二四話:対策謀
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
玄関で永田が出勤するのを見送る。
今日は9月6日、退院してここに引っ越してから早くも1週間が経過しようとしている。
今だに怪我は完治しない。まだしばらく不自由な生活を強いられそうだ。
「さて…始めるかな」
だが、何もしていなかった訳ではない。
現在仮寝室にしてある1階の部屋で、タブレットの情報を紙媒体へ移していく作業に勤しんでいる。
充電方法を確立しても、経年劣化は避けられない。特にバッテリー劣化問題は深刻だ。
だから、完全にタブレットやスマホが使えなくなる前に出来るだけ多く、可能ならすべての情報を紙に移し変えておきたい。
いくらでもデータはある。設計図から技術理論、国や戦闘の歴史・年譜、この時代には無かった戦術の考え方などなど…。
「今日は何を移すかな…今後に備えて兵器の設計図とかでもいいけど…ん?」
スクロールしながら悩んでいたところ、一つのファイルに目が留まる。
それは『日本国内における諜報活動』といったタイトルの物だった。
記憶によれば大学に入りたての頃、図書館を漁って書き上げたものだ。
懐かしいなと思いつつそのファイルを開く。
この手で有名なのはゾルゲ事件である。
ソ連から諜報員として送られたゾルゲは巧みにその諜報網を広げ、近衛内閣の時代には内閣嘱託された尾崎を通して、内部事情のほぼすべてが筒抜けの状態だった。
日本だけでなく、駐日ドイツ大使館から得られた情報もすべて抜き取られ、ソ連当局へ送られている。
独ソ戦の兆候もゾルゲを介してソ連にもたらされた。
ドイツにとって幸いだったのが、ソ連がこれを信じなかったことである。
理由はソ連本国側がゾルゲを二重スパイだと疑っていたことや、スターリンがこれら独ソ戦兆候に関する情報はイギリスによる分離工作だと思っていたことに由来するが、今は詳細を置いておこう。
ともかくとして、これらゾルゲ諜報団が日本やドイツに与えた悪影響は計り知れない。
日華事変が泥沼化した理由にも一役買っている。
できれば諜報活動が基盤に乗る1936年~1938年の間には対処したい、特に1939年まで放置するなどもってのほかだ。
そして、これらの諜報活動が万が一秋月の手まで伸びてきたら大問題である。
ソ連当局が信じる信じないは別としても、秋月の存在を消しに掛かる可能性が0ではない。
「決まったな…」
私は鉛筆を取り、過去にまとめたこの内容を紙に移し始めた。
同日の夜、18時頃…
「ただいま」
「おかえりなさい」
永田が仕事を終えて帰ってくる。それに秋月は顔だけ出して応答した。
「まだ慣れないな、帰ってきたら誰かがいるというのは」
「私も元の世界では一人暮らしだったので、誰かを待つというのは不思議な気分です」
「お互い様か」
「ええ、お互い様です」
二人の笑い声が部屋に満ちる。
今のところ、この新居生活は順調だった。
永田とも良い関係を築けているのではないかと思う。
「さあ、飯を食べよう。私も腹が減った」
永田が布製の袋から取り出した木製弁当箱には、さんまの塩焼きが入れられていた。
帰ってくる途中の料理屋で買ってきたものだという。
今日の晩御飯はこのさんまの塩焼きと冷奴、たくあんと白飯だった。
「「いただきます」」
机の上に並べられた食事を行儀よく食べていく。食べている間は静かなものだったが、食べ終われば雑談に興じていた。
頃合いを見て、例の物を渡す。
「そういえば、いつものように情報整理をしていたんですが、興味深い物を見つけまして」
「ほう」
そう言って渡すのは『日本国内における諜報活動』を書き写した紙。
永田は温和な表情から真剣なものへと顔色を変え、見入るようにしばらく読み続けた。
おおよそ15分ほど経った頃、ようやくこちらに顔を上げる。
「これは間違いなく事実なのか?」
「少なくとも、こちらの世界では間違いなく」
「帝國の情報がここまで筒抜けとは、何とも信じがたいが…」
頭が痛いといった様子で首を振っている。彼女が死んだ後の話ではあるが、ここまで不甲斐ない実態を見ると、彼女とて思うところがあるのだろう。
