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そんなやり取りから数日後。
「・・・・・・さて」
僕は途方に暮れていた。
問題なく絵は描ける。描けるはずだ。
人を描く――しかも遺影に使われるとしたら水彩画というわけにはいかないだろう。油彩画になる。幸いにもやったことがあるし、技術的には問題ないはずだ。もちろん写真のようにそっくりとはいかないかもしれないけど。
油彩画の道具もちゃんと用意した――絵具は流石に持っていけないのだが、それ以外をどうやって春華さんの病室まで運ぶのかまでは考えていなかったのだ。
「どうしたもんかな」
病院がいくら徒歩圏内といっても流石にキャンバスとイーゼルを背負って歩くことはできない。
「いや、でも仕方ないか」
一つずつなら持てないことはない。往復して運ぶしかないだろう。
そう決めたところで、スマホから短い通知音が鳴った。
「ん?」
内容を確認するとメッセージアプリ。秋貴からだった。
『姉さんから今日は絵を描いてもらうって聞いた』
『なんか手伝えることあるか?』
そんなメッセージに少し悩んで、
『車、持ってたりする?』
『荷物が大きくて困ってるんだ』
僕はダメ元でメッセージを送り返すと、すぐに既読が付く。
『迎えに行く。住所教えて』
僕はすぐに住所を伝えると、それから三十分くらいして秋貴は車で迎えに来てくれた。
「ごめん、無理言っちゃって」
「気にすんな、姉さんのためなんだろ」
「うん」
「だったらその家族の俺は協力して当然だ」
「でも、ありがとう。助かったよ」
「おう」
秋貴の運転で病院まで向かい、荷物を病室まで運ぶのも手伝ってもらってしまった。
「こんにちは、春華さん」
「おー、春馬。こんにちは。待ってたよ」
デートのときで観た私服姿。黒いワンピースを着て出迎えてくれる。
顔色もよかった。調子がいいのかもしれない。
「邪魔するぜ」
「あれ、秋まで。どうしたの?」
「荷物持ち」
「絵を描くための道具を一人じゃ運べなくて、それで手伝ってもらったんですよ」
言いながら、イーゼルを使いキャンバスを立てる。
「そうだったの。てか、なんか本格的だね」
「本格的にやってくれって言ったのは春華さんじゃないですか」
「そうだった」
忘れていたのか、この人は。
「じゃ、俺は一度戻るわ。帰りも迎えにいくから連絡してくれ」
「帰るの?」
「ここに残っても野暮ってもんだろ」
そう言って病室から出て行ってしまった。
「野暮ってことはないだろうに・・・・・・」
気を使わせてしまったようだ。
「いいよいいよ、秋は昔からああいうところあるから」
「ああいうところ?」
「変に気を使いすぎるんだよね。だから、春馬は気にしないで」
「そうなんですか」
頷く。今重要なのは春華さんの絵だ。キャンバスの前に椅子を置いて腰かけると、
「・・・・・・それじゃあ、気を取り直して。描いていきましょうか」
「うん、どんとこい」
「つらくなったら必ず言ってくださいよ」
「意地でもならないから安心しろ」
「そういう無理して倒れたらたまったもんじゃないですよ」
「大丈夫だって」
「はあぁぁ・・・・・・」
わざとらしく大きな溜息を零した。
春華さんはこうなると頑固だ。
どれだけ言っても僕の話を聞いてくれることはないだろう。それならできる限り早く描き上げてしまった方がいい。
「あ、お話ってできる?」
「動かなければ話くらい付き合いますよ」
ここで描くのはデッサンまでだ。あとは自宅で絵具を使うことになる。
「じゃあ、いつも通りの雰囲気だ」
「そうですね」
「あ、どこかおかしいところとかないかな」
「大丈夫ですよ、いつも通りの春華さんです」
「いつも通りって、それがおかしいってことはないよね」
「ないですよ。大丈夫です」
そうだ。いつも通りの彼女。
整った顔立ちも、ポニーテールに結われた栗色の髪も、私服姿にちょっと浮いているスリッパも、全部僕の知っている春華さんだ。
「緊張しないでくださいよ。はい、リラックスリラックス」
「そう言われてもさぁ、男の子にそうまじまじと見られるの初めてだし。そりゃ春馬は慣れてるかもしれないけどさ」
「僕だってまじまじと見るの初めてですよ。前にも話した通り、人をこうして描くなんて経験ないですし」
「そんなことも言っていたような・・・・・・」
「そうですよ。でも、緊張していたら描けないですからね。鋼の意思で耐えているところです」
手は震えていないが、いつもよりは鼓動が早い。
「初めて同士です。リラックスしていきましょうよ」
「なんかその言い方いやらしくない?」
「気のせいですよ」
時折冗談も挟みつつ、そんなやり取りをしながらも春華さんは動かずにいてくれて、僕も手を動かすことができていた。
何度も休憩を挟んでデッサンを描き終えることができた。
描く範囲も胸から上までということもあって時間も多くは使わなかった。
「とりあえずこんなもんか・・・・・・」
「お、描けた?」
「一応ですけど。どうします? 見ます?」
「うーん、後の楽しみにする」
