第7話 神は教室の窓から世界を観測する
星に交じり、迷子のようにポツリとドアがある。心臓が暴れまわるのに、血の気は引いていく。この先に神がいる。なのに、何で学校の扉なんだ。神は、いったい何者?疑問が手の震えとなってまろび出る。だが、待っていても仕方がない。俺は、深呼吸を一つ、扉をノックした。
「どうぞ」
扉の奥から聞こえて来たのは女の声。高く、若い女の声だった。
――女神……?
神は第一位階「原初天使」を通してでしか世界と関わらない。天使であっても直接会う手段は異議権くらい。教義は叩き込まれていたが、男だと思い込んでいた。だが、この扉の奥から聞こえる声はこの星の神だ。けして侮ってはいけない。
俺は「失礼します」と、ドアを開けて入室した。一瞬見えたのは月明りに照らされた黒板に、机、教卓。速やかに頭を垂れる。つま先に映るのは木目の床。考えるまでもなく、日本の学校、夜の教室だ。
「かまいませんよ。アレトス。頭を上げてください」
「ハッ」
顔を上げた。窓際の一番前に誰かがいた。黒い髪のショートカット。大きな丸眼鏡をかけて、セーラー服に身を包んだ少女。窓の外にある異常に大きな月を眺めていた。翼も天使の輪もない、日本人の女の子だ。
「あ、あの……」
「ご心配なく。あたしは正真正銘、あなたが会いたがっていた神ですよ」
そういって、神は椅子を座りなおして俺に向き合った。眼鏡の奥にある大きな目が、臆することなく俺の目を射抜く。その堂々たる佇間いで、彼女が嘘をついていないことを悟った。窓の外にある異常に大きな月。あれは月ではない。我らが星だ。神は、教室から世界を見ていた。
「さて、アレトス。あたしに異議あると聞いていますが。どのような要件ですか?」
その声が、教室に落ちた。神は表情を崩さない。微笑みも不快に顔を歪めることもない。ただ、俺の言葉を待っていた。目の前に広がる異様な光景に生唾を飲んだ。
――なんだ、これ……?どういう状況だ……?
予想外の出来事に、俺は教室の入口に立ち尽くしていた。教室に、翼を背負った天使がいる光景。ここでは俺の方が異物だというような、そんな違和感が肌を刺した。
「……神よ。なぜ魂の裁定に善行と悪行を勘定しないのですか。
何故、かような残酷な運命を人間に科すのでしょうか」
教室の空気が、わずかに張りつめた。
夜の校舎特有の、埃とチョークの匂いが鼻を刺す。
だが、その沈黙を振り払うように。
俺は神に意見した。
天使になった、その瞬間から胸に巣食っていた、原初の疑問だ。
何を言われてもいい。
そう覚悟を決めていた。
「……ああ、そのことですか」
神は、教師が初歩的な質問を受けたときのように、あっさりと言った。
「それは、あたしの責務を少し勘違いしていますね。
そもそも、あたしは“昇天する者を識別している”だけです。
昇天に、救いの意味はありませんよ」
一瞬、理解が追いつかなかった。
神は続ける。
「昇天も消滅も、報酬でも罰でもありません。
ただの属性です」
神は手を軽く宙で遊ばせると、黒板に置かれたチョークが、カツ、と乾いた音を立てた。
「濡れた布は乾きます。それを救済とは呼ばないでしょう?」
心臓が、一拍遅れて跳ねた。
「火に触れれば火傷をする。
昇天も同じです。無作為に選ばれただけ。それ以上でも以下でもありません」
「な……!」
言葉が、喉で詰まった。
「では……永遠の安寧がもたらされるのは!?
どうして、悪人まで――」
そこで、完全に声が止まった。
――昇天は、報酬じゃない。
なら、悪人が昇天しても……理屈の上では、何もおかしくない。
気づいてしまった自分が、ひどく恥ずかしかった。
熱が血管を逆流する。
「……いえ、いえ!
それでは、なぜ人は善行をするのですか!
