第5章 止まった時間
十月の終わりに、雨が続いた。
四日間、ほとんど晴れ間がなかった。朝の時間は元気がなかった。
「雨だと声が遠くなるんだよね」
「どうして」
「朝の光がないと、ぼくも薄くなる感じがする」
珍しく、しょんぼりとした声だった。ミオはなんとなく、窓の雨粒を眺めながら聞いていた。
昼の時間に至っては、ほとんど出てこなかった。
「雨の日は眠い。雨の音が子守唄みたいで」
「それはいつも眠いんじゃないの」
「違う違う。雨の日は特別に眠い」
そういうものらしかった。
四日目の夜、夜の時間が来た。
いつもより声が低かった。
「ミオちゃん、今夜は少し話したいことがある」
「何?」
「怖い話じゃない。ただ、知っておいた方がいいことだから」
ミオは布団の中で姿勢を整えた。夜の時間がこういう入り方をするのは初めてだった。
「もう一つの時間のことを、話す」
「もう一つ?」
「朝と昼と夜の他に、もう一つの時間がいる。ぼくたちとは違う種類の。ミオちゃんは、そのうち会うことになると思うから」
ミオは黙って待った。
「止まった時間、って言う。止まった時間は、ぼくたちみたいに一日の流れから生まれたんじゃない。人の気持ちから生まれた」
「人の気持ちから?」
「このままでいい、って思う気持ち。変わりたくない、失いたくない、ここに留まっていたい——そういう気持ちが積み重なってできた存在だよ」
「悪いもの?」
「悪くはない。でも、ぼくたちとは考え方が違う。ぼくたちは流れることが自分たちの役割だと思ってる。でも止まった時間は、流れることを好まない」
「止まった時間って、どうしているの?」
「朝は始まりの時間。昼は生きている時間。夜は思い出の時間……」
少しだけ間があった。
「でもね、止まった時間は、思い出になれなかった時間なんだ」
「なんでわたしに話すの? 会うことになるって言ったけど」
「この町の時間が今、少し不安定だから。そういうときに、止まった時間は動きやすくなる。ミオちゃんに近づいてくる可能性がある」
「不安定って——時計が止まってるから?」
「それも関係してる。でも一番の理由は、今のミオちゃんの気持ちだと思う」
その言葉が、静かに胸に沈んだ。
☆
翌朝、雨が上がった。
朝の時間は「晴れた!」と声を弾ませた。
学校に向かうとき、ミオは商店街を通る道を選んだ。昨日の夜の時間の言葉が、まだ頭の中にあった。
今のミオちゃんの気持ち。
どんな気持ちか、夜の時間は言わなかった。でもミオには分かった。
止めたいと思うことが、ある。
祖父の家の片付けが進むたびに、何かが消えていく感じがする。もっとゆっくりでいいのに、と思う。このまま時間が止まっていてくれればいいのに、と思う。
それが止まった時間を引き寄せている、ということなのかもしれなかった。
☆
放課後、図書室でトキと話していた。
先週、ミオは設計図のことをトキに打ち明けた。蒼井時計店に相談できないかと頼むと、トキは真剣な顔で設計図を見て、「父さんに見せる」と言った。それから数日が経って、今日は返事を聞く日だった。
「父さんが言ってた。修理できるかどうか、実物を見ないと判断できないって」
トキは机の上で指を組みながら言った。
「実物を見てもらえる?」
「うん。ただ、かなり古い時計みたいだから、部品を一から作り直す必要があるかもしれない。時間もかかるって」
「どのくらい?」
「数週間から、長ければ数ヶ月」
ミオは頷いた。数ヶ月でも、動くなら構わないと思った。
「設計図、すごかった。父さんが、こんな精密な図面は初めて見たって。作った職人のこと、調べたいって言ってた」
「おじいちゃんが持ってたから、おじいちゃんが書いたのかと思ってた」
「違うと思う。紙が相当古かったから。たぶん、もっと前の人が書いたものだよ」
図書室を出たのは夕方近くだった。
廊下の窓から、オレンジ色の光が差し込んでいた。ミオはトキと並んで歩きながら、ふと立ち止まった。
声がした。
朝の時間でも、昼の時間でも、夜の時間でもない。
「……時間は、残酷だよ」
