花冠
花畑は、どこまでも明るかった。
春の光を受けて、白や黄色の花が風に揺れている。城壁の外、人目につかない丘の上。ここは、少女が唯一自由に息をつける場所だった。
騎士は地面に腰を下ろし、のんびりと空を見上げていた。彼の少し離れた場所で、少女は背中を向けたまま、何やら手を動かしている。
「なあ、何してるんだ?」
騎士――カイエンが尋ねると、少女は振り返らずに答えた。
「待ってて」
「……ああ」
カイエンは苦笑しながら、また空を見上げた。風が心地よく吹き抜けていく。
しばらくして、少女――アリエルが振り返った。
「……できた」
小さな声でそう呟き、彼女は花冠を掲げた。
「おお、きれいだな」
カイエンは素直に感心した。白い小さな花が、丁寧に編み込まれている。
アリエルは嬉しそうに笑い、立ち上がるとカイエンの前に来た。そして、背伸びをして花冠を彼の頭にそっと載せる。
「これで貴方は、この国の王様よ」
カイエンは、思わず笑った。
「下級貴族の三男坊の俺が王になるなんてな」
彼は花冠を押さえながら、おかしそうに肩を揺らした。アリエルもつられて笑う。
「じゃあ、私は王様に王冠を授けたから――教皇ね」
「教皇陛下か。それは恐れ多い」
二人は、子供のように笑い合った。
風が吹き抜け、花びらが舞う。この瞬間だけは、身分も立場も関係ない。ただの少女と、ただの青年がそこにいた。
だが、笑いが収まると、アリエルの表情が少しだけ翳った。
彼女は首元に手を伸ばし、そこに嵌められた銀の首輪をそっと撫でた。王家の紋章が刻まれている。
「……まぁ、奴隷なんだけどね」
その声は、どこか寂しげだった。
カイエンの笑顔が消えた。彼もまた、悲しげな表情を浮かべる。
「……そんな教皇陛下に」
カイエンは急に膝をつき、敬語で言った。
「私から、贈り物がございます」
「なになに?」
アリエルは首を傾げた。
カイエンは自分の指にはめていた指輪を外した。銀色の、小さな花が彫り込まれた繊細な指輪。彼はそれを、アリエルの細い指にそっと滑らせた。
「……これ」
アリエルは顔を赤らめ、指輪を見つめた。花の装飾が、陽の光を受けてきらりと光る。
「大切にする」
彼女はそう言って、指輪を見つめた。
だが、カイエンの表情は晴れなかった。彼は悲しげな顔のまま、静かに言った。
「……実は……君が辛い目にあったら、この指輪が役に立つかもしれない」
その言葉の意味を、アリエルは理解できなかった。ただ、彼の声に込められた悲しみだけが、胸に刺さった。
少女は真顔になり、カイエンに抱きついた。
「カイエン、いつまでも一緒にいて」
涙が溢れ、頬を伝い落ちる。
カイエンは彼女を抱きしめたかった。抱きしめて、すべてを話したかった。だが、彼にはそれができなかった。
彼女は王の所有物だ。そして自分は、明日には別の任地へ移る。もう、彼女に会うことはない。
それを告げることが、せめてもの誠意だと分かっている。
だが、言えなかった。
彼女を悲しませたくなかった。
カイエンは、ただ黙って彼女の背中に手を添えた。それが、彼にできる精一杯の答えだった。
やがて、アリエルはゆっくりと身を離した。涙を拭い、強がるように笑みを浮かべる。
「……大事にするね、この指輪」
指輪を触りながら、彼女は言った。
カイエンは、苦しそうに目を伏せた。
「……すまない」
その一言が、喉から絞り出された。
少しの間。
風だけが、音を立てて吹き抜けていく。
その瞬間――
アリエルの視界が、真っ赤に染まった。
花畑が消える。青い空が消える。カイエンの姿が消える。
すべてが、赤い。
血のような、深い赤。
叫び声が聞こえる。誰かの、いや、無数の声が重なり合って響く。
それは――
世界が、ゆっくりと元に戻っていく。
花畑が戻る。青い空が戻る。
だが、少女の瞳は、もう元には戻らなかった。
先ほどまでの儚い笑顔は消え、遥か遠くを見据えた瞳。
それは、もう少女のものではなかった。
アリエルは、カイエンから視線を逸らした。
「……もう」
声が震える。
「もう、会えない」
涙が、また頬を伝い落ちる。
カイエンは、何も言えなかった。
何が起きたのか分からない。なぜ彼女が急に変わったのか分からない。
ただ、二人の間に横たわる何かが、音を立てて壊れていくのだけは分かった。
「アリエル……」
彼が手を伸ばそうとすると、少女は一歩後ずさった。
「……さようなら」
それだけ言って、アリエルは花畑を去っていった。
カイエンは、その背中を見送ることしかできなかった。
花冠は、地面に落ちたまま。
風が吹き抜け、花びらを散らしていく。
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その夜。
城は騒がしく混乱していた。
王が南部で戦死したという報せが届いたからだ。
廊下を行き交う使用人たち。泣き叫ぶ侍女たち。怒号と悲鳴が、石造りの城に反響する。
だが、その騒がしさを他所に、城の最深部――重厚な扉の向こう側の部屋には、静寂だけが広がっていた。
この部屋は、王とその一族、そして王族の財産のみが立ち入りを許される場所だ。
誰も、この扉を開けることはできない。
誰も、この部屋を覗くことはできない。
アリエルは一人、冷たい石床に座っていた。
膝を抱え、顔を伏せたまま。
彼女の脳裏に、次々と思い出が蘇る。
カイエンと一緒に、王都の市場を歩いた日。
勉強を抜け出して、こっそり会いに行った午後。
彼が笑いながら、剣の使い方を教えてくれたこと。
雨に濡れて、二人で軒下で雨宿りをしたこと。
すべてが、温かく、優しく、儚い記憶。
そして――今日、受け取った指輪。
アリエルは、ゆっくりと手を開いた。
指にはまった銀の指輪が、月明かりに鈍く光る。小さな花の装飾が、闇の中でも美しく輝いていた。
彼女はそれを見つめた。
真顔のまま。
ただ、一筋の涙だけが、頬を伝い落ちた。
「……ごめんね」
小さく呟き、彼女は再び、沈黙の中に沈んでいった。
花畑で交わした、あの温かな時間。
それは、もう二度と、戻ることのない過去になった。




