第43話 雪山エンジョイ
「今日は一段と冷え込むなぁ……」とは確かに思っていた。
しかし、まさか雪が降ってくるとは。暦を考えると、ちょっと早すぎるんじゃないか。
でも、故郷の島とこちらの大陸で、色々と違いはあるのかもしれない。
初雪には驚かされたものの、雪の勢いはまだ全然だ。すぐに積もってヤバくなるって感じはないし、このせせらぎは山の入口からほど近い。その気になれば、すぐに退却できる。
それに、今日は新装備のフライパン等を試したくて、わざわざ朝から食料を買い込んで、ここまでやってきているって経緯がある。小雪程度なら、むしろ休日のちょうどいい彩りみたいなもんだ。
帰るにはまだ早い。俺は気を取り直して朝食を続けた。
食事は心身ともに温まるものだったけど、雪が降るほどの寒さの前には、少し心もとなくはある。それなりに着こんではいるけど、十分に寒気は感じられる。
そこで俺は、半分残しておいた魔力薬に栓をして念のためキープし、改めてフライパンの湯を沸かし始めた。トレーニングのため、そのついでに朝食のため準備している湯だけど、他にも湯の出番はある。
たっぷりとまではいかずとも、満足できる朝食のおかげか、グリップを握る手にも力が入る。魔力の流れもいいようだ。
いや、ハッキリとそういうのがわかるほどには、まだ熟達していないんだけども。
ある程度沸かしておいたということもあり、割とすぐに湯が沸いた。
そこで俺は、カバンからもうひとつの新装備を取り出した。防錆加工をした金属缶に、布を着せこむ形で包み込んだ品だ。別に魔道具ってわけじゃなくて、むしろ、ものすごく口一テクな部類に入る。
この缶の注ぎ口に付属の漏斗を用いて、フライパンから慎重に湯を注いでいく。缶に湯が十分溜まったところで、漏斗を取って缶のフタを閉める。布のフードをかぶせて、紐で縛ってやると……
湯たんぽの準備完了だ。
上着を一度開けて、腹側に薄べったい缶をしこんでやると……布越しでも伝わってくる十分な熱になんとも言えない心強さを覚えて、思わず顔が綻ぶ。
自分用に《テンパレーゼ》を携帯しているけど、もともと今日は湯たんぽで寒さを凌ぐ考えだった。荷物が増えるのは確かだけど……
湯を温めること自体、魔道具のフライパンに慣れるトレーニングにもなる。一石二鳥ってやつだ。
そうこうしている間、雪は一向に止む気配がない。というか、少しずつ勢いづいてきているようにも。新装備のおかげもあって、あまり脅威は感じないところだけど……
ひとまずの用事を済ませたことだし、この渓流からは立ち去ることに。
で、この後どうしよう。
話によれば、この小山は雪が降ってもそう難度の高い山じゃないそうだ。ここを仕事場にしているようなべテランは、雪の中だろうと当たり前に登るらしい。
それにアマチュアだって、ここで雪中登山を嗜む人は、それなりにいるのだとか。
実際の様子を目にしても、この山はなだらかで雪の影響は少なそうに映る。
そこで俺は、雪化粧を始めたこの山を登ってみることにした。
錬金術の都合上、素材を求めて動く機会は多いだろう。雪山としては安全な部類に入るこの山には、まだまだお世話になるはずだ。
だったら、雪が降り始めたこのタイミングで現地を見ておくのも、今後に役立つことだろう。降り積もった後にどういう感じになるか、イメージを掴めるかもしれないし。
後は……まぁ、気分の問題だった。
ぬくぬくと暖を取る準備はいくらでもあって、一日中外に出るつもりだったから、食料の準備も少し多めにはある。
この状況で、ちょっとした雪のために退散するっていうのは……なんだかもったいない。
除雪みたいな重労働が絡まなければ、俺だって雪が降るとテンション上がる方だし。
渓流を離れ、なだらかな登山道を一人、頂上目指して登っていく。