低くて、静かな声。ガラスに指を当てたときみたいに、冷たい感触が声にあった。
「トキくん、今、何か聞こえた?」
「え? 何が?」
「……何でもない」
トキは不思議そうな顔をして、また歩き出した。
ミオは廊下の端に視線を向けた。誰もいない。窓の外は夕焼けで、長い影が地面に伸びている。
「流れるから」
また聞こえた。
「流れるから、人は大切なものを失う」
帰り道、声はついてきた。
遠くから聞こえる感じで、はっきりしないけれど、確かにそこにある。朝の時間や昼の時間みたいに話しかけてはこない。ただ、そばにいた。
「誰?」
ミオは足を止めて、声に向かって小声で問いかけた。
「止まった時間だよ」
「あなたが、止まった時間?」
間があった。
「そうだよ」
「顔は、あるの?」
「ない。あるとしたら、どんな顔に見える?」
ミオは考えた。
「……おじいちゃん、みたいな気がする。でも違う、か」
「違う。でも、そう見えるなら、それはミオちゃんの中にあるものがぼくを作ってるからだよ」
「わたしの中にあるもの?」
「このままでいいって思う気持ち。前に進みたくないって思う気持ち。ぼくはそこから来てる」
ミオは歩き続けた。足元の落ち葉が、音を立てた。
「時間が流れるのが嫌なの?」
「嫌じゃない。ただ、流れることで失われるものを、ぼくはよく知ってる」
「何が失われるの?」
「いろんなもの。人の顔。声。におい。一緒に過ごした時間。——ミオちゃんは今、何を失ったと思ってる?」
答えは出なかった。
ミオの目が、少し熱くなった。
家に着いて、ランドセルを下ろして、ミオは台所の椅子に座った。
お母さんはまだ帰っていない。部屋は静かだった。
「泣いていいよ」
止まった時間の声がした。
「泣くつもりない」
「そう。でも、泣きたいときは泣いていい。時間を止めたいと思うとき、ぼくはいつでもそばにいるから」
「そばにいてどうするの」
「何もしない。ただいる」
それが、妙に怖かった。
悪意がないのは分かる。でも夜の時間が「考え方が違う」と言っていたのも分かる気がした。止まった時間は、流れることを止めようとするわけじゃない。ただ、止まっていることをやさしく肯定する。
それが、いつかミオを動けなくするかもしれない。
「ミオちゃん」
「何」
「おじいさんのこと、まだ泣けてない?」
ミオは黙った。
泣いた。お葬式のとき、泣いた。でもあれは人前だったから、途中で止まった。それからは、うまく泣けていない。まだ靄が胸にあるのに、それが涙にならない。
「……うまく泣けない」
「そうか」
止まった時間は、何も言わなかった。
ただ静かに、そこにいた。
夜になると、夜の時間が来た。
「止まった時間と話した?」
「うん」
「どうだった」
「怖くはなかった。でも、なんか——引っ張られる感じがあった」
「そうだろうね」
「夜の時間は、止まった時間のこと、どう思ってるの?」
少し間があった。
「かわいそうだと思う」
「かわいそう?」
「あれは人の悲しみから生まれた存在だから。流れたくない、って思う気持ちがなければ、存在できない。ぼくたちは流れるだけでいいけれど、止まった時間は、誰かが悲しんでいないと薄くなる」
ミオは窓の外を見た。
夜の明石は静かだ。遠くに灯台の光が、ゆっくりと回っている。
「おじいちゃんを思い出すと、止まりたくなる」
「うん」
「それが止まった時間を呼んでるんだよね」
「そうだよ。でも、それはミオちゃんが悪いんじゃない。おじいさんが大切だったから、そう思う。当たり前のことだよ」
「でもこのままじゃ、ダメなんでしょ」
夜の時間は少し黙った。
「今はまだ、ダメじゃない。ただ思い出してる、それだけだよ。止まった時間に動かされるのと、止まった時間のそばで悲しむのは、違うことだから」
「どう違うの?」
「自分で、ちゃんと悲しんでるかどうか。流れながら悲しむのと、流れるのを止めて悲しむのは、違う」
ミオはその言葉を、ゆっくりと飲み込んだ。
全部は分からなかった。でも、大切なことを言われた気がした。
窓の外で、灯台の光がまた回った。
ミオは目を閉じた。




