第2話 見殺しにされた善
嫌な夢を見た。大学三年の秋。俺が死ぬ直前に起こった事件だ。
それは文化人類学ゼミの合宿中に起きた。
伊豆の研修施設で三泊四日。十五人の学生と教授一人。俺は二年次からこのゼミに所属していて、真面目な雰囲気が気に入っていた。
問題が起きたのは二日目の夜だった。
消灯時間を過ぎた午前一時頃、トイレに起きた俺は廊下で小さな物音を聞いた。女子部屋の方向からだった。
悲鳴ではない。だが、明らかに何かがおかしかった。
翌朝、朝食の席に現れなかったのは一年生の佐藤さんだった。
「体調不良で休んでる」と同室の女子が言った。だが、その表情は硬かった。
昼になっても佐藤さんは部屋から出てこなかった。
俺は気になって、同じ一年生の女子、田中さんに声をかけた。
「昨夜、何かあったんすか」
田中さんは一瞬、俺の顔を見た。そして俯いた。
「……言わない方がいいよ」
「え?でも」
「マジで。巻き込まれたくないでしょ」
結局、真相を知ったのは合宿最終日だ。
佐藤さんが荷物をまとめて一人で帰ろうとしているのを見つけた。
「待って」俺は声をかけた。「何があったんですか」
彼女は振り返らなかった。
「……関係ないです」
「いや、関係なくは……」
「本当に」彼女の声が震えた。「もういいんです。私が我慢すれば」
そこまで言って、彼女は崩れるように泣き出した。
断片的に聞いた話を整理すると、こうだった。
初日の夜、酒を飲んだゼミ長の高橋が女子部屋に侵入した。佐藤さんは寝ていたところを無理矢理キスされ、服の中に手を入れられた。悲鳴を上げかけたが、「騒いだらゼミにいられなくするぞ」と脅された。
同室の女子たちは見て見ぬふりをした。
翌朝、佐藤さんは田中さんに相談した。田中さんは「教授に言った方がいい」と勧めた。だが他の女子たちは反対した。
「高橋さんは来年就活の幹事だよ」
「波風立てない方がいい」
「酔ってただけじゃん」
結局、誰も動かなかった。
――俺が黙れば、この件は本当に無かったことになる。
それだけは、耐えられなかった。
腹の奥からグツグツとひっくり返るような怒りが喉から漏れ出た。
「性暴力だろ。いっしょに警察に行こう」
佐藤さんは首を振った。
「やめてください。もう、これ以上騒ぎたくないんです」
その目は、なぜか拒絶の色をしていた。
「……な、んで?」
「お願いします」彼女は懇願した。「私が耐えれば、終わることなんです」
――はぁ!?なんでだよ!なんで怒らねぇんだよっ!
俺は余計なことをしているのかもしれない。
佐藤さんを傷づけているだけかもしてない。
悩んだ末、俺はそれでも、教授に報告することにした。
「昨夜の件で、相談があります」
教授室で、俺は知っている限りの事実を話した。
教授は最後まで黙って聞いていた。そして、深く溜息をついた。
「君の正義感は分かる。だが」
「だが?」
「物事にはタイミングというものがある」教授は眼鏡を外した。「今これを表沙汰にすれば、ゼミ全体に影響が出る。就活を控えた学生もいる。佐藤さん本人も望んでいないんだろう?」
「でも、このままでは」
「高橋には厳重に注意する。二度と起きないようにする。それでどうだ」
それだけ……?到底納得できるものではない。
「注意だけですか。これは犯罪です」
教授の表情が変わった。
「君はゼミを壊したいのか」
結局、何も変わらなかった。
高橋は教授に呼ばれたようだが、翌週のゼミには何食わぬ顔で出席していた。
佐藤さんはゼミを辞めた。「家庭の事情」ということになっていた。
そして俺は、腫れ物扱いされるようになった。
佐藤さんが笑うことは、もうない。
ある日、ゼミの飲み会で先輩が言った。
「お前、余計なことしたよな」
「余計なこと?」
「佐藤さん、結局辞めちゃったじゃん。お前が騒いだせいで居づらくなったんだよ」
頭に血が上り、目を剥いて言い返した。
「はぁ!?俺のせい!?あれは、高橋が――!」
「まあまあ」別の先輩が割って入った。「もう終わったことだし。これ以上引っ張るなよ」
高橋は隣の席で、笑いながら酒を飲んでいた。
――我が身可愛さに佐藤さんを見殺しにした奴らが何正論ぶってんだ。
卒業までの一年間、俺はゼミで口数が減った。
高橋は無事に大手企業に就職した。教授の推薦状付きで。
佐藤さんのその後は知らない。SNSも消えていた。
田中さんは就活で忙しそうにしていた。あの一件について、もう誰も話さなかった。
まるで、何もなかったかのように。
でも、あそこには確かに裁かれるべき悪があった。こんな理不尽絶対に許しちゃだめだ。俺は忘れない。この胸の奥に突き刺さった痛みが、その証拠だ。
それなのに、俺は世界中で流行った新型伝染病に掛かって、あっさり死んだ。
「結局、正しいことをしても、意味はなかったのか」
今際の際にそんなことを考えていたけど、目を覚ますと異世界に転生していた。天使による最期の審判。俺は曲がりなりにも正しく生きて来たつもりだった。それが報われたと思ったのに、その実、たまたま神様にくじ引きを引くノリで選ばれただけ。なんだそりゃ。
「善は、実行しても報われないことがある」
……もしそれが正しいなら、神は、俺が怒ることすら許さないってことになる。ふざけるな。だからこそ、俺は天使になったんだ。生前救えなかった善を、今度は守り通すために。
――俺は神に一言、物申す。
つづく




