第一話 皇帝が、来る
冬の朝、景朝国のはずれに位置する北方官舎は静謐を保っていた。雲ひとつない晴れ間に、冴えた風が瑤華の頬を撫ぜる。
長い髪をひとつに結い上げた彼女は、庭先で湯を沸かして簡素な粥をかき混ぜていた。
……その足元を、小さな影がちょろちょろと走り回っている。
「こら、走らないで。転ぶわよ」
そう言いながらも声が柔らぐのは仕方がない。この子がいる日々が、彼女にとってはすべて。生きる意味に繋がっているからだ。
粥を用意した瑤華は素早く朝餉を済ませ、着替えをはじめる。無地の素っ気ない紺色の官服に袖を通し、本日の仕事で必要な文書をまとめる。
息子の髪を結い、外套を羽織らせれば準備は完了だ。
「珠児、行くわよ」
「はい、かあさま」
官吏としての顔と母としての顔を自然に切り替えて、瑤華は珠児を連れて家を出た。
* * *
門の向こうから町の気配が流れ込んでくる。湯気、香の匂い、人の声――ここには後宮も、玉座もない。
あるのは、自ら選び取った静かな暮らしだけ。官舎を出れば、すぐに町へと続く細道がある。
「今日は市まで行くの?」
「紙を買わないといけないからね」
それだけの会話で、珠児は満足そうに頷いた。
ここでは、誰も瑤華を“誰かの女”として見ない。ただの官吏で、ただの母親である。
「お嬢ちゃん、おおきくなったねぇ」
市では顔なじみの商人が声をかけてくる。仕事で使う紙を扱う文具屋に、珠児が赤子の頃から世話になっている薬種屋に、母子が日常的に立ち寄る駄菓子屋……。
どれも、瑤華と珠児の暮らしを支える大切な人々だ。
「ありがとうございます」
けれどそう言われるたび、瑤華は曖昧に笑って受け流すしかなかった。深く語れない事情があるのを彼らも知っているから、それ以上は関わらない。
知らないままでいられる距離感は心地よい。だが、正体を隠すべく市井で息子に女児の格好をさせていることに、瑤華はいつしか罪悪感を抱くようになっていた。
馴染みの文具屋で紙を買ってから、官庁へ入った瑤華は、息子が庭で侍従と遊びだしたのを確認してから、その傍らで仕事をはじめる。
文書を受け取り、朱を入れ、整える――この景朝で生活するひとびとの名を残すのではなく、整えるのが瑤華の仕事で、静かな役目だった。
息子は庭で黙々と石を並べ、何かを作っている。
「お城?」
問いかけると誇らしげに頷く。景朝のお城、それは瑤華が後宮に召喚されて皇帝とひとときの愛を育んだ場所だ。自分がそこで生まれたことを知らないだろうに、息子は無邪気に王朝への憧れを口にする。
「珠児ね、いつか皇帝陛下に仕官するの」
彼女は、否定も肯定もすることなく、それ以上聞かなかった。
* * *
翌朝、官庁に入るといつもより人の出入りが多かった。ざわざわと小波のように官吏たちが話をしている。
文書棚の前で足を止めた瑤華はどこかピリピリした空気に声を尖らせる。
「なにがあったの?」
「ああ、白官吏。どうやら巡察が入るそうですよ」
同僚の低い声に、彼女は手を止める。
「この時期に? いったいどなたが?」
「それが……皇帝陛下自ら、だとか」
瑤華は頷き、すぐに筆を取り直した。
巡察そのものは不備を洗い出し、誤りを正して余計な言葉を削ぐという整える仕事に通じている。その作業に慣れている瑤華はいつものように戸籍整理の文書を確認し、朱を入れる。たとえ皇帝陛下がその行為を見に来るとしても。
名が並ぶ頁を、淡々と繰る。
――書かれていない名があることも、承知して。
「ここ、出生届が足りません」
上役が眉をひそめる。
「町の者は、届けを嫌うからな」
「ええ。ですが、今は無理に正す時期ではありません」
彼女の言葉に、誰も反論しなかった。官吏たちの仕事は皇帝の巡察に耐える文書を作ることが優先されるからだ。
その日の瑤華は、官庁に掲げられた巡察の通達を遠目に見ただけで、近づいてまで確認することをしなかった。
そのまま珠児のもとへ戻った瑤華は彼が室内で木片を揃えているのを見て首を傾げる。
「それ、なあに?」
「お役所」
珠児の即答に瑤華は思わず笑っていた。
「どうしてお役所なの?」
「今日ね、みんなが言ってたよ。えらい人、来るんでしょ?」
小さな指が木片を一つ動かした珠児は真ん中に、少しだけ大きな石を置いた。
それを見て、瑤華は問いかける。
「この人が、いちばんえらいの?」
「うん。皇帝陛下」
自信満々でこくりと頷く珠児を見て、胸の奥がわずかに痛む。
「――そうね。雲の上のひと。とても、えらい人ね」
珠児は満足そうに頷き、木片を並べ直す。その仕草が誰かに似ていることに、彼女は目を伏せる。
顔を上げた息子はそんな母親の反応を気にすることなく、ぽつりと呟く。
「この人、ここに来るんだね」
瑤華は答えなかった。
灯を落としながら、心の中でだけ思う。
――来ないでほしい。
――けれど、もし来るのなら。
無邪気に微笑む息子の面影は、否応なしに彼を思い起こさせる。
戦乱のどさくさに紛れて逃げ出した瑤華にとって、彼はもう過去の人間のはずだった。
だが、あれから五年近くが経つというのに、彼の子どもの話は出ていない。平和を取り戻した後宮には大勢の妃がいるだろうに、懐妊の『か』の字も後継者の噂もない。
もし、彼が珠児を自分の息子だと認めて迎えてくれるのなら――子どもだけでも、華やかな世界へ送り出したい。
そんなことを、瑤華はぼんやり思うのだった。
* * *
翌朝は雪がちらついていた。
官舎の門の外で、静かな足音が止まる。
「地方官舎視察のため、陛下のお成りです」
その声は、低く、よく通っていた。
瑤華は立ち上がり、袖を正す。
胸の奥が静かに冷え、同時に、長く忘れていた熱が灯る。
門を開ける前にただ一度だけ振り返れば、よそ行きの赤い着物を着た珠児が興味深そうに門の向こうを見つめている。
――この子を、どうか。
祈るような気持ちで門に手をかけ、彼女は選び続けてきた日常の外へ一歩を踏み出した。




