになることがある。

「おは……よう」

「大丈夫?」

「……うん。でも今日は、ちょっとしんどい」

 しんどい、という言葉を朝の時間が使うのを、ミオは初めて聞いた。

 昼の時間は、その日の放課後に来なかった。夕方近くになって、ようやくかすかな声がした。

「……ミオちゃん」

「昼の時間、どこにいたの?」

「けっこう前から近くにいたよ。ただ、声にならなかった」

「声にならない?」

「うまく届かなくて。霧みたいなもので、ふさがれてる感じ〜」

 その夜、ミオはすぐに夜の時間に報告した。夜の時間は静かに聞いていた。

「予想より、少し早い」

「早いって、まずいの?」

「思い出を集める時間が、思ったより少ないかもしれない」



 次の日の放課後、一人で下駄箱に向かっているとき、止まった時間の声がした。

「ミオちゃん、少し話していい?」

「……いいよ」

「思い出を集めに行くつもりなんだよね、この町の人たちに。夜の時間にそう言われたんでしょ」

「聞いてたの?」

「聞いてたというか、分かるんだ。ぼくたちはつながってるから」

 ミオは靴を履き替えながら、黙っていた。

「それより、いい方法がある」

「いい方法?」

「思い出を集めなくても、時間を守れる方法が」

 ミオは手を止めた。


「時間を止めればいい」


 外に出ると、空は薄い灰色だった。

 冬の雲が低く垂れている。風は冷たくて、吐く息が白い。

 ミオは歩きながら、止まった時間の声を聞いていた。

「ぼくが時間を止めれば、朝も昼も夜も、弱ることがない。弱ることがないから、消えることもない。このままずっと、三人でいられる」

「止めるって、どうやって」

「柱時計を、このままにしておけばいい。修理させなければいい。あの時計が止まったままでいる限り、この町の時間は流れが遅くなる。ぼくにとっては、それがちょうどいい」

「でも朝の時間と昼の時間は弱ってる。それは時計が止まってるせいでしょ」

「最初は弱る。でも止まった状態に慣れれば、安定する。変化が止まれば、消耗もなくなる」

 ミオは黙って歩き続けた。

「止めてしまえば、消えない。弱らない。今のまま、三人でいられる」

「今のまま、って——朝の時間が霧の中にいる状態のまま、ってこと?」

「弱くても、いる。消えるよりは、いい」

「それは、三人のためじゃなくて、あなたのためでしょ」

 止まった時間は黙った。

「時間を止めると、あなたは強くなる。三人が弱れば、あなたが代わりに町の時間を満たせる。この間言ってたことって、そういうことじゃないの?」

「……間違ってはいない」

 止まった時間が、珍しく認めた。

「でも、ミオちゃんに嘘はつかない。止まった世界は、ぼくにとって自然な状態だ。そこで三人が弱くても、ミオちゃんのそばにいることはできる。時間がある状態は続く。ただ——流れない」

