第5話 異議は一度だけ
天使の国、記録保管層。ここでは裁定したすべての魂をアーカイブされている。紙の香りが肌を掠める本棚の谷。年代ごとに区切られた棚の群れが隙間なく整然と立ち並んでいる。
俺は、トーマスの記録を見ていた。これは、決意のため。善人の魂を消滅するたびにここに来て、記録を見ていた。多くの善人が魂を消滅され、多くの悪人が昇天した。身を裂くような違和感に慣れることはなかった。
「やっとだ。やっとここまで来た」
第四位階「執行天使」序列一位。誰よりも速く空を駆け、魂を選定した。文明崩壊を招く異分子を排除してきた。天使の国でも数えるほどしかいない六枚羽の天使。これで、俺の発言にも影響力が生まれる。
――神を頷かせることができる。
「第四位階の天使が、個別魂にこれほど長く干渉するのは珍しいわ」
ふと、聞き覚えがある澄んだ声が記録保管層にこだました。振り返ると、金色の瞳に銀の髪。六枚羽に成長した、リュシエルがいた。
「……よぉ、リュシエル。第三位階に出世したんだってな」
「監察天使の方が性に合ってるだけよ」
監察天使、世界の「歪み」の観測する天使。人口、文明、魔力量、転生者出現率の監視を任務として、必要に応じて執行天使へ命令を下す天使だ。確かに、と思う。相変わらず、眼鏡の奥の瞳はすべてを見通すように鋭い。
「アレトス。あなた、もしかして異議権を意識してない?」
リュシエルは眼鏡を押し上げて言った。神に意見する権利。すべての天使に等しく与えられている、天使の特権だ。
「使うわけないだろ。そんなもの」
「……そう。ならいいわ」
だが、ほとんどの天使にとってはタブーだ。異議権を使えるのは一生に一度だけ。神はどのような意見でも最後まで聞き届けるが、階級、序列に応じて責任の重みが違う。却下されれば……。
「なぁ、異議権って、神を納得させられたことってあるのか」
「ええ、一度だけ。でも、誰が具申したのかも、どんな内容だったのかも正式な記録は残っていないわ」
少なくない数の天使が神に意見し、玉砕した。結果、降格させれるか、最悪翼を奪われて、人間界に堕天する。勝算はほぼない。
「じゃあ、なんのためにあるんだよ。この権利は」
「天使が、神に反逆する自由を奪ないためよ。神は慈悲深いの」
そういって、リュシエルは両肩を右手で切り、手を合わせて祈った。神は完全だが、天使が完全であることは強制しない。だから“一度だけ、反対していい”。だけど、反対するならそれなりの覚悟、本気を見せろ。それが神の意志らしい。
「……慈悲深い、ねぇ。なぁ、リュシエル。この人間、善い人間だと思うか?」
そういって、俺はトーマスの記録を見せた。リュシエルは一瞬だけ眉が寄ったが、俺から本を受け取ってパラパラとページをめくった。
「ええ。理想的ね」
「こういう人間が、予定通りに消える世界は正しいのかな」
リュシエルが顔を上げて、俺を見た。すっと目が細くなり、口を紡ぐ。まるで幾万の瞳に見つめられているような圧を感じた。
「“正しい”という評価は人間の視座に立ったもの」
そして、パタンと音を立てて本を閉じ、俺の胸に押し付けた。
「神の予定にとって、彼は“必要な善”ではなかった。それだけよ」
リュシエルはそういって、踵を返す。そして、去り際に顔を少しだけ俺に向けて、言った。
「……神はすべてを見ておられます。あなたが外世界からの転生者であることも、これまでのことも、すべて。それでも、神はあなた生きることをお許しになられています」
広げられて六枚の翼。輝くような無垢な大翼。それは、リュシエルという天使の在り方そのもの。
「もし、あなたが神の慈悲を踏みにじり、それでも異議権を行使するというのなら――」
――私は、あなたを許さないでしょう。
リュシエルの背後に、巨大な影が見えた。それは、幾重に重なった車輪。無数の目が付いた燃える車輪の影、第一位階「原初天使」の姿が一瞬だけ。
「……」
翼を羽ばたかせて去るリュシエルの後ろ姿を俺は黙って眺めていた。
異議権は一生に一度だけ。
俺は、またトーマスの記録に目を落とした。
「あんた。必要な善じゃないってさ」
それは、誰に言った言葉なのだろうか。今は亡き彼に、あるいは自分自身に言ったのだろうか。思考が黒く塗りつぶされていく。もう人間だったころのことはほとんど覚えていないけど、この胸に突き刺さった疼きだけは、克明に覚えている。だからこそ、己の芯を否定された、そんな気がして。
「もし、異議を唱えるとしたら」
力があふれ出てくる。限界を超えて、打ち込まれた楔を解き放つ。そして、翼が、一枚、また一枚と、生まれてくる。荒れ狂う暴とは裏腹に、頭は氷を打ったように冷え込んでいた。
――異議権は正義を唱える権利ではない。
「俺は、何を賭けるんだ」
――神に喧嘩を売る権利だ。
もはや神を“信じる”という段階は過ぎた。
“証明”されなければならない。神は、人の世に不要だ。
世界を神から人の手に取り戻す。
これは、異議でも反対でもない。
善なる者の逆襲だ。
「時は来た。俺は、神に異議を唱える」
神は言った。人は、生まれる前から救われるか滅びるかが決まっていると。
違う。間違っている。人の意味は、人自身によって作られるべきだ。
この背にある十二の翼が、その証明だ。
つづく




