第6話 その剣は神の意志を否定する
執行天使の頂点が神に異議権を唱えた。
俺が正式に異議権を行使してまもなく、その噂は天使の国中を瞬く間に駆け巡った。力のある天使ほど、異議の責は重くなる。アレトスは堕天するか、もしくは元ひどい魂の消滅処理がされるだろう。口には出さないが皆がそのように思っているだろう。
――そんなこと覚悟の上だ。一矢報いてでも考えを改めていただく。
俺は神の住まい、天空の座を目指して蒼穹を駆け昇る。空を貫き、雲を突き抜けて、星を散らした宙へ。音を置き去りにする飛行。だけど、大気圏に立ちふさがるように、彼女がいた。その姿を見たとき、俺の羽ばたきは止まった。
「……リュシエル」
待ち構えるようにして、六枚の翼を広げた天使がいた。純白の執行服に金色の胸当て。その手には、蛇を象った杖が握られている。
――やる気か。
「アレトス。神の恩情を仇で返すか。その罪、万死に値する」
「やめてくれ。お前とは戦いたくない」
「神に異議を唱えることは許さないと言ったはずよ」
「リュシエル。お前はおかしいと思わないのか。この世界の歪みが。
善い人間が報われず、悪が蔓延る、この有様が」
俺は、懇願するようにリュシエルに語りかけた。
彼女は鼻につく天使だったが、悪意のある存在じゃない。
俺の敵は彼女じゃない。
この世界を縛る、冷たい規律そのものだ。
「思わないわ」
即答だった。
迷いも、逡巡もない。
「神は、世界の秩序を誰よりも慮っておられる。
善い人間が報われない?
悪が蔓延る?
それは――あなたが人間の尺度で世界を見ているからよ」
リュシエルは静かに続ける。
「善も悪も、ただの“側面”。
秩序を保つための、数値でしかない」
「感情に寄り添えば、必ず不公平が生まれる。
誰かを救えば、誰かが救われなくなる。
だから神は、最初から選ばない」
「それが、唯一“平等”だから」
――平等だと……?
トーマスの献身の褒美が瓦礫に生き埋めだったのにか。女を道具のように凌辱した賊があっさり昇天したのにか。子どもから食料を奪い取った兵士も、抵抗してゴミのように死んだ母親も、領民に裏切られて吊るされた領主も。全部、この世界は平等だったから?
「あなたは優しい。だから、壊れているのよ」
「世界を救いたいのではない。
あなたは、“救われるべき人間が救われない”ことに耐えられないだけ」
「でもそれは、秩序じゃない。
それは――感情よ、アレトス」
……ふざけるなよ。
「――俺が“感情”なら、お前は思考停止だ。リュシエル。
神を通してしか世界をみない。人の営みが見えない。
盲目なのは天秤じゃない。この世界の規律、神そのものだ」
空気が凍った。リュシエルの目が見開かれ、その瞳の奥で、均衡を保っていた秩序が、初めて歪んだ。
「……黙りなさい。秩序を乱す“転生者”。命によりあなたを監視していましたが、もう充分です。その魂、神に還しなさい」
底冷えするような感情の無い声だ。翼を広げるリュシエルの背後に、空間を覆い尽くすような巨大な影が現れた。幾重に折り重なった燃える車輪。見渡す限りの輝く瞳は世界を見通す目のそのもの。
「――接続を開始します」
リュシエルは胸元に手を当て、目を閉じた。
「我、原初天使〈ガルガン・リー〉の分霊。
個体名リュシエル。
観測権限、制限解除」
車輪が炎を巻き上げながら回転する。そして、その火の粉がリュシエルの六枚羽に燃え移る。
「思考を停止。
感情を遮断。
判断を返上」
翼を覆う炎は存在を書き換えるように燃え広がる。それは、原初の炎。人類が初めて手に入れた文明の熾り。赤い瞳の刺青が、額に浮かび上がっていく。
「原初へ回帰します」
紅く染まった瞳が、開かれた。
「火は、与えられた祝福ではない。
奪い取った最初の罪」
「それでも人は火を持ち、
国を築き、武器を鍛え、
神を疑うに至った」
「ならば――」
リュシエルの背後で、八つの門が星座のように並ぶ。
「文明は、火によって始まり
火によって終わるべきでしょう」