あなたは昇天という虚構を餌に、人を操っているのではないですか!」
声が、教室に反響する。
だが神は、眉一つ動かさなかった。
ただ、静かに頷く。
「いいえ。現存在を賭けて、そのようなことはしていません」
淡々と、事実を述べる声。
「人間は自由意志を持って善を成し、悪を侵しているだけです。
あたしは、魂の顛末を“知っている”だけ」
神の座す机の脚が、きし、と小さく鳴った。
無意識に前へと体重が乗っていく。
「じゃあ……!
なぜ善行は“善いことだ”と教えているのですか!」
「善行が推奨されなければ、文明は維持できませんから」
一拍。
「――それ以上の理由はありません」
言い切りだった。
言葉が、刃物のように胸に落ちる。
合理的で、冷静で、反論の隙がない。
頑張ったから救われたい。
優しかったから報われたい。
その願いを、
「それは君たちの願望だ」と、静かに切り捨てられた気分だった。
「……不公平でしょう!」
思わず声が荒れる。
「秩序を乱した悪人と、秩序を重んじた善人が、
昇天する条件に違いがないなんて!」
神は、困ったように首を傾げた。
「不思議なことを言いますね。
“不公平”とは、同条件で異なる扱いをすることです。
あなたの問い自体が、矛盾しています」
手が上がる。
白いチョークが宙を滑り、黒板に辞書の一節が書き出されていく。
……言い返せない。
どれも感情論になる。
だが――
これだけは、言わなければならない。
「……神よ。あなたの理論は、おそらく正しい」
一度、息を吸う。
「でも――その理論に、私は従いません」
初めて、神の眉が動いた。
「ほう」
「自由意志があると言いました。
善と悪を選ぶ自由があるなら、
従わない自由もあるはずだ」
「――ええ。その通りです」
神は眼鏡を上げ、頷いた。
「人間が、神から自立すれば。理論上は可能ですね。
ですが――」
一瞬、言葉を切る。
「その考えに至った人間は、今のところ一人もいません」
「なら、教えればいいじゃないですか!」
思わず、机を叩きそうになる。
「人間に、人間らしい在り方というものを!」
神は答えなかった。
ただ、窓の外――皿のように浮かぶ星を一瞥し、
「……はふぅ」
小さく、ため息をついた。
「アレトス。
あなたは善を尊び、悪を憎んでいるんですね」
諦観に似た声音だった。
神は目を閉じ、眼鏡を直すと、俺の返事を待たずに続ける。
「まず、大きな誤解を解いておきましょう」
静かだが、重い。
「あなたは、善が祝福され、悪は滅びればよいと思っている。
ですが、それは違います」
「もし、善をすると昇天し、
悪をすると消滅するとしましょう」
一拍。
「そのとき、“善”は昇天のための取引になります」
胸が、ざわついた。
「……それの、何がいけないのでしょうか」
神の黒い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
「善を成す“動機”を奪っています」
淡々と、しかし確実に。
「結果が保証されていないからこそ、
善は“選ばれた行為”になります」
「取引としての善。
道徳としての善」
「どちらも善。
ですが、構造がまったく異なります」
一拍。
「あなたは、どちらが貴いと思いますか。
どちらを残したいですか?」
……答えは、決まっている。
だが、その答えが、すべてを救わないことも分かっていた。
「道徳としての善です。
ですが、そのせいで人は争い、
身の毛もよだつ悪が生まれる」
「それを、見過ごしていいわけがない」
「いいえ」
神は、即答した。
「見過ごしていいんです。なぜなら――」
一瞬、教室が静まり返る。
“善は、悪の存在を前提にして、初めて意味を持つ”
宣告だった。
「悪は必要です。
生まれるべくして、そこにある」
「それは、あたしが関与すべき問題ではありません」
「……そんなの……!」
言葉が、震えた。
「机上論でしょう!
