忘却カフェ
カランカラン…と
ドアに付いてある金色のベルが鳴る。
店に入ってきたのは、5人のいかつい男たちと杖を持つ白髪の老人。白髪の老人は、男たちの先頭に堂々と出て、カウンターで食器を洗うマスターに声をかける。
「──ここが、噂の忘却カフェですか?」
「はい、当店が忘却カフェです。お飲み物は、いかがですか?」
白シャツに蝶ネクタイを付ける中年のマスターは、食器洗いを後にする。ニコニコと微笑みながら相手に応え、客が店に来た理由を考えた。
「ああ、コーヒーで。それで、来店すると記憶を消してくれるというのは本当ですか?」
「はい、そうです」
記憶を消しに来た。だが、なぜ記憶を消すか。マスターは不思議に思った。上質なスーツ、高価な時計。見たところ、老人はかなりの財を持っているというのが分かった。金持ち…人生を豪遊できる金持ち。マスターは少し嫉妬した。
いつもこの店に来る客は、アル中か犯罪者ぐらいだった。皆、家庭崩壊という嫌な記憶を消すために店に来た。そのせいか、金銭に余裕を持つ客はあまりいなかった。マスターは、なぜ金持ちが来たか疑問に思った。
「立ち話もなんですし、よろしければカウンター席へどうぞ。」
「じゃあ、お言葉に甘えて。お前たち、すまないが外してくれ」
老人は人払いをする。いかつい男たちは驚きの目をするも、素直に頷いて店を出る。老人はカウンターの席に座って、マスターを見つめる。
「あなたの目は輝いている。若々しい……私もまたそうなりたい──」
老人は低い声で言う。その姿は先ほどのよりも、威厳が無かった。憂鬱そうな顔…客の心は風前の灯火だなとマスターは心の中で笑った。
暗い…アル中の連中と同じ記憶かなとマスターは思った。家族よりも仕事を優先し過ぎて、家族に裏切られたパターンだろうと。
「──昔、妻がいました。けれど、先の戦争に巻き込まれて…」
大雨の日のダムが決壊した。老人は泣き出す。懐からペンダントを出しては、何かを呟きながら強く握る。聞く途中、マスターは老人に「情け無い!」と言いたくなったが、言う寸前に店の売り上げを思い出して口を閉じた。
「ボ、私はその……妻との記憶を消したいんです──」
そっちか、期待させやがってとマスターは不機嫌になった。戦争を知らない世代に戦争の話を言っても、分からない。俺の世代は、家庭崩壊の方が悲劇的だと思う。そして、戦争よりも家庭崩壊の話を好むと内心思った。
「それはそれは……当店ではそのような方々のために”記憶を消す”コーヒーを販売しております。このコーヒーを飲んで、辛い記憶を忘れましょう!」
マスターはここぞとばかりに老人に声をかける。顔は真剣な顔をするが、心の中ではニヤニヤと下心を出していた。お金の為!、それと────。男は口を動かす。その姿は、弁舌家。
「ぜひ、ぜひ、お願いします。代金は何円でもいいです、記憶を消してください!」
老人は鴨の如く、男の話に乗る。まるで、命乞いだなとマスターは思った。新作が楽しみだと、ウキウキした。
「金額は3、300万です。安いでしょう!」
「安い、300万で消せるなら安い買い物だ! 買った!」
老人は堕ちた。だが、気づかない。餌を目にしては、それしか見えなくなる。マスターは紳士のように心の中で馬鹿めと嘲笑う。
マスターは手を動かす。棚からコーヒーカップを取り出しては、テーブルに置いてあるペーパーフィルター付きのドリッパーを上に被せる。そこにコーヒー豆を入れ、ガスコンロで温めたお湯をかける。
すると、コーヒー豆特有の香りが辺りを舞う。程良い苦みと甘みが混ざった究極の匂いが、2人を歓迎する。
「これを飲むと記憶が消えてしまいます。」
マスターはそう言いながら、茶色の液体で満杯になりそうなコップに牛乳を入れ、怪しい粉をふりかける。
「お客様、一つ副作用があります。それでも、飲みますか?」
「はい、もちろん──」
この時、老人の目はコーヒーカップに釘付けだった。おそらく、しっかりと聞いていなかっただろう。聞き流していた。
「では、どうぞ!」
マスターがコーヒーを老人に渡す。椅子に座る老人は、子供のようにはしゃいだ。よほど、嬉しいことだったのだろう。
「頂きます…」
老人はそう言い、コップを口に付ける。茶色の液体が食道を通る頃には、老人の意識は無かった。
老人は穏やかな眠りに落ち……目を再び開けることは無かった。
(注)その日以降、老人の姿を見た者はいなかった。




