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2.地獄から楽園への転職と丘セイレーン

不思議な生き物と遂にエンカウント!

大学を卒業して2年目の初夏、俺は退職した。


新卒で入社した最初の会社はいわゆる真っ黒で苛酷な地獄だった。先輩の紹介で契約社員として入った小さな事務所は、何を取り扱っているのかよく分からないまま、1年と少し働いて結局、心身を壊しかけて離脱した。最後は始発から終電まで休み無く働いて、頭は常に痺れてまともに思考がまとまらなくなって、気がついたら当時の彼女に勧められるがままにとりあえず辞めていた。

そんな彼女もニート生活3ヶ月目には「付き合いきれない」というDMが送られてきて関係が終わった。

その後、リハビリ感覚で短期のバイトを何件かこなしつつ情報収集に励み、今度はそれなりに大きな規模の会社で正社員として働く決意をした。


新たな職場は40人近い部署でどことなくゆるーい雰囲気。直接面倒を見てくれるリーダーさん以外は顔も名前も全然覚えられる気がしない。しかもだだっ広いフロアには、他部署も席を並べていて何処から何処までが同じ部署なのか分からない。

――これはこれで、キツイ。

そんな思いを抱きながらも、仕事を教わりながら覚えてひたすら手を動かす日々は、前職より全然楽勝だった。

8時きっかりに始まる朝礼が始業の合図で、隣の席に座るお世話係のお姉様は16時55分にはパソコンを閉じて退席する。出口の端末へ17時ぴったりにIDカードを通せない場合には1分単位で残業代が支払われるらしい。

何より先日の朝礼での課長の言葉には不覚にも目頭が熱くなった。

「えー、皆さんね、日々忙しい中よくやってくれているので、時間外も少しずつ減ってきています。お互いにフォローしてですね、ポイント的には止むを得ない事も有るかとは思いますが、誰か特定の人に負担が偏ることにならないように、今後もね、係長を中心に進めていってください。よろしくお願いします」

40代前半と思われる課長の独特な言い回しが気になったお陰で涙をこらえることができた。

理不尽に責められることはない。分からなければ聞けば丁寧に教えてもらえる。無理難題は押しつけられない。ここは楽園か?


そんな職場で過ごすこと早1ヶ月。流石に大半の人の顔と名前が一致するようになると、気になる人や苦手な人が出てくるのはよくあることではないだろうか。

俺の場合は、気になるが苦手な人だった。

初めて言葉を交わしたのは、入社後3週間ほどたった頃。教育担当の神田主任と1つ上の階へ書類を提出に行った時だった。

なお、神田さんは多分30代前半くらいの女性で、概ね優しく丁寧だけど、たまにきつい言い回しをしてドキドキさせられる。でも別に怒っているわけではないらしい。

(あずま)さん、こちらが文書チームのリーダーをしてる大塚主任。大塚さん、システム修正依頼を運用課に提出したくて」

「はーい、受付ね。大塚です、よろしいお願いします。運用課に回す依頼書関係は私が内容チェックしてるので私に提出してください」

ついにあの不思議な生き物と邂逅を果たした。

座ったままの大塚さんを見下ろす様な格好になるので頭頂部にちょっと白髪っぽいものが見えてしまっている。思っていたよりも年上なのかもしれない。神田さんより年上のちょっとぽちゃっとした女性からは、想像していなかった可愛らしい声が紡がれる。その声に強い衝撃を受けた。

「あの、東(けい)です。宜しくお願いします」

「はい、よろしく〜。で、何事?修正って早速やらかした?」

「あ、いや、今回は教育用の削除依頼です。東さん、提出する時は…」

正直、その時の説明は大塚さんの声に聞き入ってしまって全く頭に入ってこなかった。

しかし2回、3回と書類を持っていくうちに、声は聞き慣れていき、この人の癖の強さが鼻につくようになってきた。

提出書類は大体、修正依頼やエラー報告等、自分がミスした時に提出することが多い書類。すると何ということでしょう。

何で?どうして?不注意では?確認不足だよね?どうやったらそうなるの?次回はどうするの?再発防止は?繰り返さないためには?

と、不思議生物は毎回ねちっこいのだ。正直、苦手意識が芽生えてくる。

彼女に責められないためには、仕事を丁寧に、間違え無いように、セルフチェックをしっかりする。そうすると物覚えも早くなり、ミスも減り、大塚さんに会いに行く機会もぐんと減って、神田さんに褒められるという良い流れができてきた。


そんなある日、内線がかかってきたのでいつものように取ると、耳に爆弾が飛び込んできた。

「はい、東です」

「お疲れさまです、大塚です。近くに神田さんいる?交われそう?無理なら折り返してって伝言お願いできますか?」

「え、あ、はい、えと、伝えておきます」

「では、お願いしますね。失礼します」


何故だろう。この声が苦手らしい。話の内容が理解できない。

「東さん、電話苦手?」

隣からは大塚さんの視線が刺さる。

「すみません。頭の中が真っ白です」

「音が大きかったから何となく聞こえたよ。大塚さんから私宛で折り返してって言われたので合ってる?」

「…たぶん」

神田さんが呆れ顔で受話器に手を伸ばす。

「次は慌てなくていいからね。メモ取りながらでいいし、内線なら聞き返したりしても失礼だって怒られたりしないから」

そう言って内線番号を押すと、間もなく、可愛らしい

声が受話器から漏れ聞こえてきた。

思わず、聞き耳を立ててしまう。


――違うんです。電話が苦手なわけではなくて。前職では顧客や取引先にガンガン電話してたし、クレーム対応や営業電話もかけてました。

――この会社でも内線も外線も対応してるし、ちゃんとメモもとれます。

心の中で必死に言い訳を繰り返す。

――大塚さんの声だけがダメなんです。


遠目から散々観察していた不思議生物は、理性がぶっ飛ぶほどどストライクな声を持つ恐ろしい生き物だった。

丘セイレーンとは、陸に生息し、特殊な音波で聞いたものの精神を不安定にさせる幻の存在

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