「流れない時間に、意味はある?」

「ミオちゃんにとっては、ないかもしれない。でも、ぼくにとっては、ある」

 正直な答えだった。

 ミオは立ち止まった。

 止まった時間の声は続いた。

「それに——ミオちゃんも、そう思ったことがあるでしょ」

「何を?」

「このままでいい、って。時間が流れなければいい、って。おじいさんのことを考えるとき、そう思ったでしょ」

 ミオは足が少し遅くなった。

 答えが出なかった。


 祖父の家の前まで来たとき、ミオは立ち止まった。

 玄関の前に、また花が供えてある。今日は白い菊ではなくて、小さな黄色い花だった。

 誰かが、また来ていた。

「この人も、時間を止めたいと思ってるかもしれない。田中さんを失ったこの場所で、変わらないでいてほしいと思ってるかもしれない」

「……かもしれない」

「でも、ミオちゃんはどうなの?」

 ミオは花を見ていた。

 花は生きていた。供えられてから何日も経っていないから、まだしゃんとしている。でもいつかは枯れる。

 時間が流れるから、枯れる。

 時間が流れるから、供えに来た人も、ここまで来た。

「思い出してごらん。おじいさんのことが、一番好きだった瞬間」

 ミオは目を閉じた。

 祖父の家の縁側。夏の夕方。祖父が麦茶を出してくれた。二人で並んで、海の方角を見ていた。何も話さなかったけれど、それがよかった。

 ただそこにいた、あの時間。

「その瞬間を、永遠にできる。時間が止まれば、あの夕方がずっと続く」

「……」

「悪いことじゃないよ。ミオちゃんが望むなら、ぼくにはできる」


 ミオはしばらく動かなかった。

 止まった時間の言葉は、嘘ではないと思った。できるのだろう、本当に。時間を止めることが。

 あの縁側に、ずっといられる。祖父の横顔を、ずっと見ていられる。

 でも。

 ミオは目を開けた。

 花を見た。

 この花は、誰かが今日ここに来て、置いていった。知らない人かもしれない。でもその人は、時間が流れる中でここに来た。今日という日に、ここに立って、花を供えた。

 それは、時間が流れるからできることだ。

 あの縁側の夕方も、今のミオがあるから思い出せる。あの夕方だけがあっても、今のミオがいなければ、思い出にならない。

「ミオちゃん?」

「……少し、考えさせて」

「いいよ。急がなくていい」

 止まった時間の声は、穏やかだった。

 でもミオは、その穏やかさが少し怖かった。



 夜、夜の時間が来た。

「止まった時間と話したね」

「うん。時間を止める提案をされた」

「どう思った?」

「迷った」

「それでいいよ。迷わない方がおかしい。本当に大切なものを失った人に、その提案は刺さる。迷って当然だよ」

 ミオは膝を抱えた。

「夜の時間は、止まった時間のことを嫌いじゃないんだよね」

「嫌いじゃない。あれはあれで、本物の気持ちから来てるものだから」

「でも、ダメなの?」

「ダメというか——止まった世界では、新しい思い出が生まれない。あの縁側の夕方を永遠にすることはできるかもしれない。でも、それ以降の時間がなくなる。トキくんと話した放課後も、河村さんと並んでお弁当を食べた昼休みも、これから来るものも、全部なくなる」

