第6章 小さな出来事
十一月になった。
朝の空気が変わった。冷たくて、澄んでいて、遠くまでよく見える。明石海峡の向こうに、淡路島がはっきりと見える日が増えた。
ミオの胸の靄は、まだある。でも少し前より薄い気がした。
止まった時間は、あれ以来近くには来ていない。遠くにいる気配は感じる。でも声は聞こえない。嵐の前の静けさ、という言葉をミオはなぜか思い浮かべた。
その日の朝、教室に入ろうとしたとき、廊下で朝の時間が言った。
「後ろの席の木村くん、今日が締め切りの提出物、家に忘れてきたみたいだよ」
「なんで知ってるの」
「朝だから。出がけに気づいたのに、時間がなくて取りに戻れなかったって顔してる」
ミオは教室に入りながら、後ろの席をちらりと見た。
木村くんは机の中を何度も確認していた。見るたびに眉が下がる。
ミオはそのまま自分の席に座った。
先生が来る前の時間が、あと七分ある。
木村くんは提出物を持っていないから、先生に言うか、このまま黙っているか、考えているのだろう。
ミオは立ち上がった。
「木村くん、何か探してる?」
木村くんは顔を上げた。驚いた顔をしていた。
「……算数のプリント。家に忘れた」
「先生に言ったら?」
「でも今日が締め切りで」
「こういうのって、言わないよりは言った方がいいと思う。そのままにしてたら、もっと困るし」
木村くんは少し黙って、それから頷いた。
「……そうだね。言ってみる」
先生が来て、木村くんは正直に話した。
「次から気を付けてね」
先生は少し困った顔をしてたけど、大事にはならなかった。
「よかった」
朝の時間が小さく言った。
昼休みに、廊下で声を上げる声がした。
同じ学年の男子二人が、言い争っていた。一人は泣きそうで、一人は怒っている。周りの子たちが少し離れて見ていた。
ミオも通り過ぎようとした。
「あの二人、昨日から続いてるよ」
昼の時間が眠そうに言った。
「昨日から?」
「体育のチーム分けで、もめたみたい〜。どっちも意地になってる」
ミオは立ち止まった。
関わるべきか分からなかった。同じクラスでもないし、接点もない。でも、見ていると胸がざわざわした。
怒っている方の男子が、「もういい」と言って背を向けた。
その瞬間、ミオは声をかけていた。
「ちょっと待って」
二人が振り返った。
「ごめん、聞こえてたわけじゃないんだけど——外のベンチ、今空いてるよ。場所変えたら、少し落ち着かない?」
沈黙があった。
泣きそうだった方の男子が、小声で「行く」と言った。
怒っていた方の男子は、しばらくミオを見ていたが、結局ため息をついて「……分かった」と言った。
ミオはその場を離れた。仲直りするかどうかは、分からない。でも、二人に少しだけ間を作れた気がした。
「そういうことでいいんだよ〜」
昼の時間が言った。
「何が?」
「全部解決しなくていい。ちょっとだけ変える、でいい〜」
十一月の初め、昼休みに図書室に行った。
河村さんと一緒だった。河村さんは本が好きで、週に何度か図書室に来ると言っていた。ミオは図書室にあまり来ない。でも、何となくついていった。
静かだった。
本棚の間を歩くと、古い紙のにおいがした。たくさんの言葉が集まっている場所のにおい。
河村さんはすぐに目当ての棚に向かった。ミオはゆっくり歩きながら、背表紙を眺めた。
「眠い〜」
昼の時間が来た。
「図書室でも来るの」
「どこでも来るよ〜。でも図書室は特に眠くなる〜」
「本が好きなの?」
「好きというか……たくさんの時間が詰まってる感じがして、落ち着く〜。本って、誰かが生きた時間が入ってるから〜」
ミオは手を伸ばして、一冊取った。
明石の歴史についての本だった。古くて、表紙が色褪せている。
開いてみると、子午線のことが書いてあった。東経百三十五度。日本標準時の基準線。明石を通る、時間の線。
ページをめくると、明治時代の写真が出てきた。商店街の昔の様子。今とは全然違う建物が並んでいるが、通りの形は似ていた。
写真の隅に、建物が写っていた。
ミオは目を細めた。
