第二話 皇帝と、再会
書類を捲る手が止まった。
景朝国の現皇帝、景玄耀は、信じられないと心のなかで思いながら、そこに書かれている名前を口に乗せる。
「白瑤華……」
国の北方に位置する鄙びた町で働く官吏の名は、皇帝が探し求めている女性のものと同じであった。
かつて後宮に迎え入れ、寵愛を与えたものの、戦乱のさなかに忽然と消えてしまった瑤華は、関係者からは死んだものとされている。だが、彼女が死んだという明確な証拠はない。彼が後宮に新たな妃を迎えることを拒絶し、世継ぎを求める臣下たちを辟易させているのも皇城内では当たり前の光景になっていた。
国の混乱を立て直すので精一杯だった玄耀は愛した女性の行方を調べたくても調べられないまま、五年近い歳月を過ごしている。ようやく平和が戻った景朝で、賢帝と評されるようになった玄耀だったが、彼の心にはぽっかり穴が開いたままだった。
――彼女は死んだはず。同姓同名の女性官吏がたまたま北方官庁で働いているだけだ。
それでも玄耀は書類の文字を何度もなぞるように確認してしまう。
景朝で「白」はどこにでもある姓だ。瑤華も、それほど目立つ名前ではない。
「陛下?」
「――北方へ行く。手配を」
「いまは冬ですよ、巡察へ向かわれるのでしたら暖かくなってからの方が」
「いや、今だ……今しかないのだ」
――この白瑤華という女性官吏が逃げてしまう前に。
彼女があのときの寵姫であると確証があるわけではない。だが、玄耀の瞳に迷いはなかった。
たとえ別人であったとしても、その名をこの世界に見つけた以上、確かめずにはいられない――……。
* * *
とんとんてんてんとんてんてん……。
黄色い蝋梅の花が咲く官舎の庭先で鞠つき遊びをしていた珠児は、仰々しい一行が廊下を渡っていくのを見かけ、思わず手にしていた鞠を落としてしまう。
「あっ」
地面にぶつかりぽーん、と跳ねた鞠はその仰々しい集団の方へと転がっていく。
そのなかでも特に目立つ、紫紺の上質な服を着た大柄の男性の手のなかへ吸い込まれるように鞠はころころ転がっていった。
「このようなところで危ないだろう! 陛下の御前であるぞ!」
「ひっ、ごめんなさい!」
「よい。面をあげよ」
珠児はぺこりとお辞儀をしたまま、鞠を持つ男性の顔を上目遣いになってまじまじと見つめる。
赤い組紐でひとつに結われた真っ赤な着物の子どもに見つめられ、玄耀もまた目をまるくする。
「へいか? えらいひと?」
「かしこまらなくてもいいぞ。いかにも、我は景朝国第八代皇帝、景玄耀。お主の名は?」
「……珠児」
首を傾げながら鞠を受け取った珠児は名前を問われてぽつりと応える。そこに皇帝がいることが信じられないとどこかぽかんとした表情を浮かべているのが、玄耀にとって印象的だった。
「この官舎で暮らしているのか?」
「うん。珠児、かあさまと暮らしているの」
「かあさまの名は?」
「白瑤華」
がつん、とあたまを殴られたような衝撃を受け、玄耀は言葉を噤む。
いっぽう、玄耀に従う周囲の人間は珠児の面影が皇帝の幼き頃にそっくりであることに気づき、ざわついていた。
――あの女児、陛下の幼き頃によく似た容貌をしておる。何者であろう。
――陛下が無理をしてでも逢いたいと北方へ出向いた理由とは、これなのでしょうか。
白瑤華、という名前に反応したのは玄耀だけではない。幼い頃から彼を支えていた臣下、沈泰正もまた、皇帝としての地位を確立させる以前から彼が寵を賜っていた女性の名前であることに気づいていた。
皇城から離れた北方の地で、戸部主事として官庁で働いている女性官吏の存在は正直目立たない。玄耀が彼女の名を記した書類を見て、彼もまたようやく白瑤華の存在を思い出したからだ。
彼がふたたび彼女を正式に後宮へ呼び戻したいというのなら、それを助けるのが泰正の役目でもある。ましてや愛らしい子どもがそこにいるのなら。
「陛下」
「わかっておる……白官吏を、ここへ」
泰正の声がけに、玄耀はうむと頷き、彼女を呼んだ。
* * *
職務中に呼び出された瑤華は内心ビクビクしながら官舎の奥に位置する執務室に入っていった。皇帝陛下から直々の召喚だと上司に告げられ、ついにこのときが来たかと覚悟を決める。
――後ろ盾を失ったわたしはもう後宮には必要ない存在。彼のためにも身を引かないと。
「北方戸部主事、白瑤華まいりまし……珠児!?」
「あ、かあさま来た」
「なんで珠児がここにいるの? お庭で遊んでるって……」
「我が連れてきた」
「へっ」
ひょいと珠児を抱き上げて瑤華の前へ現れた玄耀は、きょとんとした表情の彼女を見て、ニヤリと笑う。
「生きていたのだな――我が愛、唯一の花よ」
さらりと過去の口説き文句を囁かれたが、聞こえなかった振りをして瑶華は皇帝陛下に向けて深く礼をとる。
「ご無沙汰しております。皇帝陛下の賢帝としての評判でしたら、この北方の地まで届いております」
「そうか」
素っ気ない瑶華の態度を珠児は不思議そうな顔をして見ている。なぜかあさまはこの国でいちばん偉い皇帝陛下のまえでつまらなそうな顔をしているのだろう。
「五年前、そなたは死んだなどと後宮の人間は騒いでおったが……これはどういうことだ?」
きゃっきゃと玄耀の前で楽しそうにはしゃぐ珠児のあたまを撫でながら、彼は瑤華へ問う。
怒りよりも戸惑いの方が強い彼の口調に、瑤華は腹を決める。
――もう、ごまかせない。
「この子は珠児。とある事情で出生届には記されていない……わたしの息子です」