「全部止まるから?」

「そう。止まった時間の中では、何も増えない。ただそこにあるものが、そのままある」

 ミオは黙っていた。

「答えは急がなくていい。でも一つだけ聞いていい?」

「うん」

「おじいさんなら、どう言うと思う?」

 ミオはその問いを、しばらく胸の中に置いた。

 祖父の顔を思い浮かべた。縁側の横顔。麦茶を出すときの手。時計が鳴るたびに顔を上げる、あの癖。

「……『止めなくていい』って言うと思う」

「どうして?」

「だって、おじいちゃんはずっと時計を動かしてきた人だから。時間を流すことが、あの人の仕事だったから」

 夜の時間は何も言わなかった。

 でも、そこにいた。

 ミオは長い息を吐いた。

「勇気を出して、町の人に声をかけてみる」

「うん」

「うまくいくか分からない」

「うまくいかなくてもいい。動くことが大事だよ」

「うまくいかなかったら、また迷うかもしれない」

「迷ったら、また話して。ぼくはいるから」

 窓の外で、風が鳴った。

 冬の風だった。冷たくて、でも澄んでいた。

 ミオは布団に潜り込みながら、まだ迷いが胸の中にあることを感じていた。消えてはいない。でも、方向は見えた気がした。

 それで今夜は、十分だと思った。


 その夜、眠れなかった。

 頭の中で、止まった時間の言葉がぐるぐるしていた。

 時間を止めればいい。

 柱時計を、このままにしておけばいい。

 理由は分かっている。それが間違っていることも分かっている。でも分かっていても、ふとしたときに引っ張られる感じがある。

 布団の中で横を向いた。

 窓の外は静かだった。冬の夜の明石は、風の音だけがある。


 翌朝、起きたらすぐに祖父の家に行こうと思っていた。

 でも朝になると、体が重かった。

 朝の時間の声がかすれている。

「……おはよう。今日は、ちょっと遠い」

「大丈夫?」

「うん。でも昨日より少し薄い。なんか、夜の間に何かあった?」

 ミオは黙った。

 何もなかった。眠れなかっただけだ。でも眠れなかったのは、止まった時間のことを考えていたからで。

「ごめん。わたしのせいかも」

「ミオちゃんが止まりたいって思ってた?」

「思ってたわけじゃない。でも……考えてた」

「そっか。仕方ないよ。無理に考えないようにしても、余計気になるから」

 朝の時間はそれ以上は言わなかった。

 ミオは布団を跳ねのけた。


 祖父の家に着いたのは、午前中だった。

 引き戸を開けると、冷えた空気がした。誰もいない家の静けさが、いつもよりひっそりしている気がした。

 奥の部屋に入った。

 柱時計の前に座った。

 夜の時間に話しかけようとしたとき、声がした。夜の時間ではなかった。

「また来てくれた」

 止まった時間だった。


 ミオは少し身構えた。でも、逃げなかった。

「うん。来た」

「眠れなかったね、昨日」

「知ってたの」

「気配で分かる。ミオちゃんが止まりたいって思うと、ぼくは少し近くなる。昨日の夜、かなり近かった」

「そんなに考えてたつもりじゃなかった」

「頭で考えてなくても、気持ちが考えることがある。頭が眠っても、気持ちは起きてる。だからミオちゃんは眠れなかった」

 ミオは膝を抱えた。

「何が言いたいの?」

「何も言いたくない。ただ、正直に話したかっただけ」


 しばらく、静かだった。

 時計は止まっている。振り子も、秒針も。部屋の中に音がない。

 止まった時間の気配は、昨日より近かった。でもこれは怖いものじゃないとミオは知っている。ただ、引っ張られる感じがある。川の流れに足首を取られるみたいな、緩くて、でも確かな引力。

「一つだけ、聞いていい?」

「何?」

「おじいさんのことで、一番後悔してることは何?」

 ミオは答えなかった。

「答えなくていい。ただ、胸の中で思い浮かべてほしい」

 思い浮かんだ。

 入院中に会いに行ったとき、もっと話せばよかったということ。何を話せばよかったか分からないけれど、ただ隣に座って、ちゃんと目を見て、もっと長く話せばよかった。

 あのとき、ミオは少し怖かった。管につながれた祖父が、いつもと違って見えて、うまく話せなかった。帰り際に手を握ってもらったけれど、ミオは握り返すのが遅かった。

 それを、今でも思う。

「後悔、してるんだね」

「……してる」

「時間が止まっていたら、後悔しなくてよかった。入院していた日も、最後の日も、全部なくなる。ミオちゃんが知ってるおじいさんは、元気だったあの人のまま、ずっとそこにいる」