手に負えないから、理由をつけて何もしないだけだ!」
神は、少しだけ目を伏せた。
「あたしは一度、善のみで世界を創りました」
一拍。
「そして、崩壊させています」
さらに一拍。
「……仕様上、そうなりました」
顔を上げる。
「それでも、机上論だといいますか?」
足の感覚が凍り付く。俺は、なにも言い返すことは出来なかった。
「……」
「……あの世界は、美しかったですよ。誰も傷つかず、誰も憎まず、皆が手を取り合った。ですが、誰も生きていない。いつしか善の意味すら失われ、脆弱な世界、そして、人間たちに成れ果てました。当然、生きていくこともできませんでした。
善と悪も、魂の救済と消滅も、均衡によって成り立つ世界の構造です。アレトス。あなたの理想の果ては、悪の完全なる駆逐。そして、倫理、正義、救済。あらゆる意味の遺失による破滅です」
神はふと目線を外す。目線の先には青く輝く星、メタリカ。窓ガラス一枚隔てて、神は世界を静かに観測する。だけど、窓に映る神の顔は、一瞬だけ、年相応の少女に見えた。
だけど、次の瞬間には、再び透明な殻を纏ったような神の顔に戻っていた。
「異議の回答は十分でしょう。他に何か言いたいことはありますか?」
「……いいえ」
時計の針の音がやけに大きく聞こえる。足に力が入らない。
負けた。完膚なきまでに。
「それでは、裁定を始めます」
神は淡々と言った。
「アレトス。あなたは善と悪を見分けられると無意識に思い込んでいる」
拍動が、胸を突いた。
「……は?」
「善は救われるべきだとあなたは言いますが、それはあなたが理解できる形の“善”でしかありません」
口から心臓が飛び出そうになるほど、頭に血が上っていく。
「断言しますが、あなたは自分が理解できない“善”に出会った場合、必ず判断を見誤ります」
――否定できない《そんなことはない》
「そして、あまつさえ神であるあたしに意見し、自分こそが善悪の秤であるかのように振舞った」
――黙れ。
「汝、天使アレトスに“傲慢”の罪在りき。よって、天使の力をすべて剥奪し、人間界へ追放処分とす」
“傲慢”
裁定を聞き終える前に、俺は“審判の剣”を引き抜いていた。
「違うっ!!黙れ!黙れぇえええ!!」
剣に帯びた否定の概念が赤雷を放つ。そして、一息に神へ肉薄し、命を獲らんと凶刃を振り下ろした。全身全霊を賭けた、己の存在を護る“否定”の一太刀。
だが――
「おや。あなたの否定よりもあたしの意志の方が強かったようですね」
剣が、神に触れた瞬間、真っ二つに折れた。信じられない。呆けている間に教室中の影が形を帯びて俺の手足にまとわりついた。
「離せっ!!傲慢なのはお前だ!!絶対に許さない!!俺は、お前を!!」
「“善と悪を選ぶ自由があるなら、従わない自由もあるはずだ”。素晴らしい意見です。ぜひ実践してください」
ゆっくりと、俺は影に沈んでいく。十二の翼が、清く正しい執行者の象徴が、黒く朽ちていく。
「お前を否定してやる!この命に代えても!たとえ魂が消し炭になったとしても!!」
「リュシエルの件は彼女の独断でしたので、此度の不敬はそれで帳消しにしておきますね」
神はもう終わったことだというように、席に座り直し、再び窓の外の星を眺めた。その態度が、俺の脳を激しく揺らした。
「俺が、この世界を、人間を変えてやる!!思想を、考えを、見え方を!!覚えてろ!いつか、必ず!目覚めた人間が、お前の首を取りに来るぞ!!」
意識が塗りつぶされていく中で絶叫した。苦し紛れの、負け犬の遠吠え。だが、神はその大言壮語に耳を傾けた。
「ええ。あたしもその日を、心から待ち遠しく思っています」
そして、神は哀れな堕天使を見下ろした。
「あたしの名はリカ。天に座すこの世界の神です。あたしを殺して人間が自立するなら、喜んで殺されますよ」
“では、善い人生を”
その言葉を最後に、俺は意識が手放した。
つづく




