第四話 皇帝の、本音
官舎の灯がひとつ、落とされた。
奥の間から聞こえていた寝息が、規則正しいものに変わったのを確かめてから、瑤華はそうっと襖を閉める。
「……眠りました」
「そうか」
玄耀は立ったまま、彼女を見ていた。
町での柔らい空気をまだ身にまとったまま。
「今日は、騒がせてしまいましたね」
「いや。我も楽しかった――あの子は、よく笑うな」
「……ええ」
珠児の話題を出されたことに、瑤華の指先が強張る。
「それに、似ている」
「誰にでしょうか」
「分かって言っておるであろう?」
責める声音ではない。けれど確信に迫った彼の言葉から逃げ場を探すことはできずにいた。
瑤華は沈黙で応える。
それを見て、玄耀もまた質問を変えた。
「名を変えなかった理由を聞いてもよいか」
「……必要ないと思ったからです」
「ほう」
「後宮から逃げ出した女の名前など、陛下はすぐ忘れてしまうと、そう思っ……?」
ぐっ、と手首を掴まれ、瑤華の瞳が揺れる。
「忘れるわけないだろう?」
瑤華は唇を噛み、視線を伏せた。
「――見くびっていました。あなたが、ここまで来るとは」
「そうだろうな」
瑤華の手首をはなすことなく、玄耀は距離を近づける。
吐息が顔にかからないギリギリのところで、彼はぽつりと本音を吐く。
「恨んでいた」
「……」
「だがそれ以上に、耐え難かった」
低く、静かな声に、瑤華の胸が、苦しく鳴る。
「死んだと思えば、諦めもついた。生きていたと知ってしまえば……話は別だ」
「わたしは、あなたを信じきれませんでした」
「違う。我が、信じさせられなかっただけだ」
その思いがけない言葉に瑤華は顔を上げる。
玄耀は、まっすぐに彼女を見ていた。
「守ると言いながら、後宮に閉じ込めた。安心させると言いながら、孤独にした。我はそなたが何も言わないのを良いことにそのままにしていた……逃げたくなるほどイヤだったのか」
「わたしはただ……身を引いただけです」
「そうか」
瑤華を否定することもせず、玄耀はうむ、と頷き、掴んでいた手をはなした。
「責めはせぬ」
「……なぜ?」
玄耀は、ほんのわずかに目を細めた。
「責めれば、また失うだろう?」
その言葉には深い執着の念が籠っている。
瑤華の胸が、きゅっと縮む。
「……わたし」
「諦めてはいない」
「でも……」
言葉が続かない。
「責めぬと言った」
「……」
「だが、失いたくないとも言っただろう?」
彼の手が、そっと瑤華の袖口に触れる。道に迷った幼子が母親を求めるかのような彼のささやかな仕草に、彼女は息を呑む。
「今夜は帰った方がよいか」
「……いいえ」
「では、ここにいる」
「……はい」
玄耀は初めて、安堵したように笑みを浮かべた。
「それでよい。我が愛、唯一の花――」
指先が、そっと袖をなぞり、手の甲を撫ぜる。
どこか許しを請うような、遅い動き。なのに熱を帯びた甘やかさがそこにある。
瑤華は逃げなかった。
「冷えているな」
「……冬ですから」
「違う」
玄耀は瑤華の手を包み込みながら悔やむ。
「我が、温めていなかったからだ」
胸の奥でわだかまっていた何かが溶ける、そんな錯覚に瑤華は陥っていた。五年前、初めて彼が後宮で暮らす瑤華のもとを訪れて愛を囁かれたときのようで。
「瑤華」
「……はい」
「今宵、我は皇帝ではない」
彼は視線を落とし、低く告げる。
「夫でも、父でもない」
それでも、と続くのは懇願だった。
「――そなたを想う男であることだけは、許せ」
その言葉に、瑤華の目が潤む。
「……ずるいひと」
「そうか」
「相変わらず、拒めない言い方ばかりなさるのね」
玄耀は、微かに笑った。
「そうさ。拒めぬように、言っておるのだから」
そこに瑤華がいることを確認するかのように、玄耀は彼女の額に軽くふれた。
「共に、休んでもよいか」
「……珠児が」
「あれだけはしゃいでおったのだから、起きぬよ」
瑤華は、ほんの一瞬迷ってから、頷いた。
寝台に並んで横になる。
距離は、まだある。
玄耀はすぐにはふれなかった。
「……逃げたいか?」