 その言葉が、胸にすっと入ってきた。

 拒否しようとしたけれど、できなかった。

 入院前のおじいちゃん。縁側で並んで座っていた、あのおじいちゃん。管も、病院のにおいも、最後の日もない。ただあの縁側の夏があって、麦茶があって、遠くに海が見えて。

 それがずっと続くなら。

「怖くない? 止まることが」

「……少し、怖い」

「何が怖い?」

「みんなが動いていく中で、わたしだけ止まる感じがして」

「でも、おじいさんはそこにいる。ずっと、ミオちゃんのそばに」

「…………」

「会いたくない? 元気だったあの人に」


 ミオは目を閉じた。

 会いたい。

 それは何よりも、本当だった。

 元気だったおじいちゃんに会いたい。縁側で麦茶を出してくれるあの人に。時計が鳴るたびに顔を上げて「また時間が動いたな」と言うあの人に。

 ミオの目が熱くなった。

「止まった時間の中では、あの人が消えない。ミオちゃんが望むなら、ぼくにはできる。柱時計の修理を止めて、この時計をこのままにしておけばいい。それだけでいい」

「それだけで……」

「それだけで、おじいさんはずっとここにいる。今のままでもいい。何も変えなくていい。ただ、ここにいればいい」

 今のままでもいい。

 その言葉が、柔らかく包んでくる。

 何も決めなくていい。前に進まなくていい。ただここに座っていれば、時間が止まって、おじいちゃんがいて。

 ミオは膝の上で手を組んだ。

 指先が、少し冷たかった。


 どのくらい、そうしていたか分からない。

 気づいたら、部屋の光が変わっていた。雲が出てきたのか、窓からの光が薄くなっていた。

 ミオはゆっくりと目を開けた。

 柱時計が目の前にあった。

 止まっている。

 当たり前のことなのに、今は違う見え方がした。止まっているのではなくて、待っているみたいに見えた。

「どう? 決めた?」

 止まった時間が聞いた。

 ミオは少し間を置いてから、言った。

「一つ聞かせて」

「何?」

「おじいちゃんが元気だったころに戻れたとして——おじいちゃんは、わたしのことを今のわたしのまま覚えてる?」

 止まった時間は黙った。

「入院中に会いに行ったわたし。うまく話せなかったわたし。握り返すのが遅かったわたし。そういうわたしのことも、おじいちゃんは知ってる。元気だったころのおじいちゃんに会えても、そのおじいちゃんはわたしのことを全部知ってるわけじゃない」

「……それは、そうかもしれない」

「会いたいのは、わたしのことを全部知ってるおじいちゃんに、なんだと思う。元気だったころの顔をしてて、でも最後まで全部知ってるおじいちゃんに。それは、止まった時間の中にはいない」


 長い沈黙だった。


 ミオは柱時計を見ていた。文字盤のローマ数字。止まった針。飴色の木。

 おじいちゃんの手が入っている木。おじいちゃんが毎日見ていた文字盤。

「ミオちゃんは、賢いね」

「賢くない。さっきまで、本気で迷ってた」

「迷っても、ちゃんと気づく。それが大事だよ」

「止まった時間は、怒らないの? わたしが断っても」

「怒らない。ぼくはただ、止まりたいという気持ちのそばにいるだけだから。選ぶのはミオちゃんだよ。いつも、そうだった」

「おじいちゃんも、同じことを言われたの?」

 少し間があった。

「……おじいさんとは、話したことがない」

「え?」

「おじいさんは、止まりたいと思う気持ちが薄い人だった。だから、ぼくが近づける隙がなかった。ぼくがミオちゃんに近づけるのは、ミオちゃんの中にその気持ちがあるから」

 ミオは少し驚いた。

「おじいちゃんは、止まりたいと思わなかったの?」

「思わなかった、というより——前を向くことの方が自然な人だったんじゃないかな。時計を動かし続けることが、あの人にとって当たり前のことだったから。止まることを考える前に、動かすことを考える人だった」