「そうですか?」
「なんか自分を見るってこそばゆいし」
「わかりました。でも、あとで下手くそって言わないでくださいよ」
「言わない言わない。どんな絵でも大切にする。あ、でも、だからって適当に描くのはやめてよね?」
「もちろんですよ」
むしろ僕の中で最高傑作にしようと思うくらいの意気込みである。
僕だけができることのはずだ。
「春馬?」
「え、な、なんです?」
「ううん、なんか思い詰めた顔してた気がしたから」
「・・・・・・いや、そんなことないですよ」
「そう?」
「はい。ただ、この絵をどうやって仕上げようか考えていただけです」
「それならいいけどさ。あんまり背負い込まないでね。私としては軽い気持ちでいてほしいかな」
「そんなこと・・・・・・」
できるわけがない。だって、この絵が彼女の最期に遺されるものかもしれないのだ。
「できるだけ、そうします」
でも、できないとは言えなくて。僕は頷いてそう答えた。
春華さんの期待に応えられない自分ではいたくなかった。
「ねえ、春馬」
「なんです?」
「私、どんな絵でも春馬の絵が好きだから」
「それは、はい、ありがとうございます」
「だからさ、無理しないでよね」
「分かってますって」
「・・・・・・分かってないよ、きっと」
「春華さん・・・・・・」
僕はそんなに心配させるような顔をしていたのだろうか。
「大丈夫ですよ」
僕は絵から離れて、春華さんの元へ近づく。そして彼女の手を取って、
「無理せず、完璧に、この絵を完成させてみます」
少し大胆だっただろうか。そう考えだしたところで、春華さんも手を握り返してくれた。
「信用してるぞ、青年」
「はい」
それから僕達は何気ない話をして、いつものように解散して。
その数日後だった。
春華さんが倒れたと連絡を受け取ったのは。
*
「・・・・・・どうしたんだよ、こんなところで」
大学の昼休み。僕は人気のない空き教室に呼び出されていた。
春華さんが倒れた話は聞かされている。僕はすぐにでも会いに行きたかったけど、しばらくの間面会謝絶で僕は彼女に会うことを許されていなかった。
「さっき俺にも連絡が入ってきてさ。姉さん、状態が安定してきたから、今日から見舞いに来てもいいそうだ」
「そうなのか」
その言葉に安心する。
「でも」
秋貴は言葉を続けて、
「その、なんだ。・・・・・・覚悟はしてほしいってことだった」
「覚悟・・・・・・?」
その言葉の意味をすぐには理解できない。
でも、残酷なことに思考が追い付いてしまう。意味を分かってしまう。
「・・・・・・そんなによくないのか?」
そう聞く僕の声は震えていた。
「やっぱり絵のモデルが負担だったのか?」
「最初から無理はしていたのかもしれねえ。だけど、それは春馬が気負うことじゃない」
「だけど、だけどさ・・・・・・」
その先の言葉が出ない。
少し前までは体調も戻ってきたように見えたのに、あの時だって顔色は悪くなかった。覚悟が必要な状態だなんてとても信じられなかった。
「姉さんは我慢強いからな、俺もまったく分からなかった。むしろ調子良さそうだなとさえ思ってたよ。泣き言も言わないし、元気に見える方が多いのはいつものことなんだが」
僕も彼女から弱音を聞いたことは一度もない。
つらいのを、苦しいのを、ずっと我慢していたと言われても頷ける。無理をさせていたのか。ちゃんと伝えていれば避けることができていたのか。
「すまん。こんなこと伝えて」
「いや、何も言われない方がつらいから・・・・・・」
「春馬は、どうする?」
「どうするって?」
「いや、その、なんだ。姉さんに何かあったら、どうするつもりなのかと思ってな」
「そう、だな」
正直なところ、まったく考えられない。
だって、つい最近までずっと今まで通りの日々が続くなんて思っていたんだ。
春華さんが倒れて、病状を知って、遺影を描いて――ようやく意識するようになった・・・・・・いや、 本当はまだちゃんと分かっていないのかもしれない。それなのに、これからのことなんて考えようがなかった。
「・・・・・・きっと、何も変わらないさ」
でも、僕は強がった。
春華さんの弟である秋貴だってつらい思いをしているんだ。僕の弱音を聞かせたくなかった。
「大学生活をこのまま過ごしてさ、その先は適当に就職して、休みの日とか暇なときは絵を描いて・・・・・・」
その横には春華さんがいてほしい。
ずっと隣で笑っていてほしい。
一緒に絵を描いていてほしい。
それだけじゃない。二人で色んな経験を積んでいきたい。
そう思うが、そう願うが、それはきっと叶わない。それこそ奇跡が起こらない限り。
「だからさ、何も変わらないよ」
「そうか・・・・・・」
「うん」
僕は自分の感情に蓋をして嘘を付く。
何も変わらない? そんなことあるはずがなかった。
泣き叫んで、苦しんで、この世界の何もかもを呪ってしまうかもしれない。
でも、それをきっと春華さんは望まないから。
「春馬」
「なに?」
「・・・・・・ああ、いや、なんでもない。また何かあればすぐ連絡する」
「頼むよ」
僕達はそうして別れて、一人になった。