「逃げませんよ?」
その答えを聞いてから、彼は腕を伸ばす。
抱き寄せるのではなく、包み込むように。
彼の胸元にふれた瑤華は、心臓の位置に耳を置いて、いつかのように鼓動を感じていた。
「心臓の音……」
「うるさいか」
「いいえ。ただ、懐かしくて」
――とても、落ち着く。
瑤華の心の奥底にすとん、と入り込む。
そんな彼女を見て、玄耀も満足そうに声をかける。
「瑤華」
「……」
「明日も、ここにいるんだ」
「……命令、ですか」
「願いだ。珠児が目を覚ましたとき……母が消えておらぬ朝を、与えたいのだ」
瑤華は、そっと彼の衣を掴んだ。
「……一晩だけ、です」
「それでよい」
玄耀はそう言って、初めて、深く抱きしめる。
逃げ道を塞ぐ抱擁ではない、これは戻る場所を示す腕。
瑤華の意識は、胸の鼓動とともに、静かに深く、沈んでいく。
――この人は、奪わない。
ただ、待って、包んで、逃がさない。
それがいちばん、甘くて、怖かった。
* * *
夜は深まり、障子の向こうの月がゆっくりと傾いていく。
玄耀の腕の中で、瑤華は目を閉じたまま、彼の呼吸に耳を澄ませていた。
規則正しく、けれど時折わずかに乱れるそれが、彼も眠ってはいないのだと告げている。
「……起きているな」
「はい」
小さく答えると、彼の腕のちからがほんの少しだけ強まった。
「後悔しているか」
「いいえ」
自分でも驚くほど、迷いのない即答をしていた。
「なら、よい」
玄耀はそう言って、瑤華の髪に顔を埋める。
吸い込む息が、ひどく慎重だ。
「五年分だ」
「……なにが、ですか」
「そなたにふれずにいた時間だ」
声が、低く掠れている。
「だが、今夜すべてを取り戻そうとは思わぬ」
「……」
「ただ、確かめさせてほしいのだ」
瑤華は、そっと彼の衣の上から胸元に手を置いた。
「……ここに、います」
「それで足りる」
額が重なり、吐息が近づく。
口づけは浅く、何度も。探るように、確かめるように繰り返された。
そのまま、言葉は途切れ、夜は静かに溶けていった。
灯のない室内で、衣擦れの音と、互いの名前だけが小さく響く……。
* * *
鶏の声が、遠くで一度だけ鳴いた。
瑤華は、温もりに包まれたまま、ゆっくりと目を覚ます。
視界いっぱいに、玄耀の胸元があった。
――近い!
驚いて身じろぐと、すぐに腕が動く。濃い色気が残ったままの、玄耀の甘やかな声音が瑤華を捕らえていた。
「我が愛、唯一の花……逃げるな」
「に、逃げません!」
かすれた声に、彼が小さく笑った。
「冗談だ」
そう言いながらも、腕は解かれない。
「朝だな」
「ええ……」
「まだ、珠児は起きぬ」
まるでそれを理由にするように、彼は囁く。
「もう少しだけ、こうしていろ」
玄耀は瑤華の額に、そっと口づけた。
「瑤華」
「……はい」
「いまはまだ、戻れとは言わぬ」
だが、と続ける。
「戻る場所を、作らせてくれ」
腕の中で、瑤華は静かに息を吸った。
「……わたしは後宮には戻りませんよ」
「知っている。だから作るのだ」
彼は、眩い朝の陽光が煌めく中で、確かに笑っていた。皇帝らしからぬ不適な笑みに、瑤華はゾクリとする。
そのとき、隣の間から、ぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。
「……あ」
「来たな」
蕩けそうな表情をしていた玄耀は腕を緩め、凜とした表情に戻り、乱れた着衣を整えはじめる。すこしだけ、名残惜しそうに。
「つづきは?」
「……一晩だけって言いましたよね」
「そなたと過ごす夜が一晩で済むわけないだろう?」
その言葉が、冗談に聞こえないほど真剣で、瑤華の呼吸が止まる。
だが、珠児の声が障子の向こうから聞こえてきて、ふたりは我に返る。
「かあさまー!」
「いま行くわ」
瑤華は振り返らずに答え、パタパタと立ち去っていく。
玄耀は、朝の光の中で静かに彼女を見送った。
――彼女をもう一度抱けた。
それだけで、彼は満ち足りた気持ちを取り戻していた。
そして、未来に向けてあることを決意する……。