 ミオはしばらく黙っていた。

 おじいちゃんが、止まりたいと思わなかった。

 それは強さではなくて、ただそういう人だったということなのかもしれない。前に向かうことが、体に染み込んでいた人。だから百年以上の時計を守り続けられた。

 ミオはそうじゃない。

 止まりたいと思う。引き返したいと思う。おじいちゃんに会いたくて、時間を巻き戻したくなる。

 でも。

「わたし、おじいちゃんみたいにはなれない」

「なれなくていいよ」

「でも、おじいちゃんから渡されたものは、ちゃんと受け取りたい。この時計を動かすこと、この町の時間を守ること。それだけは、ちゃんとやりたい」

「揺れながらでも?」

「揺れながらでも」

「また迷っても?」

「また迷っても」

 止まった時間は、少し間を置いた。

「……それでいいよ。完璧にやらなくていい。迷いながら動く、それがミオちゃんのやり方だよ。おじいさんとは違う。でも、それがミオちゃんの時間だから」


 部屋の光が、また変わった。

 雲が切れたのか、窓から柔らかい日差しが入ってきた。時計の木が、光を受けて飴色に光った。

 ミオは立ち上がった。

「止まった時間」

「何?」

「おじいちゃんに伝えられる? もし、つながってるなら」

「……何を?」

「握り返すのが遅くて、ごめんって。もっと早く握り返せばよかったって」


 止まった時間は黙っていた。

 部屋の中で、光だけが動いていた。


「伝えられるかどうか、分からない。でも——おじいさんはきっと、気にしてないよ。あの人は、そういうことを気にする人じゃなかったから」

「それは、慰め?」

「事実だよ。ぼくは嘘をつかない。止まったものだから、嘘もつけない」

 ミオは少し笑った。

 泣きそうだったのに、笑った。

「ありがとう」

「お礼を言われるようなことは、してないけど」

「してるよ。話してくれたから、ちゃんと考えられた。止まった時間、もう一つだけ、答えてほしい」

「何?」

「おじいちゃんのこと。おじいちゃんが百年以上、あの時計を守り続けたのは、なんのためだったと思う?」

 止まった時間は黙った。

「止まらないためだよ。流れ続けるために、守った。おじいちゃんは、時間を止めることを選ばなかった」

「でも、おじいさんはもういない。守る人がいなくなった時計は、止まる」

「止まっても、また動く。動かす人がいる」

「本当に動く保証は?」

「ない。でも」

 ミオは言葉を探した。

 縁側の夕方を思い出す。

「思い出は、時間が流れるから生まれる。止まった時間の中に、思い出はない。おじいちゃんとの縁側の夕方も、河村さんとお弁当を食べた昼も、トキくんと雨の中を歩いた日も、全部、時間が流れたから思い出になった。流れなかったら、何も残らない。だから止めないっ!」

 

