マクスウェルの天使②
そういうわけで、私はデニナメの飼育係を押し付けられた。知らんぷりして放っておく選択肢もないわけではないけど、それをするとあの不憫なカエルは死んでしまうだろう。水槽を登って逃げることもできないまま、ガリガリに痩せて餓死するのだ。流石にそれはかわいそうなので、私は仕方なく毎日実験準備室へと足を運ぶ。
といっても、先生が事前に言ったように、デニナメの飼育は簡単だった。基本的に毎日やることは水槽の水を替えることだけで、それ以外には、三日に一度の餌やりと、その後排泄された糞を回収することぐらいだ。水質についてもほとんど心配することはなく、水道水で問題ない。気温も常温で放置すればいい。もちろん脱走の心配もない。先生の説明不足を補うべく自分でもいろいろと調べてみたところ、皮膚に毒もなければ噛んだりもしないようなので、素手で触るのも問題はない。
なお、餌はアオレモンという熱帯地域の果実をあげることになっている。カエルというとその俊敏さで水辺の小さな虫を素早く捕獲するイメージがあるけど、手足の無いこのデニナメは積極的に獲物を追いかけることができないため、基本的に流れの弱い川面に落ちてきた動植物を下から丸呑みにしているらしい。実際、水槽の中に直径数センチの乾燥アオレモンを浮かべてやると、デニナメは勢いよく口を開いて一飲みにしてしまう。間近で見ると、なかなかに衝撃だ。
そういう餌の事情もあって、デニナメの糞にはアオレモンの種がよく雑ざっている。というより、アオレモンの果実は小さな種がたくさん入っている類のものなので、デニナメの糞の主成分はアオレモンの種だと言っても過言ではない。果肉を消化した後に残った十個ほどの種子を数分かけてぷりぷりと排泄するのだ。私はそれらをピンセットで回収し、カプセルへと入れ、先生の元へと持っていく。
以上が私のデニナメ飼育の全てだ。カピバラでもできるかどうかはわからないけど、カピバラを飼育するよりはよほど簡単だと思う。なんなら、未知の生き物を飼育する経験そのものはちょっと新鮮で楽しみだったりもしていたので、なんだかあっけなさ過ぎて拍子抜けしたと言ってもいいかもしれない。強いて気をつかう点と言えば、扉の開閉ぐらいだろうか。手のないデニナメは耳をふさげないから、ばたんと大きな音をたてるのは気が引ける。
ちなみにこれらの作業を全部私に押し付けた先生はというと、本当に全部の作業を私に押し付けたつもりになっているようで、一切実験準備室に立ち寄ることもなければ、私にデニナメの様子をたずねることもしなくなった。
一方、デニナメの糞、厳密にはデニナメの腸内微生物に対しては多大な知的関心を向けているようで、私がデニナメの糞を入れたカプセルを持っていくと、すぐさまその糞に生息する細菌たちを条件分けした培養液に投入したり、電子顕微鏡にて観測したりする。なお、そういった培養液やプレパラートを用意するのは私の仕事だ。あと消毒用のウェスやアルコールも。やっぱり私の先生は人使いが荒い。それなのに、研究の進捗を健気な助手に教えてあげようという発想を先生は微塵も持ち合わせていないようで、「何か判明したことはありますか?」とこちらがたずねようにも、「うーん」や「まあね」といったいいかげんな返答しか返ってこない。仮説すら教えてくれない。先生は普段はおしゃべりな人だけど、こういう時は寡黙だ。抽象的な思考を言語へと具体化するのに時間を使いたくないのだろう。
というわけで、先生が研究に夢中になっている間、私は助手らしく先生に言われたことに従って雑用をこなすことしかできない。研究室に届いたメールの返信を書き、事務手続きをすませ、週一の備品発注を忘れずに行い、カフェイン中毒な先生にコーヒーを用意して、そしてデニナメのお世話をする。