マクスウェルの天使①
宇宙をこねくりまわして作った不細工なまんじゅうだ。
電気をつけても薄暗いことと埃っぽいことでお馴染みの東研究棟二階実験準備室にて、浅く水を張ったプラスチック水槽に沈む藍色の楕円を見つめていると、私は自然とそんな感想を抱いた。
その奇天烈な物体は、間違いなく地球上の生き物のはずだ。水槽に顔を近付けて上から凝視してみると、わずかにうごめいていることが確認できるし、楕円の先端からは時折細かな水泡を吐き出しているから、そこが頭部であることと、この生き物が呼吸をしていることは理解はできる。でも、そうして全体を注視しても、何の生き物かよくわからない。全長十センチほどの楕円形の身体には、腕や脚が備わっておらず、鱗や鰭も見当たらないのだ。きっと何も知らない状態でこの生き物を見せられて、「宇宙からやってきた生命体だよ」と説明されでもすれば、私は簡単に信じてしまっていただろう。それぐらいこの生き物は宇宙的だ。
「なんですか、これ?」
考えてもしかたがない。私は私をここに連れてきた張本人である先生にたずねる。
「デニパチナメクジだよ」先生は少し自慢するような口調で言った。「研究用に国立水族館から拝借したんだ」
「デニパチナメクジ……」
私はその名前を呟いてみる。思った以上に言い難い。
「実物を見るのは初めてかい?」
「見るどころか、名前を聞いたのも初めてです」
「君にしてはめずらしい」
「有名な生き物なんですか?」
「両生類マニアの間では知る人ぞ知る珍虫って感じらしい」
「へえ」私は相槌を打ちつつ、「あれ?」と首を傾げる。「ナメクジって両生類でしたっけ?」
「もちろん違うさ」先生は首を横にふった。結ってない長い髪が揺れる。「そいつは実は無尾目の両生類、要はカエルの一種なんだ」
「カエルなのにナメクジって名前なんですか?」
「手足が退化してしまっていているから、先人達が勘違いしてしまったみたいだね。ナメクジの冠はその時の名残さ」
「なるほど」私は納得する。「カモシカやヤツメウナギと似たようなものですね」カモシカは実はウシの親戚で、ヤツメウナギはそもそも狭義では魚類ですらない。「こういうのってなんで正しい名前に変更しないんでしょう?」
「物理学において電子の流れと電流の向きが未だに反対になっているのと同じだよ。 慣習もあるし、手続きがたいへんなんだ。天動説ほど致命的ではない限り変更されることは稀だ」
「昔の人類って意外と失敗が多いですよね」
「きっと百年後の人類も我々をそう評価するだろうね」先生はそう言って小さく笑った。「ただ、デニナメに関しては少し大目に見てあげよう。遺伝子解析技術が発達していない時代に、こいつをカエルだと判断するのは困難だよ」
「まあそれは同意です」
私は改めて水槽に視線を向ける。水面から身体の上半分を出してじっとしているその物体は、カエルだということを知っていても、やっぱり不摂生に太ったナメクジに見えてしまう。
「気になったんですが、この身体でどうやって移動するんですか?」純粋な疑問を口にする。「手足がないのでは、ぴょんぴょん跳ねたりはできないですよね?」
「それこそナメクジやウミウシのように筋肉を波立たせて地面を這うんだよ」先生はぴんと指を立てる。「まあ、移動速度は時速五十メートルにも満たないらしいから、長距離は難しいだろうけど」
「それはたいへんだ」
子供の頃、体育の五十メートル走があまりにも遅いゆえに周囲からナメクジだと嘲笑われたことを思い出し、不憫に思う。
「ただ、このデニナメの面白いところは、幼体のころは普通のカエルと同じようなオタマジャクシの形態をとるってことだ」
「そうなんですか?」私は頭の中で、浅瀬や沼地を器用に泳ぐオタマジャクシが成長するにしたがって徐々に尾びれを失ってどんくさくなっていく姿を想像する。「つまり成体になるにつれて移動能力を失っていくと」
「尻尾がなくなるが、手足ははえてこないわけだね」
「なんだか生物的に矛盾してる気がします」私は率直な感想を口にする。「オタマジャクシがカエルになるのは、行動範囲を水の外にも広げた方が繁殖に有利だからです」
「腕や脚が生えることによって陸上を移動できるようになると交尾相手を探すのに有利で、それが結果的に子孫繁栄に繋がったって考えだね。アオムシがチョウになると羽を手に入れるのも似たような理由だと括られることもある」
「デニパチナメクジにはその逆の現象が起きています」
「まあ直感に反するのは同意だけど、直感と事実に相関はないよ」
「どういうことです?」
「変態できない我々人類には、子供と大人で形が変わるなんて納得できないんだ。だから他の生き物のそれになにかと理由をつけたがる」
「つまり、この説には人間の恣意が内包されているということですか?」
「そこまでは言わないさ。実際、ある程度の蓋然性は帰納的に観測されているはずだしね。ただ、クロカタゾウムシの成虫は外羽が癒着しているから飛ぶことはできないし、動物性ネクトンの中には成体になれば海底に沈んだまま動かなくなる種類もいる。例外は無視できないほどあるんだ」
「ひとつの理屈で全部を説明することはできないってことですか?」
「ひとつの理屈ではたったひとつすら説明し尽くせないってことさ」
「難しいです」
「あえて難しく言ってるんだよ」先生はそう言って小さく笑った。「雑談はこれくらいにして、本題といこう」
「本題があるんですか?」
「もちろんだよ。他所から借りてきたデニナメを見せびらかして自慢したいがために君をここに連れてきたわけではない」
それもそうだ。