「原初天使分霊、最終判断」
「――八門・原初炎矢
全弾、掃射」
超新星爆発が起こるほどの熱があたりを満たす。その一つ一つが、世界を焼き尽くす浄化の炎。
「はぁ……」
俺の十二枚の翼が、静かに展開された。
光でも影でもない、裁定のためだけに存在する翼。
「……残念だよ、リュシエル」
「それが“秩序の最適解”だと言うなら、
お前はもう、世界を見ていない」
剣を抜く。
白銀でも黒鉄でもない、概念そのものを斬る刃。
――審判の剣
「これは罰じゃない。ただの――否定だ」
一振り。
剣が振られた瞬間、
音が、消えた。
そして――八門の原初炎矢は、最初から存在しなかったかのように消えた。
原初炎矢は火として扱われる前に、審理され、棄却された。
「……なっ」
信じられないとリュシエル《ガルガン・リー》は目を見開いた。そして、杖を俺に向けて戦慄いた。
「ありえない……。貴様、何をした」
「“文明を終わらせるという判断”そのものを、切り捨てただけだ」
これは天使の魔法、神に準ずる力とは性質を異とする概念兵装。“否定”そのものを武器にする奇跡。もはや俺の力は天使の規格の外にある。この力があれば、神にすら手が届くだろう。
「そんなこと……、出来るはずがない。理解不能、理解不能……。執行天使アレトス、世界秩序を侵す異分子と判断――」
十二枚の翼が一斉に広がり、空が裂ける。
「神の秩序。確かに合理的だ」
光速にすら届く速さで、間合いを潰す。リュシエルの目の前に、瞬く間に剣を振り上げた俺が現れた。リュシエルはとっさに杖を掲げて防御を取る。
「だが、それを“正しい”と判断する権限は、もうお前にも、神にもない」
カツンと、軽い音が鳴り、杖が二つに別たれた。ロウソクを吹き消したように翼の炎が消えて、リュシエルの白い翼が現れる。そして、彼女は糸が切れたようにその場にへたり込んだ。
「ガルガン・リーとの同期が切断された……?こんなこと……不可能よ……」
リュシエルは体に腕を回して震えている。翼も身を包むように折りたたまれていた。俺は、そんな彼女を見下ろしながら、審判の剣を鞘に納めた。
「情けをかけたつもり……?」
「言っただろ。俺の敵はお前じゃない。殺すつもりはない」
「あ、あなた……!原初天使に目をつけられた!神の側近に異分子だと判断された!終わりよ!魂の意味そのものが消されるわ!」
それは、天使にとっての根源的な恐怖。魂の意味がなかったことにされる完全な抹消。裁定での消滅とはわけが違う。極刑だ。
「消せやしないさ」
「……な、何言って……」
「俺の魂の意味は、俺が決める。何人も、その意味は消せやしない。人間だって同じだ。神が人の命の意味を決めるなんて、おかしいだろ」
幾千、幾万の人間の魂を裁定して思った。意味は選択によって生まれる。争いの絶えない世界でも、善い人間いた。彼らは善い人間として生まれたのではない。善い行動をしたからこそ善人なんだ。なのに、最後の意味付け、魂の昇天と消滅は神によって勝手に決められる。ありえないだろこんなこと。あまりに人を見ていない。神は間違っている。
「意味が……分からないわ……」
「お前も自分で決めろよ。自分の魂の価値を」
“じゃあな。お前とは、友達になりたかった”
そう言い残し、俺は宙に舞い上がる。振り返らない。ただ、神がおわす天空の座へ昇る。星が粒子のように流れる宙。熱も音もない世界で、俺は直観していた。
――この世界に、もう俺の居場所はない。
それでもいい。この世界に俺の命の“意味”が楔のように打ち込まれるのなら、本望だ。
天空の座の入口は、神話にあるまじき姿をしていた。
荘厳でも、神聖でもない。
ただ、宇宙に取り残されたように浮かぶ、
くすんだ乳白色の引き戸。
天使の中でも選ばれた者しか至れぬ場所に、なぜこんなものがあるのか。
アレトスは答えを知らない。
だが――
胸の奥で、人だった頃の記憶が、微かに笑った。
――これを、俺は知っている。
神の扉。
天空の座。
学校のドアだ。
つづく




