第8話「霧の兆し」
封印区画から戻った千歳は、何事もなかったかのように学園の通学路を歩いていた。
しかしその背後には、誰にも見えぬ黒霧の尾が、ゆらりと漂っていた。
その日から、学園では奇妙な現象が連続して発生しはじめた。
——式神の命令違反。
——呪符の暴走。
——封印陣の遅延反応。
すべては些細な異常でしかなかったが、繰り返すごとに不気味さを増していく。
神樂は上層術議会に報告を上げることを決定したが、弓月はそれに難色を示した。
「これは“人為的な干渉”よ。何者かが内部から、呪的構造そのものを書き換えようとしている」
「……つまり、内通者がいると?」
「違うわ。もっと悪い。“呼応”が始まっているの」
弓月の言葉の意味を、神樂はその時理解できなかった。
だが、学園の周囲にかすかに漂い始めた“霧”を見た瞬間、直感的に悟った。
「黒式——起動するのか……」
一方そのころ。
千歳は旧校舎の屋上で、ひとり黙って夕焼けを見ていた。
肩には、ククロが影のように寄り添っている。
「黒式の素体、あれはまだ目覚めきってはいない。だけど……」
「お前が動くたび、あれも目覚めに近づく」
「知ってる。でも止まれない。止まったら、今度こそ私が“千歳”でなくなるから」
風が吹き、空気がざらついた。
遠くで鐘の音が鳴る。——それは通常の時報ではなかった。
学園の“警鐘”だった。
——第三術式実験室、暴走発生。
千歳は屋上の縁からその報せを見下ろす。
ククロが問う。
「救うか?」
千歳は、無言で立ち上がる。
瞳の奥に、今はもう存在しない式神の記憶が揺れていた。
「殺しに行く。暴走してるのが“ヒト”なら、ね」
学園の下層では、黒い煙が立ち上っていた。
そしてその中央——、既に“ヒトではない何か”が蠢いていた。
影は、呼応していた。
あの日見た、母の影と。