第7章 時間の異変
十一月の終わり頃から、朝の時間の声が変わり始めた。
最初は小さな変化だった。
いつもなら目が覚める前から「起きろー!」と言ってくる。でもその朝は、声がしなかった。ミオが自分で目を覚まして、少し経ってから、ようやく聞こえた。
「……おはよう」
「どうしたの、今日遅かったよ」
「そう? ちょっと遠かった」
「遠かった?」
「声が届きにくい感じ。なんかこう、霧の中から話してるみたいな」
ミオは起き上がりながら、首を傾けた。声はいつもより少しかすれている。
「風邪?」
「時間は風邪ひかないよ。でも……なんか、元気が出ない」
それきり、朝の時間は黙った。
昼の時間は昼休みに来た。
いつものように眠そうだったが、ただ眠そうなだけではなかった。どこか、暗い感じがした。
「最近どう?」
「なんか……薄くなってる気がする、ぼく」
「薄くなってる?」
「うまく言えないんだけど〜。前はもっとはっきりそこにいた感じがしたのに、最近は自分の輪郭がぼやけてる感じ〜」
「それって、まずいの?」
「まずいかどうかも、よく分からなくて〜。ただ、なんか変だなって〜」
昼の時間らしくない言い方だった。いつもはぼんやりしていても、そこにいる感じはあった。でも今日は、声自体がどこか遠い。
その日の夜、夜の時間は自分から話してきた。
「ミオちゃん、今日の朝と昼と、話した?」
「うん。二人とも変だった」
「変というか——弱っている」
「弱ってる。なんで」
「少し前から気になってたんだけど、今日はっきりした。この町の思い出が減ってる」
「思い出が減る?」
夜の時間は静かに続けた。
「ぼくたちは、時間が流れることで動いている。でも、ただ流れるだけじゃなくて、そこに人の思い出が重なることで、力を保てる。思い出のない時間は、ただ過ぎていくだけで、ぼくたちには届かない」
「思い出が、時間を動かしてるってこと?」
「そう。時計は針で時刻を刻む。でもぼくたちが動くのは、思い出があるから。あの柱時計がこの町の中心にいられたのも、たくさんの人の時間と思い出を受け取ってきたからだよ」
ミオは布団の上で膝を抱えた。
「思い出が減るって、どういうこと。忘れるってこと?」
「忘れるのとは少し違う。この町で、時間を大切にする人が減ってきてるんだと思う。立ち止まって、何かを感じる人が少なくなってる。時計が止まってからは、特に」
「柱時計が止まってるから?」
「あの時計は、町の人の時間の中心だった。あれが止まってから、少しずつ、何かがほどけていってる感じがする」
翌日、ミオは学校の帰り道に、商店街をゆっくり歩いた。
いつも通り過ぎるだけだったけれど、今日は立ち止まって見た。
八百屋、魚屋、小さな文房具店。どの店も、そこにある。でも何かが足りない気がした。
何だろう、とミオは考えた。
人の数は変わっていない。店が閉まっているわけでもない。でも、人と人の間に、隙間があるような気がした。
八百屋のおじさんが大根を並べながら、スマートフォンを見ていた。魚屋のおばさんは、向かいの店の人と目が合っても、会釈だけして中に入った。
前は、もっと話していたかもしれない。
ミオはそれが「思い出が減る」ということと、つながっている気がした。
「ねえ」
蒼井時計店の前を通ったとき、朝の時間が来た。昨日よりは少し声がはっきりしていた。
「どうした?」
「ここ、好きだよ。この店の前、時間が濃い感じがする」
「濃い?」
「古い時計がたくさんあるから。たくさんの人の時間が集まってる感じ」
ミオはガラス越しに店の中を見た。
壁に並んだ時計たちが、それぞれ違う音で刻んでいた。低い音、高い音、ゆっくりとした音、軽い音。全部が微妙にずれていて、でも不思議と調和している。
トキはカウンターの向こうで、小さな時計の部品を並べていた。
「あの子の時間も、濃い」
「トキくんの?」
「うん。好きなものに一生懸命な人は、時間が濃くなる。一瞬一瞬に、ちゃんといるから」
ミオはそれを聞いて、少しだけ羨ましいと思った。
自分は、ちゃんとここにいるだろうか。
その週末、ミオはトキの父親と初めて話した。
蒼井時計店に設計図を持って行くと、トキのお父さんは丁寧に受け取って、長い間眺めていた。
「見事なもんや。こんな精密な仕事、今の人間にできるかどうか」
