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止まった柱時計と、時間の子―わたしは時間と話せる―  作者: 明石竜


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第3章 学校の時間

 六年二組の教室。朝のホームルームが始まる前、ミオは窓際の席で外を見ていた。

 運動場の端に、金木犀が一本ある。まだ咲いていないけれど、もうすぐだろうとミオは思った。祖父の家にも同じ木があって、毎年秋になると甘いにおいがした。

「ねえ、三列目の子」

 朝の時間の声がした。

「三列目の子?」

「そう。ほら、窓から二番目。ちょっと下向いてる子」

 ミオはそっとそちらを見た。

 同じクラスの女の子だった。名前は確か、河村さん。まだちゃんと話したことはない。今、机の上に教科書を広げているけれど、目が赤い。

「今朝、泣いてたよ」

「……なんで知ってるの」

「朝のことはだいたい知ってる。朝だから」

 ミオは河村さんを見た。うつむいていて、表情はよく分からない。でも確かに、いつもと様子が違った。

「声かけた方がいい?」

「どうするかはミオが決めること。ただ、教えたかっただけ」

 チャイムが鳴る。


 その日の昼休み、ミオは迷った。

 声をかけるのは苦手だ。六年生になってから、どうもうまくいかない。仲の良いお友達とはクラスが分かれて、新しいお友達を二学期になってもまだ作れていない。

 普段は給食だけど、今日は月に一度のお弁当の日だった。

 河村さんは、教室の隅で一人でお弁当を食べていた。

「眠いな〜」

 昼の時間が来た。

「今、大事なこと考えてるんだけど」

「そうなの〜。何?」

「河村さんに声かけようか迷ってる」

「あー。なんで迷ってるの〜」

「うまく話せなかったら、って思って」

「うまく話せなかったら?」

「……嫌な顔されるかも」

「されるかも、ね〜」

 昼の時間はそれ以上は言わなかった。ただぼんやりとそばにいた。

 ミオはお弁当箱のふたを閉めて、立ち上がった。


「あの」

 河村さんが顔を上げた。

「隣、いい?」

 一瞬、間があった。ミオの心臓が跳ねた。

「……うん」

 河村さんは小声で言った。

 ミオは隣に座った。何を話すか決めていなかった。でも座ってしまった。

「お弁当、何入ってる?」

 河村さんが聞いた。

「卵焼きと、ちくわ」

「いいな。わたし卵焼き好き」

「……河村さんは、甘い方としょっぱい方、どっちが好き?」

「甘い方」

「わたしも甘い方が好き」

「そうなんだ」

 河村さんはまだ目が赤かったけれど、少しだけ表情がほぐれた気がした。


 それから数日で、ミオと河村さんはよく話すようになった。

 大きな友達、というほどではない。でも廊下で会えば話すし、昼休みに隣に座ることもある。

 河村さんがあの朝何で泣いていたのかは、ミオは聞かなかった。聞かなくていい、と思った。ただ隣にいれば、それでよかった。

 誰がどんな話をするのが好きか。誰が静かに見えて実はよく笑うか。誰が一人でいたくて、誰が誰かと話したくて一人でいるか。

 朝の時間が、ときどき教えてくれた。

「あの子、今日誕生日らしいよ」

「後ろの席の子、プリントなくして困ってるよ」

 大きなことは何もない。でも小さなことが少しずつ重なって、ミオは教室の中に居場所を見つけ始めていた。



 十月の最初の週、学校に着いたとき、においがした。

 校門をくぐった瞬間に気づいた。甘くて、少し重くて、でも嫌じゃないにおい。どこから来るのか探したら、運動場の端にある木だった。

 金木犀が、咲いていた。

 小さなオレンジ色の花が、枝に密集している。目立たない花だけれど、においだけは遠くまで届く。秋が来たのだと、ミオは思った。時間は、ちゃんと進んでいる。

 

「知ってた?」

「何を?」

 朝の時間が聞いた。

「金木犀って、二日か三日で散るんだって。咲いたと思ったら、もうすぐ終わる」

「知ってる! でも毎年ちゃんと来るから、短くてもいいんだよ!」

「そういうもんかな」

「そういうもんだよ! 短いから、覚えてるんじゃない?」

 ミオは立ち止まって、木を見た。

 祖父の家にも、同じ木があった。毎年秋になると、家中に甘いにおいが漂った。祖父は縁側でお茶を飲みながら、「今年も来たな」と言っていた。毎年同じことを言っていた。

 おじいちゃんも、このにおいを覚えていたんだろうか。

「おじいちゃんの家の金木犀、今年も咲いてるかな」

「咲いてるよ。昨日、確認した。誰も見てないけど、ちゃんと咲いてる」

「見てきてくれたの?」

「朝だから、知ってる。今朝の明石で咲いてるもの、だいたい分かる」

 ミオはそれを聞いて、少し胸があたたかくなった。

 

