第五話 皇帝の、決意
皇城、承天殿。
朝靄の名残が白く柱間に漂うなか、文武百官が居並ぶ玉座の前で、朝議は粛々と進められていた。
「――次、戸部より奏上」
呼ばれて進み出たのは、玄耀直属の臣下である沈泰正である。
一礼ののち、静かな声で奏を読み上げた。
「近年、内乱の影響により地方における戸籍の混乱が顕著であります。特に北方州では、出生届未提出の子が一定数確認されており――」
ざわり、と殿内が揺れる。
「その是正のため、戸部では新たに地方戸籍再整備令を奏請いたします」
老臣のひとりが面倒くさそうに、眉をひそめた。
「出生届を出さぬ民など、法を軽んじる不届き者。今さら救済する必要がありましょうか」
「左様。とくに父不詳の子など、血筋の曖昧な者を……」
その言葉が終わる前に、玉座から低い声が落ちる。
「――その認識が、内乱を招いた」
一瞬で空気が凍る。五年前に皇城を混乱に陥れた内乱の首謀者は、死んだ兄皇子が辺境で産ませたといわれる男児を旗印に挙げていたからだ。
景玄耀は、静かに臣下たちを見下ろしていた。
「父の名がないだけで切り捨てられる民。正しき名を与えられず、記されぬまま生きる子どもたち。それを生んだのは、誰だ?」
誰も答えられない。
「法とは、選ばれた者を守るためにあるのではない――守れなかった者を、救い上げるためにある」
玄耀はきっぱりと言い切った。
「……よって、出生届の遅延・父不詳を理由とした不利益を禁ずる。なお、母が官吏である場合、その子の身分は正規に保護されるものとする」
ざわめきが大きくなる。
「さらに――」
玄耀は、ほんのわずか呼吸を置いて、周囲を黙らせるように声を張り上げた。
「地方官吏において、優れた文書管理能力を有する者は、出自・性別・後宮との関わりを問わず、昇進の対象とする」
沈泰正が一歩前に出る。
「陛下。具体的な人選を」
「北方州、戸部主事。白瑤華」
殿内は完全に静まり返った。
「彼女を、皇城へ召す――これは情ではない。国のためだ」
そう締めくくった玄耀の声音は、揺るぎなかった。
だが沈泰正だけは知っている。
その決定が、五年前から一度も揺らいだことのない皇帝の執着と溺愛の末に出た結論であることを。
* * *
瑤華がその噂を聞いたのは、官庁の裏庭だった。
「聞いた? 皇城からの通達」
「地方の出生届、今後は厳しく咎めないんですって」
「しかも母親が官吏なら、子どもも正式に守られるとか」
瑤華の手が、筆の上で止まる。
「……ずいぶん急な話ですね」
平静を装った声とは裏腹に、胸の奥がざわついていた。
官庁での雑務を手伝う女性たちは官吏である瑤華に声をかけられてそれぞれが興奮気味に話しはじめる。
「それだけじゃないのよ!」
「北方の官吏が、皇城に召されるって」
ごくり、と喉が鳴る。
「たしか白瑤華、って名前……あなた知ってる?」
風が、ひゅうと吹き抜けた。
――うそ。
心の中で否定を重ねるのに、指先が冷えていく。
「皇帝陛下が直々に名指ししたそうよ」
「出自も後宮の過去も不問だって」
瑤華は、視線を落とした。
あの夜。
「三人で」と言った彼の声が、脳裏によみがえる。
――わたしは、身を引いた。彼は理解してくれたと、そう思ったのに。
それでも国家が、法が、皇帝が。
彼女と珠児を「戻る場所」へ押し戻そうとしている。
「……困ったわね」
室に戻った瑤華は誰にも聞こえない声で呟く。
玄耀と一緒にごはんを食べた夜の珠児の笑顔を思い出す。その後の濃厚な夜のひとときも……。
皇城の高い空と、北方の静かな町が、胸の中でせめぎ合う。
――身を引いたはずなのに。
瑤華は、まだ届かぬ召書を思いながら、
揺れる心を押さえ込むように、文書へ朱を入れた。
* * *
北方官舎に、皇城の紋が入った封が届いたのは、雪の止んだ翌日のことだった。