人気のある山ということで、いくつも登山道があるけど、その分だけ人が分散しているのかもしれない。俺が行く道は、先にも後にも人がいない。
しんしんと雪が降り、染み入るような静けさの中、足元で立つ音だけが静寂を破る。
地面を覆っている枯れ葉は、初雪が降ってくるほどの寒さで、すっかり固まっているのかもしれない。一歩一歩、確実に地面を踏みしめていくと、普段よりも乾いた小気味よい音を返してくる。
赤と黄色で色づく山肌には、少しずつ白い斑点が広がっていって……雪に覆われてしまう直前の今、あせかけていた枯れ葉が雪の白さの中で引き立ち、最後の鮮やかさを見せている。
周囲に誰もいない中、季節の節目の変化をこの目で愉しめる――
これは、なんともいえない贅沢感があった。この光景と体験を独り占めにできているような。
胸元に忍ばせている湯たんぽのぬくぬく加減もまた、自然の中にあってなお、程よい快適さを保ってくれていて……
なんというか、いい休日だ。
あまり急ぐこともないし、地面に足を取られては、せっかくの休日が台無しになってしまう。いつもよりも意識して、じっくりゆっくりと歩を進めていった。
振り続ける雪は、やっぱり止む気配がなかなかない。頭にかぶさる雪を時折、手で払い飛ばしていく。
雪の中、山の景観の変化を楽しみながら、さらに上へと昇っていくと、山の中腹に差し掛かった。
こちらはちょっとした踊り場のようになっていて、休憩用にと人の手が入っている。斜面との境界は杭とロープで仕切られ、腰かけるための切り株や、座面が平らな小岩の存在も。
昼にはまだまだ早いけど、小休止にはちょうどいい。すっかり白くなった切り株の腰掛から雪を払い落し、俺は腰を落とした。
雪が入り込まないよう、カバンから手早く道具を取り出していく。金属製の三脚と魔道具のフライパンだ。
三脚にフライパンを置いた俺は、胸元から湯たんぽを取り出し、中のお湯――というか、ぬるま湯になりかけた湯をフライパンに注ぎ入れた。
この湯たんぽは行動の邪魔にならないようにと、やや薄いつくりで貯水量が少なくなっている。そのせいで少しぬるくなりやすい。
また、容量の割に体との接触面が広い。おかげでこちらは温まりやすいけど、一方で中のお湯が冷めやすいってのもある。
しかし……いちいち火を熾さなくても、ちょっとしたスペースさえあれば、再加熱は余裕だ。
胸元の熱源がなくなったせいで、少し冷えを感じる一方、フライパンという新たな熱源から空気がじんわりと温まる。
魔道具を使うことで、自分の魔力を操るトレーニングになってるわけだけど、それを抜きにしても超便利だ。水を使いまわしてるおかげで、わざわざ川まで寄る必要もないし。
というか、よく考えたら雪はその辺にいくらでもある。蒸発して目減りした分の補充も楽勝だ。
改めて、湯たんぽもフライパンも、いい買い物をしたもんだ。
寒気が染み込んで中、気持ちはホクホクとして俺は顔を綻ばせた。
湯たんぽにアツアツな湯を注ぎ入れ、改めて胸元へ。布越しでも伝わってくるパワフルで頼もしい熱感に顔が緩くなる。
気軽に湯沸かしできる上、自前の《テンパレーゼ》まであるんだから、怖いモノなんてないな。
……いやまあ。地元じゃないんだし、あまり舐めくさるのも良くないんだけど。
事実、昼に近づいているはずなのに、朝方から寒さは変わらない。雪は止まらず振り続ける。
もっとも、自前の熱源のおかげで、寒さは気にはならないけども。
降りしきる雪の中、足元には気を付けつつ、足取りは休むことなく前に上に。
無心になって登山を楽しんでいる内に、気づけば山の頂上に着いていた。
さほど高い山じゃないとはいえ、てっぺんからの見晴らしは格別だ。
この山の周囲には、他にも大小さまざまな山々が連なっている。その玄関口にあたるこの山は、ほどほどの標高ということで、適度なやりごたえと眺望を兼ね備えている。
