第1話「婚約は管理のために」
呪術学園の講堂には、鉄と紙と血の匂いが漂っていた。
壇上に立つ神樂の口から放たれた言葉は、銅鑼のように空間を叩き、皆の耳に届く。
「——我が婚約者、神尾千歳との契約を、本日を以て破棄する」
ざわめき。
陰陽道における婚約とは、単なる私的な契りではない。
結界の繋がり、式神とのリンク、そして呪力制御の契約網すべてがその一言で断たれる。
壇上の男——神樂は、学園長の息子であり、次代を担う天才術者と呼ばれていた。
一方、名前を呼ばれた少女——神尾千歳は、講堂の最後列で静かに立ち上がる。
その表情に、動揺も、怒りも、悲しみもなかった。
「了解。これにて呪縛は解かれました」
静かに、しかし確実に呪術言語で返答する。
学園の空気が一瞬凍りついた。
次の瞬間、千歳の背後に浮かんでいた式符が灰となり、霧散する。呪契約が正式に解除された証拠だった。
その光景に、何人かの生徒が息を飲む。
千歳の従えていた白狐の式神——ユキノオは、主の背後で一度だけ短く鳴いた。
「……これより、神尾千歳は“制御対象”ではなくなります」
神樂の横に立っていた巫女装束の少女、弓月が告げた。
彼女の口調は優しく、だがそれ以上に冷たい。
「学園の諸君、彼女に対する呪的安全保障は解除されました。各自、接触には留意を」
それは宣告だった。
この瞬間から、千歳は学園の誰によっても「殺していい存在」になったに等しい。
だが——千歳は微笑んでいた。
「ようやく、本来の“私”に戻れるのね」
式神のユキノオが、そっと彼女の肩に顎を乗せた。
そして千歳は、誰にも告げず、その場を去った。
講堂の誰もがその背中を見送るしかなかった。
それが、地獄の始まりだったと、誰も気づかぬまま。