「君に頼みたいのは他でもない。このデニナメの研究の手伝いをしてほしいんだ」
「研究の手伝いですか」
「具体的には腸内の微生物の働きを考えたいんだよ」先生は私のお腹を指さす。「大腸菌のDNA解析をはじめ、カメムシの腸内細菌から共進化の可能性を探ったり、ゴリラの腸内細菌を利用してチーズケーキを作ったり、人類が長い間腸内細菌に首ったけなのは君も知ってるだろ?」
「教科書で読んだ程度には知ってます」
「その長期的な流行の対象に、このデニナメが選ばれたってわけだよ」
先生はそう言って水槽を見るので、私もそれに倣って水槽の中、まずそうなまんじゅうを見る。
「ひょっとしたらこのへんてこなカエルが人類の歴史に新たな可能性を見せてくれるかもしれない。君にはその手伝いをしてもらいたいんだ」
「手伝いですか」
「頼めるかい?」
「構いませんよ」私は首を縦に振る。「腸内細菌ってことは解剖ですか?」
骨や内臓の構造は普通のカエルと同じなのだろうか、そんなことを考えながら先生にたずねると、先生は笑いながら首を横にふった。
「残念ながらこいつは借りものだよ。生きたまま国立水族館に返さないといけないから、今回はジエチルエーテルは使わない」
「そういえばそうでした」
「それに、腸内細菌の研究の多くは解剖しなくてもできるだろう?」
「糞を調べるんですね」
「ざっつらいとだ」先生は指をぱちんと鳴らす。「というわけで、君にはこのデニナメの面倒を見てほしい」
「世話をするわけですか」
「といっても、そんなに難しいことではない。こいつに餌を与えて、ケース内の糞を回収する。あとはケースの清掃ぐらいかな。カピバラでもできるような簡単な作業だ」
「回収した糞はどうしますか?」
「糞は私が調べるから、指定のボトルに入れて研究室まで持ってきてほしい」
「確かに難しくはなさそうですけど……」
そこまで言って、私は押し黙る。
「何か問題でもあるかい?」
「なんだか雑用を押し付けられている気がします」
「雑用?」
「先生はデニパチナメクジの腸内の微生物を調べたい。でも、デニパチナメクジを世話して糞を集めるのは面倒臭い。よし、なんでも言うことを聞く都合のいい助手がいるから、そいつに全部任してしまおう。みたいな思考の流れがあるように思います」
「流石、私の助手をしてるだけある」先生は感心するような声を出した。「そこに気付くとは」
「えっ!」
「なんでもないさ」
「聞き捨てならない台詞でしたよ」
「雑用だって立派な研究活動の一部だよ。研究者も結局はメール対応に追われるし、事務手続きに関する書類だって書かないといけない。蛍光灯が切れたら交換しなければいけないし、ゴミ出しだって毎日しなければいけない」
「それ、全部私が先生に押し付けられてる仕事ですけど」
私は指摘する。
「あれ? そうだったかな?」
「そうですよ」
なんならなくなった紙ワイパーの補充も、試験紙の発注も、コーヒーを淹れるのも全部私がやっている。つい数日前には、先生の引っ越しの手伝いだってやらされたぐらいだ。
けれど、先生はそんな私の日常の不満など歯牙にもかけていないようで、「まあ細かいことはいいじゃないか」と強引に話をたち切る。「私は基本研究室から出ないからね。この実験準備室に来る頻度の高い人間に任せるのが合理的だろう?」
「そもそも水槽を研究室に置けばいいじゃないですか。ここと違って水も使えますから管理は楽です」
「いや。研究室に置くのはだめだ」
「どうしてですか?」
「カエルと同じ空気を吸いながら研究なんてできないよ」
「なんですかそれ」科学者とは思えない先生の思考に私は呆れる。「甚だしく種差別的です」
「できれば人間的と言ってくれ。私は犬猫を愛でることはできる」
確かにそれは人間的かもしれない。
「まあ実際のことを言うと、デニパチナメクジは音に敏感らしいんだ」
「えっ」先生の口から発せられた新情報に、私ははっとして水槽を見る。「それじゃ、こんなにぺちゃくちゃ喋っちゃだめなんじゃ?」思わず小声になる。
でも先生は、「相手は両生類だ、これぐらいは我慢させよう」と先ほどと同じ声量のまま喋る。「ただ、長時間断続的に音が聞こえるのは流石にストレスらしくてね。四六時中何かしらの音がしている研究室よりも、基本静かな実験準備室に置いておくのが最適ってわけだ」
「そんな優しさが隠されていたとは」
私は未だに小声のまま言う。
「優しさに服を着せたら私になったほどだよ」
「その優しさを少しぐらい私にもふりかけてください」
私は不満を示す。
すると何をどう解釈したのか、先生はそれで私が納得したとでも思ったらしい。「というわけで、後は任せたよ」とこちらに背を向け、ドアの方へ歩き出す。
「えっ? いや、まだ了承はしてないんですが……」
部屋を出ていく気満々の先生を私は咄嗟に止めようとする。が、先生はこちらを振り返りもせず、ドアを開ける。そして、「借りものだからくれぐれも死なせないように」と念を押すように言ったかと思うと、そのままばたんと勢いよく扉を閉めてしまった。
……。
後に訪れる静寂。
準備室に一人取り残される私。
「これはこまったぞ……」
私はぽつりとひとつ呟いて、水槽に沈むデニパチナメクジを見つめる。
私の気も知らないで、のんきな顔してぶくぶくと口から泡を吐いているそのぶよぶよとした楕円形は、こうして改めて観察してみても、やっぱり宇宙からやってきた生命体に見えなくもない。
「……えーっと、毒とかないですよね?」
意思疎通ができる可能性にかけて、一応小声で質問してみる。
当然だけど返事はない。