事態を重く見たのは私より彼女だったのかもしれない。まっすぐこちらを見て矢継ぎ早に問いかけてくる。
「これらを今すぐに検挙、逮捕することは出来ると思うか?」
「恐らく今すぐは無理でしょう。ゾルゲはソ連に一時帰国しているはずですし、ゾルゲ含めた一団が万が一証拠不十分で片付けられては最悪です」
1935年9月現在では、諜報網が出来上がってきた段階で、そこまで活発に活動出来ていたわけではない。この時期は日本と言うよりも、駐日ドイツ大使館から得られる情報の方が多く、日本側の精度が上がってくるのは1938年後半からである。
なので、今すぐに動くのは愚策だろう。もっと証拠が出そろうはずの1936年~1938年の間に情報と証拠を集めて諜報団を一網打尽にするのが理想的だと秋月は考えていた。
「とりあえず、今は監視程度に止めてこれら情報の裏付けを行いましょう。時が来れば嫌でも逮捕できます」
「そうか…何とももどかしいが、仕方あるまい」
先ほど読んでいた紙を置いて、曇った表情を浮かべながら頬杖を付く。それからしばらく沈黙が流れたが、それを破ったのは永田の方だった。
「この情報を我々が手に入れられるのも秋月がこの世界に飛ばされてきた所以か…これから幾度となくこういうことに助けられるのだろうな」
この時の永田の心境がどのようなものだったのか、秋月には分らなかった。
情報をもたらす秋月自身に感謝しているのか、それとも秋月がこの世界に来たことを感謝しているのか、秋月がいなければ防諜も出来ない帝國の惨状を憂いているのか、全く別の事か…それともこれらすべてか。
少なくとも言葉では言い現わせない複雑な心境であることは確からしい。
「とりあえず、こいつらの件に関しては了解した。特高に処理させよう。資料はこちらで預かっても良いか?」
そう問いかける永田の表情は元に戻っていた。人差し指で資料をトントンと叩き、返答を求めてくる。
「はい、もちろんです」
「うむ、感謝する」
秋月の承諾を聞くと、資料が汚れないように机の隅に寄せて次の話題に移って行った。
「2つほど報告がある、まずは満州油田の事に付いて話そう」
「どうでしたか?」
永田が腕を組んで続きを話す。
「10月上旬から陸軍主導の正式な調査が決定した。前に話していた通り、現場の指揮は東條が行う。9月20日に辞令を受け取る為、一時的に東條が内地へ戻ってくるはずだ」
「おお、さっそくですか」
満州油田調査の件は思いのほか順調のようだ。我々の出発点は、まずここからだったため安堵する。
もし、こちらの世界と同じなら成果はすぐ出るはずだ。
年内に調査を始められることは非常に大きな一歩である。
「それと、その翌日の21日に例の3人と会合する。私と岡村、帰ってきた東條と一緒にな」
例の3人とは山本五十子、米内美津政、堀夏吉の事である。
永田、岡村、東條は陸軍に対して、彼らは海軍出身。帝國軍最大の問題点である部局割拠主義の解消に向けて選んだ人選だ。
この先の大戦は陸海軍の綿密な協力が不可欠である。
戦果を競うあまりに、過大に戦果を報告して情報分析を誤らせたり、戦局を読み間違えることが無いよう、帝國軍としてのまとまりが必要だ。
「ついにですか…」
「ああ、口説き落とす文句でも考えておけよ」
「え!?」
「ハハ! 冗談だ」
永田はニカッと笑って見せる。
「全く、お前はいつまでも面白いな」
「…」
相変わらず笑っている永田をジト目で見つめる。すると永田はバツが悪そうな顔になって話を続けた。
「すまんすまん、悪かった。冗談はさておき、説得する材料は考えておいてほしい。こちらも前置きするが、最終的に同志として仲間になるかは貴様次第だぞ」
上手く話を逸らされたが、永田の言っていることはこうだった。
まずは秋月の存在を隠して話を進める。頃合いを見てここから先へ踏み込む勇気はあるかと問い、返答次第で秋月の出番だという。
ここで篩にかけるというわけだ。
踏み込んだが最後、説得できなければ…この先は秋月でも想像が出来た。
だから、是が非でも説得できる材料を秋月は用意しなくてはならない。
「分かりました…考えを練っておきます」
「頼んだぞ」
永田が立ち上がって秋月の肩を軽く叩く。頑張れよと言わんばかりに。
ここが正念場だと、秋月も心を奮い立たせるのだった。




