第六話 星の旅人
天に最も近い場所。天使の国に滞在して、数週間。イヴ・アーカイブは穏やかな日々を過ごしていた。朝早く起きて、神が残した遺跡を散歩しながら、清流のように澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。そうすると、頭の中の靄が洗い流されて、整理されていく。天使長リュシエルの歌うような音色が脳裏によぎる。
「私が語れることはここまでです。あとは、人間の物語ですよ」
そういって、天使長は光の粒子となって消えてしまった。イヴは彼女の言葉を反芻しながら、メタリカのことを考えていた。
――リュシエルは、答えまでは教えてくれなかった。
この星はなぜ、滅びに向かったのか。
イヴは考える。
この世界の神――リカは、人間に対して何も教えようとはしなかった。救おうとはしなかった。それは、一重に公平を追求した結果。一個人としては受け入れられない姿勢だけど、神の視座に立てばきっと正しい。でも、だからこそ、その姿勢が天使アレトスには無関心、無責任に映った。
それが、天使の国と悪魔の国の対立の始まり。そして、その中心になったのは『人間の国』だ。
人間は、愛した。
人間は、学んだ。
人間は、傷つけられた。
人間は、傷つけた。
人間は、問い続けた。
そして——
答えは、なかった。
ここにいると、流れ星をよく見る。
燃え盛るのは、ほんの一瞬。跡形もなく消えてしまうのに、あの閃光だけは、なぜか心に残り続ける。
人は、止まった夜空の中で突然落ちていく光に息を呑み、刹那のあいだに「なぜ」と問う。
けれど、その問いが形になる前に、星は消えてしまう。
――だから、物語が生まれるのだと、私は思う。
消えてしまった輝きを、せめて言葉の中に残すために。
あの一瞬の驚きと感動と、答えの出なかった疑問を、編み留めるために。
端末から、エインセルの感想を呼び出す。もはや感想というよりは考察だとイヴは苦笑した。これほど熱心に読んでくれるなんて自分は幸せ者だ、とも。
“覚えていることは救いなのか、それとも呪いなのか。”
イヴは考える。
そう問われても、今も自分は答えを持たない。
ただ、滅びゆく星の記憶を拾い集め、物語として編んでいる。
それは告白に過ぎないのかもしれないし、慰めの形を借りた自己満足なのかもしれない。
――誰かが覚えていれば、完全には死なない。
その言葉を、私はお呪のように繰り返す。
消えゆくものに縋る、延命にも似た行為。
書き続けなければならないという呪いであり、それでも書き続けられるという、私に残された唯一の救い。
褒められることも、報われることも約束されないまま、終末の星々を巡る旅は続いていく。
――それでも、私は流星を目指す。
まだ見ぬ誰かが、私の言葉に触れ、
ほんの一瞬でも心を揺らしたのなら――
それは評価よりも、ずっと深いところで、確かに意味を持つのだから。
「神の扉。天空の座に行こう。きっと、まだ残っているはず」
神の遺光。この世界の成り立ちを知るために。
「ただ、エインセル。神は誰も見捨てていないと思うわ」
エインセルは考察した。
“妖精も、悪魔も、そして天使も――皆、神に見捨てられた存在だった”と。
きっと、これがメタリカ最後の『物語』になる。だからこそ、イヴは端末からテキストを打ち込んだ。編纂者としてはない。なんの根拠もない、作家としての言葉を。
◇◇◇
→エインセルへ。
感想ありがとう。
私は、神リカは、最後まで、命を愛していた。
憎まれながら。
呪われながら。
それでも、愛していたのだと思います。
イヴより
◇◇◇
「おー、おかえりイヴ」
キャンピングカーに戻ると、アダムがソファーに寝転がっていた。
「そろそろ出立するか?」
「ええ。神の扉、天空の座へ行くわ」
アダムは勢いよく起き上がりながら「いいね。『天使の国』で出て来たやつだろ?」と起き上がった。イヴは少し驚いた。
「あら。アダムよく覚えているわね。そんなに気に入った?」
「んー? ああ、普通に美味かったぞ。それに、神の遺光が残ってる場所って言われりゃ、まあ……ここしかねぇだろ」
――美味かった……か。
イヴはその言葉を反芻する。
「そう。よかったわ」
いつか、面白かった、と言わせて見せる。そう思った。
「よし、じゃあ行くか!天空の座!」
アダムは跳ねるように立ち上がると運転席に滑り込んだ。イヴも助手席でシートベルトを締める。
「で、天空の座ってどこにあるんだ?」
「知らないわ。宇宙の果てとかじゃない?」
「はぁ?マジぃ?」
「ええ、マジよ」
アダムは呆れたように笑った。もとより計画性もない旅だ。気の赴くまま風のように巡り綴る。この星を、教室の窓から眺められる場所がどこかにあるはずだ。気が済むまで探そう。
「きっと最高に美味しい物語が、待っているわ」
「しょうがねぇなぁ。じゃ、ブラブラ探しに行くか」
アダムはエンジンを入れて、ゆっくりとアクセルを踏んだ。小刻みにゆれながら車体が滑りだし、やがてふわりと浮き上がる。
浮島を離れたキャンピングカーは、ためらうように一瞬だけ速度を落とし、それから静かに空へと身を委ねた。
重力がほどける感覚は、いつだって少しだけ痛い。
雲を突き抜けた、その刹那。
夜空に、炎が生まれた。
一本の炎の矢。
地から天へ、祈りのように真っ直ぐ伸びる光。
まるで進むべき道を示す座標のように、星々の間を貫いて燃えている。
その光に照らされて、車体は宇宙へと踏み出す。
大気の名残が薄れ、音が消え、世界が遠ざかっていく。
イヴは、最後にもう一度だけ、下を見た。
浮島の縁。
そこに立つ天使が、翼を広げることもなく、ただ静かに手を振っていた。
引き留めるためではない。
見送るためだけの仕草。
胸の奥に、小さな空洞が生まれる。
きっと、ここに居続ければ埋まらなかった穴。
旅立つからこそ、ぽっかりと空く場所。
でも――
その空洞に、炎の矢の光が差し込んだ。
別れは、悲しみだけでは終わらなかった。
それは、次へ進む者に与えられる、最も優しい肯定だった。
イヴは前を向く。
炎の矢はまだ燃えている。
振り返らなくても、祝福は背中に残っている。
だから、この旅は、孤独ではない。
そして、その燃える道の先に、あった。
ポツンと取り残されたような、乳白色の引き戸。
夜の教室で、独り世界を見上げていた神、リカ。
惑星メタリカ最後の物語。そして、最初の物語。
タイトルは――
『人間の国』
さぁ、創作を始めましょう。
つづく