小さくて、はっきり見えないけれど、柱時計に似た形のものが写っている気がした。
「ねえ」
「何〜?」
「昔の写真に、それっぽいものが写ってるんだけど」
「どれ〜?……ああ〜。たぶんそうだよ〜。あの時計、ずっとここにあるから〜」
「この頃からあったの?」
「もっと前からだよ〜。写真になる前から〜」
ミオはもう一度写真を見た。
小さくぼやけた影。でも確かにそこにある。今も止まったまま祖父の家にある、あの時計が、百年以上前の写真に写っている。
河村さんが来て、ミオの手元を覗いた。
「何読んでるの?」
「明石の歴史の本。この写真、見て」
「へえ、昔の商店街だ。雰囲気違うね」
「この端に写ってる建物、おじいちゃんの家の近くなんだよ」
「そうなの? 歴史あるね」
河村さんはさらっと言って、自分の本棚に戻った。
ミオはもう少し、写真を見ていた。
時代が変わっても、通りがあって、人が歩いて、時計が鳴っていた。それがずっと続いていた。
図書室の先生が「本は返してね」と声をかけながら通り過ぎた。ミオは本を棚に戻した。
でも、あの写真のことは忘れなかった。
その週の木曜日、河村さんが落ち込んでいた。
昼ごはんのとき、ミオは隣に座った。河村さんは「ありがとう」と言ったけれど、それだけで黙った。
ミオも何も言わなかった。
ただ隣で食べた。
食べ終わった後、河村さんが言った。
「ミオちゃんって、話しかけるの得意だよね」
「全然そんなことない。めちゃくちゃ迷う」
「そう見えない」
「迷ってからやってるだけだよ。失敗することもあるし」
河村さんはミオを見た。
「私、なんか声かけるの怖くて。嫌な顔されたら、って思うと」
「それ、わたしも思う。今でも思う」
「でも声かけるじゃない」
「かけた方がいい気がするとき、かけてる。間違えることもある。でも黙ってる方が、後からもっと気になるから」
河村さんは少し間を置いて、「そっか」と言った。
河村さんの顔は少し明るくなっていた。
☆
十一月の半ば、ミオはトキと放課後に話す機会が増えた。
トキは時計の話をするとき、確かに早口になった。朝の時間が言っていた通りだった。
「振り子時計の精度って、振り子の長さで決まるんだよ。重力の影響を受けるから、場所が変わると微妙にずれる。だから緯度によって調整が必要で——」
「ちょっと待って、全部は追いつかない」
「あ、ごめん」
「いや、面白いから続けていいけど、もう少しゆっくり」
「分かった」
トキはそう言って、また話し始めた。少しだけゆっくりになったけれど、すぐに元のペースに戻った。本人は気づいていない。
ミオはそれが、なんとなく好きだった。
トキは時計のことになると、他のことが見えなくなる。でも悪意がなくて、ただ純粋に好きだから、見ていて気持ちがいい。
「祖父の設計図、お父さんはなんて言ってた?」
「すごく興味持ってた。来週、実物を見に行っていいか聞いてほしいって。あと、設計図を書いた職人を調べたら、明治時代の人だったって」
「明治時代」
「明石で生まれて、生涯ここで時計を作り続けた人。かなり腕が良かったらしくて、残ってる時計が他にも何個かあるって」
ミオは少し驚いた。
「この町で、そんな人がいたんだ」
「知らなかった?」
「全然」
「おじいさんも、その流れを継いでたんじゃないかって、父が言ってた」
時間の声が聞こえた。夜の時間だった。
「そうだよ。長い流れの中にいる人たちだよ、みんな」
その日、学校から帰る途中に雨が降り始めた。
傘を持っていなかった。
近くに屋根があるところまで走ったが、すでに肩が濡れていた。軒下に立って、雨が弱くなるのを待った。
秋の雨は冷たい。
しばらくして、同じように雨宿りをしている人が隣に来た。トキだった。
「傘、ないの?」
「ない。トキくんもないじゃない」
「忘れた」
「同じだ」
二人で並んで、雨を見ていた。
商店街の屋根から、雨粒が落ちてくる。道に水たまりができて、雨粒が当たるたびに円が広がる。
「雨の音、好き?」
ミオが聞いた。
「嫌いじゃない。でも湿度が上がると時計の精度に影響が出るから、複雑」