 止まった時間は、長い間黙っていた。

 ミオも黙って待った。

 商店街の灯りが、一つずつついていった。夕方が、夜に変わっていく。

「……ミオちゃんには、勝てないな」

 止まった時間が、静かに言った。

「勝ち負けじゃない」

「そうだね。ぼくもそれは分かってる。ただ——言ってみたかった。一度くらい、誰かに、時間を止めてほしかった。長い間、誰にも選ばれなかったから」

 ミオは胸が少し痛くなった。

「誰も選ばなかったの? 今まで、ずっと」

「おじいさんも、その前の人も、みんなミオちゃんと同じことを言った。流れるから意味がある、って。分かってる。でも、聞くたびに少しだけ、寂しかった」

「……ごめん」

「謝らなくていい。それが正しいことだから。ぼくも、本当は分かってる。止まった世界に、ミオちゃんの笑顔は生まれない。それだけで、十分な答えだよ」



 玄関を出ると、冷たい空気が頬に当たった。

 空は白く濁っていたけれど、光があった。冬の薄い光が、商店街の方から差してきた。

「ミオちゃん」

 歩き始めたとき、止まった時間の声がした。遠かった。家の中から、薄くなりながら届いてくる感じだった。

「何?」

「また来るかもしれない。また揺れるとき、また迷うとき。そのときはまた話して」

「……うん」

「ぼくは怖いものじゃない。ただ、流されないようにすれば、話すだけなら大丈夫だから」

「分かった」

「行ってらっしゃい」

 声が、消えた。

 ミオは前を向いた。

 商店街が見えた。八百屋のおじさんが店先に出ていた。魚屋のおばさんが荷物を受け取っていた。

 話しかける人が、そこにいた。



 その夜、夜の時間に話した。

「止まった時間と、また話した」

「聞こえてた。……ミオちゃん、よく言った」

「夜の時間、今日は声がはっきりしてる」

「ミオちゃんが決めたから。迷いが消えると、流れが戻る。少しだけど、今夜は昨日より動けてる。思い出を集めれば、ずれた時間も完全に元通りまではいかないけど減らせる」

「時計が動いたら、全部戻る?」

「戻る。時計さえ動けば、あとは時間がやる。ミオちゃんがやることは、あとは思い出を

なるべくたくさん集めるだけ」

「本当に?」

「うん。ミオちゃん、今日は本気で迷ってたね」

「うん。でも、気づいたことがある」

「どんなこと?」

「止まった時間の中で会えるおじいちゃんは、わたしの全部を知らない。最後まで見ていたおじいちゃんに会いたいなら、時間が流れた先に行くしかない」

「それに気づいたんだね」

「知ってた?」

「うん。でも、自分で気づく方が大事だから、言わなかった」

「ずるい」

「そうかもね。でも、言われて分かることと、自分で気づくことは、胸への刺さり方が違う。ミオちゃんには、刺さってほしかった」

 ミオはしばらく黙っていた。

「ミオちゃん、一つ、聞いていい?」

「何?」

「今日、止まった時間にお礼を言ったね。どうして?」

「話してくれたから、考えられた。それは本当のことだから」

「止まった時間は、ミオちゃんを困らせようとしてたんじゃないの?」

「困らせようとしてたんじゃなくて、ただそばにいたんだと思う。引っ張ったのは本当だけど、それはわたしの中にある気持ちをそのままにしてただけで。悪意じゃない」

 夜の時間は少し間を置いた。

「……優しいね、ミオちゃんは」

「そう?」

「うん。おじいさんに似てる」

 ミオは何も言えなかった。

 祖父の顔を思い出した。

 胸の奥で、何かが静かにほどけた。靄ではなくて、もっと深いところにあったもの。ずっとそこにあったのに、気づかなかったもの。

「おじいさんも、気がつく人だったよ。誰かが悲しんでいると、黙ってそばにいた。怒ってる人に、そっと水を出した。特別なことをするわけじゃない。ただ、ちゃんと見ていた」

「わたしも、そうしてる?」

「してるよ。河村さんの隣で黙って食べたこと。廊下の二人に間を作ったこと。木村くんの背中を押したこと。全部、おじいさんと同じやり方だった」

 おじいちゃんと、同じやり方。

 言われるまで、気づかなかった。

 意識してやっていたわけじゃない。ただ、そうしたかったからやっていた。でも、それがおじいちゃんと同じなら、何かが渡っていたことになる。

 言葉じゃなくて。時計じゃなくて。

 もっと目に見えない何かが。

「渡してもらったのかな、わたし。おじいちゃんから」

「もうとっくに、渡ってるよ。ミオちゃんが気づく前から」

 ミオは目を閉じた。

 止まった時間は遠くにいる。また来るかもしれない。でも来たとき、ミオは話せる。揺れても、また戻ってこられる。

 それが分かったから、今夜は眠れると思った。

「ねえ、夜の時間、時計が動いたとき、最初に何て言う?」

「何て言いたい?」

「おじいちゃんがいつも言ってた言葉がある。時計が鳴るたびに、顔を上げて言ってた」

「なんて?」

「『また時間が動いたな』って」

 夜の時間は少し間を置いた。

「……それでいい。それが一番いい」

「直った時に、言えるといいな」

「言えるよ。きっと」

「あの時計の音を覚えてる人って、どのくらいいるのかな。明日から思い出を集めに行こうと思ってるんだけど、どう声をかけたらいいのかまだ迷ってて」

「迷わなくていい。『田中の孫です』と言えば、たいていの人は話してくれる。この辺りで田中さんを知らない人はいないから」

「そんなに?」

「時計の音が届く範囲に住んでいた人は、みんなあの音と一緒に育ってる。それだけの話だよ」

 ミオはそれを聞いて、少し背筋が伸びた。

「おやすみ、ミオちゃん」

「おやすみ」

 窓の外で、冬の風が鳴った。

 遠くで、海が動いていた。

 ミオは布団にもぐり、目を閉じた。


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