 チャイムが鳴った。ミオは走って教室に向かった。金木犀のにおいが、しばらくついてきた。

 そのとき、誰かが小さくつぶやいた気がした。


「時間は残酷だよ」


ミオは振り向く。

でも誰もいない。



 その夜、

「……今日、何か聞こえたでしょ?」

 夜の時間からこんな質問をされた。

「うん」

「それは、ぼくたちとは違う時間かもしれない」


            ☆


 蒼井トキと初めて話したのは、十月に入って二週目頃だった。

 理科準備室の前で、ミオはうっかり段ボール箱にぶつかった。中身は理科の実験道具で、盛大な音を立てて廊下に散らばった。

「すみません、大丈夫ですか?」

 すぐに声がして、男の子が拾い始めた。同じクラスの蒼井くんだと気づいたのは少し後だった。

「ごめん、わたしがぶつかったから」

「いや、僕が端に置きすぎてた」

 二人で黙々と片付けた。最後の一つ、割れていないか確認しながらトキが言った。

「ミオさんって、時計に詳しい?」

 唐突な問いだった。

「……全然」

「そっか。でも昨日、時計屋の前でずっと立ってたから」

 そういえば、昨日の帰り道。商店街の端にある小さな時計屋の前で、飾ってあった古い置き時計を眺めていた。祖父の柱時計と少し似た雰囲気があったから、つい足が止まったのだ。

「おじいちゃんが時計職人だったから」

「へえ」

 トキは目を細めた。

「うちのお祖父ちゃんに弟子入りしてた人がいたって、父さんから聞いたことある。もしかして、その人?」

「え、」

「名前、田中さんじゃない?」

 ミオは固まった。祖父の苗字は田中だ。

「……知ってるの?」

「直接は知らないけど。父さんがよく話してた。この町で一番腕のいい時計職人だったって」


 その日の夕方、ミオは夜の時間に話した。

「同じクラスに、蒼井くんって子がいるんだけど」

「知ってるよ」

「おじいちゃんのことを知ってた」

「この町は狭いから。時計のことになると、特にね」

「蒼井くんも時計が好きみたい。将来、時計職人になりたいって言ってた」

「そうか」

「なんか、不思議な感じ。おじいちゃんがいなくなった後に、おじいちゃんを知ってる人と出会うって」

「時間はそういうものだよ。人と人をつなぐのも、時間の仕事のうちだから」

「時間の仕事って他にも何かあるの?」

「たくさんある。でも一番大事なのは、流れること」

「流れること」

「そう。止まらないで、ちゃんと動き続けること。それだけで、たくさんのことが起きるから」

 ミオは窓の外を見た。

 夜の明石は静かだ。遠くに海があって、街の灯りが水に映っている。

「ねえ、おじいちゃんって時計職人としてどうだったの」

「腕が良かった。でもそれよりも、時計が好きだった。好きな気持ちが、腕に出てた」

「どういうこと?」

「修理した時計が、ちゃんと動くだけじゃなくて、気持ちよさそうに動く、って言ったらわかる? あの人が手を入れた時計は、みんなそうだった」

 ミオはしばらく黙っていた。

「蒼井くんも、そういう時計職人になれるかな」

「さあ。それはまだ分からない。でも好きな気持ちは本物みたいだよ。昼間、時計屋の前で三十分立ってたから」

「見てたの」

「昼の時間が言ってた。眠そうに」

 ミオは笑った。



 翌朝、教室でトキと目が合った。

 トキは少し照れたみたいに頭を下げた。ミオも頷いた。それだけだったけれど、昨日までとは違う感じがした。

「仲良くなれそう?」

 朝の時間が聞いた。

「どうかな」

「なれると思うけどな。あの子、時計の話になると早口になるから、聞いてあげたら喜ぶよ」

「早口になるの?」

「すごく。昨日も時計屋のおじさんと話してて、ものすごい速さで喋ってた」

 それは少し、見てみたいと思った。

 

 十月の半ば、体育の授業は運動場でやった。

 種目は持久走だった。ミオは走ることが得意ではない。速くもなく、かといって極端に遅くもない。ただ、長く走るのが苦手だった。

 スタートして、最初の一周は何とかなった。二周目から、呼吸が荒くなってきた。

「ミオちゃん、フォームが崩れてる! 肩に力が入ってる!」

「今それどころじゃない」

「肩の力を抜いて! 腕を前に振るんじゃなくて、後ろに引く感じで!」

「うるさい、走れない」

「走りながら聞いて! 朝は得意分野なんだよ、これ!」

 ミオは半分やけになって、肩の力を抜いた。腕の動きを変えた。

 少し、楽になった。

「……なった」

「でしょ!」

「なんで知ってるの、走り方なんて」

「朝は体を動かす時間だから。この世界の生き物が走ったり飛んだりするの、毎日見てる。鳥の羽ばたきも、犬の走り方も、ぜんぶ朝に見てる。人間の走り方くらい分かる!」

 ミオは少し笑いそうになった。笑うと呼吸が乱れるので、こらえた。

 三周目に入ったとき、前を走っていた河村さんが少し失速した。ミオは横に並んだ。

「大丈夫?」

「足が重くて」

「肩の力抜いて、腕を後ろに引く感じにすると少し楽になる」

「え?」

「やってみて」

 河村さんが試した。

 少しして、「ちょっと楽かも」と言った。

「教えてあげてる! えらい!」

「うるさい、集中させて」

「え、何?」

 ミオの隣で河村さんが驚いた。

「ごめん、独り言」

 二人で並んで、最後まで走った。ゴールして、二人で芝生に倒れた。

「ありがとう、さっきの。どこで覚えたの? そんなこと」

「……ちょっと教えてもらって」

「誰に?」

「秘密」

 河村さんは不思議そうな顔をしたが、「ふうん」と言って空を見た。

 運動場の端に、金木犀の木が見えた。においはもう、ほとんどしなかった。花が散り始めていた。

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