一四話:未来(後篇)
「驚くのも無理はないです。詳しくはこの後お話しますが、永田中将が死んだ後、統制派を率いる実質的な頭領は東條少将なので」
「私が永田殿の・・・」
「と言っても、1930年代の終わりごろにはすでに派閥としての体をなしていませんでしたが」
一夕会の内事情は複雑であり、一言で説明できるようなものではない。簡潔に説明するなら1930年代前半(特に1933年頃)を境に一夕会の中で対ソ・対支那方針で意見が分かれ対立。その後、統制派と皇道派に分派し、各員が満州事変や軍中央管理で会合が疎遠になる中、1935年の永田暗殺を受けて完全に統制派と皇道派に亀裂が生じた。翌年の二・二六事件を受けて皇道派の粛清人事が行われるが完全に撲滅できず、さらには石原莞爾等を筆頭に第三派閥を名乗る者も出始めるに至る。その後、戦争を介して歴史からこと知れず消滅した。
「それにしてもあの東條ちゃんが・・・立派になるものねぇ」
「うぅ・・・なんだかその言い方は不服です」
「いや、かなり私も驚いている。まさか東條が首相になるとは思わなかった」
「確かに自分が首相になるとは夢にも思いませんでしたが・・・。なぜそんなことになったんだ?」
首相になった経緯を東條が聞いてくる。これもまた長い話になるので歴史を説明しながら話していこう。
「まあそう急かさないでください。焦らずとも説明します」
「むぅ、わかった」
びっくりして崩していた体勢を整えて開き直る。東條の目は少し不安げな様子で自分を見つめていた。
彼が首相になれた要因は幾つかあるが、永田暗殺までの経歴以外に現場での実績にあるだろう。一応、彼は軍の官僚としては優秀な方であったので粛軍人事や皇道派の検挙で軍上層部のポストが空く中で順調に出世していった。
「永田中将暗殺以降に大きな事件と言えば翌年に起きる二・二六事件という皇道派による大規模な軍事クーデターが発生するのですが、その時に東條少将は関東軍まで混乱が生じるのを防ぎ、事件に関わった皇道派の検挙に成功しています。永田中将を暗殺したのも皇道派だったので、ここで敵は取れたといっても良いでしょう」
「当然だ、私でもそうするだろう」
まあ、別世界の貴女なんで・・・。
「その後の日本はしばらく平和です。二・二六事件の後始末や中国との小競り合いなどはありますが1937年7月までは比較的平穏でした。事が急に進みだすのは1937年7月7日に起きた盧溝橋事件を始まりとした支那事変という中国との全面戦争からです」
「それは対支一撃論とは関係ないのか?」
「一応公的では偶発的な物とされています。これに関しては数々の陰謀が囁かれていますが戦中の混乱などで確定的な証拠や証言が揃わず憶測の域を出ていません」
「計画的ではない衝突から始まった戦闘がなぜ全面戦争なんていう事態になるんだ? 国境紛争程度なら現地での戦闘の後に停戦協定を結ぶべきだろう。どちらが有利不利な条件になるかはさておき」
「ここがかなり複雑でありまして、完全に理解している人は少ないです。かくいう私も完全に理解しているとは言い難いので・・・。一応私なりに説明すると、現地停戦協定は結ばれましたが日本軍派兵に対する中国側の徹底抗戦の表明と日本駐留軍及び日本の民間人が攻撃されるようになり、8月には日本正規軍による上海攻撃やチャハル作戦が実行されるに至っています。ちなみにチャハル作戦を指揮していたのは東條少将ですね」
「ふむ、そうか・・・。しかし、準備・計画・分析を十分に行わないまま始まった戦争がどこまで通用するのか甚だ疑問でならない。私が死んだ後の日本はいったいどうなっているんだ・・・」
「永田中将のご考察の通り、この戦争は8年間に及ぶ泥沼と化してしまいます。最終的には敗北しますし・・・。要因は様々ですが、戦争当初はドイツによる軍事顧問及び装備援助があり、中盤以降は援蒋ルートと呼ばれるソ連、アメリカ、イギリスなどによる中国への義勇軍派遣や装備援助が行われていました。おそらくこれが一番の理由です。後々の日本軍の動きは特に援蒋ルートの寸断に重点を置いていましたから」