「……白官吏宛ですね」
封を受け取った役人が、少し戸惑った顔をしている。
皇城からの書状が、地方の一官吏に直接届くことなど滅多にない。瑤華は一礼し、静かに受け取った。
厚手の紙。朱の封蝋には、見慣れた――忘れようとしていた紋章。
瑤華はひとりになってから、そっと、封を切った。
『北方戸部主事 白瑤華
其方、戸籍整備における功、まことに顕著なり。
よって皇城へ召し、新設される戸部監察補佐の任を与えんとす。
期日までに、子とともに参内せよ。
――景朝皇帝 景玄耀』
子とともに……その一文が、瑤華に刺さった。
官吏としての評価と、制度としての正当な召喚。
どこを切っても、私情は書かれていない。けれどこれは、皇帝からの恋文に等しい。
だって。
――あなたの顔が浮かんで仕方がないの。
瑤華は、文を畳み、膝の上に置く。
* * *
その日の夜。
珠児が眠ったのを確認した瑤華は、灯りを落とした部屋で、ひとり考えていた。
――行けば、生活は一変する。珠児は「皇帝の子」として守られる。学も、地位も、未来も約束されるだろう。
「でも……こわい」
後宮。
玉座。
政治と視線と、噂と嫉妬。
――あの世界に、この子を連れていく?
静かな北方の町で、名も知られぬまま、笑って暮らす日々を過ごしている珠児を見ていると、ここで穏やかに慎ましくして方がずっと幸せなのではないだろうか。
「……行かない」
声に出してみると、不思議としっくりきた。
皇城へは行かない。
官吏の任も辞退すればいい。そうすれば、何があっても起こっても、珠児と生きていけるだろうから。
――それが、母としての選択。
「ほんとうに?」
瑤華は自分自身に問いかける。
胸の奥に、小さな棘が残っていた。
皇帝陛下の命令に背いたと、いくら玄耀が許してくれても罰せられる可能性もある。そうなったら本末転倒だ。
やさしい彼は、どう思うだろう。
玄耀――その名を考えること自体が、もう贅沢だということに、瑤華は痛いほど理解していた。
文を箱にしまって、ため息をつく。
「……行けない」
* * *
翌朝の珠児は、いつもより静かだった。
朝餉の粥を口に運びながら、ちらちらと母の顔を窺っている。
「どうしたの?」
「……ねえ、かあさま」
珠児は小さな声で母に聞く。
「へいか、もう来ないの?」
瑤華の手が止まる。
「……お仕事が忙しいのよ」
「そっか」
一度は納得したように頷いた。が、それからぽつりと零す。
「でもね」
箸を置いて、まっすぐ瑤華を見る。
「珠児、へいかのこと、すき」
胸が、きゅっと縮む。
「ふーってしてくれたし」
「ごはん、はんぶんこしてくれたし」
「……とうさま、みたいだった」
父親が皇帝陛下だということに、珠児は気づいているのだろうか。容易く口にしてはいけない言葉なのに、瑤華は責める気になれなかった。
「珠児」
「行かないなら、いいよ。珠児、ここでも……どこでも生きていけるから。でもね」
小さな手が、瑤華の袖を掴む。
「かあさまが、さびしそうにしているのは、やだよ?」
――だめだ。
その一言で、積み上げてきた「正しい判断」が、音を立てて崩れた。
母として守ろうとしたはずなのに。
守られていたのは、自分の臆病さ、で……瑤華の瞳からぽろぽろと涙が溢れた。
珠児を抱きしめて、瑤華は希う。
「……わたしとお城に来てくれる?」
「珠児がかあさまを、とうさまのいるお城に連れて行ってあげる!」
その夜。
箱から取り出した召書を、もう一度広げる。
身を引いたはずだった。
けれど――いま、彼に逢いたくて仕方がない。
「……還る場所、か」
瑤華は、静かに息を吐いた。
選ばなかった道を選び直すときだと、息子に背中を押されて、ようやく気づいたのである。