「修理できますか?」
「やってみなければ分からん。ただ、やりたい仕事ではある」
低くて、穏やかな声だった。トキの声に少し似ていた。
「来週、実物を見せてもらえるか。一度見たら、どのくらいかかるか見当がつく」
「はい」
「あんた、田中さんのお孫さんやな」
「はい」
「田中さんには、うちの親父がよく教えてもらったって話を聞いとった。腕だけじゃなくて、時計に対する向き合い方を、ってな」
ミオは少し胸が詰まった。
「おじいちゃんのこと、知ってるんですか」
「直接は知らん。ただ、この商店街で長くやっとる人間は、みんな田中さんのことを知っとるよ。時計のこと以外でも、よく気がつく人やったって聞いた」
帰り道、トキと並んで歩いた。
「父さん、ああいう人だから、愛想はないんだけど」
「ううん、話しやすかった」
「本当に?」
「うん。なんか、本物の人って感じがした」
トキは少し照れたような顔をした。
「修理できるといいね」
「できると思う。難しいとは思うけど、父さんがやると決めたら、やり遂げる人だから」
「トキくんも、そういう人になりたいの?」
トキはしばらく黙った。
「なりたい。でも、まだ全然だよ。父さんの仕事を横で見てても、同じことができる気がしない」
「でも、好きなんでしょ」
「それは絶対に」
「じゃあ大丈夫だよ」
「……なんでそう思う?」
「好きな気持ちが、腕に出る、って聞いたから」
トキはまた黙った。
少し考えてから、「そうかな」と言った。
「そうだよ」
祖父のことを思いながら言っていた。夜の時間から聞いた言葉だったけれど、今は自分の言葉として口から出た。
夜、夜の時間が来た。
「朝と昼のこと、心配してる?」
「してる」
「ミオちゃんには、できることがある」
「何?」
「この町の思い出を、集めること」
「思い出を集める?」
「柱時計の前で、どんな時間を過ごしたか。どんな思い出があるか。それを集めることで、時間に力を戻せる。ぼくたちのことを覚えている人たちの記憶が、直接ぼくたちの力になる」
「町の人に聞けばいいの?」
「そう。難しいことじゃない。ただ、聞いて、受け取る。それだけでいい」
ミオは考えた。
町の人に声をかける。知らない人ばかりだ。勇気がいる。
でも木村くんのことも、廊下の二人のことも、最初は勇気がいった。やってみたら、できた。
「分かった」
「急がなくていいよ。でも、あまり時間もない」
「どのくらい?」
「朝の時間と昼の時間が、今のペースで弱り続けたら——冬が終わる前には、声が聞こえなくなるかもしれない」
ミオは息をのんだ。
「だから、できることをしよう。ミオちゃんが動けば、時間も動く。ぼくたちはそういうふうにできてる」
風が窓を叩いた。
外は冷えていた。でもミオの中に、小さな火みたいなものが灯った気がした。
明日から、始めよう。
ミオは目を閉じた。
次の日の朝、最初に気づいたのは朝の時間だった。
「……おかしい」
布団の中で、ミオは目を開けた。朝の時間が「おかしい」と言うのは珍しかった。
「どうしたの?」
「なんか、ずれてる。時間の流れが、いつもと違う感じ」
「ずれてる?」
「うまく言えない。でも、何かが合ってない。ほんの少しだけど、確かにずれてる」
ミオは起き上がって、スマートフォンの時刻を見た。七時十二分。いつもと変わらない。
「スマホは普通だよ」
「スマホじゃなくて、もっと根っこの方がずれてる……気をつけて、今日は」
朝の時間にしては珍しく、静かな声だった。
学校に着いて、一時間目が始まった。
国語の授業で、先生が教科書を読んでいた。ミオはノートを取りながら、何となく教室の時計を見た。
壁掛けの丸い時計。長針が、ゆっくり動いている。
スマートフォンと見比べた。
三分、早かった。
そういうこともある、と思った。学校の時計が少しずれているのは珍しくない。でも、何となく気になった。
二時間目に移動するとき、廊下の時計を見た。
また三分、早かった。
三時間目の理科室の時計も、三分早かった。
「ねえ、今日、学校の時計、全部三分ずれてない?」
トキはすぐにスマートフォンを出して、廊下の時計と見比べた。
「……本当だ。三分早い」
「気づいてた?」