「でもその補給路は英領インドや仏領インドシナ、香港とかから行われていたんじゃない? それを寸断するってどうやってやるのかしら」
「まあ、そこは追々説明しますよ」
「う~む・・・いくら計画に不備があったとはいえ我が帝國陸軍が支那ごときに敗北するとは考えられませんな。烏合の衆に過ぎない支那が欧米の支援を受けていたところで所詮弱兵に過ぎないと思ますが」
『そういった敵国を侮る姿勢が後の敗北に繋がるのですよ』とこの段階では言えなかった。
その後の歴史はタブレットに取り込んだ動画を見つつ説明していく。領土推移や戦史の情報が膨大になる為、とても口頭では説明できる自信がなかったからだ。この動画は日米英中ソの情報をまとめて自分なりに整理して作った物になる。中立性にも重点を置き、地図を使って領土推移及びその都度起こった戦いや歴史的背景を時系列順に編集、30分程度にまとめた。本来はSNSに投稿しようと思って作ったのだが、いざその時になると恥ずかしくなって結局投稿せず、タブレットのストレージに埋まったままだったのを思い出して活用している。まさかこんな形で使うことになるとは思いにもよらなかった。
自分が作った動画を4人で視聴する。難しい所や補足が必要だと思った箇所は一時停止して追加で説明した。当初は御存じの通り戦争は日本軍優位で進む、しかしミッドウェイ海戦が起こった1942年6月をターニングポイントに劣勢になって行き最終的には沖縄戦の敗北、原子爆弾の投下、ソ連対日宣戦布告、ポツダム宣言受諾、降伏文書調印と続く。その動画の合間に、別に取り込んだ当時の映像と写真も見せていった。こちらの世界の戦闘の様子、無差別爆撃や原爆投下の瞬間、米軍側が撮影した特攻機の映像――
「秋月・・・これは本当にこの先起こる未来なのか」
「ええ、残念ながら」
「もしこれがこの世界にも訪れる未来なら日本の本土にいる人たちも犠牲になるのね・・・」
「こんな、こんな結末、到底認められません。切羽詰まった状況とはいえ、人を部品にするような戦い方など・・・! ましてやそれで敗けるなんて・・・」
「人間、窮地に陥ると何を考えるかなんて分かりません。敗戦を目前にして軍上層部の理性はありませんでした。負ければ自分の身に敗戦処理という名の戦争責任が付きまとうでしょう。つまり保身に走ったのです。そのためには是が非でも降伏は許されず、最低限講和に持っていかなければなりませんでした。そのために部下や国民に死を強要し、死地へと送り込みます。しかし、当の指揮官が部下を残して敵前逃亡することもありましたし、特攻隊員を送り込んで後を追うと約束したのに手の平を返した指揮官もいます。それでも彼らが日本の手によって厳重に罰せられることはありませんでした。日清日露戦争の時にあった、国家を背負う責任と誇りは薄れていたと言わざるを得ないでしょう」
もちろん、戦争末期の惨状を2、30分で説明できるわけがない。保身以外にも不敗の神国であると信じていた者からすれば敗戦を受け入れられないだろうし、本気で本土決戦になれば勝てると思っていた将校もいたはずだ。所謂、これまで犠牲を払ってきたのだから後戻りが出来ないという心境も一つの原因だと思われる。
「はぁ・・・」
永田が両肘を机につき、頭を抱えて溜め息を吐く。心底落ち込んでいる様子だった。岡村と東條も俯いている。特に東條は心ここにあらず、放心状態だった。岡村の時に言った敗戦に導いた人物というのをこれでもかと理解させられたわけだから当然の反応なのかもしれない。初めて病院で出会った時に感じた、身長に似合わない圧迫感や普段見せている自信に溢れた姿は見る影もなかった。
「最後に東條少将の戦後をご説明します」
「んっ・・・」
最期を説明するという言葉を聞き、肩を縮める。追い打ちをかけるようで申し訳ないがこれだけは話しておかなくてはならない。彼女の死が、日本における戦争の幕引きなのだから。




