第4話 「善」の敵
純白の礼装に身を包みながら、俺は地上を見下ろしていく。
小国が乱立し、周囲を塀で囲っている。襲撃に備えて、農耕には適さない山の上に城を構える国すらある。
そして、その地図の余白を縫うように、盗賊の群れが蠢いていた。
戦うことを前提とした文明。
地球には存在しなかった魔法技術は、夢や救済ではなく、ただ殺すための力として洗練されている。
大砲、破城槌、投石器、爆弾。
魔力を帯びた武器の数々。中には、マスケット銃に酷似した火器すら見えた。
人々は徒党を組み、国へ押し入り、奪いつくす。
守り切れば、次は報復。
報復を耐えれば、さらに大きな争いが生まれる。
叡智は闘争のためにあり、文明は殺し合いの中で最適化されていく。
そして、戦況が停滞すれば――
第二位階「調整天使」が天災を起こし、国ごと沈めた。
俺にはわかる。
この地上では、今日だけで何千もの魂が“予定通り”に失われる。
――ひでぇ……。死と恐怖と、憎悪しかねえじゃねえか。
やりきれない。今も人間の死の気配が肌を通して分かった。
「……行くか」
翼を大きく羽ばたかせて加速する。山を越え、音を置き去りにして、空へ。
山の上にその集落はあった。ひっそりと隠れ住むように、丸太で環状に囲った小さな村。国と定義されるが、村だ。木々でできた壁に藁の屋根を敷き詰めた質素な村だった。
――いた、トーマス。
まだ日も出ていないほどの早朝にその男、トーマスはいた。村の井戸で水を汲んでいる。だけど、トーマスは一向に自分の家には戻らなかった。桶を持ち、隣の家々を巡る。
「おーい、イーリッカ婆さん。水組んできましたよ」
「ありがとうねぇ。トーマス」
自分の分だけではない。隣の老婆の分も、病で伏せる鍛冶屋の分も。皆が彼に感謝した。そして、決まってトーマスは頷くだけだ。礼を言われるためじゃないみたいだった。
夜になれば、トーマスは見張り台に立った。近隣には盗賊が出る。先月も隣村が襲われた。誰かがやらなければならない。それだけのことだった。
村には三十八人が住んでいた。冬季が来れば食料がなくなる。トーマスは自分の蓄えを分けていた。
「これでは君が」
「大丈夫です」
本当は大丈夫ではないだろう。だが、子供が飢えるよりはましだ、とでも言うように彼は身を削る。
ほどなくして、疫病が流行った。トーマスは看病に回っていた。感染の危険があっても、誰かが水を運ばなければならない。
三人が死んだ。彼にできたのは、村の外れに墓を建てることだけだった。
――善良だ。こんな悪に満ちた世界で、彼は人に手を差し伸ばし続けている。でも、もうすぐ死ぬ。間もなくこの山を挟んだ北と南の国が戦争を始める。
俺は、見ていることしかできない。
南の国と北の国が戦争を始めた。たまに流れ矢が飛んでくる。トーマスは子供たちに「家の奥にいろ」と言った。
戦争は止まらなかった。
冬季の終わり。北の国軍が村の近くで魔法兵器を使用した。空が光り、地面が揺れた。
トーマスは村の広場にいた。
「みんな、家の中へ!」
彼は叫んだ。子供たちを誘導し、老人の手を引いた。
その時だった。
魔法兵器の余波が大気を揺らした。それだけだった。
流れ弾でもない。
誰かの攻撃でもない。
魔法の副作用による、気圧の変動。
それが、たまたま村の納屋の壁を崩した。
トーマスの真上で。
「はぁ……」
胸の奥が締め上げられたようにため息が出た。行こう、トーマスの魂を裁定しなくては。せめて昇天してくれ。あんたみたいな善い人が報われないと、世界がめちゃくちゃになっちまう。そんなことを思いながら、俺は村に降り立った。
崩れ落ちた納屋に押しつぶされて、トーマス・グレイは倒れていた。頭からおびただしい血があふれ出ている。俺は魂を裁定しようとそっと手を伸ばした。その時だった。
「ぐっ……が……、誰か、いる……のか」
――天使が見える人間なのか。まだ息がある……
稀にいる見える人間。だけど、もう死が運命により決定している。天使は人を救ってはならない。俺が回復してやることは、出来ない。
「はい。いますよ。僕は天使アレトス。トーマス、貴方の魂を裁定しにまいりました」
「天使……?俺、は……死んだ?」
「……はい。その通りです」
トーマスから、ひゅっと息を吸い込む音がした。まだ、ガタガタと空気が揺れている。俺は、出来るだけ心を無にして、魂を取り出した。
オレンジ色の炎が天秤の皿にのせられた。そして、ゆっくりと重さが伝わっていき……
――頼む。傾いてくれ。救われてくれ。たのむ。
止まった。基準より軽い。
――なんでだよ……!
結果は、消滅だった。天秤の持ち手がギリっと軋んだ。これが、この世界の常識だ。淡々とデータが天に送られていく。
井戸で水を汲む姿。
病人を看病する姿。
夜、見張り台に立つ姿。
食料を分け与える姿。
『善行回数:2,847回。悪行回数:3回。偽善認定:0回。嘘発言回数:12回』
「……どう……なるん、ですか」
その声に、俺はハッとした。瓦礫のから伸びる手が、地を掴んでいる。本当はいけないことだけど、俺は、とっさに答えてしまった。
「貴方の魂はこれより昇天し、永遠の安寧がもたらされます。争いも、悩みも、怒りからも解放された楽園ですよ」
嘘だ。神の定めた規則により、トーマスの魂は無に帰る。何もない、虚空に溶けていく。
「皆……は……」
「無事です。あなたが守りました」
「よか……た」
空気が冷たくなった気がした。瓦礫の間から流れ出る赤い水たまりが広がっていく。トーマスは眠りについた。俺は、剣を引き抜いて、一息にトーマスの脈動する魂を切り裂いた。介錯のように。天使の刃が魂を消滅させる。揺れる魂の炎が二つに別たれて、儚く消えていった。
――これが、“神の意志”かよ。
俺は、天高く舞い上がった。戦争が本格化している。すぐに大量の死者が出る。死の気配を察知した天使たちが集まってくる。そして、その中にはリュシエルもいた。
――神は何もしなかった。村を守らなかったし、戦争も止めなかった。トーマスが死ぬのも防がなかった。
トーマスは本物だった。
偽善でも、打算でもなく、ただ人を助けていた。
2,847回の善行。
誰にも称賛されず。
誰にも救われず。
何も変えられず。
それでも、彼はやり続けた。
「だけど、意味はなかった」
神の基準では、一切考慮されない。生まれた瞬間に、運命が決まっていた。理不尽だ。神の定めは、どんなに理不尽でも正しい。
――そして、また人が死ぬ。
それから俺は、考え続けている。
トーマスのような人間が、まだこの世界にいる。
見返りも、報いも、奇跡も期待せず。
それでも誰かを助ける者たちが。
彼らは神に見捨てられる。
規則という名の、冷たい機械に処理される。
「善」を殺すのは、悪ではない。
善を「無意味」にする、規則そのものだ。
俺の敵は、善を見殺しにする、この世界の「システム」そのものだ。
トーマスの記録は、今も天界のどこかにある。
誰も読まない記録が。
2,847回の、本物の善行が。
それは、規則通りに、永遠に保管され続ける。
意味もなく。
「お前たちには分からないだろうな」
俺は燃える国を見下ろしながら一人呟いた。
「これが、どれほど残酷なことか」
つづく