街から近いということもあって、人気を博しているってことだろう。
視界の先に連なる山々が、白に染まりつつある光景は、日常からかけ離れたところへやってきた感覚に浸らせてくれる。
周囲には俺以外誰もいないってこともあって、この絶景を独占しているという特別感も。
結局、道中も頂上でも、他の登山客や同業者に出会うことはなかった。
おかげで、山頂に広がる自然の展望台を、自由に広々と使えるわけだけども。
たぶん、正午回ったぐらいの時刻だと思うけど、雪の勢いはまだ増すようだ。
適当な腰かけに座り、三脚を立ててフライパンを上に。湯たんぽの湯を温め直しながら、俺は視線を前方の山々に向けた。
空は真っ白だ。遠くの山なんかは、ぼんやりとシルエットが浮かび上がる程度にしか見えない。
あっちの山々は、筋金入りの登山者向けって話だ。少なくとも、初心者向けの錬金素材はないようで、そちらに用事はない。
しかし……こっちの山まで人の気配がまるでないってのは、初めての事だ。
ただ、よくよく考えてみると当たり前のことかもしれない。
みなさん、もしかすると「そろそろ降るかも」ぐらいには思っていただろうけど、「今日」とは思っていなかっただろう。
そこへいきなり雪が降り出したわけだから、引き返すのは当然のことだ。
だったら、なんで俺はこんなところにいるのかっていうと……一日中外出を楽しむつもりだったおかげで、相応の準備があったからだ。新装備を手に、その力を確かめようって気持ちもあった。
あと、雪を見てテンションが上がったし。
気分的なものに突き動かされた面が大きいのは否定できないけど、何もお遊びってわけじゃない。登山道を進む中、雪が積もっても安全そうなルートを再確認することはできている。
積もれば積もったで、実際に登るにはいくらか労力が必要になることだろうけど……今の内から登りやすそうなルートのイメージができていれば、あとあとで多少の足しにはなるんじゃないか。
そんなことを考えている内に湯が沸いて、俺は湯たんぽに再投入した。改めてぬくぬくしながら、フライパンを軽く拭いて、三脚にかけたまま昼食の準備を。
今日はパンや果物をそこそこ買い込んできているけど、買った当時は出来立てのパンも、今ではすっかり冷え切っている。これでも味を楽しめなくはないけど……
せっかくフライパンがあるんだから、ここでも堪能させてもらおう。俺はウキウキしながら、バゲットを適当な厚さで輪切りにし、フライパンに放り込んだ。熱したフライパンから、香ばしい湯気が立ち上ってくる。
程よく熱が入ったところで、一切れをナイフで突き刺し、適当な皿の上に。湯気が立つアツアツの一枚に息を吹きかけ、口に含む。
別に、なんてことのないパンのはずだけど、やたらおいしく感じられる。程よい熱を保つ生地を噛みしめると、素朴な甘みが口の中に、心地よい熱感とともに広がっていく。
やっぱ、温め直して正解だな。冷やした状態のを、あえて確かめてみる気はしない。輪切りのパン全てに熱を加えていき、あっという間に一本分を平らげてしまった。
こうなってくると、温かい飲み物も欲しい。さすがに、湯たんぽに突っ込んだ湯を飲むのは、ちょっと……
ということで、別に用意してある水筒から水を注ぎ入れていく。コップ一杯分程度の分量で、温まるのはすぐだ。少し湯気が見えたところでコップに注ぎ入れ、一服。
体の内側から温まる感覚に、自然と白いため息が零れ出る。
で、この後どうしよう。
ここで一人、買い込んだ食糧が尽きるまでのんびりってのも……ないわけじゃないけど。
とりあえず、昼食終わらせてから考えるか。
次は何を温めよう。コップ片手に、買い物袋の中に目を向けたところ、視界の端に気がかりなものがチラリ。すかさず視線を向けると――
雪雲が覆う空の下に、灰色の煙が一筋、なんともひそやかに立ち昇っている。