「時計目線で雨を見てるんだ」
「いつでも時計のことを考えてる、は言いすぎだけど。大体そう」
ミオは少し笑った。
雨音の中で、
「雨の日も鳴ってたな〜」
昼の時間が言った。
「柱時計の音が、ですか?」
ミオは小声で呟く。
「え?」
「あ、ごめん。独り言。雨の日でも柱時計って音、ちゃんと出るのかなって」
「出る。ちゃんと整備されてれば、湿度には耐えられる設計になってるはずだよ、あの時代のものは。実際、蒼井時計店の古い時計も、雨の日も止まったことないって父さんが言ってた」
「おじいちゃんの時計も、雨の日も鳴ってたんだ」
「たぶん。何十年も鳴り続けてたなら、雨の日も雪の日も止まらなかったはずだよ」
「この辺の人にとって、当たり前の音だったんだよね、きっと」
「当たり前って、すごいことだと思う」
トキが言う。
「すごいこと?」
「当たり前になるって、それだけ長く、ちゃんと動き続けてたってことだから。壊れない、止まらない、裏切らない。それが積み重なって、当たり前になる。簡単なことじゃないよ」
ミオはその言葉を、胸の中に置いた。
雨は少し弱くなっていた。
「行ける?」
トキが聞く。
「行く」
二人で雨の中を歩いた。傘はなかったけれど、気にしなかった。
坂道を下りながら、ミオは思った。
当たり前の音。当たり前の存在。おじいちゃんはずっと、それを守ってきた。当たり前のものを当たり前のままにしておくことが、どれだけ大変か、分かっていて。
祖父の家の前を通るとき、ミオは少し足を遅くした。
軒から雨が落ちていた。
中では、時計が止まったままだ。でも、また動く。
当たり前の音が、また戻ってくる。
ミオは歩き続けた。まっすぐに。
☆
ある夕方、ミオは祖父の家の前を通った。
片付けはまだ途中だ。でも業者に引き取らせることは、今はお母さんも言わなくなっていた。
玄関の前に、小さな花が供えてあった。ミオの知らない人が置いていったものだ。
誰だろう、と思った。
「この時計の音を聞いて育った人が、この辺にたくさんいるよ」
夜の時間が言った。
「今も来てるの?」
「たまにね。時計が止まってるから、寂しそうに見ていく人もいる」
ミオは花を見ていた。
白い小菊だった。丁寧に水を入れたガラスの瓶に、ちゃんと挿してある。
祖父だけが守っていたわけじゃなかった。この時計の音を、街のみんなが聞いていた。
それがじわじわと、ミオの中に染みてきた。
その夜、夜の時間に聞いた。
「おじいちゃん、この時計のことを誰かに話してた?」
「あまり話さなかったよ。自分の胸の中で、大事にする人だったから」
「でも、町の人はみんな時計のことを知ってる」
「知ってるというか、自分の生活の一部になってたんだよ。この時計の音で、時間を感じてきた人たちだから。おじいさんが話したわけじゃなくて、時計自体が話してたんだ」
「時計が話す?」
「音が話してたんだよ。ゴーン、って鳴るたびに、町の人の時間の中に入っていって。誰かが生まれた朝にも、誰かが旅立った夜にも、この時計は鳴っていたから」
ミオは目を閉じた。
その音を、聞いたことがある。
小さな頃、祖父の家で夜を過ごしたとき、暗闇の中でゴーン、と鳴った。眠れなくて怖かったけれど、あの音が聞こえると、なぜか安心した。
今は鳴っていない。
でも、また鳴るかもしれない。
「修理、絶対うまくいくといいな」
「うまくいくといいね」
「うまくいくと思う?」
「ぼくには分からない。でも、ミオちゃんが動いたから、動き始めたことがある。それは確かだよ」
ミオは布団を顎まで引き上げた。
外は風が出てきた。木の葉が揺れる音がした。
止まった時間は、今夜は遠くにいる。気配はある。でも近くには来ない。
ミオは、それでいいと思っていた。
悲しみは消えていない。靄もある。でも一日一日、小さなことをいくつかできた。木村くんの背中を押した。二人の男子に間を作った。河村さんの隣で、黙って食べた。
大きなことじゃないけれど。
でもそれで、少しだけ前にいる気がした。
「いい一日だったね」
夜の時間が言った。
「うん」