「気づかなかった。でも確かにずれてる。全部が同じだけずれてるのは、おかしい。個別に狂うなら、ばらばらになるはずだから」
「どういうこと?」
「全部が同じ三分なら、電波時計の基準信号がずれたか、ネットワークの問題か——でも今日だけなら、説明がつかない」
トキは首を傾けた。本当に不思議そうな顔だった。
「なんか変〜」
昼の時間の声がした。
「変って、どう変?」
「流れが滑らかじゃない〜。ざらざらしてる感じ〜。時間が、砂の上を流れてるみたいな〜」
「砂の上?」
「いつもは水みたいに流れるのに、今日は引っかかりがある〜。うまく進めない感じ〜」
「トキくん、何か言った?」とトキが聞いた。
「ごめん、独り言。時計のことを考えてた」
「何で全部が三分ずれるんだろう?」
トキはつぶやきながら、また廊下の時計を見ていた。
放課後、一人になってから、止まった時間の声がした。
商店街を歩いていた。夕方近い光の中に、静かな声が混じった。
「気づいたね」
「あなたがやったの?」
「ぼくじゃない。でも、ぼくと関係はある」
「どういう意味?」
「時間が弱ってくると、こういうことが起きる。流れが乱れて、あちこちでずれが出る。時計が合わなくなる。当たり前のことが、当たり前じゃなくなる」
ミオは立ち止まった。
「ほら」
止まった時間が続けた。
「時間は壊れる。こんなふうに、少しずつ、ずれていく。信頼していたものが、ある日突然合わなくなる」
「三分くらいのずれで、壊れてるとは言わない」
「今日は三分。でも、このまま柱時計が動かなければ、明日は五分になる。来週は十分になる。そのうち、朝が朝じゃなくなる。誰も気づかないまま、時間がばらばらになる」
ミオは黙っていた。
家に帰ってから、夜の時間に話した。
「今日、学校の時計が全部三分ずれてた」
「知ってる」
「止まった時間が言ってた。このままだと、ずれがどんどん大きくなるって」
「……嘘じゃない。柱時計が止まったままだと、この町の時間の流れが乱れる。それが外に出てきてる。今日の三分は、その症状だよ」
翌朝も、時計はずれていた。
「……五分になってる」
朝の時間の声が、昨日よりかすれていた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないかも。なんか、声が出しにくい。霧の中にいるみたいで……」
「夜の時間は?」
「夜の時間も、昨日より薄いって言ってた。昼の時間は……朝から声が聞こえない」
ミオは息をのんだ。
「昼の時間が聞こえない?」
「眠いんじゃなくて、声にならないみたい。ミオちゃん……今日、何かしないといけない」
朝の時間が、珍しく急かさなかった。
それが、かえって重かった。
今日の授業中、先生は黒板の前に立ったまま、しばらく何も書かなかった。
「……今日は、なんだか頭が回らないな」
クラスの何人かが小さく笑った。でも、誰も元気には笑わなかった。
気づいたときには、チャイムが鳴っていた。
でも、誰も立ち上がらなかった。
教室の時計は、まだ五分残っていた。
誰も、それを指摘しなかった。
学校帰り、商店街で、同じ言葉を二度聞いた。
「今日は、なんだか時間がおかしいね」
八百屋のおじさんは、いつもより声を出さなかった。
「今日はなんだか、体が重いなあ」と言った。
商店街を抜けて角を曲がったとき、冷たい空気の中に声があった。
「……やっと気づいた?」
昨日より、ずっと近かった。
ミオは立ち止まった。逃げようとは思わなかった。でも、身構えた。
「ほらね、またずれたでしょ」
「知ってる」
「明日は七分になる。来週には、もっとずれる。朝の時間の声も昼の時間の声も、届きにくくなってきてるでしょ」
「……うん」
「このままでいいの? 三人が消えても?」
ミオの胸の奥で、靄が少し揺れた。
止まった時間の声は、相変わらず静かだった。責めるでもなく、急かすでもない。ただ、穏やかに話す。
「あなたには関係あるの?」
「ないこともない。ぼくたちは、同じ時間から来てるから。あの二人が弱ると、ぼくも影響を受ける」
「どんな影響?」
「強くなる」
その声は、どこか楽しそうだった。
言葉だけが、夕方の空気に沈んだ。
ミオはその意味が、よく分からなかった。
でも、あとで思えば、その言葉は本当だった。




